2022/1/3(月) 晴
今日は、最高気温予想13°晴天と暖かく、12時過ぎから今年の自転車初乗りポタリングに出る。
目的地は、山鹿市菊鹿町下永野の六地蔵、菊池市七城町岡田の六地蔵と別雷神社、水次の六地蔵とする。
熊鹿ロードを北へ走り、植木町米塚から逸れて、芦原橋、中川橋を渡り、国道325を横断し菊鹿町へ向かう。
台台地の麓を東に辿り、流川熊野座神社を拝し、岡田の集落に入る。七城メロンドームから台台地に上がる道との交差点の土手に岡田六地蔵(写真7・8参照)が鎮座する。
台座には、沢山の文字が刻んである。一番右側には梵字が、一番左側には「岡田村」の文字がはっきり見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/2a/8825d7b06f54f0d48cefe52d496491d5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/1a/195ddad345bae92d115ac631161dedbc.jpg)
ゆっくり読みたいところだが時間が足りないので次に移動する。移動の途中、「菊池兼朝の墓」(写真9参照)に立ち寄る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/ab/aaa27d97ce4e6e7717c68ff5f8f9365e.jpg)
その右横に十基ほどの五輪塔(写真10参照)がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/60/314ea4609b46b32037a374760f00da89.jpg)
説明文(写真11参照)には、「史書によりますと、岡田村字宅地の墓地に無銘の古塔三基あり、その中の一基は兼朝の墓であると書かれています。兼朝は弘和三年(1383)武朝の長子として生まれ、二四才で菊池家十八代を継ぎました。応永二十六年(1419)六月、南蛮軍侵入の際は之を撃退し、翌ニ七年には河尻城を攻め河尻実昭の反乱を鎮圧しています。文安元年(1441)三月八日、六十三才で没、注号を旭山元朝大居士、また、透関道徹居士ともいいます。岡田正善寺(開山、金〇和尚、建立、兼朝)には釈迦如来像と兼朝の位牌及び大きな掛軸(涅槃図)が残っています。」とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/58/5eac784b899d0e9d6e1c966b532ff79f.jpg)
兼朝の墓を後にして、別雷神社(写真12・13参照)に移動し、参拝する。由緒書等はない。
ブログ「ひぼろぎ逍遥」古川清久氏は、「祭神は別雷皇大神(素戔嗚尊)・・・恐らくスサノウは贈)崇神が覆い被さる以前の祭神ではないかと考えています。」としている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/b3/8d7bb321da780261d54859f878ee7fc1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/4d/c2ca100de359d3fdcc3786145aa539a7.jpg)
破風の壁に「雷さん」像(写真14参照)が、掲げてある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/38/d599a4e020bca347ecaa3833a255e7be.jpg)
岡田別雷神社を後にして、水次(みつぎ)六地蔵(写真15・16参照)に移動する。
この辺りの擁壁の石垣は玉石で造ってある。六地蔵は、コンクリート製の祠に安置されている。ここを最後に帰途に就く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/3e/ff66a01dc5a2e86304b607c827e912c5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/a9/86e1fd08e8d9416dc9bd1df8e9a8271d.jpg)
17時過ぎ帰宅。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)31km→下永野六地蔵35km→熊本(自宅)
所要時間5時間(実4.5時間) 総計66km 走行累計44,886km