
バンコクの時間の潰し方は昼間は隠れ家屋台で食事、そして午後はチャオプラヤの見えるホテルかアジアに進出を始めたばかりのスタバで推理小説というパターンだった。インドレストランのHimali chachaはその中でも当時はチャルンクルンの小さな店で細々と経営していたので、長々と雑談ランチでも気にすることなくラシーをお代わりできた。オーナーはなんでもバッテン卿のコックさんだったそうで、「バッテン卿」?。どこかで聞いた名前だが、思い出せない。
私が間近で英王室に出会ったのは全くの偶然で、僅かの時間だがチャールズ皇太子と山手線の乗降口ドアの真向かいに通勤のように向かい合わせていた。確か初めての来日(1970年4月)で地方へ視察の帰りなのか上野駅から東京駅までの僅か5分の短い時間だったが、高級紳士服を纏った本物のイギリス国王の家臣たちの集団と一緒で日常の山手線は一瞬にして英王室になった。というのは英王子の荷物というのが、ルイビトンよりも高級そうな本物の革できたケースが何個もあってさすが大名行列のようでが、王子は一切荷物などに関心がないように東京駅に着くと一人でスタスタと歩いていかれた。その後から映画のように家臣たちが大きな荷物を持って汗だくで追いかけていくシーンが印象的。彼は性格が悪いなと思ったのは、まるで従者を気遣わない態度は明らかで「フーン」と唸ってしまった。この皇太子の名付け親がバッテン卿の曾祖父だそうで、これはセリー音楽のように繋がった。
もう一人の主役は悲劇のラーマ8世。第二次大戦が終わって、スイスから帰国した若々しい国王がそのスマートな出で立ちで国民の人気と信望は厚かったものと推測する。このバッテン卿との映像はまるでプミポン国王が二人いるようだが、最初に握手を交わすのが、アナンタラ・ラーマ8世で、次にプミポン・ラーマ9世、現国王である。
1946年6月9日午前9時頃にアナンタラ国王は宮廷内で何者かに銃により頭部を撃たれて暗殺された。宮廷内の事件で犯人も動機も何も解らずじまいで、弟の現プミポン国王が急遽ラーマ9世として即位されたのだが、事件のことは不敬罪があるのでタイではタブーとされ風化寸前の歴史的事実である。この記録映像がタイでは流されたことはないし、若い国王がバッテン卿と一緒に車から下りられ、なんとなく若い国王を気遣い、王はバッテン卿を兄貴のように信頼している雰囲気が良く分かる映像だ。
唯一、この映像に写っていて実際に近くで何回か拝謁できたのは国王の姉である故プリンセス・ガラヤニーであろうか。クレジットがないので確かではないが、たぶん日記もエッセイも残されていないのだろが、二人の弟と姉の立場でどういう会話があったのか、今になっては国王以外に誰も生存していないので、王室のスイスでの日常が永遠に歴史の闇に消えつつある。
で、NHKニュースの戦時中の東條内閣がこれほど気を遣い大東亜共栄圏の一員だったタイはいつ戦勝国になったのだろうか。不思議だ。マイ・カウチャィ。チンチン。
しかし、戦後バッテン卿はあのクワイ川での日本兵の英国兵捕虜虐待などさんざん部下に苦渋を味わせたが、東京裁判そのものには批判の立場を表明している。
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