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ポンパドール夫人は、ルイ15世の公妾になる前、夫シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールとの間に、娘が1人いた。
↓ これがその娘で名前はアレクサンドリーヌ=ジャンヌ・デティオール(1744年8月10日~1754年6月15日)。何とも利発そうな表情をしている。
アレクサンドリーヌを生んだ1744年、ルイ15世はのちのポンパドール夫人と出会い、翌1745年、彼女を夫と別れさせ自分の公妾とした。ルイ15世は元夫を夫人から遠ざけるため、シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールにオスマン・トルコ帝国大使の地位を申し入れたが、シャルルはこれを拒否。自分を裏切った妻を生涯許さなかった。ポンパドール侯爵夫人からの復縁の手紙を断り、彼女の臨終の際にも健康上の理由で立会わなかった。二人の男が一人の美女をめぐって熾烈な戦いを展開。ポンパドール夫人は何と女冥利に尽きることか!ルイ15世はアレクサンドリーヌの義理の父となり、生涯彼女の経済的な面倒を見ることになる。
そしてアレクサンドリーヌ。ニックネームはファンファン。6歳になるまで母とルイ15世のもとで暮らしたが、6歳からはパリのサントノーレ通りにある王侯貴族の子女対象の修道院で生活する。彼女は8歳の時、シャルネ侯爵と婚約。アレクサンドリーヌが12歳になったら、二人は正式に結婚するとの取り決めを交わす。しかしアレクサンドリーヌは9歳の時、激しい痛みを伴う腹膜炎を発症。実の父であるシャルルはすぐに修道院にかけつけ娘の看病に当たるが、ポンパドール夫人は来ることができなかった。代わりに宮廷から2人の医師を差し向けたが、時既に遅くアレクサンドリーヌは亡くなった。
ポンパドール夫人の血を受け継いだ娘だから、すくすく成長したらさぞ才色兼備の女性になったのではないか?と同時に8歳で婚約、12歳になったら(=初潮が始まったら)結婚するのは、当時は別段驚くに値しない貴族女性の生き方だったとしたら、オスカルの5人の姉たちも、似たような人生を送っていたと推測できる。これはオスカルには耐えられない生き方だったはず。自分の意思を貫けず、女性の人格を認めず、親たちの決めた個人よりも家の名誉を重んじる結婚など彼女が望むはずはない。オスカルが願う結婚と、当時の貴族社会の結婚のあり方は大きくずれている。原作でオスカルがアンドレと結ばれた時、彼女は30歳を過ぎていたけれど、そのことにオスカルは何ら後悔していないはず。
愛娘の死の知らせを聞き、ポンパドール夫人はいったいどんな想いに駆られただろう?母性よりも、フランス宮廷を仕切る権力のほうが彼女には魅力的で重要だったか?ポンパドール夫人が、原作のポリニャック夫人と重なってくる。
↓ 有名なポンパドール夫人のこの肖像画は、アレクサンドリーヌを亡くして2年後に描かれたもの。
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私もポンパドール夫人=母 のイメージがありませんでした。だから彼女に娘がいたと知り、驚きました。ルイ15世に見染められなれば、母として別の人生を送っていたかもしれません。彼女は公式愛妾として、政治能力に欠けるルイ15世に代わり手腕を発揮したのですから、母として生きられなくても、充実した人生を送ったと言える気がします。
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