江藤則彦家住宅・馬場楠井手の取入口・鼻ぐり
2022/8/30(火) 晴
今日の最高気温35°湿度60~50%の予報に、風は涼しかろうと湿度に期待して午前9時半からポタリングに出る。
目的地は、大津町町、下町の令和になって国登録有形文化財となった住宅3軒とする。
ルートは、合志市須屋・黒石からJT熊本工場の横を通り、菊陽町原水を経由して大津町下町の「窪田日吉神社」(写真1参照)に到着する。
鳥居右脇に一際大きい御神木のイチョウ(写真2・3参照)がある。
説明板には、「樹齢:288年(享保18年・1733年)、樹高:約30m、幹廻り6.0m
このイチョウには、乳房があり乳の神様として、近郷はもとより、宇土方面よりも参拝いたし、温礼参り甘カユを造り奉納する習わしだった。」とある。
改めて幹(写真4参照)を見上げると、鍾乳石のようなりっぱな乳房が沢山ぶら下がっている。
目的の令和4年6月29日国登録文化財になった住宅は、住宅の集住地の中央に在るようで、公道から一際大きな家の屋根が辛うじて見える。屋根に煙り出しの屋根がついているので旧家である「坂本家住宅」(写真5参照)ではないか推測する。
大田黒家住宅も見当はついたが、じろじろ見る訳にもいかず現地を後にする。
下町を後にして、町へ移動する。令和元年12月5日国登録文化財になった江藤則彦家住宅(写真6参照)は、集落の南側に在る。
こちらの家も煙り出しの屋根が付いている。当時は蚕を飼っていたのだろうと思う。
現在時刻12時前ここを折り返し点として、南へ白川を渡り県道145を西進する。
帰路の途中以前数度訪れてはいるが、馬場楠井手の取入口の堰(写真7参照)を観る。
説明板(写真8参照)には、「馬場楠井手は、白川左岸中流域の畑地を水田化するために馬場楠に堰を設け、左岸の井樋より引水し菊陽町の曲手・辛川を経て、熊本市の新南部を過ぎて白川に落水している約12kmの用水路です。築造は16世紀後半に藩主となった加藤清正によると伝えられ、古文書には、この井手の完成で税収が3倍になったと記録されています。
築造当時の石堰(旧馬場楠堰:長さ約113m)は、現在のように川の流れに垂直ではなく、流れに抵抗が少なく自然に流れ込むように斜めに造られていましたが、昭和28年(1953)の大洪水で崩壊し、現在のコンクリート製の堰に造り替えられました。
左岸に造られたこの取入口は、コンクリートで補強されていますが、石造りの水門で三門から成り、内部の寸法は長さ約5m、幅約4m、高さ約2mです。
なお、馬場楠堰土地改良区に保管されている江戸時代の絵図の写しには「此石井樋長七間三尺、横壱間高サ六尺五寸落戸三枚、長弐間半横樋ノ内壱丈三尺六寸」と記されています。
平成30年8月13日には、歴史的価値のある農業水利施設として世界かんがい施設遺産(白川流域かんがい用水群の一部)として登録されました。」とある。
馬場楠井手の取入口の堰を後にして、馬場楠井手の鼻ぐり(写真9・10参照)に立ち寄る。
今に季節は、定量の水が流れ「鼻ぐり」の枡一つ々々に渦を巻いて流れている。この渦により砂が堆積することなく流れるという。凄い知恵者がいるものだと尊敬の念で眺める。
新しい説明板(写真11参照)が建っていた。説明文の転載は省略する。
菊陽町指定文化財「馬場楠井手の取入口」発掘調査で出土した水門の石材(写真12参照)が、新しく展示されていた。
説明板(写真8参照)には、「「馬場楠井手の鼻ぐり」に流れる水は、菊陽町指定文化財となっている「馬場楠井手の取入口」で取り込まれたものです。「馬場楠井手の取入口」は加藤清正の肥後統治時代に築造されたと伝えられ、現在も部分的にコンクリートで補強されながら使われています。この横を通る県道145号瀬田熊本線に歩道を新設する工事中に、水門の石材が工事部分まで入り込んでいることがわかり、平成17年3月、記録保存のため発掘調査が行われました。これらの石材は工事中や調査時に出土したものの一部です。
石材には凹凸があり、山から切り出した時の矢穴の痕や、石を四角に加工しているノミの痕跡が残っています。発掘時は、白川左岸の岩盤をくり抜いた中に石材の凹凸を組み合わせ、古くからの接着剤として使われている漆喰で固められて埋まっているという状況でした。」とある。現在時刻12時半、帰途に就く。
14時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)26km→江藤則彦家住宅24km →熊本(自宅)
所要時間5時間(実4時間) 総計50km 走行累計50,547km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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