2019/6/12(水) 晴
30°超えの真夏日は未だ多くはないが、それに近い気温が続く今日この頃、暑さになれるべく昼からではあるがポタリングに出る
先日読んだ邪馬台国・倭国熊本説に触発されて、宇土地域まで行こうと思って出かける。
ものはついでと、全国でも珍しい国司を祭神にしている高橋東神社(写真1参照)に立ち寄る。
710年勧請となっているが、道君首名が新羅から帰国し筑紫守に任命されるのが713年(和銅6年)だから、創建当時の祭神が首名であれば生き神様なのか?それとも後に祭神が変わったのか?
さて、写真を・・・と思ったがカメラの持参を忘れて来た。スマホで撮るも社の写真を撮るのを忘れた。う~ん暑さのせいか?
ご神木の熊本市指定天然記念物天社宮の大クスノキ(写真2参照)を見る。
この説明書(写真3参照)にも疑問が湧く。
樹齢1300年ということは、寂心さんの楠よりも500年も古い。
生育条件により大きさも変わるので、一概に比べられないが・・・?
道君首名を祀る高橋東神社
2018/9/11(火) 晴今日は、先日の池辺寺探訪の延長線上で、肥後国司「道君首名」を祭神とする高橋東神社(天社宮・写真1参照)を探訪する。
自宅を9時前に出発し、井芹川に沿って下り西区高橋町を目指す。
神社は県道の南、坪井と井芹川との合流する所にあった。
「道君首名」について、神社由緒書(上記参照)や、ウィキペディアでは下記のようにある。
「同年8月(和銅6年・713年)に筑後守に任ぜられ、肥後守も兼任した。任地においては、人々に生業を勧め、耕作経営や耕地に果樹や野菜を植えること、鶏や豚の飼育方法まで規定を制定し、時宜を尽くした方法を教えた。またしばしば任地を巡行し、教えに従わない者に対しては程度に応じて処罰を加えた。当初、人々は内心恨んで罵ったりしていたが、収穫が増えるにつれてみな喜び従うようになり、1,2年のうちに国中の人々がみな従うようになったという。また溜池や堤防を築いて灌漑を広め、安定した水稲耕作を可能にした。肥後国の味生池(あじうのいけ)や筑後国の数々の溜池は首名が造ったものという。この地の人々がその後もこの水利の恩恵を受けて生活が充足しているのは首名のおかげであるとされた」
素人の推論なので、その分割引いて読んでいただきたいのだが、
後の飽田国府以前の国府・国衙についての詳細は分かっていない。
陣内廃寺について、『城南町史』によると、白鳳時代の大寺院であり、建立には国が関与した官寺という。
この時代城南町宮地に国衙あったとすれば、浜戸川を遡ったその奥地陣内に後詰めとしての寺が陣内廃寺ではなかろうかと考えた。
二本木に古府中という地名があるという。とすれば貞観年間(9世紀)の記録がある白山神社の国府以前に、二本木に国衙がありその後詰めとしての池辺寺ではなかったろうか考えてみた。
そう考えれば、城南町の宮地・陣内よりは防衛上も敗戦時の脱出時も地形上は優れていると思う。
この時代国司は中央から、郡司は在地の有力者という。
肥後北部の菊池・山鹿・玉名地方は、装飾古墳文化が栄えた生産力の高い地方である。
一方熊本地方は、縄文海進の時代は熊本湾という海であり、この時代には湿地帯の多い開拓余地の多い地方であったろうと想像する。
国衙の設置場所から考えて、強力な軍事力による支配体制ではあれば肥後北部だが、開発余地が大きい肥後中部に国衙を設置したということは、植民地主義的中央権力ではなかったと考えた。
参考までに、ここから2km程南に上代町遺跡がある。
古墳時代後期の馬の全身骨格と、弥生時代中期の木製・漆塗りの銅剣の柄等が出土した。
(参照外部リンク)
現在、発掘調査が終了し、埋め戻し工事を行っている。
境内に楠の大木(写真3参照)があり、神社所在の目印にもなる。
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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