Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

2024年年初の記録【”老体に鞭打ち”な3月】

2024-04-18 14:53:22 | 日記

突然、ブログ投稿の”ヤル気スイッチ”が入ったようで

勢いに乗って

3月の記録も記事にさせていただいちゃいますね。

 

四国出張から戻った翌々日

前々から決まってた常陸方面でのお仕事のため

またまたすっかりお気に入りとなったJALを使うことに

この日も空港内でランチにしようと思い

久しぶりにあっさりと美々卯の”けつねうろん(きつねうどん)”と天丼セットにしようかなぁ

と考えていたのですが

結局ガッツリが食べたくなって

またまた神座の餃子セット

この日もあえて機材がB787の便を選んでみました

羽田からは、京急の特急で品川に出て

品川からは久しぶりにスーパーひたち

この日は仕事先に最も近いレンタカーが借りられる場所と

東海(東海村)の宿にしたため

水戸からは普通に乗り換えての移動となりました。

 

実は移動中に仕事先(船)の予定が遅延となり

急いでもう1泊追加することにしたのですが

 

駅からは遠いし周りにはほとんど商業施設も飲食店も無いしで

これまで何度か常陸那珂や日立を訪れてたけど

やっぱり水戸辺りで泊まるしかないなとの印象

ほとんど選択の余地なく近くのファミレス(中華)に向かったところ

古そうなホルモン焼きの看板とノボリを発見

 

仕事前はできるだけ飲まないようにしてるため

この店に入る気はなかったのですが・・・

 

待機日となって何もすることのなくなった翌日の週末

またファミレス(中華)しかないかと向かってみると

よっぽど飲食店がないのか駐車場はほぼ満車でドアの外まで人が溢れ

4人掛けシートしかない店だったので『一人で座るのも気が引けるなぁ』と

スマホで周辺の飲食店を探してみたところ

昨夜のホルモン焼きの店が表示され

クチコミがなかなか良さげだったので

試しに入ってみるかと暖簾をくぐってみたところ

普通の焼肉とホルモンのセットがあったので頼んでみたところ

これがなかなかの美味

(関西で暮らしているとホルモンは牛が常識なので、豚でちょっとビックリ

店に入った途端、韓国の空港に到着した匂い(ニンニク臭)がしたとおり

強烈なニンニクたっぷりのタレが絶品

つい、生中のあとに生レモンチューハイを注文して

勢いでチューハイのおかわりピッチャーまで頼んじゃいました

翌日、ホテルのチェックイン時刻に荷物を預け

仕事が午後からとなったため2キロ離れたレンタカー会社まで歩いて借りに行き

時間潰しにと道の駅に立ち寄ってみたところ

常陸沖で獲れた魚介類が売りらしく

日曜日とあって大混雑

名物のあんこうをみつけ

『仕事終わってからあんこう鍋食べよかな』と思ったのですが

なんせマグロッチ(動いてないと死んでしまう)と昔のSNS仲間に命名されたように

前日待機となって丸1日ホテルに缶詰め状態で過ごしたのが悪かったのか

はたまたほぼ連チャンの出張の疲労だったのか

思いのほか肉体的にも精神的に疲れてしまい

 

それまで仕事の後は休日出勤の代休とって

塩野崎や昔訪れたことのある小名浜に行ってみようか

それともまた塙キャバのバラック小屋の飲み屋にでもと思っていたのに

もう家に帰りたくなって

 

さて、どうやって帰ろうかと思案

(なんせ同じルートでの単純往復が嫌いなので

 

突然、茨城にも空港があったのを思い出し

就航便を調べてみると神戸便があり

 

急げばその日のフライトになんとか間に合いそう

 

慌てて宅急便で荷物を送り、レンタカーを返却して

東海駅から数少ない普通電車に乗り込み

 

水戸駅に到着

空港行のバスに乗車して

無事茨城空港に到着

東海駅で電車を待ってる間にスマホでチケットを購入して

何かお土産でもと売店をのぞいても

納豆か水戸黄門(偕楽園もあるけど)しか思いつかず

面倒になって手ぶらで飛行機に乗り込み

ポートライナーで三ノ宮に出て

三ノ宮から阪神からの近鉄直通電車(但し難波から準急)でも帰れたのを

わざわざ難波で特急”ひのとり”に乗り換えちゃいました

週明けの3月4日

とりあえず仕事のレポートを作成してから

ボケボケと過ごしていたところ

 

2月6日に久々に乗ったJALで

『もう金輪際ANAなんか使うか』と決め

すかさず申請していたJALカードが

よくやく審査を終えて届くことになり

大喜び

 

翌3月9日、早速JALカードで航空券を購入してまたまた羽田に飛び

アクアラインで千葉に渡り

ホテルに投宿

 

翌日、またまた東京湾沿いで仕事を済ませ

『さて、今回はどうやって帰ろかなと思ったところで

『房総半島の先っぽの館山に行ってみるか』と閃き

 

またまた宅急便で荷物を送り、レンタカーを返却してから最寄り駅に移動して

内房線に乗り込んだところ

なんせ館山行は1時間に1本程度しかなく

飛び乗った電車は上総湊止まり

寂れた駅のプラットフォームを堪能(?)して

 

20:40 ようやく館山に到着

またまたお腹ペコペコだったので

ホテルに荷物を放り込んでそんな時間でも開けてる店を探したのですが

Googleに表示される営業してるはずの店も、実際には閉店ばかり

いつものように選択の余地なく開けてる店に入り

やっぱ魚貝類だろうと注文してみましたが

いまどき、海が近いからって

美味しいものが食べられるわけじゃないのを再確認

隣がパチンコ屋でその敷地内だったから

たぶん在日系の経営なのか 韓国メニューが沢山あったので

シメはブデチゲ(部隊チゲ)

お腹は朽ちたので 場末感漂う飲み屋街を探検したかったのですが

実は、この時すでに『翌日は、懐かしのビーチを歩いてから高速船で伊豆大島に行こう』と思っていたため

素直に駅前の宿に戻ることに

翌朝、高速船乗り場の確認と

館山に来ることを決めた背景である

”館山のビーチ”

(練習船時代、よく沖に錨泊することがあって一度カッター上陸した思い出の地を歩きたかった)

に向かって歩いていたところ

野島埼灯台の標識をみつけ

思わず商船学校時代に何度も歌った”海のロマンス”の一節を口ずさんでしましました。

↓ この『♪野島の灯台(あかり)にじむとも~♪』ってところ

遠洋航海実習のため東京湾を出航した練習船が

房総半島の先をまわり本州最後の灯りが野島埼だったので生まれた詩

東海汽船の窓口で欠航していないことを確かめ

カッター上陸した思い出のビーチを眺め

さて、伊豆大島から先はどうしようと考えてみたところ

 

伊豆大島から同じ航路で竹芝に戻るのもつまらないし

かといって、伊東や熱海に行ったら新幹線のそれも”こだま”に乗るしかなく

 

帰って仕事のレポート作って提出しなきゃいけないので

そう何日も遊んでられないなと気づき

 

伊豆七島へはまた別の機会にのんびりと周遊する方がいいなとの結論となり

かといって往路と同じルートで戻りたくないなと

東京湾フェリーで三浦半島側に渡ることに決め

内房線を浜金谷で下車

海沿いを歩いていたら富士山を発見

(富津とか内房からだとすっごく大きく見えるんです

チケットは、久里浜港から駅までのバスと京急線とのセットもあって羽田まで1枚で買えるのにビックリ

 

奥房総の人気スポット”鋸山”もなかなか魅力的だなぁと眺め

 

浜金谷を出航しやがて浦賀水道を横切っていると

変わった曳船を発見

 

何かとても大きな建造物をフローティングドックに載せてサルベージ船と

警戒船、後方からはタグボートと

とっても興味深かったのですが、とうとう何なのかわからず終い。

丁度正午に久里浜港に着岸して

またまたお腹がペコペコだったので

フェリーターミナルのレンストランで食べようと思ったのですが

(浜金谷側ではまた開店前で食べられなかったので)

 

連絡バスに乗り遅れたら面倒かなと

久里浜駅に到着したのですが

すっかりベッドタウンになってお昼時とあってどこも満員

 

仕方なく松屋で牛丼食べることになって大後悔

(実は食後改札口に向かうと、人身事故が発生して再開の目処が立たず1時間近く待たされて更に後悔

 

あまり”星まわりが良くないな”と諦めて

そのまま羽田に直行してJALで帰ることにしました。

 

ただ、JALのCLUB A GOLD会員になったため

さくらラウンジではありませんが、ゴールドカードメンバー向けのラウンジでゆったりと搭乗を待ち

またまた雪化粧の富士山を機上から眺めて帰宅の途につきました。

 

その後は

3月15日で鹿と猪の狩猟期間が終了したため

檻を番線で固定して登録証を返納し

 

こうして3月の前半が終了となりました。

 

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2024年年初の記録【2月後半】

2024-04-17 15:42:30 | 日記

【前回からの続き】

 

2月20日

JALで羽田に到着し東京湾沿いの出張先近くへ移動して前泊

2月21日

翌日、無事仕事を完了できたのが夕暮れ時となってしまったため

また前泊地でもう一泊するつもりだったのですが

 

現場仕事で身体を動かしてハイになってたので

どうせなら前回の万世酒場でビール飲んで〆に排骨拉麺を食べたくなって

大急ぎで日帰り温泉で汗を流し、荷物を少し離れた宅急便の支店に持ち込んで送り

アクアラインを走るバスで東京駅前に出て山手線で秋葉原に向かい

ラストオーダー21:30と調べておいたので1時間前の20:30に万世ビルが目の前

よっしゃ、酒場で飲みまくるぞ~とガッツポーズ

 

喜び勇んで万世酒場の暖簾をくぐると

「すみませんね。もう食材が終わっちゃったんで、また明日お願いします」と言われ

ガックリ

つい2週間前には行列に並ぶこともなく空いた席に座って

のんびりと排骨拉麺食べられたのになぁと思いながら

 

バスでの移動中に上野駅近くの宿を予約していたため山手線で上野に移動

その昔、似顔絵かきが並んでた上野公園入口横の銀座ライオンを思い出し

『よし、それならアイスバインとヴァイスブルスト(白ソーセージ)で

黒ビール飲み倒したんで~』と席に着こうとすると・・・

時刻はすでに21:15

店員さんから「すみません。もう飲み物と枝豆程度しか出せませんけどいいですか」と言われ

「アッチャー、お腹ペコペコだからガッツリ食べながら飲むつもりだったから、じゃあ諦める

(実は、その日はお昼抜きで仕事してたため空腹なんてもんじゃなかったんです

とトボトボと店を出て

 

ガード下の飲み屋を探したものの

ほとんどの飲み屋はインバウンドの観光客でほぼ満席

仕方なく空席のあった沖縄料理風の居酒屋で飲むことにしたのですが

オリオンの生ビールに突き出し、島らっきょう、シークワサーサワーで焼きスパム、

泡盛のロックでゴーヤチャンプルもどきでお会計5千円弱 

『ま、そんな日もあらーな』と諦めて

富士そばでカツとじカレーと生ビールでお腹を満たし宿に戻りました。

 

翌日は、谷中でイタリア製の良質な皮を使ったバッグや小物の店をしている同級生の店へ行き

会社のスタッフに誕生日プレゼントを贈る約束をしていたので

日暮里駅周辺で朝ごはんを食べようとスマホで探してみたところ

 

六文銭の店があるのを見つけ

昭和な薫りプンプンの立ち食い蕎麦を平らげて

小雨降る中久しぶりに谷中の同級生の店へ

 

この同級生、同じ商船学校の卒業生なのですが

(京大医学部卒で胸部外科の父を持つボンボンなのに兄弟そろってちょっと変わり者)

卒業後、なぜか彼の兄が谷中で地元の資産家とデザイナーブランドの店を一から始めることになり

 

同級生もデザイナー学校に通ってデザインセンスと物を見る目を養い

足繫くフランス、イタリアに出張して見本にするためにブランド品買い求め

イタリアの皮メーカーから良質の皮素材を手に入れるようになって

徐々に一点ものに近い、巷に溢れていないバッグやグッズを好むお客がつくようになって

(初期のメンバーだったお兄さんはなぜか離脱)

 

やがて銀座の和光にも製品が置かれるようになり、都内にも支店を増やし

全国的にも買い取り条件で津々浦々のこじゃれたバッグショップに卸すようになり

デザインを含め先頭に立って事業の発展のために身を粉にして働いてきたため

専務から副社長になり、やがて創業者も高齢となったため社長になれるものと思っていた矢先

 

創業者が息子を世襲で跡継ぎにすると告げられ

失意のままその会社を離れ、半ば意地になって還暦後にもかかわらず独立して店を構え

しばらくは相当苦労したようでしたが

 

元々、以前の会社を成功させた手腕と昔から懇意にしてたお得意様から愛顧され

最近ではインスタグラムで知った欧米からの観光客にも愛されるようになり

大繁盛とまではいかないものの、充実した日々を送っている様子にホッと一息。

お店が谷根千歩きの観光客が歩く通りからは少し奥まった場所にあり

ネットカフェで同じように歩道からビルの駐車場を挟んでいたため

通りすがりの客が入らず苦労した経験を持ってたため

 

あのままじゃあ大変だろうなと思って

『いっそのこと、庭をカフェにして谷根千で歩き疲れた客を呼びこんだら?』と

数年まえに冗談半分で助言してたのですが

 

近くの空き地にコンテナハウスを改造したアンテナショップ(?)を置いて

休日にはその前でホットワインを提供してるとか

 

普段は売り子がおらず遠慮なく大きなウインドウから中を覗けるからか

興味を持った通行人が立ち寄るようになり

そこに”本店はこちら”の貼り紙をしてるので

奥まった場所にもかかわらずお客さんが来店するようになったんだそうです。

”継続は力なり”を感じましたねぇ

 

これまでにも

私も黒のビジネスバッグに折り畳み財布、ボディバッグ、

ネットカフェしてた時に店頭で売ろうを仕入れた数十種類の小物類と

家族のような存在となってくれた我が社のスタッフへの勤続のお礼に

同級生の商売を助けるつもりもあるから遠慮せずにWebで欲しいものあったら言ってねと伝え

赤いハンドバッグをプレゼントしていたのですが

 

今回は、誕生日のプレゼントに何がいい?と尋ねると

遠慮気味にカード入れ兼財布とのリクエスト

(実は、私の誕生日やバレンタインにも必ず贈り物をしてくれるのでそのお返しの意味も)

今時はキャッシュレス時代でICカードやクレジットカードを持っていれば事足りるので、

いざという時のために紙幣を1,2枚とカード類が収納できれば十分なんだなぁと納得。

今回は、こんな低額のケースをひとつ買っただけなのに

同級生だからか、買った商品よりも高額なグッズをプレゼントしたいと

断っても断っても手渡され、根負けしてとうとういただいてしまいました。

 

ついでに、2週間前にスタンドバーで約束したロシアのVODKAを手渡し

「また出てくるからみんなで飲も」と店の棚に置いてもらい

久しぶりだったので、新しい製品を眺めながら

↓これはオーダーメイドのスマホケース

好みの色とスマホの機種を伝えると手作りするんだそうです。

なんせイタリアの上質な皮が売りで

使い込むほどに艶が出て柔らかくなってより味のある一品ものになるんです。

 

また谷根千歩きがてら

この店を覗いてみてあげてください。

https://boheme-plus-beaudessin.com/

https://www.instagram.com/bohemeplusbeaudessin/

 

おっと、つい同級生の店を一生懸命売り込んじゃったりして(笑)

 

開店時間を待ってたかのように

お得意様風のセレブなマダムが友達を連れて来店したのをキッカケに

同級生に別れを告げ

谷中墓地を突っ切って日暮里駅から山手線に乗り込み

同級生との雑談で、前日の夜万世に行ったら食材が無くなったって入れなかった話をすると

つい数日前テレビで閉店するってニュースが流れ

話題になってるんだよと教えられ

 

そんな背景があったんだ~と思いつつ

前日からすっかり口が排骨拉麺になっていたため

意地になって行列に並び

これが最後かもと、想い出いっぱいの拉麺を味わってきました。

 

ラーメンを食してからスマホでJALの伊丹便を予約して

羽田14:00発のフライトに搭乗

伊丹空港から奈良行16:40発の空港バスに乗り

家に着いたのが18:00

 

大好きなドラマ、Dr.コトー診療所を見直したくて

注文しておいたブルーレイが届いていたので

週末はDr.コトー漬け

三連休の最終日の日曜は水利組合Aの総会で

副組合長&会計だったので覚悟はしていたものの

とうとう組合長にさせられてしまい気分はブルー

 

週明けの26日

前週の仕事のレポートを仕上げ

緊急で依頼を受けた瀬戸内での現場仕事の準備をして

いつもの四国行夜行フェリーに乗り込み

しまなみ海道で本州の尾道に渡り 現場仕事をヤッツケ

これまた大嫌いな山陽道を走って帰りたくなかったので

フェリーを弾丸(往復)で予約していたため

しまなみ海道で四国に戻ったところ

来島海峡大橋を渡って今治に入ると雪を被った石鎚山が目に入り

フェリーの出航時刻の夜までどうやって時間を潰そうかと思っていたので

これはまた四国山地を眺めに行かなければ と思い立ち

温泉に浸かるのを諦めて

寒風山トンネルから伊予富士方面を眺めると

しっかり雪景色

UFOラインは冬季閉鎖中だったので

結局、仁淀ブルーの”にこ淵”に行くことにしちゃいました。

にこ淵に到着できたのが午後4時

季節や時刻で色が変わるらしく

まだ冬の2月の夕暮れ前でブルーではありませんでしたが

とりあえず目的地に到着し、仁淀ブルーなる景色を眺められて満足しましたが

2月の平日の夕方でもそこそこ来訪者がいてビックリ

ハイシーズンになったら、大混雑の大渋滞で景色をあじわう余裕もないだろうなぁ

日没前にまたまた四国山地を堪能して

フェリーで大阪南港に戻りました。

 

この日のログはこんな感じ ↓ 

 

なにわともあれ

体調を崩してこれからどうなるのか?と思ってた1月とは大違い

昔ながらの落ち着きなく動き回った2月となり

 

ゴルフで言うことをの”あがってなんぼ”

しっかりツケを払わされたような一ケ月となりました。

 

 

 

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2024年年初の記録【あがってなんぼ(?)な2月編】

2024-04-16 15:40:18 | 日記

2024年の1月は

災害や痛ましい事故、恩人の死と

気分の落ち込む出来事ばかりの月となってしまったのですが

 

これまでずっといつ死んでも後悔しないようにと

全力疾走で人生を送ってきたのに

このままポテチンと終焉を迎えちゃったら悔いが残るなと

我が人生を終える前に会っておこうと在京の学生時代の同級生に声をかけたところ

『長坂がもう死んじゃうって言ってるから』と近しい後輩にも声をかけてくれ

会食をセッティングしてくれたため上京することに

 

2月6日

この上京を決めた時に

年末の北海道行で当日シニア割の存在を知り

スターアライアンスメンバーのANAを利用しようとしたところ

何故かその日の午後の便がほとんど欠航

 

調べてみるとそれまで搭乗時間の4時間前からしか特割チケットの予約ができなかったJALも

当日の0時から予約購入できるようになったのがわかったので

『ラウンジも優先搭乗も荷物の受取りも優遇されないけど、JALにするか』と

半ば仕方なくJALを予約していつもの空港バスで伊丹空港に向かい

久しぶりのJALの利用だったからか

ネットからではどうにもカード支払いができなかっため

十数年ぶりに北ウイングのJALカウンターへ行き

事情を話してチケットの購入する旨を伝えると

これが幸運に恵まれたのか若くて可愛くてお客への気遣いのできる

笑顔が素敵で心優しいスタッフがテキパキと対応してくれて大感激

 

ANA系の南ウイングでは保安検査を済ませたら

そのままラウンジで搭乗時刻まで過ごしてしまうため

普段立ち寄ることのない空港内のフードコートに入ってみたところ

 

神座やその他魅力的な店舗が並んでいて思わずガッツポーズ

東京に着いてから夕食をと思っていたけど

つい神座のおいしいラーメンセットを注文

イヤ~、伊丹空港がアチコチリノベーションして魅力的になったって聞いてたけど

たしかにひと昔前からは想像もできないほど良くなってました。

久しぶりに大阪の夜景を眺めながらのフライトもいい感じで

なんと言ってもJALのCAに大感激

ここ20年以上、JALが経営破綻してほとんどの国際線も減便となって

更には社内の雰囲気も悪くなったのか社員の質が低下して
JALのゴールドメンバーに拘るのを諦め

 

中国への出張も多くなっていたため中国向けにシェアを伸ばしていたANAばかり利用するようになって

北米に年に6・7回出張する時もANAを使うようになったのですが・・・

 

横柄でちょっとオツムの足りなそうな容姿端麗とは程遠いスタッフだらけ

『昔からの噂通り、ほとんどが縁故採用なんだろうなぁ』

あまりにお粗末で聞いてる方が恥ずかしくなるレベルの機内アナウンスでも

平気でお高くとまってるCAやグランドスタッフ達にウンザリしながらも

『仕方ないのかなぁ』と諦めていたこともあって

(失礼だなと思いつつ、ここ数年ANAには何度も何度も不愉快な思いにさせられ

ホトホト愛想尽かししてたので、我慢できず心のうちを吐露しちゃいました

(CAやグランドスタッフの中にはとても親切な人もいるので全否定してる訳じゃないんですけどね

 

久しぶりに搭乗したJALのCAの接客姿勢、笑顔の対応、

英語のアナウンスも完璧なうえに最後に付け加える一言も素晴らしく

久しぶりにウキウキしながらフライトを楽しみました

羽田空港では、馴染みのないTerminal 1で少し戸惑いましたが

この旅では、翌朝東中野の友人宅へ行く予定だったので

異常な値段になってしまったホテルに泊まるのを諦め

羽田空港から乗り換えのいらない空港リムジンバスで新宿西口へ向かい

ネットカフェの鍵付き完全個室にチェックイン

翌朝、再開発中の西口を眺めながら 地下街の蕎麦で朝食を済ませ

バスで東中野へ

約束していた時刻より早く到着してしまったため

神田川沿いの公園を歩いて時間調整し

その後、長年闘病しているトンガ時代からの親友(オノチン)のお宅にうかがって

元気そうな様子にホッと胸を撫で下ろし

長時間お邪魔して疲れさせないようにと1時間後においとましたものの

まだ時刻は10:20

 

学生時代の友人達とは千駄木で夕方からの待ち合わせだったので

のんびりと都バスで上野に出る方法も考えたのですが

 

その日のお昼は、新宿西口のメトロ地下食堂街の万世で

大好物の排骨拉麺と決めていたので

時間調整と夕方の飲み会に備えてウォーキングで肝臓のアルコール処理能力を高めよう

神田川沿いから西新宿経由で歩いて行こうと決め

一時アパート暮らししていたことのある中野坂上を目指していたところ

懐かしの新宿副都心の高層ビルが目に入り

住友三角ビルの下まで歩いたところで

都庁に展望台があるのを思い出し

生まれて初めて新宿に移転した都庁に入り

展望室へ直行

1987年5月から12月まで

新宿三井ビルが国際協力事業団の本部だった時代に

特別技術嘱託として勤務していたこともあって

当時、西口の高層ビル群は庭のような場所だったんだよなぁ と

懐かしくいつまでも見つめてしまいました。

 

現在、群馬県知事で元参議院議員の山本一太さんが同じ課で働いていて

お昼になると同年代のメンバーで高層ビルの食堂街や西口周辺のレストランへ通ったものでした。

(当時はただの一介の職員だと思ってたので、その後参議院議員になってるのを知った時はビックリ

展望室は、インバウンド観光客だらけで

そこそこ賑わってましたよ。

若かりし頃を思い出しながら、全周の眺望を楽しみ

再び新宿三井ビルで働いていた47階付近をじっくりと眺め

船会社時代、海外からのお客を送迎したり自分も何度か泊まった京王プラザを眺め

名残惜しみながら都庁を出て

高架下で横断歩道を渡ろうとしたところ

懐かしいホームレスがいまも現存しているのを発見

昔は西口の改札口周辺から中央公園までホームレスの人達で埋もれていましたが

その後、都庁を建設する頃から立ち退きとなり

彼等が寝床にしていた地下道には動く歩道が設置され

もう西口周辺からは消滅したと思ってたので、正直ちょっと驚きました。

 

そうこうして、西口のメトロ地下食堂街に行こうとしてみたところ

ビルそのものが消滅していて大ショック 

 

ところが口がすっかり万世の排骨拉麺になってしまっていたため

どうにも諦めきれず

 

ネットで調べてみると、有楽町も霞が関ビルも閉店してしまい

拉麵が食べられるのは秋葉原の本店だけとわかり

中央線と総武線で秋葉原に移動し

38年ぶりに万世橋の本店に辿り着き

念願の排骨拉麺を美味しく堪能

1979年に新社会人として東京で暮らしてた頃から1986年に新宿三井ビルで働いていた頃

その後もアチコチの支店や、親友が東中野に引っ越してからは

新宿西口のメトロ地下食堂街に立ち寄るのが習慣になってました。

その後、夕方まで時間を持て余していたため

食後の腹ごなしがてら 万世橋から歩いてアメ横に向かい

1978年に商船学校の実習用の京浜寮で暮らしてた頃から

運輸省航海訓練所の練習船が晴海やお台場、竹芝に係留して上陸が許可される度に

主に米軍の払い下げやPXからの横流し品だったのかアメリカのお菓子や

アイビーの小物(カレッジリングとか)を求めては彷徨った思い出の場所

すっかり様変わりしちゃってましたが、懐かしかった~

その後、またまた御徒町のネットカフェの鍵付き完全個室で時間潰ししてから

歩いて千駄木に向かうことに

不忍池から池之端、谷中のヘビ道を抜けて

須藤公園に到着

その後、千駄木では2度目の居酒屋で楽しい時間を過ごし

2次会はスタンドバーへ

日付が変わる頃にお開きして

翌早朝には家路につこうと思っていたので結局この日もネットカフェ泊まり

 

東中野の親友の家を出てしばらくしてからログを取ったので

時間も距離も若干少なめですが

こんな感じ

 

実際に歩いた距離は13.7kmしかありませんでしたが

 

おかげで美味しくお酒を堪能させていただきました

翌日、通勤ラッシュ前に帰ろうと6時にチェックアウトして

山手線と浜松町からモノレールで羽田空港に向かい

前日すっかりお気に入りになったJALの8:30の伊丹行に搭乗

雪化粧した富士山も眺められ

一期一会の気持ちで友人達と楽しい時間が過ごせたからか

1月の暗い気分も一掃

千駄木のスタンドバーで次回は持ち込むからと約束したVODKAを

忘れないように手元に置き

 

2月13日

日常生活に戻って狩猟もしなければと檻をのぞくと

なんと猪が二頭もかかっててビックリ

猟友会のメンバーさんにお願いして止め刺ししてもらい

支部の集会所へ持ち込み分け前をいただき

竹林に戻ると まだ淡竹の時期になってないのに

何を探したのか至る所が掘り返えされていて驚いちゃいました

それからまた檻罠をセットしたのですが

実はこの時、別の猪と遭遇して『やばい、襲われるかも』と身構えたところ

猪の方がパニックになって山に駆け上がってゆき助かりましたが

焦りましたね~

 

この時を契機に仕事の依頼が続き、社内整備や出張の調整に大忙しとなり

 2月20日

東京湾での仕事のため またJALを利用することに

実際には、自宅からの最寄り駅からなら

近鉄を乗り継いで京都に出て、新幹線で東京に向かえば

運賃も15,000円3時間15分ほどで行けるのですが

飛行機での運賃はバス、飛行機、電車の合計で20,000円弱(変更不可のチケットで)

伊丹空港への移動、搭乗待ちを含めると羽田までで4時間

利便性を考えたら比較にならないのですが

乗り飽きてるのと、最近のオーバーツーリズムもあって乗り換えが苦痛

もうすっかり”新幹線に乗りたくない症候群”に罹ってしまい

あえて時間もお金もかかる飛行機を選択するようになってしまいました。

(空港バスの停留所まで送ってもらえば、バス→飛行機→電車orバスで簡単なんです

【文字数制限となってしまいましたので、続く

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2024年年初の記録【悲しみや不安の重なった1月編】

2024-04-15 15:54:05 | 日記

※何度もお伝えさせていただいておりますが

主に親しい、でもFBで友録していない友人・知人への近況連絡のブログのため

一般の方々には全く面白くもない内容だと思いますので

その点をご留意くださいますようお願い申し上げます。

 

2024年元日

年末に稚内で転んで痛めた尾骶骨と手首の痛みが取れず

コロナ前までは除夜の鐘の音を聴きながら赤米粥のふるまいにあずかろうと

毎年元旦に訪れる大安寺への初参りも先延ばしし

おせち料理と雑煮でお屠蘇代わりの冷酒に酔い

自宅でウダウダと過ごしていたところ

 

携帯が突然鳴り響き、小学校のスピーカーでも緊急地震速報が伝えられ

自身でも揺れを感じて家から身体一つで表に飛び出し

能登半島を震源とした大地震を知らされ

刻々と届く被災状況に心を痛め

 

松の内なのにやるせない気持ちのまま

翌日の昼になってようやく大安寺へ初参り

例年なら続けて村の鎮守の八幡神社へ初詣に行くところが

何故かその気になれず家でウダウダと過ごしていた時に飛び込んできたのが

羽田空港での海保機との衝突事故

 

不幸な出来事が続くなと思いつつ

翌3日は半年前から次男夫婦と小学生からの友人達を家に招いて猪鍋をご馳走すると宣言していたため

その約束を果たし

これまた例年は三が日に初詣する生駒の宝山寺も4日になってようやく実現

五千万円も一億円も寄進できるほどの商売繁盛はいりませんが

社員さんが不安に思わず、満足してもらえる賞与が払えますように

喜んで働いてもらえますようにお仕事が続きますようにとお願いし

いつものように前年のお礼の浴油祈祷をお渡しして

年始の恒例行事を終えられてホッと一息

 

5日は仕事始めだったので社員さんを含めて3人で焼肉屋で新年会の真似事をして

 

 

翌日から3連休となり8日に竹林に仕掛けた猪用の檻とトレイルカメラの手直しを済ませてから

自宅で映画三昧しながら過ごしていたところ

 

トンガ時代からの大恩人、桜井研次さんからの着信があり

『めったに電話してこないのにどうしたんだろ?』と電話に出たところ・・・

電話をしてきたのが奧さんで

実は年末の12月24日に研次さんが急逝したと伝えられ

突然の知らせにすっかり気が動転してしまい

お悔やみの言葉も出てこず

ショックを受けたまま電話を切ってしまったのですが

 

思い出してみると

12月24日の夜

極寒の礼文島、稚内から羽田・伊丹経由で帰宅する途中

疲れ切ってリムジンバスの中で寝入ってしまい

気づいたら何度か非通知の電話が何度か入っていたのに気づき

その後、事務所の電話にも非通知の着信通知が届き

 





 

 

いったい誰からの電話だったんだろ?と思いつつ

非通知でかけなおすこともできず

 

急ぎならまた電話してくるだろうし、と

そのままにしてしまった出来事を思い出し

 

完全に呆然自失状態に陥ってしまい

葬儀も済ませてしまい、お別れを言うこともできなかったと

悔しみ涙を流しながらも

前々から予定していた猟銃の更新手続き、猟友会のワクチン散布などを終えて

弔問に行かなければと思い立ち

SMSでメッセージを送ってみたところ どうやら既にSMSは解約してしまった様子

ならばと、仕事に差し支えないかなと思いつつ、携帯に電話して訪問の意向を伝えると

『お父さん(研次さん)も喜ぶと思います』と言っていただき

その週末の1月14日の日曜日に訪問することを決め

 

その日からトンガ時代のスライドや写真をひっぱりだし

奧さんや子供さん達にトンガでの桜井さんの様子を知らせようと

急いでスキャナーを注文したのですが、弔問日には間に合わないなと

仕方なく急いで壁に投影してスマホに画像で取り込み

翌早朝、始発のリムジンバスで伊丹空港に向かい

羽田に到着後 空港バスに乗り込み

冬の晴れた日らしく高速道路から富士山を眺め

新横浜駅に迎えに来てくれていた娘さん、息子さん家族に連れられて

自宅で亡くなった時の様子などをお聞きしながら

ようやく線香を手向けたのですが

トンガ時代は勿論、帰国してからも横浜駅近くのアパートに泊めてもらったり

いろんなところで飲んだり、遊びに連れていってもらったり

鳥羽での結婚式にも参列してもらい伊勢神宮を案内したり

何度も仕事を手伝ってもらい東京BIGSITEでの出展の手伝いや 

韓国、シンガポール、境港、因島、尾道と一緒に出張したり

奈良へ夫婦で遊びにきてもらったり

自宅近くの桜井さんの会社の事務所へはまるで自分のところのように

気楽に立ち寄っては雑談に興じ

他の誰よりも近しく兄弟のように思ってた人だったので

辛かった~

 

横浜から戻り、旅立ってしまった事実を現実として受け止め

もう悔やんでも仕方ないと自分自身に言い聞かせたのですが・・・

 

スライドの映像を不自然な恰好で長時間スマホに撮影してたからか

腰から右後ろの背中に痛みを感じるようになり

 

そのうち治るだろうと放置していたところ

軽い痛みからとうとう激痛となって身体を微動だにすることもできなくなり

夜中に救急車を呼びたくなるほど悪化

 

『この痛みは腎臓結石か尿管結石かも』と思い込み

超音波で石を砕くことができると聞いていた病院の泌尿器科に駆け込んだのが

1月20日

 

検尿とレントゲン撮影してところ尿潜血もなく結石とは違うだろうとの診断に

医者に頼み込んでCTまで撮影してもらったところ

胃と肝臓の間に大きなリンパ節の腫れが見つかり

「消化器内科に連絡しておきますから、すぐに内視鏡で検査した方がいいと思います」と告げられ

 

なんせ気の早い性格なので

『これはたぶん悪性の癌でたぶん膵臓か肝臓だろうな

『だとしたら、手術も抗癌剤治療も拒否してこれが天寿なんだと諦めよう』と勝手に悟り

でも、とりあえず入院は避けられないだろうなとパジャマと下着を買って家に帰り

翌週の1月25日、胃カメラでの検査を受けたところ

十二指腸(胆管と膵管まで)を調べてみたところ

逆流性食道炎(加齢でよく起こる症状らしい)があるものの

胃の内部はとてもキレイな色をしていて

見つかったのは”ハッピーポリープ”なる

ピロリ菌のない胃癌にならない胃にあるポリープで

リンパ節の原因はわからないけど、とりあえず心配はなさそうとのこと。

 

『それじゃあ、あの激痛はなんだったのかなぁ』と思いつつ

早合点して”これで我が人生もおわりかな”と悟りの境地になってたので

まだ余生が残されてると告げられて、嬉しいような悲しいような複雑な心境

 

この激痛とリンパ節の影がみつかった時に

トンガ時代の友人(オノちん)と

在京の学生時代の同級生・後輩達に連絡を取り

『もう先が短いかもしれないので、近々東京に行くから存命のうちに飲もう!』と伝え

 

この出来事がある前にその病院で睡眠時無呼吸症候群の検査を予約していたので

1月29日、一泊二日の検査入院をして

久しぶりに酒を抜いて、健康的な病院食で過ごし

休肝日で体調もすこぶる良くなり

 

1月28日

この辺りでは”とんど焼き”と呼ぶ火祭り(左義長)の日
昔は、この行事のあとに”ひまち”で
集落の集会と会食(飲み会)を夜を徹して行っていた時代もあったようですが

 

自分が自治会に出るようになったのが5年前で

コロナもあって昔からの行事もほとんど中止となり

なによりも、何の因果か自治会も水利組合も何故か役員や世話役になるのが婿養子ばっかり

 

この日も、とんどの火が枯草に類焼したら大火事になると事前の草刈りをしたのは養子のみ

土着で実際には仕切らなければならない副自治会長は

草刈りに顔を出すこともなく呆れ果ててツラも見たくない有様

 

なんとも悩ましい”睦月”とは遠い年の始まりとなりました。。。

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【備忘録:2023年故郷帰省記録&故郷の食べ物の記憶】

2024-04-10 17:39:20 | 日記

”三つ子の魂百まで”とはちょっと違うかもしれませんが

 

中学校を卒業と同時に進学で生まれ故郷(東三河:豊橋)を離れたこともあって

思い入れも人一倍強く、”三河人”であることを誇りに思って生きてきました。

生まれはどこですか?と問われ

『愛知県』と言うと、すぐに「あぁ、名古屋ですか」と言われるのが

虫酸が走るほど大嫌いなのが三河人なんです。

 

〔三河人気質〕

質実剛健、派手さはなく、スタンドプレーは苦手

”実直” ”愚直” ”剛直”


そんな訳で 

数年まえに帰省した時に

昔から東三(東三河)事務所と呼んでた県の支所で

”東三河県庁”との看板をみつけて思わず万歳三唱


いや~、ようやく独立してくれたかぁ と、『ある訳ない』と思いつつ

ぬか喜びしちゃいました

 

『故郷は遠きにありて思うもの』的要素も多分にありますが

幼少の頃から遊んでいた野山に対する郷愁感

子供の頃から食べてたものに対する愛着などなど

浦島太郎の心境で

より故郷への想いが深くなった気がします。

 

そんな心境にありながらも42歳までは

東京や大阪での会社勤めに海外赴任、出張漬けで

毎年、盆暮れの年に2度ほどの帰省しかできませんでしたが

 

約25年前に起業してからは比較的自由に時間を作れるようになったことと

24年前に母が脳梗塞で転倒して寝たきりになったため

その見舞いを兼ねて

一時は月に2回のペースで日帰りするほどで

 

母が亡くなってからも

ちょくちょく日帰りでも帰省していたのですが・・・

 

異母姉5人を含む7人兄弟の中でも

最も仲良しだった四女の姉が5年前に亡くなり

次に仲良しだった五女の姉も後を追うように10月後に亡くなってしまい

兄嫁も突然大病がみつかり闘病していたこともあって

ここ数年は すっかりご無沙汰😭

 

なんと、昨年の2023年はダイアリーを調べてみたら

阿部寛主演の映画”異動辞令は音楽隊”を観て

 

突然、昭和のオンボロお好み焼き屋に行ってみたくなり

年末から半年以上過ぎた

7月25日に訪ねたものの 既に閉店後

諦めきれず8月5日に東京出張のついでに

その店でお好み焼きが食べたいとそれだけの目的で立ち寄ったものの

長年関西で暮らしてきた人間にとっては

『よくこんな不味いお好み焼きで店やってるなぁ』との印象(ゴメンなさい


昨年は😫そんな出来事もありました。



ついでなので

豊橋&東三河の代表的な食べ物をご紹介すると

ここ20年ほど

帰省したら必ず食べると決めていたのが

“あんかけスパ” 

近年、隠れた地方のグルメとしてだったのか

テレビで豊橋っ子のソウルフードと紹介されてしまったため

全国からキャリーケースをガラガラと引きずりながら

新幹線で途中下車してまで食べにくる始末。

↓(これはコロナが騒がれだした頃の画像)

続いて豊橋っ子のソウルフ”むらたのたこやき”

その昔、豊橋駅前にあった百貨店丸物の屋上にあった観覧車やその他子供向け遊具の広場の片隅の

掘っ立て小屋で売られていた”たこやき”(醤油と紅ショウガ味のみ)

子供の頃は、3ケ10円だったのが2ケ10円になり・・・

値上げとともに

高度成長期を実感したものだったなぁ(ウソコケ)


続いては、昔の駅構内にあった立ち食いうどん屋(壺屋)の人気メニュー”きしめん”

昔は当然のことながら陶器の器で
東口の改札から構内に入ったところにあって

中学を卒業して進学で豊橋を離れてから

鉄道で帰省する度に

冬になるとモウモウと湧き上がる湯気に誘われてよく暖簾をくぐって食したものでした。


その昔は、豊橋が”うどん”と”そば”の境界と言われていて

たしかに近所で主に出前専門だった店の暖簾も”生そば”


ところが、”にかけうどん”という

うどんがこれまた東三河っ子のソウルフードで

生家でも、昼時に訪問者があると

気楽に出前で注文するのが”にかけうどん”

 



その“にかけうどん”

かけうどんに、かまぼことほうれん草、たっぷりの刻み油揚げに

ネギとこれまたたっぷりの花かつおが載せてあって


しっかりした辛味のある一味唐辛子🌶が

似合う鰹出汁なんですが


電話で注文すると

店のオジサンが黒い実用自転車で掛け持ち片手に持ってきてくれるのですが

家に到着したころには適度に伸びてるので

子供の頃にすっかりその伸び加減が刷り込まれてしまい

店で食べるとまだ腰があってシコシコしてるのが別物のような気がしてしまい

うどん=八千代(その店の名)の出前だな

閉業してしまってからもいつまでも懐かしく思い出したものでした。

 

そう言えば、我が家(生家)

お客が多かったからか何かというと出前を頼んでたなぁ

 

おやつ代わりに頼むのが、この”八千代”のにかけか和風中華

夏はひやしうどん

父母が旅に出る時は、食事代を預かって

大学前にあった”入口屋”のカツ丼(兄は天丼)


おめでたい時や大事なお客さんには、

近所の寿司屋”ふくす司”から桶か自分は鉄火丼(兄はちらしだったような)

 

 

外食も好きで家族連れの時は

豊橋駅前での定番が常盤通の中華(台湾)料理”天華”

(私は天津麺か五目ソバに焼売でしたが、誰かの誕生日には個室でコースも定番でした)

駅前大通りの”アンデルセン”でインディアンスパゲッティ

とんかつは広小路通りにあった”全楽”

ざる蕎麦は松葉通りの札木近くの店でしたが名前は忘れちゃったなぁ

あと、法事とかの後には菜飯田楽の老舗”きく宗”

(大人になってからは、豊橋の実業家“磯村弥八”さんの経営するグループが、豊橋の繁華街の中心、広小路通りの常盤アーケードの入口の2階に開いた菜飯田楽の店“いちょう”が定番となったしまいましたが)


ひゃ~懐かし~

 

 

 

あと奥三河名物の五平餅も

帰省したら食べたくなる一品

店によって味が異なりますが赤味噌に砂糖に胡桃や生姜などを加えていて

これがまた美味しいんだなぁ

 

 

そんな訳で

この年は12月29日に帰省としたのですが

豊橋(&東三河)への移動中は

着いたら何食べようかなと頭の中は食べ物一色

 

今回は、東名(湾岸線)を豊明ICで下りて国道23号線で蒲郡に向かったところ

年末とあって今現在高架道路の終わる蒲郡で大渋滞

あんかけスパのチャオ本店は前述のとおり変に有名になっちゃって大行列必至だなと諦め

ネットで豊川にできたメガモールにも開店したのを見つけ

国道1号線 に移り

小学校の同級生が院長兼経営する豊川の総合病院の看板を眺めながらメガモールに入り

久しぶりに店名と同じチャオ(ポークピカタ載せ)を注文

タッチパネルで便利になったけど、元々ずっと昭和レトロな社風だったから違和感あったなぁ

 

この日は小学生時代の同級生との忘年会が目的の帰省

豊橋駅西口のビジネスホテルを予約していたため

車を預けて豊橋駅に向かい

ここ10年ほど年末・年始の恒例としてる小学校5-6年生時の同級生で

みんな大好きだった恩師のお宅へご機嫌伺いにお邪魔して

(コロナ前までは食べ物・飲物持参で歓談しながら会食してたのですが、コロナで断念)

御年93歳だったかな 相変わらず頭脳明晰で、その上挨拶を終えて帰ろうとすると

大きな敷地の家の門までスタスタと歩いて見送ってもらい

みんなビックリ

(右端がその総合病院の院長)


その後、毎年恒例の忘年会(以前は年始会)となったのですが

年末でどうにも店がみつけれず

菜飯田楽の店に向かい瓶ビールでの会食となりました。

その後、スタンドバーでウダウダと歓談してからお開き

(総合病院の院長は、入院患者が急変したとの電話が入り途中退席)

翌朝は晦日だったので

家族に恒例のお正月の食材を仕入れて帰るからと伝えていたため

帰省したら必ず立ち寄る 豊橋っ子の台所(スーパーサンヨネ)で

大好物の舞阪漁港(浜名湖の河口)の魚介類と生鰹を買いたかったのですが

年末とあって カニやマグロだらけで断念

(↓これは、12月17日に姉兄のところを訪ねがてらお歳暮の注文に帰省した時のものです

夏は生ウナギ、その他の季節は

三河湾の浅利、生鰹、ワタリガニや

赤味噌、花鰹などの食材を買い求めるのですが


これまた必ず土産にしている

魚町通りに本店のある

練製品の老舗でオデンネタを買い

ネットで知った青果市場の小売りコーナーに向かい

お雑煮用の野菜をたっぷり仕入れ

両親の眠る墓地で線香を手向けてから

渥美半島の太平洋側を走る国道42号線をひた走り

途中、赤羽根漁港で小休止

漁船も新年を迎える準備をすませてました。

その後、伊良湖岬に向かう途中

昔は団体バスの観光客で賑わった渥美フラワーセンターの跡地に植えられて菜の花を愛で

お昼は、伊良湖名物の大あさりを食べるぞ~

と恋路が浜の食堂に行ってみると

な、なんと焼き大あさりが1,200円と聞き

ボッタクられてたまるかと諦め

フェリー乗り場の道の駅で何か食べようと思ったら

ただの”あおさうどん”が30分かかると言われ

あっさり断念

(普段は閑散としているため人手が足りず注文を受けれない様子😓)

(人手不足の現実を目の当たりに)

売店はお土産物ばかりで なんとか買えたのが カップやきそば

 

あまりのショックに完食するのに相当苦労しました。

そして失意のままフェリーに乗り込み

鳥羽に到着

あえて旧鳥羽街道を抜けて母校の前を通り

昔、旧艇庫があった跡を眺めながら

この日は素直に家路につきました。。。

 

この旅のログはこんな感じ↓

たったの走行距離462.12kmに32時間そこそこ

ところが何か疲れちゃったんですよ~

 

さて、2024年は何度帰省できるのでしょうか

 

体力的にも以前のように車での日帰り帰省はもうできないだろうし

親族も年々減少してモチベーションも下降気味

 

このままではダメだなと己に喝を入れた次第です。

 

すっかり枯れ爺さんになって、欲が無くなったのがいけないんだろうなぁ

なんとか帰省の楽しみを作らなければ

 

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その③続Tongaについて】

2024-03-22 13:28:22 | 日記

さて、またまた続けてTongaの事(但し1980年代)を

ご案内させていただきますね。

 

まづは、Tongatapu島の交通事情について

最もポピュラーな公共交通機関はやはりバス

 

首都のあるTongatapu島では中古のバス(窓ガラスのないタイプがほとんど)

離島のVava’u島ではボンネット型のトラックの荷台に乗るタイプ

(ほとんどが砂洲でできたHa’apai諸島では車両よりも船外機付きのボートでした)

 

↓これは当時では最もまともなバスですが

なんせたぶんオーストラリアかニュージンランドからの中古

しょっちゅうエンストするのですが

乗客も慣れたもので

よく主要道路で数名の客が降りて押しがけしてる光景に出くわしました。(笑)

次に紹介するのが現地での名称がベートル(Vae Tolu:足三つ=三輪車)

大家族が基本のトンガでは主に市街地の中心部での

観光客御用達って感じでした。

↑ この三輪車の後ろにある中古トラックがそののち最もポピュラーな車となり

ファミリー単位(数家族、10~15名)で所有して

土曜日の市場での買い出しや

ピクニックと称してファミリー総出で荷台に乗り込みドライブを楽しんでました。

(購入資金は出稼ぎや移住しているファミリーからの援助で)

 

タクシーと言えば、この小型ジープのような”Mini Moke”(ミニモーク)

市場で買った食料品を積み込んでの利用が多かったですね。

Tongatapu島はほぼノッペリとした土地だったので普通に走ってましたが

起伏の多いVava’u島では下り坂になるとエンジンを切って

惰性で下ってました。

島嶼間の交通は

当時ドイツからの援助で供与されていた

Olovaha号(Tongatapu~Ha’apai~Vava’uを週一で運航)と

Tongatapu島の隣のEua島間用の小型フェリーがありましたが

 

その他の島々へは寄港しないのと

修理でニュージーランドにドック入りしたり故障したりと

運航が不定期になることが多かったため

中古鮪延縄船が運航していました。

(中古鮪延縄船の後ろはオーストラリア、ニュージーランドとの定期航路に就航していた貨物船で

Tongatapu島とVava'u島の直行便として利用したりしていました。但し旅客は甲板でのみ乗船可

それからセスナに毛の生えたような小型飛行機もあって

パイロットは一人だけ

Tongatapu島とHa’apai諸島のPangai,

Vava'u島の間を、安息日の休日を除きほぼDailyで飛んでました。

これは私が再赴任してしばらくたった1985年頃だったかな?

王様がどこかの先進国に得意のオネダリして

Royal Tonga Airとして当初は小型プロペラ機から

後にはたしか737がリースされて周辺諸国(Samoa, Fiji)他

NZ, OZにHawaiiまで就航していた時期もありましたが

なんせ王族による援助頼みの放漫経営で赤字の垂れ流しとなり

結局2004年に休業となりました。

それ以外にも

Vava’uにはParadise Hotelと言う名称の

トンガきってのアメリカンスタンダードの高級リゾートホテルがあり

アメリカ人の富豪が趣味半分のようにして自分で建て増ししながら

見事なリゾートホテルにしていたのですが

 

そのオーナーとビジネスパートナーの”グリーンベレー”あがりのドイツ系アメリカ人がいて

双発のプロペラ機を自分たちで操縦して

チャーターベースで首都のTongatapu島や

American Samoaなどにホテルの客を送迎したりしてました。

 

 

続いて食料事情も少々

 

それぞれの諸島の中心部に公営の市場があり

農家や漁師が持ち込みで販売するのが最も一般的な買い方

市場の中以外でもこうして露天売りしてました。

(手前がパンの実”Bread Fruit”、奥が食用バナナなど)

左半分がKumala(サツマイモ)右が西瓜

中央が熟したココナッツ(ココナッツミルク用)

左がlemaniと呼んでいた柑橘系(右はサツマイモ)

こちらは魚貝類市場の浅蜊

当時の価格でバスケット(籠)1Pa’anga(T$1=220円)

写真に撮るのを忘れてましたが

ロブスターが10匹単位紐でくくられてT$10=2,200円

蛸は天日干しして売られてましたがT$5=1,100円と高価な食材でしたが

その干し蛸、ココナッツミルクとChile(島唐辛子)で煮込むと激ウマでした

 

↓ この右端がトンガのオカマ(Fakaleti:女モドキ)

Tongaでは女の子が生まれないと、その末っ子を物心つく前に女の子のように育て

オカマにしちゃうらしく、ラグビー選手みたいなガタイのオカマが結構いました。

(因みに、テーブルの上にあるのはココナッツとパッションフルーツ

↓こちらは、ココナッツジュース用のもの

↓これが主食して最も人気のタロイモ

バナナとパパイヤ(バナナは基本房売り)

これは最もリースナブルな主食のキャッサバ(トンガ語でManioke)

主に皮を剥いて茹でて食べるのですが生だと毒(腸内で青酸ガスが発生)なのが難点

 

↓ 貝類(左側がトコブシ、中央がシャコ貝)

恥じらいもせず展示台の下で休んでるのが”らしくて”いいでしょ~

こちらは、主食の中でも最も高価なヤム芋(Ufi)

我々日本人がトロロのようにして食べていると「毒がある!」と恐れながら言われましたが

まだ生きてるから大丈夫だったんでしょうね。

これは最も一般的なタロイモ

茹でたり、ウム(焼いた石で作るオーブン料理)で蒸して食べます。

沖縄の田芋やハワイのように水田で耕作するものと違い

畑で栽培するのですがキャッサバよりも時間がかかるため高価でした。

 

上の積んであるのはタロイモの葉で(Lu)

ウム料理の時に、コンビーフや羊肉などを塩と胡椒で味付けして

濃い目のココナツミルクを加えてこの葉で包み

更にバナナの葉で包んで蒸すのですが

これがもう絶品

市場は基本平日は毎日開いているのですが

やはり一番混雑するのが土曜日の午前中

お客も沢山集まるので質も量も多くなり必然的に混むようになってました。

Fish Marketも同様ですね。

 

青果類の市場にも写ってましたが

蝙蝠傘は外出時の女性の必需品

雨ではささず、日除け用でした。

 

普段の買い物は

Tongatapu島では

そこそこモダンなOZ,NZ系スーパーマーケット2軒と

冷凍食材専門のCold Store(BeefのFiletや鶏、ソーセージの輸入品)

昔の田舎の百貨店的な地元のスーパーマーケットが数軒

近所にある掘っ立て小屋の雑貨屋(Falekoloa)で

 

もっぱら煙草の買い物がてら
このお店でオネーチャンと無駄話するのが楽しみのひとつでした。

(右端がわたし

当時は、南太平洋といえば”缶詰文化”と言われた時代で

海に囲まれてるのにサバやサンマの缶詰が主なタンパク源になってました。

 

海に囲まれた島国とはいえ

鮮度を要求される食材の保存法や輸送手段のなかった時代のこと

 

それらで外貨収入を得ることはできず

狭い国土では隣国Fijiのように奴隷を連れて来てサトウキビを栽培することもできず

英国も植民地とせずに保護領でいられたんだろうなと思っていました。

 

そんなわけで輸出できるものと言ったらコプラ(石鹸の原料となるココナッツ)程度しかなく

国としては、『男子が成人したら何百本のココナッツを植えること』

『そのために、国王(貴族)より土地を貸し与える』とされ

昔はトンガの主要産業とされていましたが

 

実際には、OZ,NZに移住したファミリーからの仕送りと

客船の寄港時に落とされる観光収入が主な外貨収入源となっていました。

 

オーストラリアを基点としたクルーズ船と世界一周航路の客船

稀に訪れる世界各国の海軍の船舶や私もその一人だった航海訓練の練習船が寄港すると

乗馬用の馬や

手工芸品や木彫りの土産物

その他もろもろのハンディクラフトの土産物屋が店を連ね

一般の人々の収入源となっていました。

客船が来ていない日は ↓ この有様

練習船で寄港した時も

出航前の帰船時刻になると土産屋はどこもかしこも投げ売り状態

次の船が入るまで収入が得られないため

1m以上ある木彫りのティキを$1で買ったなんて自慢してる練習生もいたなぁ

 

 

賑わってる様子と閑散としている様子の比較をついでご紹介すると

トンガ王国は、イギリスによって伝導されたキリスト教が憲法でも定められるようになり

休日(日曜日)は安息日

 

基本的に教会へミサに行く以外は外出が禁止され

労働は勿論、遊びさえも禁止

 

そんな様子をご覧ください。

”Nuku’alofaのバスターミナル”

(平日)

(日曜日)

”メインストリート”

(平日)

(休日)

 

”タクシー乗り場やバスターミナル”

(土曜日)

(日曜日)

”スーパーマーケット”

(土曜日)

(日曜日)

”メインストリート”

(土曜日)

(日曜日)

”魚市場&ローカル肉市場”
(土曜日)

(日曜日)

 

お次は、家や建物について

↓ 色灼けして観ずらいかもしれませんが

中央右側の赤い屋根の建物の様式がTonga式で

隣国のSamoaは酋長制の大家族のためこのような建物(但し、熱帯なので壁なし)に

酋長とその家族が住んでいました

Tongaは専制君主の王様と貴族、

その他は平民なので、その昔は椰子の葉葺きの家が一般的な住居でしたが

時代の流れで輸入材の合板製の壁とブリキ屋根の家が主流となった時期でした。

(下の写真は、ハリケーンの時に津波で建物が流されコンクリートの土台が残ったもの

↓ こちらの手前の木造家屋はハリケーンの後に

主にOZ,NZからの援助でツーバイフォーの壁とトタン板が数百なのか数千単位で送られたもので

一気にモダンな生活に変わっていきました。

 

それでは人々がどのようにして生活の糧を得ていたかと言うと

主な収入源としては、ほとんど民間の会社や工場などない国だったので

公務員が一番の就職先で

それ以外は第一次産業に占める割合が多かったと思います。

 

実際には、ほとんどのファミリーの中には

OZ,NZ,ハワイ、アメリカ本土へ出稼ぎに行き

そのまま不法滞在で市民権を得て移住した人間がいて

彼等からの送金があっての上ですが

 

観光客のお土産用のハンディクラフトを内職したり

 

内陸部ではココナッツにバナナ、パイナップル、パパイヤの栽培や

焼き畑でタロイモ、キャッサバ、ヤム芋等の農業だったり

 

海岸近くであれば

リーフ内での投網が最も一般的

ブダイや熱帯魚のような雑魚とは別に

海水で棲息するボラが高級魚として好まれてました。

協力隊の先輩隊員の一人は

元々は養殖隊員で派遣されていたのですが

現地人の女性と結婚して一度は日本に連れ帰ったものの

嫁が文化習慣の違いに馴染むことができず

あまりに非常識なふるまいを繰り返していたため実家の親から見放され

 

日本で暮らすことを断念して隊員時代に国内で積み立てられていた資金を使って

船外機や漁具(網漁の資材)を購入してトンガに戻り

木製のボートを使って嫁のファミリーの人間を使い漁師を生業とし

漁具漁法などまったく知らない現地では

毎日豊漁で市場でも人気が高く

一時はそこそこの収入を得ていて

彼の長男が一歳になった時のパーティーでは

最も高価な豚の丸焼きが何匹も、その他にもご馳走が並び

我々日本の青年海外協力隊員に加え

水産局に居たアメリカ平和部隊他のボランティアも招待され

(左端が桜井研次さん)

 

一時は現地でも成功者と思われていたのですが・・・

 

【またまた続く】

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その②トンガについて】

2024-03-13 16:45:26 | 日記

【その①からの続き】

そのトンガ史上最悪となったHurricane Issac (トンガ語でAfa Aisake)

私が赴任した2月2日からほぼ一月後の1982年3月3日

首都のあるTongatapu島を直撃したのですが・・・

 

おっと、続ける前に

トンガ王国がどこにあって

どんな島国なのかご説明しなければ失礼ですよね。

 

南太平洋(南半球)にある島国で

いま現在は海底火山の噴火で増えてようですが、私がいた頃は169の島々で形成され

位置的には南緯15度~23度30分(因みに沖縄本島が26度、ハワイのホノルルが20度)

 経度では173度~177度(ほぼ日付変更線上、英国グリニッジの正反対)


近隣諸国は、北(赤道寄り)に同じポリネシアのSamoa
北西部にその昔は南太平洋のパリと言われたメラネシアのFijiがあります。
 
私が赴任していた頃は、FijiにはAir Pacific
SamoaにはPolynesian Airlinesという名称の航空会社があり
他の近隣諸国への航路と、この三ヵ国間を飛ぶトライアングル航路が就航していて
アクセスの便利さもあって兄弟のような間柄でした。
 

トンガは、これら三ヵ国の中でも
その昔は最も優れた航海術を持ち隣国にも勢力を伸ばしていた海洋民族で
広大なる海域に米粒のような島々が無数に散らばった小国にもかかわらず
王族によって統治され、同一言語を話す類まれな国なんです。
(1,000年以上の歴史ある南太平洋最後の王国)
 
↓この地図よりも北側(赤道寄り)にも離島がありますが
主要な諸島は、人の暮らす島の中では最も南に位置し首都のあるTongatapu(ヌクアロファ)とその周辺、
その北にあるほぼ海抜数メートル未満の島々Ha’apai諸島(パンガイ)
 
その北(Tongatapu島から直線で約300km)に
トンガの中では起伏があって風光明媚な入り江に囲まれたVava’u諸島(ネイアフ)で
 
 
首都Nuku’alofaのあるTongatapu島は
北側の島のサイズと比べ長大なリーフに囲まれ
貿易風や海流から守られた天然の良港の最奥部にあり
そこに王家の宮殿が建てられたのも納得させられます。
 
↓の赤い箇所が、ハリケーンの時に避航して投錨していた位置で

下の↓の位置が水産局と初期の住居のあった場所


 
ということで、トンガについての地理的なご説明はここで一旦横に置き
話を続けますと・・・

 

 

乗船中だった鮪延縄漁船は

結局ハリケーンの進路のど真ん中でやり過ごすこととなったのですが

まだ船が新しかったこともあって

暴風と高波に翻弄されながらもなんとか耐え

 

翌日の昼過ぎ

風がおさまってからようやく岸壁に着岸し

とりあえず上陸して水産局と宿舎のあるSopuに向かったのですが・・・

 

ビーチ沿いにある道は波で抉られて車が走れる状態になく

沿岸沿いの家もほとんどが高波に浚われ

崩壊してたり建物ごと内陸部に運ばれて荒野のような有様

 

宿舎に着いてみると

日本製の頑丈な建物だったため外観ではまともそうだったものの

ビーチ側の2階の窓は強風で飛ばされてきた木の枝がささり

台所にユニットバス、リビングダイニングのあった一階は

津波で全ての家具が流されサッシの窓ガラスも割れてもぬけの殻

 

実は、高潮からの津波に襲われ

近隣の住人がその地域では唯一二階建てだったその建物に緊急避難で逃げ込み

どうやら扉を蹴破って侵入したため海水が流れ込み

そのまま濁流が反対側の窓ガラスを突き破ってしまった様子

 

同居していた倉松さんは行方不明で

呆然としながら二階の自分の部屋に入ってみると

幸運にもアナカン(別送品)で日本から送った

大きなジュラルミンケースが置かれていてホッとしましたが

 

もし重いからと一階に置かれたままだったら

津波で流されたうえ

中も水浸しとなり、着任早々何もかも全て失ってただろうなと

想像するだけで背筋が凍る思いにさせられたものでした。

 

その後、当然のことながら全島停電、断水となり

復旧の目処が立たない状態

 

市街地の官舎で暮らしていた専門家や隊員の家は

津波に襲われることも風で吹き飛ばされることもなかったため

 

食料を分けてもらいなんとか窮状を凌いだのですが

 

すぐにオーストラリアとニュージンランドからヘリコプターや

海軍の艦船によって支援物資が運び込まれ

ビーチ沿いには被災者用に数十張のテントが設営されたのですが

 

あの緊急援助の迅速さには驚かされましたねぇ。

 

その後息つく暇もなく

派遣先の後片付けに追われることとなったのですが・・・

 

実は、その数日後に任期を終えて帰国する予定だった漁労専門家の川上晋氏

(東京水産大出で、詳しくは知りませんがその昔国連関係の専門家として南米に派遣され

その後トンガに移り、後に日本のODAが開始され続けてJICA専門家として合計17年間過ごした人物)

水産局の施設に鮪延縄漁船の供与を手柄に華々しく見送られると思っていたのが

そのハリケーンで信じられないようなしっぺ返し

 

そんな惨状のまま離任できなくなり帰国を1週間ほど伸ばし

我々協力隊員の協力で被災した水産局の養殖施設や

鮪延縄漁船とともに供与された機器の予備品や漁具類を流されたブッシュの中から探し出し

予備品保管用に建てられていたトタン板張りの倉庫に

塩抜きや錆止めして片付ける作業に狩りだされ

朝から晩まで没頭することに!

 

鮪延縄漁船は元々の乗組員(機関長以外は残っていた)で操業に出発することが決まり

私は次の航海までは陸にいられることになり

とりあえずハリケーンの被災者ながらホッと一息

 

週日の日中は汗みどろになっての労働でしたが

アフター5や週末はプライベートの時間を過ごせるようになったため

前任者から引き継いだボロバイクで島内を巡ることができました。

ということで

またまた脱線してTongatapu島がどんなところだったのか

写真でご紹介させていただきますね。

 

 

これ↓は、その後たぶんマグロの缶詰工場があるアメリカンサモア辺りから買って

トンガ国内の貨客船として就航していた中古マグロ船

ハリケーンでほとんどの離島間に就航していた古い船が座礁や沈没してしまったため

こうして数隻が就航していたのですが

これらも数年内に別のハリケーンで全て座礁したり沈没しちゃいました。

 

岸壁の陥没箇所はハリケーンの信じられないような波の力で

桟橋の下から突き上げられて捲れ上がったもの

運良くハリケーン前に出航した時に撮った写真があり

被災前の王宮と無傷の同じ岸壁の様子が残されてました

こちらも同じハリケーン前の国営ホテル

International Date Line Hotel(国際日付変更線ホテル)

当時の日付変更線では

トンガが世界で一番先に日付が変わる位置にあったため

Tonga="Where time begins"と称してたんですよ。

これ↓は、島の南側のビーチのひとつ

リーフが近いので、素潜りのスキューバには最高でした。

これは同じ南側でもリーフのない断崖絶壁の海岸線が続く

Tongatapu島ではたぶん最高高度のFufanga Lupeという場所

こちらは、Tongatapu島北側のラグーンに面したビーチ

木陰に置いてあるのが丸太をくり抜いた手漕ぎのボート

島の最西端にある謎の巨石

Ha’amoga

どうやってこんな大きな珊瑚石を切り出し、組み立てたのか

文献のない口頭伝承の地なので

何の目的のものかも含め全く不明の建造物なのですが

 

同時にトンガは特に王族(貴族)は巨人だらけで

ガリバーの巨人伝説の元になったと言われてる国なんですよ。

 

 

島の中央部にもココヤシが生えているのですが

根元にいるのが馬(英国保護領だったのでサラブレッド)

木の高さがわかるようにと撮ってみました。

ここも島の南側のリーフのない海岸線にある

当時は全く知られていなかったダイビングスポット

珊瑚石でできた棚の下に外洋と通じた穴が開いていて

波によって水位が1~2m上下する上に

外洋側にはいつも鮫がウヨウヨしていてスリル満点の場所でした。

 

↓ ここは英国の総領事館

トンガ王国が1777年に海洋探検家Capt. Cookによって発見され

その後長年英国の保護領になっていたこともあり

外国公館としては当然一番

王宮に次ぐ歴史と威厳を備えた施設でした。

 

↓ は島の南西方面にある観光名所のひとつ

”Blow Hole” 外洋からの波が珊瑚岩の中にある無数の穴から噴き出し

季節と潮位によってそれはそれは見事な景観をあじわえる場所で

1985年には日本専売公社の煙草”セブンスター”のCMにも使われてたんですけど

たぶん関係者以外憶えてる人はいないだろうなぁ。。。

こちらは、トンガの典型的な墓地(土葬)で

王様だけが捕獲して食べられるFling Fox(フルーツバッド:コウモリ)の木も

墓地にあります。

 

こちらは、郵便局

私が赴任した1982年当時は

Cable &Wireless社の衛星を使った国際電話もありましたが

 

たしか日本だったら3分で5,000円ほどの料金で

手当として支給されるのが月額20,000円ほどの協力隊員には縁のない世界

 

日本との通信手段といえばせいぜいAir Mailで

国際郵便ルートとしてオーストラリアを経由するため

最速でも2週間ほどかかる時代でしたが

日本の事務局からOSCで新聞紙やダイジェスト版を送ってくれていたので

私書箱を確認するのが日課でした。

前述のとおり、Capt. Cookによって発見され英国の影響を受けて

王族から国民もほぼ全てがキリスト教徒となり憲法もキリストの戒律が用いられ

敬虔なるキリスト教徒国家となったことと

ほとんどの生活物品(主食の芋類、ココナッツ、魚介類以外の食料品も)は

輸入品のみ

 

そんな背景もあってかアルコール類を販売できるのも

ほんの一部のスーパーマーケットに限られ

なおかつ警察署で発行される免許証を持たないと買えない建前だったため

 

それなりの地位にある特権階級だけが利用できるCLUBがあり

そこではカウンターで雑談したりビリヤードしながら無制限にビールが飲めたのですが

一番敷居の低かった(TONGA CLUB) ↓

家畜としては

内陸部では馬、一般家庭では鶏か豚を放し飼いされていて

ほとんど食べ残ししないので

餌といえば主食の芋類の皮か魚の骨

ココナッツミルク用に果肉を削り取った殻の削りカスだったので

豚は、引き潮になるとビーチで鼻で浅蜊を掘り出して食べてました。

島の南側のビーチは、リーフが近すぎて魚もあまりいないのか

水遊びする習慣もあまりなかったようでそこらじゅうが貸し切りのプライベート状態でした。

これは首都のNuku’alofaの中心地にあった床屋(KOSIULU: 直訳するとCUT HEAD)
調髪は櫛とハサミだけの上

シラミがうつると言われてて一度も利用したことはありませんでした。

こちらODAで建てられた水産局

玄関や他にガラスの代わりにベニヤ板が貼られているのは

ハリケーンの時の高潮と津波で壊されたため

海岸に面していたため成人男子の胸の高さに津波の跡が残ってました。

これはまた鮪延縄漁船に乗船していた時の一枚

 

なんせ酒飲みなので手当てはほとんど全てビール代に消え

その上乗船中はタロ芋漬け(陸ではそこそこ高級食材なので機関長だからと山盛り出してくれるんですが)

拒絶反応で見るのも嫌気がさしていつしか全く食べられなくなり

ゲソゲソに痩せこけてしまいましたが

精神的には苦じゃなかったなぁ

当直中の機関室での一枚

日本だったら安全靴なのに、現地人に倣ってサンダル履きでした(爆)

ある日の日曜のミサでの一枚

先輩隊員から引き継いだバイクがツルツルタイヤだったため

直ぐにパンクしてしまったものの現地にはタイヤを入手する術がなく

同じ二階建て住居で暮らしていた先輩隊員の倉松さん(小児麻痺の方でした)が

乗れるようにと支給されたダックスホンダの後ろにタンデムで連れてもらってたのですが

自分で自由に動けず、辛かったなぁ

その日曜日のミサは一種の社交場で

昼には子供たちがキリスト教の神話を劇で演じたりするのですが

緊張して泣きながらセリフを言う女の子がいたりしたのが印象的でした。

↓ こちらは、その日曜のミサに行くために

馬車(サリオテ)に乗るのを待ってた一張羅で着飾った子供たちに声をかけて撮った一枚

 

島の中心部から少し離れただけで

こんな素朴な光景がみられた古き良き時代でした。

 

それなりの収入があり、輸入ビールの飲めるCLUBに行ける連中以外は

南太平洋ではもっともポピュラーなKAVA(カヴァ)が社交場

 

Kavaとは胡椒科の一種の植物の根を乾燥させ

石で叩いて粉状にしたものを木の容器に入れて水を加え

見た目は泥水のような液体を飲むのですが

 

アルコール成分は皆無ながら、飲むほどに神経を鈍らせる効能があるため

酒代わりに皆で円陣になって雑談したり歌を合唱しては夜を徹して楽しむのですが

なんせ大酒飲みなのでほとんどシラフのままで

水分の取り過ぎでお腹はチャプンチャプン

 

そんな風に文句いいながら手当がなくなると仕方なくKava飲んでたんですけどね

タイヤがパンクして相当苦労させられましたが

着任から半年ほどして隣国のサモアから新任の駐在員が来トンされ

窮状を訴えたところその場で承認され

ようやくまたバイクに乗れるようになって

飛び上がりそうなくらい嬉しかったなぁ

 

 

さて、またまた備忘録と友人知人に知ってもらおうと

もう少しトンガの事を記事にさせていただきますね。

 

 

(王宮と軍の式典)

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その①】

2024-02-29 17:54:43 | 日記

このブログでも何度か打ち明けさせていただいておりますが

私は青年海外協力隊昭和56年度3次隊

船舶機関隊員として南太平洋の小国”トンガ王国”に派遣されておりました。

(昭和57年1月~昭和61年8月)

その期間の当初の約9ヵ月間、先輩隊員として知り合い

現地よりも帰国してからもずっと交流を保ち

お世話になりっぱなしだった

桜井研次さんが昨年末に逝去していたとの訃報が届き

身の置き所もないほどの悲しみに耽っておりましたが

 

これを機会に桜井さんと知り合ったトンガ時代のこと

その後の桜井さんとの交流を記録しておこうと

記事とさせていただくことといたしました。

 

彼についての記述は、後半で書き記してゆく所存ですが

とりあえず、知り合うこととなったキッカケの青年海外協力隊時代から

振り返ってみたいと思います。

 

 

昭和57年 

1月27日、広尾にあった青年海外協力隊事務局を出発し成田から出国

 

JALのFiji経由NZオークランド行のできたばかりのビジネスクラス席は

我々協力隊員3人のみ

後部座席はハネムーンの新婚客でほぼ満席

 

翌28日にFIJIのNadiに到着、小型機に乗り換えて首都Suvaへ

Suva空港に出迎えにきてくれていた書記官に付き添われ

ホテルにチェックインしてから夕食をご馳走になり

翌日は日本大使館を表敬訪問してSuvaの街を散策

 

翌々日はまた小型機でNadiに戻る予定が荒天で欠航してしまったため

書記官に見送られ窓ガラスのないバスに乗り込み

大嵐の中びしょ濡れになりながら数時間揺られてNadiへ移動

大荒れで人気のないリゾートホテルに泊まり

翌早朝の31日、協力隊の駐在員事務所のある西サモアのApiaに飛び

日付変更線が異なるため1月30日にApia に到着

Apia に2泊してサモア時間2月1日(トンガは2月2日)

日本を出発してから6日後

ようやくトンガ王国の首都Nuku’alofaに到着となりました。

首都Nuku’alofaのあるTongatapu島のFa’amotu airportの

掘っ立て小屋のターミナルから出ると

出迎えてくれたのが先輩隊員である桜井さんと倉松さん

 

当時は外観がジープそのもののTOYOTAランドクルーザーの後部座席に乗り込み

宿舎へと直行し

(日本の無償援助によって水産局のハコモノとこの住居が建てられそこが着任当初の宿舎でした)

 

その夜は着任パーティーが開かれ

告げられたのが

たしか3日後に

着任する2月ほど前に日本政府からの無償援助によって供与された

鮪延縄練習船に乗り込んでくれとの事

一応名目は着任時の現地訓練と言われていましたが

 

実は、建造時から日本で研修していた機関長が帰国した途端逃げ出し

機関長が不在で処女航海(操業)に出られず

漁船の供与に関わっていたJICA専門家(川上晋氏)が

引き渡しを花道に17年滞在したトンガ王国での任期を修了して帰国するつもりだったのが叶わず

 

困り果てて私の着任を待っていたらしく

なんと日本から送ったアナカン(別送荷物)も届いておらず

着の身着のままで乗船しろ!と言う始末

 

成田からトンガまでの移動中の着替えしか持っていなかったため

私とは身長差ー15cmほどの桜井さんが(同じ機械系隊員だったので)

自身の持ってたツナギを貸してくれたのですが

 

あまりに理不尽な応対に愕然とするやら呆れ果てながら生まれて初めて漁船に乗船

初操業だったので専門家の川上氏と漁労の専門家の松本し

そして冷凍機隊員だった桜井さんと

同期で漁具漁法隊員も数日の予定で一緒に乗り込んだのですが

 

私は機関室で乗組員に当直の指導をしていたところ

岸壁を離れ操業の準備をしようとしたいた漁労担当の専門家から

延縄用のベルトコンベアが動かないから直してくれと告げられ

二の句が継げず訳もわからずスターターの電気回路で電磁弁が壊れていることがわかり

陸に戻って倉庫に保管されていた予備品と交換してようやく再出港したのですが・・・

 

2月も係留したままで、操業の準備や点検もせずにいたのかと呆れるばかり

暗雲の中を突き進んでゆく気分でした。

 

↓ 髭の伸び方からたぶん出航して1週間くらいに、半ば呆然自失しながら甲板で自撮りした写真

数日後、初操業を終えて同乗していた日本人は下船するとのことで

私も下船して別送した荷物を受け取り、生活の準備ができるかと期待していたところ

機関長としてそのまま乗船してくれと言われ

 

商船の船乗りとしての心構えはあったものの

商船は貨客を目的地まで運ぶもので

船速の遅い船で太平洋横断でもせいぜい2週間程度

 

それが鮪延縄漁船の場合は

積み込んだ食料か飲料水が尽きるか

捕った魚で魚倉がいっぱいになるまで港には戻らないとのことで

 

最短で1月、運が悪ければ一月半船の上で過ごさなければならず

冷房無しの10人部屋の船室に

風呂無し、タロ芋漬け、タバコも酒もない

野郎だらけの船上生活

山ほど苦労もしましたが、そのぶんトンガ語も上達できたし

なによりも同じ釜の飯を食った仲間として

トンガ人から心底受け入れられるようになれたのは

この経験があったから


鮪延縄漁船は

全速力で船を走らせ、船尾から餌のサンマをつけた延縄(長さにして150キロ)を

油圧の投げ込み器を使って3時間ほどかけて投げ込み

船を停止して1時間ほど待ってから

投げ込んだ縄を油圧の巻き取り機で20時間弱かけて引き揚げながら

鮪やカジキ、鮫などの大型魚を獲る漁法で

 

まさしく24時間操業の休みなしのタコ部屋のような生活

 

いまでは”災い転じて福となす”とも思えるようになりましたが

当時はまだ若干24歳になったばかり

異性もおらず週末のディスコにも行けないのは正直辛かった~(笑)

 

最初の一月の操業を終えて首都に戻り

任期を延長して3年間滞在していた漁業隊員の空港への見送りに同行し

(私、右端がその隣が桜井さん、川上さん一家と他の協力隊員との記念撮影)

 

この時は給水と食料の積み込みで寄港したものの

数日後にまた操業に出ることとなって船に乗り込んだのですが・・・

 

出港からわずか数日して突然の大嵐

無線で届いた情報では、大型台風が発生してトンガを直撃しそうとの事

(小さな船でしたが、遠洋漁業のため通信士が乗り込んでました)

まともな気象情報もない洋上で

トンガ史上最大級の台風に巻き込まれたら沈没間違いなしと判断し

 

サンゴ礁のリーフに囲まれた首都のあるTongatapu島に戻り

錨を2本海底に食い込ませ風に向かってエンジンを全速力にして数時間

気の遠くなるような時間が過ぎ

無事やり過ごしたのですが


機関部のエンジニアに

「こんな大型台風が襲来するの?」と尋ねると

「うん。毎年こんなだよ。」との答えに顔面蒼白


やがてリーフに囲まれてるのに

高波が港の岸壁の倉庫を超えるほどになり

海岸線沿いは越水して水浸し

 

同じように避航していたタグボートや小型船が


強風に負けて走錨し

次々とリーフに乗り上げたり沈没するのを目の当たりにして

(座礁した元鮪延縄漁船で離島間の貨客船として使われてた船)


これは大変なところに来てしまった‼️と

行く末を案じたものでした


【続く】

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近況報告【2023年11月・12月】

2023-12-19 17:22:00 | 日記

このブログをご覧いただいてる友人・知人のみなさまへ

近況報告させていただきますね。

 

11月4日

3泊4日の四国出張(仁淀川&酷道439満喫)から戻る

 

11月5日

晴天に恵まれたのを好機と脱穀作業

11月7日

籾摺り作業を開始したところ未処理の籾が機械内にあふれ出し

調べてみるとライニングが摩耗して穴が開いているのを発見

11月8日

作業を中断して柿とキウイを収穫し

家庭菜園の柿の木に向かうと

全く実が無くなっているのを発見

(他の木は豊作で鈴なりになってるのに落ちてる柿もない

獣道らしき跡を見つけ、先日草刈りしてたら威嚇されたアライグマに食べられたなと気づき

11月9日

猟友会の豚熱ワクチン散布活動

午後から安納芋収穫

11月11日

銃所持許可の更新手続きで有害駆除参加証明をもらうため奈良市役所に行ったついでに

アライグマ用捕獲檻を借り設置

11月11日

農機具屋に注文しておいた籾摺り機のライニングを受け取り取付

無事籾摺り完了

 

夕方、小学校時代の大親友夫妻が奈良に来ると聞いて

羽釜で炊いた新米ご飯と猪鍋をご馳走すると約束していたため

ヌカクド登場

翌日、ディープな奈良を案内するため

奈良公園内の秘密のスポットから天理教の本部、石上神宮、大神神社、纏向・箸墓古墳

明日香村の甘樫丘を車窓から案内してから石舞台古墳

談山神社(残念ながら高温が続き紅葉がまだ

吉野山で修験道の山伏の護摩炊きを観て

険道で小南峠トンネルを抜けて洞川に出て

昭和レトロ感漂う洞川温泉街から大峰山の女人結界

酷道309号線で行者還トンネルを抜け

なんとか日暮れ前にナメゴ谷ビュースポットから紀伊山地の眺望を観てもらい

11月13日午前

豚熱ワクチンの回収(食いつき調査)を済ませてから

正倉院展を楽しんでもらっていた友人をピックアップして

生駒山周辺を案内してから

当尾の九体寺(浄瑠璃寺)を案内

11月16日

耕運機で田圃を耕起(もち麦を植えるため)

11月18日

家庭菜園にネギを採りに行くチャンカーに檻を観といてと伝えると

なんとアライグマがしっかり捕獲

回収は狂暴なため市役所がすることになってるためそのまま放置

11月20日

銃所持許可更新に必要な精神鑑定のため天理の病院で受診を済ませてから

猟期に入っていたものの時間の余裕なく罠を仕掛けていなかったため

獣の痕跡があるか下見

アライグマの罠を再設置して

久々に家族息子二人を含む5人連れてボーイスカウト時代お世話になった隊長のお店(奈良で大人気の居酒屋)へ

 

11月23日

先日耕起した田圃を麦の種が播けるようにと再耕起

11月24日 

月初めに受領していた狩猟登録証を取り付け

(いつでも呼び出されたら活動できるように)

11月26日

焦りながらもち麦の種を播き

 

太古の昔から農地の土手に植えてある椚を強剪定するために草刈りをしようと

家庭菜園に向かうと またまたアライグマ捕獲

先日の攻撃的な狂暴なアライグマと違って大人しくじっとしてるので

恐怖心を与えないように遠巻きに草刈りを済ませ

11月27日

薬師寺近くへ車検のためジムニーを預け西ノ京を歩いて帰宅

11月28日

前日市役所に回収を依頼したため 翌早朝また檻を再設置

その後自宅を出発して鹿島へ出張(~11月30日まで)

 

12月1日

出張のレポートを作成してから市役所に向かい檻を返却

 

12月2日

車検を終えたジムニーの引き取りに軽トラで向かう途中

垂仁天皇陵に立ち寄り

鴨の渡来の様子うかがい

ジムニーをガレージに戻してから

蕎麦の刈り取り開始

4時間半後 刈り取り完了

12月3日

野立てで乾燥させたかったのですが、雨の予報だったので脱穀機で脱穀

ベランダで乾燥することにしました。

同日午後

翌日雨予報だったため

蕎麦を植えていた農地でももち麦を植えようとトラクター出動

とりあえずロータリーかけしてから高畝にしようと作業を開始したところ

山側からの湧き水で緩くなっている土壌にハマりこみ 

脱出を試みるも日暮れまでどうにも動かず断念

12月5日

富雄川に鷺と川鵜が集まってるのを横目で眺めながら出勤

その後雨続きだったのを幸いと蕎麦の手刈りで疲れた身体を癒し

 

12月9日

前回の強剪定から3年目でどうしても片付けたかった椚の強剪定開始

大昔、北から流れる富雄川が湾曲するため大水が出ると氾濫した場所と思われ

当家のこの地が護岸工事がなされるまで川際の土手で

五右衛門風呂や煮炊きの窯用の燃料と補強を兼ねて椚を植えたらしく

その本数15本

それまで義父が2年毎に剪定していたのですが

8年前に落下して頸椎を圧迫骨折したため

仕方なく受け継いだのですが・・・

実は高所恐怖症

義父は普通の梯子に剪定ノコだけで隠居だったため

たぶん1日1本程度と時間をかけて片付けていたので

5年前は同じように始めてみたのですが・・・

 

1日に数本連続して作業していたところ

左右の腕が痙攣してノコが握れなくなり

その上、普通の梯子をかけて木登りしての作業が恐怖でしかなく

 

そんな時間に余裕ないし、より安全に作業しようと

庭師用の3mの梯子と電動チェーンソーを購入

おかげで15本の椚も1日半で剪定できちゃうんですよ

(因みに、安全帯を使って枝にかけ梯子を踏み外しても落下しないようにしてます)

剪定作業自体は二日目は1時間ほどで終われるのですが

土手の下の落ちた枝を引き上げるのに時間を費やし

 

ついでにと梅、柿、キウイ、イチジク、ブルーベリーの剪定もするため

ひと段落したのはすっかり日暮れ前

とりあえずキウイは剪定した枝を棚の柱の下に植え

棚いっぱいにキウイの実が垂れ下がって欲しいなと淡い夢を抱き

翌12月10日

学生時代の友人が無呼吸症候群でシーパップを使うようになったら

とっても楽になったと聞き、とりあえず検査してもらうことに

12月11日

夕方から雨との予報に焦りながら

単独でトラクターの救出作業に挑戦

スコップにシャベル、鍬と溝切用の農機具

アルミブリッジを準備して

ハマりこんで埋もれたトラクターの下の泥土を掻き出すこと3時間

アルミブリッジの上に乗り上げさせ脱出成功

いや~久しぶりに飛び上がりそうなくらい喜んじゃいました

翌12月12日

しっかり水洗いしてガレージに戻し

 

12月14日

淡竹と真竹の竹林の整備を開始

自分でするようになって知ったのですが

竹って強風で擦れあって痛めたり想像以上に寿命が短く

数年で数十本単位で立ち枯れして倒れてしまうため

朝の10時から開始して とりあえず立ち枯れした竹を積み上げたらもう日暮れ

12月15日

傘差して歩ける筍堀のための理想の竹林にしなければと思いつつ

とりあえず猪の檻罠を設置

雨上がりでなかなか幻想的な眺めになり ちょっとウットリ(笑)

 

12月16日

それまで懸案事項だった 麦の種まき、蕎麦の収穫と乾燥

トラクターの救出、竹林の整備、猪の檻罠の設置ができたため

 

久しぶりに生まれ故郷の豊橋へ帰ってこようと

朝8時に自宅を出発

12時に旧作手村に立ち寄り、自然薯を買って異母姉夫婦の墓参を済ませ

13:20 大好きなあんかけスパを食べようと半世紀前からのフランチャイズ店へ

本店や直営店が 最近のグルメ番組で何度か放送されて行列店となってしまったため

思い出して久しぶりに訪れたのですが

そこそこ儲かってるんだろうから改装した方がいいんじゃない?って感じ

このスパゲッティ屋、半世紀以上前から豊橋では人気の店で

各地にフランチャイズ店ができてたのですが

何故か長続きせず、フランチャイズのほとんどは閉店してしまったのですが

ココはしっかりと営業を続けている貴重なお店

行列するほどではないにしろ、この時間(午後1時半過ぎ)でも

次々と客が入ってくる様子から儲かってる筈なんだけどなぁ

(少し前から粉チーズは頼まないと持ってきてくれないようになっちゃいました。)

 

 

その後、田原の異母姉と小学校の同級生(女子)と少し会話を交わしてから

数年まえに急逝した別の異母姉のお墓参りを済ませ


実家で兄夫婦と歓談してから

豊橋駅西口のホテルにチェックイン

 

実は、前日の夜中にホテルを予約しておこうとネットで調べると

いまや需要なのか週末だからと普段6.7千円程度のホテルが

なんと20,000円前後

 

いまやそんな時代になっちゃったんですね~

(土曜は高いけど日曜は元の料金に戻るんですよ)

 

冗談じゃないと一時は帰省の日を変更しようかとも思ったのですが

週明けには重要なアポイントメント(銃所持許可更新手続きのガンロッカー検査)があって

先延ばしにしたくないなと思っていたため

いざとなったらネットカフェの鍵付き完全個室で泊まろうと覚悟していたところ

当日の夕方再度ネットで空室を調べてみたところ

古い馴染みのビジネスホテルが5,500円で再掲出していたため

すかさず予約してチェックイン

 

諦めずにいて良かった~と胸を撫で下ろしました。

 

その日の晩御飯は、久しぶりに菜飯田楽と思っていたのに

ついついいまや貴重な存在となった町中華へ

餃子に生ビール頼んで

天津麺で瓶ビールを何本か飲んで

お会計を頼んで10,000円札を渡すと

『オツリはいい?(いらない?)』と言われビックリ仰天

たぶん前回酔っぱらって

『釣りはいらねえよ!コロナで大変だったろうからとっときな』

と大盤振る舞いしちゃったんだろうなぁ

 

イヤ~、亡き母から『ウチの寅さんはいまごろどこで何してるんだろうねぇ』

と言ってたと、兄夫婦から何度も耳にして

すっかり寅さんになっちゃったみたい(笑)

 

しゃーないヤツと頭を搔きながらホテルに到着すると

その昔、何度も使わせてもらったラブホが

 

もうすっかり縁遠くなっちゃったなぁ と遠い目で眺め

小さなユニットバスに浸かってベットに倒れ込み爆睡

翌朝、牛丼屋で朝食をとり、両親の墓参りを済ませてから

お歳暮を注文し

豊橋っ子の台所、スーパーサンヨネで

生鮮食品(生鰹と生うなぎ)を買いたかったのに 何故か無し

仕方なく 赤味噌と他の魚介類をほんの少しだけ購入し

 

今夜はオデンだと早々に豊橋をあとにしたのですが・・・

先日蒲郡と三ケ日みかんが美味しくなったと聞いたのを思い出し

蒲郡に立ち寄って

ミカン組合自慢の”おでんば娘”を箱買い

糖度12度とうたってましたが

鹿児島や沖縄のタンカンの方が好きかも

そんなこんなで ログを調べてみると

走行距離は532.16キロ

たいした距離じゃないのに結構疲れちゃいました。。。

 

昔は、思いっきり遊びまくって日帰りするのが常識だったのになぁ

 

とりあえず懸案事項を片付けられてで一安心

 

12月18日

ガンロッカー検査を終え、トレイルカメラにあまり動きがみられなかったので

鹿肉を散布してみたところ

猫に狸が写りだし(集まりだし)思わずガッツポーズ

 

クリスマス頃に牝の猪が入ってくれますように

(牝は脂がのって焼肉でも美味しくいただけるんですよ)

 

さて、今年も残すところあと12日

相変わらずバタバタと落ち着きのない生活を送っておりますが

年内でも年明けでも

奈良にお越しいただければ

しっかりご接待させていただきますので

気軽に声かけてくださいね。

 

 

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"終活”渡航歴から我が人生を振り返る【その④2013年~2018年9月】

2023-08-02 17:48:21 | 日記

2012年12月

 

しつこくシンガポールに来てくれとの要望にしぶしぶ応じ

その会社を訪れてみたところ

 

準備万端で迎え入れられ

ドイツの会社で当時は世界トップシェアの製品

(IMO:国連世界海事機構によって義務付けられているエンジンの保護装置)

日本市場にも万単位のユーザーがいて

〇菱重工、川〇重工、〇井造船、〇立造船、(IH〇)J〇U、〇潟原動機、〇阪鉄工所、〇ンマー、阪〇内燃機

その他ほぼ日本の全てのエンジンメーカーに納入され

船の隻数にして数千隻に取り付けられているもので

その代理店を引き継いで欲しいとのこと

詳しく事情を聴くと

どうやら既存の日本の代理店がメーカーの言うことを聞かず

扱いに困って私に頼ってきた様子

ところがその代理店は素直に権利を渡すつもりはないらしく

どうにもひと悶着ありそうな予感

 

火中の栗を拾ってもいいものかと相当悩み

ウチみたいな弱小会社には荷が重いと断ったのに

 

平身低頭でそれこそ床に額を擦りつけるようにお願いされ

「じゃあ、とりあえずやってみるか」と引き受けたのですが・・・

 

ユーザーや顧客の大会社に「無理やり奪われた」とか「あんな小さな会社を相手にできますか」と

そこらじゅうでさんざん悪口を吹き込まれ

そのうえなかなか権利を手放そうとせず

抱えていた在庫を売り切ろうとユーザーも連絡もしてこない状況が続き

 

それならばとそれまでの海外での技術派遣で様子見していたところ

メーカーから仕入れることができなくなって

ようやくボチボチと引き合いを受けるようになったのですが

 

生き馬の目を抜くような業界のこと

機会を窺っていた競合が 

破格の値段でオファーするようになったのですが

 

ドイツのメーカー側は、製品の品質はウチが一番

だから一度取られてもいずれ戻ってくると高を括り

市場の動きを報告してたのに全く聞く耳を持たなかったため

 

前の代理店の嫌がらせもあって、シェアを競合にとってかわられ

それまで年間100台以上の販売があったのに

それ以降は、競合の機器が設置できないエンジンのみとなってしまい

年間わずか十数台にまで落ち込む始末

 

元々ドイツ製で価格も日本製よりも高かったのを

無理やりダンピングして販売していたこともあって

新製品の販売ではほとんど利益が得られなかったので

 

それならアフターサービスを充実しようと

造船所に入渠している間や、荷役で港に寄港している間に

その機器の保守整備を請け負うことに集中しようと方針を決めたのですが・・・

 

その間の渡航歴は

2012年

Philippineでの講師が7回

USA (Philadelphia)が4回

Mexicoでの乗船工事の後

12月2~6日 Singaporeで前述の商談

12月8~25日 Turkey、Istanbulの造船所

12月27~31日 Philippine、Subicの造船所で工事

2013年

1月22~27日 Philippine、Subicの造船所で工事

2月7~12日 Singaporeで船の事故調査

3月16~25日 Finland人とPhilippineへ市場調査

4月5~12日 Canada, Quebecで船の工事

4月28~31日 中国蛇口(深圳)の造船所で事故調査

5月3~11日 Panamaから乗船してColombiaで下船

5月19~24日 Singaporeで研修と打合せ

7月5~23日 Panamaから乗船してUS テキサスで下船

8月 NYから乗船してPanama運河を通過して下船(乗船調査工事)

9月4~7日 韓国 巨済島で海上試運転立ち合い

10月1~10日 家内を連れて欧州4ケ国訪問

11月12~12月2日 US Philadelphiaの造船所で仕事

12月15~20日 韓国の造船所で試運転立ち合い

(この年は日本国内も会社訪問などで出張の連続でした)

2014年

1月13~18日 Russia Vladivostokの親友に会いに

2月10~13日 Singaporeで打合せ

3月18~21日 Singapore 海事博覧会に招待され訪問

 

この四半期だけで機器の整備で岩国、富士、千葉、横浜x3、田原、米子、敦賀、博多に出張

年明けになっていよいよそのドイツ製品の仕事が増えだして

出稼ぎもしていられないなとわかり 

1月6日にハローワークで事務員の求人を出し応募してきた中で

ハローワークを介さずに直接履歴書を送ってきてちょっとおかしいなと思いつつ

英語力もそこそこありそうで使えそうかなと選んだ人間が  

実はパートタイムの現職を持っていたため

ウチで勤務できると言う4月1日まで待つことにしたのですが

 

3月には実はもう多忙を極めるようになっていたので

要望どおりに採用辞令から就業規則その他もろもろの書類を渡していたのに

その後何の連絡もしてこず大丈夫かな?と心配になりメールを送ってみると 

しばらくしてようやく返信

 

そうしてようやく4月1日から事務員を正社員として雇い

極力海外出張を減らして新規事業に取り組むこととなり

4月以降は

因島、豊橋、高石、東京(海事博覧会)、泉大津、尾道、横浜、尾道、八幡浜

泉大津、水島、横浜、今治、敦賀、博多、呉、因島、呉、横浜、横浜、水島、

柳井、横浜、横浜、東京、四日市、知多、横浜、相生、明石、焼津、太田、

神戸、玉野、有明と国内を飛び回り

 

海外は

6月にSingaporeで打合せ5日

8月がPhilippineでの講師15日

9月にはドイツでの海事博覧会とスイス訪問で9日

11月にまたまたSingaporeで打合せ5日

と国内と海外が逆転した日々を送ることとなりました。

 

新しく我が社のスタッフとなった事務員は

高校を卒業してからワーキングホリデーでNZに数か月滞在した後は

保険の外交員や人材派遣で工業系の会社で事務補助をしていたものの

42歳になるまでずっと社会経験は契約かパートタイムのみ

 

そこそこ最低基準の仕事はしてくれたものの

意識は長年のパートタイムで培われた精神(?)が染みつき

朝は9時ギリギリまで駐車場の車の中でテレビを観てから事務所に走り込み

お昼は12時前からランチの準備をして13時のチャイムがなるまで休憩室から出てこず

退社時間にはその前から準備をして18時ピッタリにタイムカードを押しての”ベルさっさ”

小学生と中学生の子供がいたため三者面談等で中抜けが日常茶飯事で

子供がインフルエンザに罹ったら看病だと何日もお休み

 

それらの中抜け時間を有給休暇から合算した時間を差し引くと

雇用条件に「育児支援制度あり」とあったと主張するわ

(どうやら育児支援とは有給で好きなだけ休んでもいいと思い込んでた様子

 

なにか仕事でミスをすると

自分は指示されていないと責任逃れの言い訳だらけ

 

そのうえ、そそっかしい性格で

ミスや無駄な注文で事務所経費も嵩むばかり

 

こちらが出張して不在になると電話を転送に切り替えて

無断外出や中抜け時間を申告せずに延長

 

たまに仕事のキリが悪く10分、15分残業しただけなのに

時間外を要求するなどビックリすることだらけ

 

なんせ奈良は大阪のベッドタウンで優秀な人材は都会に出る土地のこと

 

仲良しの知人にそんな愚痴をこぼすと

『ワンマンなあなたの下で働いてくれてるんだからある程度我慢しなきゃ

と言われ そうなのかなぁ と溜息をつきながら雇っていたのですが

 

たまに飲みにケーション代わりにとランチに誘い

雑談をしてみると

入社前の面談では『正社員になりたくて応募した』と言ってたのに

『3年以上同じところで働いたことがないし長年働きたくない』

『過去の職場とは一切連絡を取らないしそのたびに連絡の来ないように携帯を変える』

などなど耳を疑うようなことばかり

 

英語力も見積もりを依頼したりと基本的なコレポンはできるものの

渉外的な会話は勿論英文にすることもできず

「私にはそんな能力ありません。社長がしてください」と拒絶され

 

仕事のミスを注意すると目を三角にして反論してくる始末

これは大変な人間を雇ってしまったなぁ。。。と後悔してたのですが

 

エクセルが得意だというので

手取り足取りで業務のマニュアルや

受注や在庫管理などなどデータベースでの情報の共有ファイルを作らせ

 

仕事もそれなりに安定して順調に会社経営ができるようになったなと

友人の奥さんが中東系の航空会社で働いていて 

格安で航空券が買えるよと言ってくれていたので

久しぶりにタンザニアとイランの友人を訪ねようと

2018年1月の末にビザ申請のために大阪に出て帰社してみると

 

突然「今年度末で退職させてもらえますか」と言われビックリ仰天

「これまで3年以上同じ仕事をしたことないのに4年もいたんですよ」

と恩着せがましくのたまう始末

 

タンザニアとイランに行く気満々だったので二の句が継げず

「ちょっと待って」と答えてから自室に戻り

冷静になって考えてみると

『一度退職する気になってたらもう継続は無理だな』

『どうやって辞めてもらおうかと思ってたんだから良かったんじゃない』と思い直し

 

「年度末と言わず来月の2月末でいいですよ」と伝え

「日常業務はもうしなくていいから、自分がしてきた業務のマニュアルを作ってください」と指示して

求人のためにハローワークへ走りました。

 

この彼女、退職したあとでパソコンのデータを調べてみると

どうやら仕事をサボりながら次の仕事を探したり

次の仕事の勉強をしたり 履歴書用の画像をとったり 家族の動画を編集したり

好き勝手していたのがわかり

その上、何の目的だったのかどうやらオフィス内に盗聴器を仕掛けていた様子

 

こんな人間を長年雇ってたとは

辞めてくれて良かった~ と胸を撫で下ろしました。

 

 

その後、ハローワークの担当者から何度かの電話での問い合わせと

履歴書が送られてきて、何人かと面談をしたものの

苦い前例を思い出して安易に雇ってはダメと

 

とりあえず英文科卒の人にパートタイムでお願いして

4月にまた東京で海事博覧会があって出展する準備をしていたこともあって

適性のある人材がいないかと探し続けていたところ

 

年齢30代後半、生まれは瀬戸内で父親が国内フェリーの船長

本人も小型船舶1級を持っている既婚者で

それまで県庁で部長秘書をしていたとの経歴から

船の事や海運業界のことも知ってるなら適任かもと

英語はフォーマットをつくってこちらがサポートしたらなんとかなるだろ 

と とりあえず試用期間付きで採用したのですが

 

人格は癒し系で良かったものの

事務処理能力はほとんどゼロ

 

指示した仕事は内容が理解できないのか手を付けることもできず

いつまでたってもやり遂げられず

「できないならできないと言ってね」と諭しても同じことの繰り返し

 

『これはどう考えても無理だな』と悟り

「ウチの仕事をしてもらうのは無理だと思う」と伝えると素直に納得

 

またまたハローワークに走り

求人をお願いしたものの

 

『奈良でいい人材なんかいないかも』と半ば諦めの気持ちが勝ってしまいました。

 

運が良かったのか

1月からそれまでの間は

 

2月に常石x2のみ(タンザニアとイラン行を計画していたため)

3月がVienam経由でSingaporeの海事博覧会と尾道、焼津

4月に神戸、東京(海事博覧会)、知多、富士

 

5月 常石、横浜本牧、富士、東京、太田、常石、尾道、水島

6月 Philippine4日、富士

7月横浜本牧、RotterdamからScotland、富士

 

8月 横浜本牧x2

 

と出張する用事が少なくなっていたため求人にも注視できたのですが

 

ドイツ人と結婚し欧州で暮らしていた離婚歴のある女性からの応募があり

ドイツ語もできるし英語も堪能、ヨーロッパ人に慣れてるしこれは適材かもと思いつつ

シングルマザーだと責任が重いなと悩んでいたところ

 

近隣に住む英語が堪能な既婚者で性格のとても良さそうな人がみつかり

 

『よし、彼女に決めよう』

『もしもダメだったら還暦になったことだし、業務をどこかに移譲して会社をたたもう』

と開き直り

 

実は彼女の雇い入れ日である9月1日から

子供の頃から厳しくあたってしまったこともあって疎遠になっていた次男を

家族の中では最後となった欧州への9日間の旅に誘っていたため

 

せめて基本的なブリーフィングしておこうと

8月30日から出勤して欲しいとお願いすると快諾してくれ

 

「何かあったらいつでも電話でもメールでもくださいね」

とお願いして欧州に向けて飛び立ち

 

会社のことも心配で何度か電話をかけては様子伺いして

予定の9日目に帰国して出社したところ

 

しっかりと業務を教えていないしとりあえずメール&電話番してくれてたら十分と思っていたのに

過去のファイルやメールのほぼ全てを読み込んで学習し

すっかり理解していてビックリ仰天

 

 

彼女こそ、我が社設立以来の最高の幸運の女神だったのでした

 

 

【その⑤に続く】

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”終活”渡航歴から我が人生を振り返る【その③2005年~2012年】

2023-07-12 17:17:12 | 日記

〔いつものことですが、備忘録と知人友人へのお知らせ代わりの記事ですので

私個人を知らない方々にとっては何も面白くないのでスルーしてくださいね

 

さて、前号からの続き

自称”経営コンサルタント”の資格もあると言う

なんの実績もないペテン師の後輩の言葉を

疑いもせずに信じてしまったのが大失敗の元

 

当初、古都”奈良”を訪れる観光客(主に外国人をターゲット)にして

オフィスを置いていた奈良公園の入り口のビルの10坪ほどの一室で

アムステルダムのような店で開業しようと思っていたのに

 

『2階は入りにくいから1階』だの

『ゆったりした席で滞在時間が長くなるようにしないと』と言い出し

 

どんどん事業規模が大きくなって

テナントビル一階全フロアを使いパーテーションで区切り

インターネットだけじゃなく寛げるカフェスペースもつくって

外国人観光客の情報交換の場所にもなれたらいいなぁと夢はひろがり

 

 

すっかり採算度外視してしまい

テナントの保証金に改装費、パソコン代等々で数千万円の投資

 

 

ところが満を持して開業してみると

観光地なので長居する客はおらず、下手に英語表示の多い雰囲気から客が近寄らず

更に奈良公園は夜の7時過ぎには人っ子一人歩かない場所

 

その上、アルバイトに雇った従業員は

不良高校生、遅刻や無断欠勤だらけの大学生だらけ

シフトを組んでも時間を守らず

 

仕方なく自分がヘルプで入るしかなくなって

年中無休で睡眠不足、食事を抜く生活が続き

体重はあっと言う間に15キロ減

 

ただ、外国人観光客にはとても喜んでいただいて

奈良ホテルのレセプションで紹介されたとセレブなお客が

滞在中毎日来店して『来年もまた来るからね』と言っていただいたり

 

英語で応対するだけで『英語が通じなくて困ってたから助かった~』と大喜びしてくれたり

それなりに嬉しい出来事もあったのですが・・・

日本人の常連と言ったら

ネットを使った売春グループの親玉とその売り子達

(根城にされては堪らないなと公安に通報しました)

 

ネットで出会いを求めてるらしき高齢者のおじさん

いつもウキウキしながら近鉄奈良駅へ行き

ショボンとしながら戻ってきてスタッフに要らなくなったからと

たぶん目印に使った赤い薔薇の花を渡して帰る姿が可哀相でした

 

その他にもたぶんセールスマンの方の休憩や仮眠にも利用していただいたりと

いろんな人生模様を見ることができたのですが

 

いかんせん、なんせカフェで1時間350円ドリンクバー付き

ネットブースでも500円/時

当初は24時間営業でと考えそこそこの需要が見込めるかもと思っていたのが

夜はほとんど人気のなくなる奈良公園では到底無理とわかり

日中だけとしたため

 

負のスパイラルに入ってしまったと自覚しながらも

数千万円の投資のことを考えると閉業する決心がつかず

 

近くの県庁や公的機関の職員目当てにランチを出したり

夏の奈良公園のイベント(燈花会、万灯会など)に合わせて

Jazzコンサートを開催したりと足掻いたものの

一日の売り上げは人件費はおろか電気代も出ない状況が続き

経営コンサルタントを自称していた後輩は

早々に逃げ出して音信不通

 

この頃、夢の中ではたぶん願望だったんでしょうか開業する前にタイムスリップしていて

『テナントの保証金は戻ってこないかもしれないけど、やっぱりネットカフェは諦めよう

とホッと胸を撫で下ろすのですが、目が覚めると厳しい現実

 

この夢と現実のギャップはまさしく天国から地獄でしたねぇ。

 

秋になり、これはもう無理だな と悟り

開業準備から約1年後、12月で閉店してオフィスも引き上げ

家族が所有していながら空室にしていたマンションの一室に移ることにしたのですが

 

この時には国民金融公庫から追加融資を受け

クレジットカードからのキャッシングにまで手を出し

自転車操業も末期状態

 

閉店した途端にそれまで仏顔でいた南都銀行と

パソコンをリースにした南都系会社から貸し剥がしで一括返済しろと矢の催促

 

二束三文で売ったパソコンの下取り金を回しても足りず

生命保険で弁済できるならと

冗談抜きで真剣に枝ぶりの良い木がないかと探す心境にもなり

まさしく更に地獄の日々を送ることとなりました。

 

そんな泣き言と恨み節を滔々と並べてしまいましたが

全ては己のなしたこと

しっかりと石橋を叩く慎重さに欠け、事前調査もせずに突っ走ってしまったのか

 

魔が差したというのか、そんなめぐり合わせだったのか

高い授業料を払うこととなりましたが

 

いまから考えると全て身から出た錆

とっても貴重な人生勉強になりました。

 

事業の方はと言うと

その約1年間、ネットカフェにすっかり振り回されて

本業だったロシア向け輸出入業務の対応を疎かにしてしまい

友人だった取引先も他の購買ルートを確立していて

 

技術系の海外派遣の依頼してくれていた香港の友人は帰国して管理職となり

時々依頼の連絡があったもののネットカフェに忙殺されて断り続けていたため

音信不通となってしまい

 

彼らに今更また取引きさせて欲しいなどと言えるはずもなく

移転したマンションの一室で悶々とした日々を過ごしていたところ

 

元の職場の上司で東京に転勤となってからも

ちょくちょくご機嫌伺いの電話を架けてきていた人物から

 

『最近どうしてるの?』と尋ねられ

つい、ネットカフェ事業に失敗して大変なことになったと伝えると

 

当時、極東ロシアに目が向けられていた時期で

「そしたら初期費用は出すからウラジオストクに店出してくれたら特約店で頼むんだけどどう?」

と言われ

 

ネットカフェで失敗した経験から安易に飛びついては危ないなと

「それなら、一度現地に行って商売が成り立つか市場調査してきます」

と現地に飛び

オフィスに使えそうな物件探しに

諸々の事務所経費を調べ可能性を探ってみたところ

どうにも難しいことがわかり

 

仮想のバランスシートを作ってその報告をしたところ

「それじゃあロシアの話は置いといて韓国の話どお?」と切り出され

 

実は、ロシアの話の前にその韓国駐在の話を聞いていたものの

1995年頃毎月のように韓国出張で訪れていて

あの国の国民性や文化習慣がどうにも肌に合わず

その気になれず断っていたのですが

 

負債のことを考えたら選択の余地なしかな と

渋々了承し

 

詳しく内容を聞くと

また造船ブームが始まり年間150隻前後の新造船へのエンジン搭載が予定されていて

それらの船へのコミッショニング(試運転立ち合い)のニーズがあるものの

既存のサービス代理店がその必要性(サービスエンジニア育成)を理解せず

既得権益を手放さず困っているんだとか

 

その裏には、韓国で全ての権利を持っていた大手販売代理店を退職した人物によって

それらの大型受注(エンジン台数にして年間450台前後販売)を獲得したらしく

その人物が会社を設立して表立っては代理店と言えないものの

(既存の代理店が許すはずがないので)

いずれ販売もアフターサービスも自社に取り込みたいとの思惑があってのこと

 

そんなこんなで2006年3月から駐在となったのですが・・・

 

裏切りや人を騙したり蹴落としたりが普通に行われるお国柄

その上、虚言や嘘だらけで信用ができず

現地の代理店は他人の気持ちを慮る配慮などゼロで

毎日のように韓国中の造船所を訪れて汗だくになっての現場仕事をしてるのに

小汚いモーテル住まいでいいだろうと言い出す始末

 

古い昔風のシクタン(食堂)には気の良い優しいアジュマ(オバチャン)もいたけど

怒鳴るような話し声に演歌なのかなんなのか街中は喧噪そのもので

どこもかしこもガチャガチャとうるさくて精神的に苦痛となって

一か月滞在するのはほぼ無理とわかり

 

1週間から2週間過ごしては日本に帰るパターンを繰り返してました。

そんな訳で2006年9ヵ月間に14回の出入国記録が物語ってるでしょ。

 

その後、一社で独占させると好き放題するのがわかったため

別の技術者を抱えている業者を加え4社で競争させ

エンジニアも8名ほどをOJTで鍛え上げ

 

日本で長年働いていて日本との繋がりの深い会社の社長に

携帯電話やアパートも借りてもらって生活面は快適になってきたのですが

 

欲深い代理店が、もう自社のエンジニアで対処できると言い出し

 

こちらも初年度の2006年から平行して従事していたアメリカの造船所の仕事や

その他の仕事も忙しくなり韓国は駐在から出張になって実はホッと一息

この間に、本業のひとつでありながらなかなか買い手のつかなかった

フィンランド製品が造船ブームに乗って売れ出し

 

合計で数億円の販売を達成

 

おかげで借金もわずか数年にしてほぼ完済

 

韓国駐在が決まった時にネットカフェに失敗して維持費さえきつくなって

Chryslerの自家用車を売り飛ばしていたのですが

Mini Cooper S Convertible(450万円)をキャッシュで購入し

国内の造船所にもフィンランド製品を定期販売するようになって

「ウチは、この製品は〇〇〇さんだけですから」と言われ

出稼ぎに行く必要はなくなったのですが

 

その機械の据付確認や試運転の立会いが条件だったため

毎月のように青森へ出張に行かなければならなくなり

とりあえずオフィス要員と技術系社員を増やして対応し

安泰になるかと思っていた矢先

 

ウチからしか買わないと言っていた客先の造船所が

舌の根の乾かぬ内にゴルフや飲食の接待で攻めてきた他社に乗り換え

折角雇った社員の食い扶持を賄うのも大変になってしまい

 

仕方なくまたまた出稼ぎを請け負うようになったのが2009年秋

とても短い”我が世の春”でした

 

一人の稼ぎで会社経費から社員の給与まではキツイなと

社員も技術系の仕事ができるようにと研修を受講させ

OJTを通じて育てていこうと思っていた矢先

研修先の会社が「〇〇君をウチに欲しいんだけどなぁ」と言い出し

手放すように困らせてやろうと思ったのか彼の仕事はくれず

赤字続きの窮地から脱出できず

 

更に、2011年1月その社員から『3月に結婚するので仲人をお願いします』と告げられ

嬉しいやら困ったやら

そうこうして新しい事業を模索していたところ

突然、中華系マレーシア人でオーストラリアに移住した人物から連絡が入り

燃料の不純物を分解する装置を日本で売り込んで欲しいとの話

【ちょっとそこまで】【シャンガンそぞろ歩き】

 

中国の広州へ呼ばれ工場を視察後

実際に売れるモノなのかなぁ?と調べながらも出稼ぎ仕事をこなし

アメリカの造船所の仕事から戻った翌日の3月11日

【仕事場】【伝言板】【The Navy Yard】【Philly】

 

あの東日本大震災が発生して呆然自失

 

いますぐにでも現地へ支援に行けないかと考えるようになり

仕事が手につかなくなり

 

もうすぐ結婚する社員の事を考えたら

安定した生活が送れるように大きな会社に転職させるべきだろうと本人を説得し

彼を欲しがっていた相手先に電話して4月から雇ってくれと了解をとりつけ

結婚式後に彼を送り出したのですが・・・

大震災が関係していたのかいなかったのか

海外への出稼ぎ仕事もほとんどなくなってしまったのか

 

その会社がフィリピンに船員向け技術訓練センターを開設し

その講師にと元その会社の設計部の部長で

退職後、定年延長の仕事に嫌気をさしてすぐに辞め

すっかり引退して土いじりするつもりでいた人物が

私の在職時代大の仲良しだったからと

先に韓国での技術相談役に誘って欲しいと頼まれ

本人も請われている仕事であればと了承して

我が社に登録して人材派遣として

韓国の後にフィリピンで仕事することになっていたのですが

 

丸一日英語を使い5日と10日のコースをする自信がないので

代わりに講師をして欲しいと助けを求められたものの

 

定年退職者で年金の受給条件もあって日給2万円で企画してるため

派遣元からそれ以上は払えないと言い出す始末。

 

更に、研修センターを作ったものの

当初はなかなか受講生が集まらず

月に10日しか依頼がないこともあるのに

 

他の仕事を頼んでいる時に研修の依頼が入るかもと

他の仕事をまわしてこずに平気

 

日給2万円といってもホテル代以外は自己負担

”開いた口が塞がらない”でしたねぇ

 

挙句、金太郎飴のコースを見聞きして慣れさせた現地スタッフに

今後は講師させるからと言い出す始末

【酔っ払いの戯言】 【Pinoy’sFast Food】【CHIRO】【サリサリでハロハロな国へ】【受け取れる訳ない】

 

 

この会社

韓国もアメリカもこのフィリピンも

結局いつも困った時だけ呼び出して苦労して築き上げた手法を盗み

用が無くなったらポイ捨て

 

それならこちらももう義理を感じる必要はないな

 

2012年に入って旧知の知り合いに相談したところ

紹介してくれたのが”BNWAS"という

国連の世界海事機構で定められた”航海当直居眠り防止装置”を取り付ける仕事

 

日本の国内メーカーからの請負で

国内の造船所、フィリピンの造船所、国内の岸壁に

パナマやメキシコから船に乗船したり、カナダのケベック州などでの工事

【我が愛しのMexico】【出稼ぎ紀行 Latin America】【フレンチ漬け】

 

なかなか単独で行ける日本人がいないため来た仕事でしたが

そこそこ面白かったですねぇ

 

そんな生活を送っていた2012年後半シンガポールから電話があり

相談したいことがあるからシンガポールまで来てくれとのお願い

 

でも費用はそちら持ちでと言われ

『ふざけたこと言ってんじゃないヨ』と思いながら

「忙しいからまたそのうちに」といなしていたのですが

 

何度も何度も電話で催促され

『仕方ないヤツだなぁ』と嫌々シンガポールに向かったところ

思いもかけない転機に恵まれたのでした。

【G.W返上】

 

 

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”終活”渡航歴から我が人生を振り返る。【その②1997年下半期~2004年10月】

2023-06-29 15:38:51 | 日記

【①からの続き】

改めて西暦で時系列でご説明すると

練習船で初めてアメリカ、トンガ、ニュージーランド、中国を訪問したのが1979年

その後商船学校を卒業して外資系船会社に就職しオーストラリア西海岸に行ったのが1980年

(若干22歳、鉱石船でオーストラリアの北西部にあるDampierという塩田への航路で

フィリピン人船員達とクリスマスパーティーをした時の写真)

 

 

船会社を離職して青年海外協力隊でトンガで活動したのが1982年1月~1986年8月末

国際協力事業団の内勤を経てフィリピンに赴任したのが1987年

(若干30歳国立航海訓練所Project Coordinator時代)

帰国したのが1989年12月末

パイロットになるのを断念したのが1990年1月

1990年3月に第一子が生まれ

外務省(実際にはJICAの下請け)財団法人の職員となったのが同年5月

肺に腫瘍ができて入院したのが1992年6月

退職したのが1992年12月10日

船舶士となろうと乗船履歴をつけるために船に乗り込んだのが同月18日

契約期間を終えて船から降りたのが1993年7月29日

アルバイトで船の修理を頼まれてトンガ王国へ8月2日~20日

苦難の求職時代1993年9月~1994年7月

遺跡発掘とシャープで日給月給生活

そのほかに日雇い契約で

1月末にフィリピン約10日間

2月は約一月インドネシア

4月はシンガポール・台湾・香港を渡り歩き

5月にまたまたインドネシア10日

6月から7月にかけて香港と中国広州に約1月

 

この頃の中国広州

香港の九龍から広州行の国際電車(九広鉄道)があり1日になんと2本のみ

 

人民服を着た車掌と車内販売の売り子がいて

座席には白いカバーが被せてあってレトロそのもの

 

広州駅に到着して駅舎を出ると

香港からの客を目当てに集まった乞食だらけ

 

広い駅前広場を抜けてタクシー乗り場まで体中にぶら下がられて

タクシーに乗り込んでも手を扉の中に入れてるから閉められず

 

同行してくれていた香港人が制止してなんとか造船所の宿に向かうのですが

ホテル(酒店)はなく山荘という名称の

造船所所有の外国人向けゲストハウス

 

ところが調度品はボロボロで温水はでないし

夜中に公安(当時の警察)が突然ドアをノックして部屋の巡検

 

商売女を連れ込んでたらワイロをせしめてやろうと

山荘のレセプションと結託しているらしく

どうやら他の客が連れ込んだ様子

 

その周辺にはタクシーなんてないため

毎日片道数キロの道をトボトボと歩いて造船所を往復しなければならず

その上山荘の飯は不味いからと朝食も夕食も町の食堂に行っていたため

毎日クタクタのヘトヘト

 

昼食は造船所内の施設で食べるのですが

これがまた汚くて中華らしく油まみれの料理だけ

 

造船所もデタラメでいつ工事が終わるか予想もつかず

工事が止る度に香港に逃げ帰っていたのですが

 

香港人が同行してくれたのは最初と二回目の時だけで

あとはたったひとりっきりでの香港との往復

 

ある日、午前中で仕事がしばらくできない事がわかったものの

広州から香港行の電車はもうないと言われ

山荘からタクシーで広州東駅に向かい

深圳から国境越えをしようと電車の切符を買おうとすると

 

突然英語を話す人物が現れて

「今日の深圳行はもうありませんよ」

「明日の電車に乗ったらいいから、荷物は私のオフィスに置いてください」

と半ば強引にカバンを持とうとするのを遮り

 

「自分で確かめるからかまうな!」とカバンを引き戻して

切符売り場で筆談で深圳までと告げると

なんと電車があるのがわかり

 

なんとか深圳まで行って歩いて国境越えして

地下鉄で香港島の定宿に行ったこともありました。

 

あと、急に造船所から工事を再開するから来てくれと連絡があって

九広鉄道がもうない時刻だったので

尖沙咀から高速船で太平(タイピン)まで行って

そこからタクシーに乗ったんだけど

まだ高速道路もない時代のことで

 

広州までは遠距離だからと途中で降ろされて

客を乗せるバイクを乗り継いで広州まで行ったこともあったなぁ

 

まだまだ信じられないような経験をしたのですが

それはまたの機会にして

 

7月に請われて某社に中途採用

 

ところがその会社

親会社はそこそこ世間に名の知れた機械製造メーカー

入社したのはそこの子会社で販売した機械のアフターサービスと

その機械の周辺機器を製造したり親会社からパッケージで販売する会社で

 

国外事業はその頃ようやく輸入ができるようになって造船が始まったばかりの韓国と

漁船でそこそこアフターサービスの需要があった台湾程度

どちらも日本語が通じる世界

 

社員の海外出張と言ったら、せいぜいその二か国へ

出張にかこつけて妓生遊びかゴルフに行くくらい

 

なんせまともに英語で外国人と交渉もできない社員しかおらず

その他の国々との商売は全て商社任せ

 

まれに来る海外顧客からのFAXでの問合せには

親会社のOBをアルバイトで雇って翻訳スタッフを介してとなるため

回答までヘタしたら1週間

 

そんな状態のところに私が入社しては

FAXは受け取ったその場で上司の許可を得て回答をタイピングしてFAXで返信

 

更に補足説明にと直接電話していたため

海外の顧客から大喜びされ 仕事量も激増して処理できるようになったのですが

当時の課長から言われたのが

「〇〇ちゃんが来てから、電話代が予算の数十倍になっちゃったよ

まあ、あの言葉にはビックリしましたねぇ

 

くだらん予算と実益とどっちが大事やねん! って感じ

 

でもそのかいあって親会社にも名前が伝わり

韓国・中国の造船所での設計打合せには同行してくれと頼まれるようになり

その後は渡航先にロシアが加わり

オーストラリアにフィリピン、スペイン、南米に拡大し

(アルゼンチン、ブエノスアイレスのタンゴで有名なボカ地区にある機械整備工場を視察した時)

 

北米から南米、古巣の南太平洋に欧州、中近東まで進出

(米国オレゴン州ポートランドの船会社を訪問)

この南米をまわっていた時に

新たに顧客開拓したアルゼンチンへ行くついでに

隣国のウルグアイにも行ってみようとスケベ根性を出したのが運命の分かれ目

ギリシャ系の造船所が存在することを知って訪問し

たぶん所長と名刺交換して顔合わせするだけだろうと思っていたら

(ウルグアイ、モンテビデオの造船所にて)

後日、ギリシャの本社から突然の電話があり

 

聞いてみると

所有船の一隻の発電機が致命的な故障で動かなくなり

とりあえずパッケージジェネレーターをレンタルしてたものの

中古でもいいから同じサイズの発電機がないか との問合せ

 

これがまた運命なんだったんでしょうか

その半年前に、香港の大船会社から同じ引き合いがあって

中古の大型発電機を整備したものの

 

引き渡す寸前になって船を売却してしまい

要らなくなったからと違約金を受け取り、とりあえず保管していた不良在庫があり

 

即決で数千万円の発電機を輸出したのですが

 

ギリシャの会社がその対応に大喜びして

所有船(その当時で数十隻、現在は98隻所有)には

沢山貴社の会社のエンジンがあるのに

商社経由でしか買えずにとっても不満に思ってたから

これからは直接取引させて欲しいとの申し出

更にはギリシャに駐在事務所を開いてくれとの強烈な要望

 

大型商船には発電機が3台搭載されていて

年間の保守のための部品代だけで当時にして数百万円/隻

 

欧米は、オランダに親会社直轄の支社があって

部品もそこのテリトリーだったので

子会社としてはアンタッチャブルの市場だったのですが

 

周期的に盛況となる造船ブームが過ぎ

造船不況となって売上げが下がって困っていた親会社の営業にとっては

不況になると買い叩いて船を造るギリシャは喉から手が出るほど関係を持ちたい国

 

強烈な個性の持ち主だった輸出向け営業部門の部長が率先して

子会社のギリシャ事務所開設に動き出したのですが

 

社内では

『金払いの悪いことで有名なギリシャなんか相手にしたらダメだろ』とか

『大手の商社もギリシャから撤退してるのに何考えてるんだ』と罵倒され

 

親会社の顔色を窺うだけの子飼い体質に満足して

何の努力もしようとしない連中を相手にするのも嫌気がさしていたところに

 

それまでの主業務だった関連機器の販売が

時代の変化で需要がなくなり

更には前前任の管理職が下請けを無視して海外製品のOEM化を図ったものの

顧客の海外造船所はOEMのメーカーから直接購入するようになり

売り上げが激減

 

その落ち込みを取り戻そうと海外市場への拡販を狙って

北米も市場開拓にカナダから西海岸、東海岸、バハマ諸島まで

 

渡航歴のデータを見ながら1998年がピークだったんだと再認識

 

実は、この頃

会社全般も不景気になって売り上げも下方修正する中

経営陣も加わっての部課長会議で

『国内市場は頭打ちだけど、海外市場には無尽蔵の可能性がある』とか

上層部から訳のわからないことを言い出され

国内部署は下方修正しておいて、ウチの課はマイナス分を全て上乗せ

 

それまで以上に身体に鞭うって真冬の極寒のロシアは翌週には真夏の南太平洋

戻ってまたまたロシアへ飛ぶなど、世界中を飛び回ることとなりました。

(1998年までの記録が東奔西走していた頃の様子を物語ってます。。。)

1999年にはいってすぐ

そんな無理が祟ったのと

上場しない親族企業であることを悪用し裏金作りに奔走し

上役への賄賂やゴマすりだけでのし上がった

軽蔑にしか値しない同僚管理職との人間関係が悪化してたからか

 

突然不整脈が出て検査のために緊急入院

カテーテル検査の結果、ストレスによる異形狭心症と診断され

ニトログリセリンを常用しなければならなくなり

 

こんな状態で人生を終えたくないなとの思いが強くなり

ロシアに出張して仲良しの顧客と話していたところ

「独立して起業したら輸出入でサポートするよ」とのありがたいお言葉

 

早々に辞表を持って上司に出したところ

慰留されて受理されず、なのにノルマは嵩上げされるばかり

 

もう退職する決意は動かない状態だったので

1が並ぶ平成11年11月11日に

とりあえず会社を設立してしまえと登記を済ませ

退職したら開業しようとしていたのですが

 

12月末になっても年度末までと引き延ばされ

年度末になってもアレコレと言い訳をしてるので

4月末にとうとう堪忍袋の緒も切れて退職

 

そうして

2000年5月1日 近鉄奈良駅前の商工会議所と裁判所の間にあった

テナントビルの一室を借り

42歳にしてようやく会社経営の身となりました。

 

でも実は、蓄えも資金もない状態での起業

 

国民金融公庫から企業向け資金として300万円を借り入れ

オフィスのテナント料(保証金や敷金)から事務用品にOA機器を購入し

残り少ない予算を運転資金にしていたのですが

当初は、ロシア向けの貿易会社として

主に船舶向けの機器の輸出販売を生業にしようと考えていたものの

 

とりあえず古巣のトンガやフィリピンとも商売ができればと

現地に赴いてあれこれ可能性を探ってみたのですが

 

当時は所詮発展途上国

日本製品を購買できるだけの客先もみつからず

さてどうしようかと考えていた時

 

前職に中途採用されるキッカケとなった友人で元同僚が

香港に駐在事務所を作って赴任していたのもあって

またアルバイトで契約技師として在外の仕事を請け負ったら?との誘いを断れず

 

香港、ベトナム、中国広州周辺に出稼ぎに出たり

アフリカタンザニアでのODA専門家派遣を請け負い

オフィスよりも出張の方が多い初年度となってしまいました。

 

その後、ロシアとの商売を始める準備にと

ウラジオストクの友人に依頼して国立極東大学卒で

日本語を専攻していた女性を秘書に雇うことにして

社宅を準備して富山の伏木港に到着する客船に出迎えに行き

パソコンも使えない彼女にタイピング練習ソフトを渡して

試用期間の社員として働き始めてくれたのですが・・・

 

いかんせん、日本語は漢字も書けるほど優秀だったのですが

英語はダメ、またロシア人でもロシア語の船や機械の単語を知らず

残念ながら役立たず

 

ロシアの友人からは秘書を紹介した手前もあってか

さまざまな機械部品の注文をしてくれていたのですが

結局見積もり、納品書、輸出関係から請求書まで書類づくりから

手配も全て自分ですることとなってしまい

 

彼女の仕事はロシアからかかってくる電話番程度

 

おまけに恋人のロシア人船員との連絡がとれないと精神的に不安定になり

仕事も手につかない状態が続き

約半年で「ロシアで暮らしていた方がいいよ」と勧めて帰国させ

 

ロシアに飛んで代わりの人材として

英語が堪能な女性を紹介してもらい

再び試用期間として受け入れたのですが・・・

 

頼んだ仕事(書類つくり等)はテキパキとこなすし

そこそこ優秀かな?と思っていたのですが

 

最初の3月の滞在中、ほぼ毎週末観光に明け暮れ

それでもなんとか使えるならいいかと就労ビザをとって

一時帰国させたところ

「体調が優れないので日本にはもう戻らない」との連絡があったきり

 

どうやら元々日本へは観光目的で長期で働く気はなかった様子

 

仕方ないなと彼女に任せていた書類を調べながら

またひとりで仕事を処理していたところ

 

ミスなのかなんなのか金額計算から記載も間違いだらけ

 

半ば呆れながらも、帰ってきてくれなくて良かった

とホッとしながら

 

香港の友人からは相変わらず技師としての依頼があったり

タンザニアで知り合った現地の造船の専門家から

政府(大統領執務室)経由で小型船の機器の注文が入ったり

トンガの友人からバニラの輸入販売をしないかと誘いがあったりと

安定した収入源を未だ確保できないものの

そこそこ面白おかしく過ごしていたのですが

 

それまで取引銀行を大手の三和(その後三菱)、住友にして

円貨、米貨、マルクなどの口座を開いていたのを

地元奈良の南都銀行にも口座と開設しようと本店を訪れたのが運の尽き

 

開業から4年目の2004年

国民生活金融公庫からの少額の借り入れもほぼ順調に返済し

無借金経営の面白そうな企業だと思われたのか

企業融資の担当者から「融資しますから事業を拡大しませんか」とのお誘い

 

大阪のロシア料理レストランで紹介してもらった

日本人と結婚して大阪在住のロシア人女性を秘書に雇い

ロシア向けの輸出も安定して海外へ出稼ぎに行く必要もなくなり

穏やかな日々を過ごしていたのに

波乱万丈の人生を送ってきた身としては退屈に感じていたところだったので

 

『借りてくれって言われるなら、何かしようかな?』と

思案しながら過ごしていたのところ

ロシアの最大顧客で大親友からドイツの博覧会に行こうと誘われて

ハンブルグとアムステルダムを訪れた時に

インターネットカフェが大繁盛をしているのを発見

アムステルダムは当時世界一と評価されたスキポール空港があり

欧州のハブ空港として大人気だったこともあり

街中には観光客が溢れ

その彼等彼女等が通信手段として利用していたのが当時はまだ走りだったインターネット

 

パチンコ屋のようにただパソコンを並べただけの店内で

€5で15分の使用料

通信速度の遅かった時代だったので

軽くメールを確認したり送信したりするだけで15分では足りなくなり

€10~€15が客単価の最低ライン

わずか20坪ほどのスペースに数十台のパソコンが並び

それでも大人気で待たされてる状況

 

10坪程度のスペースで30台ほどで始めても

@3,000円×30台×8時間=720,000円/日の売り上げ

 

まあ、その半分としても360,000円の売り上げがあったら

テナント料、パソコンの減価償却、電気代に人件費を差し引いても

十分におつりがくるなと

 

帰国してネットカフェを始めようと計画を立て

市場調査や日本でのネットカフェのことを調べていたところ

 

地方都市に住む学生時代の後輩のひとりが

「知り合いにネットカフェをしている人間がいて、新しいテナントを探してるほど繁盛してますよ。」

「でも、ありきたりなパソコン並べるよりもちょっと豪華にして差別化した方がいいですよ。」

などと訳知り顔で言われ

「実は経営コンサルタントもしてますから」という言葉信じてしまったのですが・・・

 

【その③に続く】

 

 

 

 

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”終活”渡航歴から我が人生を振り返る。【その①1971~1997上半期】

2023-06-28 17:52:26 | 日記

【実は、昔からの知人や友人もこのブログをみながら近況を知っている様子、主に彼らへの報告のつもりで記事を書いています

【個人的にお付き合いのない方々には全くつまらない内容だと思いますのでご容赦くださいね

 

先日のこと、押入れにあった古いダンボールを開けてみると

実家を建て直すときに送られてきた

幼少期から結婚するまで置いてあった個人の思い出の品々を

亡くなった母が大切に保存しておいてくれたもので

わたしにとってはまさにタイムカプセル

 

ひとつひとつの品々を手にしては目を細めて往時を思い出し

老い先短い身の上ながら終活をかねて自分史をまとめてみようと思い立ち

渡航歴をまとめてみることにしました。

 

最初に、幼少期からの生い立ちを振り返ってみると・・・

 

昭和33年1月生まれのわたくし

たしか小学校2年生の昭和40年(1965年)の夏

幼稚園児の頃から長期のお休みになると

東京世田谷の玉電沿線にあった親戚の家で過ごさせてもらっていたこともあって

銀座に出て毎年恒例の”日劇夏のおどり”に連れて行ってもらい

同時上映していた加山雄三さんの”海の若大将”を観て大感激

 

きわめて単純な性格なので

と船に憧れて大人になったら”船乗り”になると宣言

 

それからずっと将来の夢=船乗りと言い続けていたため

最初は身近な近所の運河で動いてた艀船でもいいやと思っていたのが

 

外国航路のマドロスになり、マドロスから航海士に変わり

小学生高学年の時には既に志望校を商船学校と決めてしまいました。

 

中学生の頃には、船乗りになって七つの海を航海して

世界中を訪れ、”港々に女あり”になるんだ と夢に抱いていたのですが

(子供なのに”船乗りになりたい”と言うと、なぜか周りの大人から”港々に女あり”だなと聞かされ刷り込まれちゃってました

 

いつしか時代の流れで税金の安いリベリアやパナマの便宜置籍船ばかりとなって

日本船でなくなったことから日本人船員の縛りが無くなり乗組員も賃金の安い国々の船員に変わり

 

更には、外国航路といったら横浜なら山下埠頭

神戸ならメリケン波止場といった

船員目当ての紅い灯青い灯煌めく歓楽街の近くから

公共交通機関など全くない遠い埋め立て地の専用岸壁になったうえに

 

昔はデリックというブームとワイヤー、ウインチを使った荷役装置で、港によっては1週間停泊する純貨物船から

貨物に応じた専用船化となり荷役設備が劇的に進歩して

船速も早くなり停泊時間はヘタしたら数時間のみ

 

乗組員も35名ほどが乗船し士官と部員、司厨部にはボーイまでいて

士官の部屋掃除までしていてくれていたのが

 

自動化と省力化でクルーの数も17名まで削減され

部屋掃除もベッドメーキングも自分でしなければならず

サロン(士官用の食堂)でもスープから始まるフルコースだったのが

社食並みのメニューになって基本給仕のサービスはなし

 

寄港地でも上陸して息抜きすることもできず

乗船中はまるで監獄に閉じ込められた囚人のような生活

 

”海のロマン”など完全に死語となってしまいました。

 

そんなことから商船学校を卒業し甲種(士官用)海技免状を取得したにもかかわらず

船乗りになる夢はすっかり失せてしまったのですが

 

世界中の国々を訪ねてみたい という海外志向は衰えず

大雑把に従事してきた仕事の変遷を回顧してみると

 

外資系船会社への就職を皮切りに青年海外協力隊、JICA専門家、ODA関連

民間企業の貿易担当部署勤務、起業して大型船舶の機器に特化した貿易商社経営

海外での技術提供の請負業務、欧州機器メーカーの日本市場代理店と

いつしか日本語よりも英語を使う職業に就き諸外国を渡り歩く人生となりました。

 

※ 1982年から1986年の間使っていた公用旅券は

名古屋で暮らしていた時に泥酔してセカンドバッグごとタクシーに置き忘れ

現金30数万円入っていたからかとうとう出てこず紛失

そんなわけで正確な月日がわからずウロ憶えですが・・・

パスポートの出入国スタンプから、日本と訪問先の国々の

入出国日を調べて渡航歴を作ってみたのですが

なぜか出国だけ、入国だけのスタンプがあって首をかしげるばかり

 

とりあえず1997年第一四半期までの渡航記録は ↑こんな感じでした。

 

 

(1971年中学二年生の時、父が船に乗せてやろうと思ったのか大阪からの旅客船で返還前の沖縄に渡航した時の身分証明書)

(イエローカード:検疫用ワクチン接種証明)

当時は沖縄へ行くにも

コレラや小児麻痺のワクチンを打つ必要がありました。

 

(商船学校の学生時代:遠洋航海実習記録)

当初はパナマ運河とスエズ運河を通過しての世界一周航路予定だったのが

中華人民共和国からの招待を受け、戦後初めての訪中とあって急遽航路変更

中国訪問を大前提としたため環太平洋航路となって太平洋での給水を兼ねてトンガ王国に寄港することとなり

ホンネは世界一周でなくなったことを恨めしく思っていたのですが

 

そこで出会った青年海外協力隊員が

赤土だらけで道路も舗装されておらず車もほとんど走っていない未開地のような場所で

全く意味のわからない言葉を操りながら現地人と笑顔で楽しそうに歩いている姿があまりに眩しくて

とうとうその後の航海中も頭から離れなくなってしまい

日本に帰着する頃にはいつしか自分も協力隊員になってトンガに戻ってくるんだと決意していました。

 

(社会人1年生、外資系船会社の社員となり社命でパスポート取得)

(所有船の点検のため山口県宇部からオーストラリア西海岸まで乗船)

(帰路、クリスマス&年末年始で飛行機の席が取れずファーストクラスで帰国)

(パースからシンガポールまでは1stクラスでしたが、乗り継ぎのシンガポールからはエコノミー)

(これらは国内航空券の半券ですが、当時は飛行機に乗れるのが嬉しくて大切に残してました)

(社会人になってクレジットカードも作りましたが、当時はまだ国内のみ)

 

(実は、練習船でトンガに寄港して将来青年海外協力隊に参加すると決めたものの

参加条件は、ある程度の語学力と実務経験は最低2年以上必要と言われ

とりあえず船会社に就職。その後、夢を捨てきれず一年半目に応募した時の資料)

(無事試験に合格し、訓練所入所の案内とともに受け取った地図)

(訓練を終えて出発した時の航空券と成田の空港使用料)

 

(なんと正規料金の片道切符なのでビジネスクラスにしてくれました。それも今では信じられない喫煙席)

 

(トンガ赴任中に周辺国を訪れた時の半券)

(これは世界的に希少価値として人気のあったトンガの切手)

バナナの本数や果物の値打ちに比例してるんですよ

(1982年当時のVoucher、成田からFIJIとSAMOA経由でトンガまで347,300円)

(FUJIはTONGAへの乗り換えと管轄だった日本大使館への赴任時の表敬訪問のためでしたが

首都SUVAからNADIに戻る日が運悪く大型台風と遭遇し飛行機がキャンセルとなり

大嵐の中、窓無のローカルバスで移動となったため未使用分が残ってました)

 

協力隊時代は、公用旅券で当時は日本に帰国するまで無期限有効のもので

1982年発行のものと、シニア協力隊員として再派遣された1984年発行のもの

劇症肝炎で緊急帰国して入院と治療後に再赴任した時の1986年発行のものがありましたが

 

協力隊の任期を満了して帰国した日から国際協力事業団の中部支部勤務となり

募集説明会の打ち上げでOB達と飲み屋で盛り上がった結果

応募者にみせるためにセカンドバックに入れていたものを

翌日からの出張で持ち物が多かったこともあってついタクシーの中に忘れてしまい

 

翌日からの出張の経費等で大金が入っていたこともあってか

慌ててタクシー会社に電話するも

運転手が運転記録を書き換えてネコババされてしまったようで

とうとう出てきませんでした。。。

 

ということで、次の旅券は1987年に国際協力事業団の本部に勤務していた時に

プロジェクトの調査団として派遣された時に発行された

一次旅券

以前の公用旅券が、渡航先の制限なく帰国するまで無期限有効なものだったため

連合赤軍やたぶん北朝鮮の工作員などが喉から手が出るほど欲しがっていると聞かされていましたが

紛失や盗難でそんな輩に手に渡ってトラブルが起きないようにと渡航先が制限されるようになってしまいました。

 

こちらは長期専門家のプロジェクトコーディネーターとして赴任された時のもの

長期派遣では日本への一次帰国ができるため数次旅券となりました。

プロジェクト時代の名刺

 

フィリピンでの任期を終え

帰国後はODA関連の仕事を辞めて

アメリカでプロペラ双発機とヘリコプターの事業用パイロットの免許を取ろうと思っていたため

帰国後すぐに一般パスポートを取得

その時はアメリカへ行く気満々で

パイロット養成機関の窓口会社へ留学手続きにいってみると

 

1990年で32歳

例えアメリカで事業用の免許を取得しても

日本では事業用は改めて長期の訓練と書き換えが必要で

それらは到底個人でまかなえる額ではなく

通常は雇ってくれる会社が養成のために負担してくれるのですが

 

32歳からだと米国の事業用免許が取れるのが早くて35歳

 

その後も飛行機もヘリコプターも機種による飛行経験時間が必要で

その年齢では雇ってくれる日本の会社は残念ながらありませんと言われ

あえなく撃沈

 

仕方なくまたODAの世界に戻ったのですが

第一子の子供が生まれたばかりで

在外で働くよりも国内にしたらと勧めてくれた仕事が

日本国内の国際研修所での研修管理業務

 

ほぼ10年間、海外生活を送っていたため

逆カルチャーショックで日本に馴染めず

日本のお役所仕事がどうにも肌に合わず拒絶反応で重度のノイローゼ寸前

 

免疫力が低下してしまったのか片肺を浸潤するほど大きな腫瘍ができて血痰が止まらず

生死の境を彷徨う状態になって緊急入院したところ

原因がわからず検査漬けの入院で一月ほど仕事から離れていたからか、腫瘍が縮小してゆきやがて消滅

 

「仕事のストレスじゃないですか 部署を変えてもらったらどうですか

と担当の若い看護婦さんからの言葉が稲妻にあたったがごとく全身を駆け巡り

こんな仕事で野垂れ死にだけはゴメンだ

2年半で辞表を提出

 

組織の上層部から配置転換の提案や慰留するよう説得をしていただきましたが

退職の決意は変わらず

 

その後、また海外で働くために船舶士(航海士も機関士もできる万能船員)になろうと

上級免状を得るための乗船履歴をつけるため海上生活(船乗り)に戻ったのですが

幼い子供と離れるのが辛く外国航路の船とせずに国内航路の貨物船としたため

あまりにも低俗な内航船の船員達に呆れ果て

もう船乗りの世界には自分の居場所がないことを悟り半年後に下船

 

そうした事情から、突如将来設計が音を立てて崩れ

不義理をしてしまったJICAには頼ることができず

途方に暮れながらいろんな会社に願書を送り

当面の生活の為に時給の良いアルバイトを探しては凌いでいたのですが

 

遺跡発掘(実際はアイリン地区からの日雇い連中に命令されながらの土方作業)

シャープの液晶製造工場でのガラスのカッティグや

切ったガラスを容器にセッティングするベルト作業(深夜作業)

 

日給1万円程度で土方は雨が降ったらお休みだし

シャープは24時間勤務のシフト制の激務なのに

月に20万円稼ぐのも大変

 

求職は、海外派遣やリゾートのマリーナ、大型トラックの運転手から

挙句の果てには工事現場の交通整理まで履歴書を送ったのですが

ヘタに海外生活が長かったのが仇となって

「そんな経歴をお持ちの方にウチの仕事は無理だと思います」

と丁重に断られるばかり

 

困り果てて自分の人生もこれで終わってしまったのかと悲観していたところ

 

とある企業で働いてた友人から国連(FAO)の専門家に推薦してもいいですかと打診され

大喜びして快諾し、某国へ赴任の準備をして待っていたのですが

交代となる筈の前任のイタリア人が居座って派遣時期の目処がつかず

 

 

しかたなく他の某ディーゼルエンジンメーカーに勤務していた知人からの依頼で

海外でのエンジンの修理や保守の現場監督業務や、その会社の英語のコレポン業務を

パートタイムで請け負って生活を支えていたところ

 

※現場監督業務も、ボロ冷凍運搬船のエンジンの修理のためにインドネシアの僻地をまわったり

まだ混沌としていた時代の中国の広州の造船所に入ったインド船の修理のため

香港と広州の間を何度も出たり入ったりと

辛酸を舐める日々でしたが

 

ある日そのメーカーの管理職から

『ウチで働いてくれませんか』との誘を受け、つい応じてしまい中途採用

(他の社員からは「どうせすぐに辞めるんだろ?」と、面と向かって言われたこともありました

 

実は、ODA関連の仕事を退職する半年前に二人目の子供が生まれ

新しい仕事を探して彷徨っていた時期に

海外赴任で貯蓄していた預金もほぼ使い果たしていたため

”選択の余地なし”でした。

 

とはいえ、それまで営利目的の仕事などした経験がなく

それもまだ馴れない大阪での勤務

まあ、どうしても肌にあわなかったら転職したらいいやと思っていたのですが

 

運が良いのか悪いのか

その会社にはまともに英語で仕事をできる人材がおらず

 

入社直後に

韓国の造船所で発生したギリシャ船主からのクレーム対応を手際よく処理したことで認められ

その後は、毎月のように中国や韓国の造船所での技術説明に駆り出され

 

過去に納品した製品のクレーム対応で客先と交渉のためシンガポールに出向いたり

初めてフィンランド製品をOEMとして販売し納入した造船所での

試運転にフィンランド人と立ち会ったりと

当時はまだアジア・オセアニア中心でしたが

毎月のように海外出張するようになり

入社から数か月後には

ペレストロイカ後の混沌とした時代のロシアの船会社から数千万円の大型部品の引き合いがあり

信用できないから支払い条件は前金、その前に現地で売買契約を結んできたいから

同行してくれと頼まれ

そこでとても心根の優しい信用のできるロシア人と運命的に出会い

すっかりロシアに惚れ込んでしまい

その後の人生を左右することとなったのでした。

 

その民間会社の採用時には 

保守的な終身雇用の社員だらけの手前、入社時は平社員で我慢してくれと言われましたが

翌年には主任(係長)、翌翌年には課長補佐、3年後には課長に昇進

 

元々出歩くのが好きだったので海外出張も嬉々として飛び回り

一日の大半を海外からかかってくる顧客との電話対応に費やしながらも

仕事に遣り甲斐を感じて順風満帆にみえたのですが・・・

 

続きは次回お話させていただきますね。

 

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”友遠方より来るまた楽しからずや!” @ディープな大阪編【備忘録】

2023-02-28 13:47:02 | 日記

たしか2005年頃

我が社が代理店をしているフィンランドの会社で

船乗りから転職してきた若者(当時20代半ば)が担当者になり

運よく日本国内の造船所や日本のメーカーから韓国向けに

総額で億単位の製品販売していたこともあって

ほぼ毎日のようにメールや電話で連絡を取り合い

 

こちらがフィンランドに出張した時には

滞在中ずっとレストランやパブ、ナイトクラブ

ディナークルーズで飲食を共にし

 

その後、ドイツのハンブルグや上海の海事博覧会

日本へ営業訪問に来るように誘って各地の造船所を訪ねたり

フィリピンにも拡販の可能性があるからと市場調査に誘って

ルソン島やセブ島をまわったり

 

数年後に彼が別会社に転職してからも

新しい職場のストックホルムに赴き、その会社との橋渡しをしてくれたり

長崎に出張に来ると聞けば博多まで会いに行って飲み歩き

 

10年前から韓国駐在を経て香港駐在となったと聞いて香港で飲み歩いたり

日本に遊びに来るように誘って立ち飲み屋に行ったり女人禁制で標高1710mの大峰山に登ったり

フィリピンのミンドロ島のビーチへバカンスに誘ったり

世界中のアチコチで盃を交わす歳は離れてるけど気心の知れた飲み友達となりました。

 

コロナ禍になってから香港から中国山東省へ駐在先が変わり

FBのメッセンジャーで時折連絡を取り合う程度となっていたのですが

昨年末にシンガポールに転勤となり

2月に日本へまた出張に行く機会ができたのでまた会えるとの連絡があり

 

勿論と即答して

当初は久しぶりに奈良でと希望していたのですが

関空はまだコロナで奈良間の空港バスが運行を停止していて帰国のアクセスに不便だとわかり

 

それなら仕方ないな

インバウンド観光客が戻ってほとんど空室がなくなってしまった大阪のホテルを予約し

 

広島での会社訪問を終えてから新幹線で移動すると知らせてきたため

新大阪駅まで迎えに

なんとか確保できたホテルは

ディープな大阪の日雇い労働者の町(旧釜ヶ崎)新今宮駅前

 

チェエクインを済ませ荷物を放り込んで天王寺まで競歩で移動

 

 

 

香港駐在時代に日本が大好きな香港人のGFができ

沖縄本島にも旅行に行ったことがあると聞いていたのと

今回の出張で長崎で純和風の居酒屋へ、広島では焼肉屋に行ってたのを

メッセンジャーで写真で報告していたため

ネットで調べておいた沖縄料理の居酒屋に直行

 



 

海ブドウと伊江島らっきょう、高知風鰹のタタキにアオリイカのお刺身

そしてモズクの天ぷらをアテにオリオンビール

(何杯飲んだのかは不明 18:30~20:30滞在)

次に昭和な天王寺駅北口商店街の牛タン専門店に移り

またまた生ビールと牛タン料理で22:00まで滞在してから

タクシーで新今宮に戻ろうとしたところ

近すぎて乗車拒否

 

 

仕方なくてJR環状線で新今宮駅に移動してホテルに送り届けてから

またまた新今宮駅から電車に乗ろうとしたところ

 

大阪環状線が実は名ばかりで ほとんどが奈良方面か関空方面行なのに愕然

ぶつぶつ文句いいながら王寺行に乗ったところ

天王寺駅で環状線のホームがまったく別と知らされガックリ

 

翌日は、冬でSightseeing向きの場所もないしどうしたいかと尋ねたところ

2017年の7月に連れていった立ち飲み屋に行きたいと話していたため

ならばと、前日奈良に帰ったら午前様となっていたこともあり

 

11時に釜ヶ崎の象徴だった元アイリン地区職安前を眺めながら

ホテルで合流して

とりあえずディープな大阪の観光がてらジャンジャン横丁に向かい

すっかり観光客向けとなってしまった串カツ屋の大行列を横目に

いまや新世界で最後の一軒となってしまった将棋&囲碁クラブを覗き

(昔は窓際の席は常連の主の指定席で、腕を組んだ観戦者が鈴なりになってたんだけどいまはこの有様

 

夜勤明けのたぶん日雇いの人達が朝からボッチで慰労酒飲んでた

小さなカウンターだけのドテが売りの立ち飲み屋も観光客だらけ

だいたい、新世界もジャンジャン横丁も観光客はおろか

地元のオバハン以外の女性の姿なんて目にすることなんて全くなかったんだけどなぁ

NHKの朝ドラ(ふたりっこ)と

赤井英和がジャンジャン横丁と串カツ、カスうどんを売り込みすぎて

秘密のケンミンショーでも面白おかしく紹介されて様変わりしちゃったんだよなぁ

 

おかげでディープな大阪らしい 

ディープなオッサン、オバハンもほとんど見かけなくなってしまい

 

やはりいまの新世界には自分の居場所はないなと悟り

地下鉄御堂筋線で蒲生四丁目を目指すことにしました。。。

 

いろんな思い出がいっぱいの心斎橋駅で鶴見緑地線に乗り換え

↓(大好きな映画”夜叉”で健さん演じる修治が蛍に頼まれてミナミに行った時のシーン)

 



 

 

 

 

蒲生四丁目駅で下車して

一時はほぼ毎週のように通ってた立ち飲み屋の聖地”魚庭本店”に到着(12:00ぴったり)

いつも最初に頼む 鮪の中トロと上赤身を皮切りに

天ぷら(エビ、キス、玉ねぎ&ナス)

生うにと蟹刺し

ガシラの唐揚げと鯨の竜田揚げ

そしてオデン

18:25に退店したのですが・・・

 

二人で生中33杯&燗酒(1)+ジョッキチューハイ(1)

隣り合わせた たぶん40代半ばのオネーチャンの二人連れと

すっかり意気投合して愉しく飲めたのに気を良くして

酔いにまかせていつものごとく『奢ったる!』と大盤振る舞い

そんなわけで安い立ち飲み屋なのにお会計は3万円超え 

ま、金は”天下のまわりもの”なんだから 

またいつか戻ってくるんちゃうん

 

ということで、帰路はベロンベロンで地下鉄はしんどいと思ったのか

タクシーに乗ろうととの提案に 大賛成

 

夜7時に新今宮駅前のホテルに送り届け

また山歩きに連れてくから遊びにこいよと握手して別れ

今度はしっかり環状線を待って鶴橋まで行き

近鉄電車で奈良へ

最寄り駅からバスに乗った途端、睡魔に襲われ10分ほど爆睡

会社のオフィス近くのバス停のアナウンスについ反応してしまい

慌てて下車してから、失敗に気づいたものの

 酔いを醒ますのにいいかもとトボトボと1.5キロの道なりを千鳥足で家まで帰りました。

 

後日談: 翌日朝7時の電車で関空に行くようにと伝えたものの

ちゃんと起きて電車に乗って空港に行けたのかなぁと心配してたのですが

なんとか帰れたけど翌日は死んでたとメッセンジャーで報告

 

次回はそのうちシンガポールで飲もうと約束を交わしたんだけど覚えてるかなぁ?(笑)

 

なんにせよ、前日に矢田丘陵歩きで体調を整えてて命拾いした~って感じでした。

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【日記】令和4年10月26日(水)大安

2022-10-27 17:38:53 | 日記
10月17日
法務局から封書が届いたと聞き
いったい何事だろうと開封してみたところ・・・
 
 
なにやら耳慣れない通知書
内容を読んでみると
休眠会社などを整理するために長年登記を行っていない法人に
その確認をするものらしく
これは大変
急いで記入して法務局に届出書を提出し
受理されたものの
定款にある役員任期が満了し、
変更(新任・重任を問わず)の登記をしなければいけないと言われ
起業してほぼ23年、20年前に有限会社から株式会社にしたけど
それ以外にそんな手続きが必要とは知らず
 
急いで登記申請書を作成し
ついでに定款の”目的”に農業法人も加えてやろうと
2枚の申請書を提出


 
その後、申請書内容の訂正が必要との指摘の電話があり、またまた法務局へ

訂正して受理してもらい一安心と思ったら
「裁判所から科料の連絡があると思います。これからは気を付けてくださいね」
と、告げられ 
何のことだろうとネットで調べてみると
”登記懈怠”(登記の手続きをサボってた)として
科料(罰金)の支払いをされるんだとか
 
自分が不勉強だったのが悪いんだけど
ショックで奈良地方法務局の一階のトイレのピクトグラムが
自衛隊の奈良地方協力本部だからか
敬礼してて面白かったのに笑えず
 
帰路いつもの奈良公園を通ってみたところ
コロナがひと段落して観光客が戻り
鹿も煎餅をもらえてホッコリとしている風景に癒されながら
↓ (東大寺南大門前の参道も久しぶりに観光客でいっぱい)



↓(修学旅行生も戻ってきていました)
 
いつまでも気落ちしてはいられないなと
天日干ししている稲穂の水分を測り




15%以下となっていて大焦り


ところが、有害駆除で仕掛けた罠の回収を25日頃とされていたため
翌日急いで35キロ離れた旧都祁村へ

結局罠にはかかってくれませんでしたが
そこらじゅうに鹿や猪の暴れた跡だらけ





 

↓ 笹のないところが獣道




これは今季は狩猟もいいかもと思いつつ
 
 
なんとか午前中に罠を回収して 家に戻り
ハーベスターを運んで 13:00ジャストに脱穀開始







脱穀作業はぴったり3時間後の16:00に完了したのですが
そこからが大仕事
約30キロほどの籾袋16ケを田圃から軽トラに運び

自宅の冷暗所に仮置きして

ハーベスターはまた12月に蕎麦で使うので軽く掃除してガレージに戻し
稲架けの棹(ホスベー)を分解して またまた軽トラに乗せて納屋に収納
 
稲藁を積んでおこうかなと思っていたけどすでに日没時刻となり
自宅に帰って風呂にのんびりと浸かって疲れた身体を癒し
 
いつもの糖質0プリン体0のWゼロ発泡酒を5本飲み干しても
飲み足らなかったのですが、なんとか我慢(笑)
 


それにしても こんな重労働
いったいいつまで続けられることやら
 
いずれにしてもいつもの口癖
”なるようにしかならん”ので
 
これも我が身に与えらえた宿命なんだろうと
悩まずに生きていこうと思います。
(自分で蒔いた種の結果クセになんのこっちゃ
 
 
 
 
 
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