「ベルばら」とは話題も時代もずれますが、アントワネットの実家ハプスブルク家繋がりのお話として、よろしければお付き合いください。
19世紀末ヨーロッパに生きた美貌の皇妃エリザベートは、その生涯が日本でもたびたびミュージカルで上演されたり、美しい肖像画、また展覧会が開催されたりで御存知の方も多いと思う。夫はフランツ=ヨーゼフ。当初フランツは、エリザベートの姉ヘレネとお見合いするはずだったのだが、どういうわけか妹に一目惚れし、二人はめでたく結婚。エリザベート16歳、フランツ24歳の春4月だった。
2人は4人の子どもに恵まれた。(うち女の子1人は夭折)皇帝フランツの後継者として、期待を担っていたのが皇太子ルドルフ。彼はベルギー王女ステファニーと政略結婚するが、新婚時代を過ぎると2人の関係は冷え切っていた。
それでも2人の間に女の子が生まれた。名は祖母である美貌の皇妃にちなんでエリザベート・マリー(1883年~1963年)。エリザベート・マリーは成長するにつれ、母と不仲になる。特に母の再婚後(1900年以降)は、絶縁に近い状態だった。
まだ母子の仲が睦まじかった頃。
エリザベート・マリーが5歳の時、父ルドルフは男爵令嬢マリー・ヴェツェラと心中を図る。15歳の時、祖母エリザベートがジュネーブで暗殺される。祖母は生前ずっとさすらいの旅を続け、孫たちと親しく接することはなかったが、どういうわけか多くの財産をこのエリザベート・マリーに遺した。1900年、母ステファニーが、ハンガリーの伯爵と再婚しウィーンの宮廷を去る。多感な彼女は、母の結婚式には出席しなかった。一人ぼっちになったエリザベート・マリーを可愛がったのは祖父のフランツ皇帝。
1900年、エリザベート・マリー17歳の時、宮中舞踏会でオットー=グレーツと出会い恋に落ちる。オットーはエリザベート・マリーより10歳年上、上級貴族ではあるが家格が低かった。しかもこの時、オットーには婚約者がいた。このままでは二人は結ばれない。そこで皇帝フランツは、可愛い孫の結婚を叶えてあげようと、オットーに一代限りの侯爵の爵位を与え、婚約を破棄するように命令した。エリザベート・マリーは結婚にあたり、宮廷から多額の持参金を頂く代わりに、皇位継承権を放棄することになった。身分違いの2人の結婚は「貴賎結婚」と呼ばれた。こうして1902年1月23日、ウィーンのホーフブルク宮でめでたく挙式を執り行い、その後4人の子どもに恵まれたが、だんだんと夫婦仲が悪くなっていった。
幸せだった頃の二人。
エリザベート・マリー、27歳頃の写真。
オットーと愛人の密会現場にやってきたエリザベート・マリー。オットーからの贈り物である拳銃を携え、二人が逢引きしている部屋に入ろうと試みるが、ドアの前でオットーの従者に止められる。彼女は従者に向けて引き金を引くが、弾は命中しなかった。強引に部屋に入ると、エリザベートは愛人に発砲する。のちに愛人はこの時の怪我がもとで亡くなる。夫ともみ合いになるエリザベート。想像するに何ともすさまじい光景である。現代日本ならさしずめ銃刀法違反と、殺人未遂容疑で逮捕間違いなし。この気性の激しさは、祖母譲り?
オットーとの不和に悩むエリザベートは、海軍少尉レルヒと不倫関係に陥る。しかし彼は第一次世界大戦で戦死。また最愛の祖父フランツが1916年に亡くなってからは、正式に別居生活を始めた。
長くなってきたので、次回続きを書きます。読んでくださり、どうもありがとうございます。
貴重なお話をありがとうございます。
お気付きかと思いますが、私のアカウント名は、エリザベート・マリーの父親ルドルフの悲恋を描いた物語『Mayerling』(邦題『うたかたのこい』) からとったものです。 私が昔、宝塚ファンだった頃に憧れていた麻実れいさんが、演りたいと希望して実現したのが初演『うたかたの恋」。
今でも、私が宝塚で一番好きだった作品です。
マリー・ヴェッツェラの直筆の遺書が発見されたニュースも、りら様がブログで取り上げてくださって、とても嬉しく思いました。
ルドルフとマリー・ヴェッツェラの悲劇的な事件の陰に隠れてしまい、余り注目される事のない、本来ならば皇女になるはずだった女性。 狂気的な行動はヴィッテルスバッハの血なのか、ルートヴィヒ2世、エリザベート、ルドルフ。 死の化身と向き合うような人生を彼女も送ることになったのでしょうか?
次回の更新が楽しみです。
りら様のブログにお邪魔する度に、何処からそんな知識を見つけていらっしゃるのだろうと、いつもいつも本当に感服しております。
(((o(*゜▽゜*)o)))
>私のアカウント名は、エリザベート・マリーの父親ルドルフの悲恋を描いた物語『Mayerling』(邦題『うたかたのこい』) からとったものです
いったいどんな場所だったのか、一度訪れてみたいです。今は観光コースになっているかもしれません。宝塚の「うたかたの恋」は、実在したルドルフよりかっこいい歴代男役トップさんの好演により、また柴田先生の脚本の巧さもあって、今でも時々再演されますね。若いころの麻実さんの瑞々しいアンドレも、忘れ難いです。
>狂気的な行動はヴィッテルスバッハの血なのか
そうなんですよね。エリザベート・マリーの、夫の愛人に対する突拍子もない行動は、そうした遺伝子から来ているのか、あるいは両親から十分な愛情を得られぬまま育ったことに起因するのか?結局彼女も不倫に走ります。ただエリザベート・マリーの後半生は、ハプスブルク家の終焉と共に、御先祖さまたちとはずいぶん違うものになっていきます。
ハプスブルク家に関すること、女性たちに昔から興味がありました。今後も「ベルばら」に限らず、書いていけたらと思っています。こんなブログですが、どうかよろしくお願いいたします。
さて、この皇妃エリザベートの孫娘のエリザベート・マリーが初めて日本に紹介されたのは、1986年の今頃に出た「新調45」という雑誌に載ったエッセイだったと思う。皆様がよくご存知だと思うけれど、この孫娘エリザベート・マリーの伝記を書いた塚本哲也さんの手に依るものであった。
時は、アンドリュー王子の婚約・ダイアナ妃初来日に沸き立っていた頃で、新聞の下にある雑誌広告の「ハプズブルグ最後の皇女」という一文に魅かれて、雑誌を購入して読んで、そのエリザベート・マリーの生涯に驚いたものであった。そういう生き方もあるんだと。
塚本さん、実際は、ご本は1993年に(私の記憶違いかもしれないかも)出された模様だが、確か、あの本で日本のハプズブルグブームに火をつけた、と、当時どこかの書評に載っていた記憶がある。
最近、といっても数日前ですが、朝日選書から、あのオットー・フォン・ハプズブルグ大公の伝記が出版されましたよ。オットー大公、あのベルリンの壁崩壊以降、断続的に日本の色々なメディアに名前が出て来ましたが、伝記本、という形でやっとです。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17975
>初めて日本に紹介されたのは、1986年の今頃に出た「新調45」という雑誌に載ったエッセイだったと思う
そうだったんですね。初めて知りました。私が最初にエリザベート・マリーを知ったのは、図書館でハードカバーの本を見つけた時です。ですからずいぶんあとのことになります。
>確か、あの本で日本のハプズブルグブームに火をつけた、と、当時どこかの書評に載っていた記憶がある。
日本のハプスブルクブームって、いつから始まったのでしょうね?「マリー・アントワネット展」などは、忘れたころにどこかで開催されている気がしますし。美貌の皇妃エリザベート展然り。
>朝日選書から、あのオットー・フォン・ハプズブルグ大公の伝記が出版されましたよ
情報をありがとうございます。最新刊ですね。ハプスブルクの人々は、21世紀の今もなお、ヨーロッパを中心に多方面に、少なからぬ影響力を持っているのでしょうね。