Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

今年も年初から【老骨に鞭打って生を実感中】その③オレンジフェリーで四国へ

2025-02-03 11:20:24 | 日記

【前回の記事からの続き】

 

1月19日 久々の訪船仕事のため関空から羽田経由で横浜新子安へ

1月20日 横浜大黒埠頭で仕事してから本所吾妻橋の居酒屋で楽しい時間を過ごし

1月21日 奈良に戻ってペンディングとなった仕事の原因究明してから

メールでその原因と対策を説明

1月22日 早朝出発して名古屋港金城埠頭で再訪船し仕事を片付けたところ

日程がタイトで断っていた仕事を思い出し、気分がハイになってたので

請負を了承

1月23日 午前、横浜大黒&名古屋金城の仕事のレポートを作成

午後、準備してくれていた資料と部品をもって早退

 

 

その続きです。

 

早退して何をするかというと

先ずは缶ビールと缶ハイボールを

3缶ほど飲んでから夕方まで寝床でしっかり睡眠

 

19:00 夕食を済ませてからジムニーで自宅を出発

大阪南港のコンビニで寝酒用の食材を購入してフェリーターミナルへ

電話で予約しておいた往復のチケットを購入し

(往復割引で4m未満の車込 デラックスシングルで37,700円也)

 

20:00 この日は、滞船(目的地に到着しても1時間後まで下船しない)としていたため

乗船開始時刻に船内へ

 

部屋の鍵を受け取ってからいつものデラックスシングルへ

 

還暦を過ぎた頃から

ホテルではエレベーター近く&低層階

フェリーでは同じように移動が少ないようにとレセプションのあるフロアーで

共有トイレとなるからか、いつもトイレ近く

まあ、ありがたいなと嬉しいような、年寄り扱いされて悲しいような

 

この日は、早速展望大浴場へ直行

しっかり洗髪して身体もアカスリで隅々まで洗い流し

ジャグジーにゆったりと浸かって身体を温めて

浴衣で部屋に戻り

寝酒&夜食

 

午後、早退して少し飲んでいたので

控え目に ロング缶2本で我慢

 

年取ってから、飲み食いしか楽しみがないんですよ~

 

部屋のテレビを観ながらウダウダと酒を飲み

気づいたら明石海峡大橋の手前まで航行していましたが

 

もう見飽きてるので そこで就寝

 

翌朝、まだ船内アナウンスが開始する(05:30)前に自然に起床

 

 

船は定刻の06:00に着岸し下船開始となったのですが

滞船なので7時までのんびりしようとベッドに横たわっていたものの

車輛甲板では貨物用トレーラーの下船作業時間となるため

鉄板を擦る音が響いて寝ていられないんですよ。

この日はガスってて石鎚山は見られませんでした。

下船してからは

これまた定番の”のっけ盛り定食のご飯大盛り” 

 

この西条・東予・今治周辺

造船関係の工場が多いため8時前は結構通勤ラッシュで渋滞するのと

今回は目的地が今治だったので6時に下船しても

どこかで始業時間まで時間潰しするしかないので

ゆっくりできるんです。

 

07:55 プロペラのモニュメントで造船の町を自慢している今治市役所通過

08:10 今回の仕事先の造船所に到着

この造船所

東予のオレンジフェリーのターミナルの対岸にも

工場を持ち最大で26,000DWT(15,000GT)までの船を建造しているのですが

 

いまどきの造船所、事故等での責任回避から

安全教育と称して入構前にアレコレとくだらない講習と

体力測定に健康診断書や誓約書を書かされるのですが

この造船所は一切なし

 

その簡便さもあって65歳を過ぎてからも仕事を請け負っているんです。

 

どうせどこの造船所だって

外部からの作業員が怪我や死亡したって責任取らないようにしてるだけ

むしろくだらない安全教育なんかしないだけ楽でいいって感じです。

↓ 毎度のことながら、この”つっかえ棒”にはビックリ(笑)

それと、この↓ 船に乗り込むためのハシゴ

落ちたら自己責任とは思いつつ

半端な高さにビビらされます。

 

なにはともあれ

アッサリと12:30には仕事を終えて造船所を出たものの

 

帰りのフェリーも乗船できるのは20:00からなので

また高知の大豊まで走ってカツ丼を食べようかなとの思いもありましたが

 

また東予まで戻ってくる方が面倒に感じてしまい、則却下

 

どこでお昼しようかなぁと

造船所のすぐ裏手にある来島海峡の展望台へ来島海峡大橋を眺めに行くと

中国人観光客だらけ

いや~、東京蔵前のビジホも中国人だらけだったし

もう至る所インバウンド観光客だらけでちょっと辟易

 

今治市街地の古い食堂でカツ丼と鍋焼きうどんでもと車を走らせていたところ

得意の嗅覚で超レトロな食堂を見つけて目が点

こら入るしかなかんべ と早速暖簾をくぐってみました

御年90歳を超えていると思われるすっかり腰の曲がった店主で調理人と

その奥さんらしき80代後半のオバチャン

 

警察署の取り調べで出されるような、昭和なカツ丼を期待していましたが

昭和というのか何と言ったらいいのか

 

黄色い沢庵はいい感じだったかな

このお店の目の前は 今治城

たしか2017年頃だったか 火野正平さんのにっぽん縦断こころ旅で

その頃はなぜか出発がお城ばっかりで

その日は伊予三芳が目的地でしたねぇ

 

今治にはここ10年、それこそ数えるのも面倒なほど訪れていて

 

フェリーの時間まで東予だったか西条だったかのネットカフェで

休憩しようと思っていたところ既に閉業していてガッカリ

 

それなら今治にないかなぁ?と調べてみると

直ぐ近くに新しそうなネットカフェができているのを知り

 









 

すかさず向かったところ

普段よく利用している快活クラブよりも

料金はリーズナブルだしドリンクバーも充実していて大満足

そんなこんなでネットカフェでゆったりと過ごしてから

また夕食の食材をスーパーマーケットで購入し

往路と同じ船に乗船

大阪では滞船の車から載せるのですが東予ではなぜか後回し

乗船できたのは20:15でした。

この日は、金曜の夜とあってデラックスシングルも満室だったのですが

バリアフリーの再度の一部屋を使わせてくれて大助かり

もう基本的に造船所の仕事をお断りしてるから

もうしばらくオレンジフェリーに乗る機会がなくなるかな と

船内の写真を撮ってみました

 

(乗船記念写真用スペース)

(4F:エントランスホール、レストラン、デラックスシングルフロアー)

(4F休憩スペース)

(5F 休憩ロビー、展望浴室、ゲームコーナー、スイート客室他)

(スカイラウンジ)

(5F:マッサージルーム)

(6F:展望デッキ)

 

ということで、またまた大浴場でのんびりと湯に浸かってから

部屋で晩酌タイム

この日は、カップ酒に赤星の缶ビール、焼酎ハイボール2缶に

安いスーパーのお寿司、カツオの刺身、イカフライ、蟹豆腐のふんわり天、ささみ生姜の大葉巻き竜田

そして梅干しとさけのオニギリ

 

翌朝は土曜日で通勤ラッシュもたいしたことないだろうと

のんびりと06:30に下船

なぜか、この日は”なか卯”で朝食が食べたくなって

住之江公園まで大回りして

親子丼と小うどんのセットを快食

 

無事、8時前に帰宅となりました。

 

ルートヒストリーでの記録では

走行距離655.12km 時間36:36:47となりました。

 

ということで

2025年年初の連続出張もこれでひと段落

 

勢いづいてたので

『もっと出張してもいいんだけどなぁ

 

とようやくヤル気スイッチが入った次第です。

 

ただ、世話をしなければならない農地や山林

家を出た子供達も戻ってくるのかどうなのかわからないのに

広いばっかの家屋敷と村社会での生活が大問題

 

宝くじが当たってくれたら

家屋敷を更地にして

農地も山林も全て抜根したり除草シートで覆って

地元住人に迷惑をかけないようにして離村して

 

いっそのこと世界中を渡り歩いて

ノマドな生活しながら余生を満喫するんだけどなぁ

 

どうか夢が叶いますように

 

 

 

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今年も年初から【老骨に鞭打って生を実感中】その②名古屋金城埠頭

2025-02-02 08:48:59 | 日記

 

横浜大黒埠頭でやり残した仕事

 

 

こちらの機器の問題ではなく、船側が勝手に設定変更したのが原因とわかり

担当の工務監督向けに

手取り足取りの説明資料と対処方針をメールにして送り

 

次の寄港地情報を尋ねると

なんと名古屋港で翌日の朝8時入港とのこと

 

船速によりますが、東京湾から名古屋港までは

せいぜい15時間程度

 

伊良湖水道沖でパイロットが乗船する時間を事前に連絡する必要があるのと

基本的に東京湾も三河・伊勢湾も

朝一で港の岸壁に着岸して荷役を開始し

貨物量によりますが、当日か翌日、または翌々日の夕方までに出航するのが一般的

 

その船の名古屋港の代理店に確認したところ 

朝の9時から午後6時まで接岸とのことだったので

 

朝9時に名古屋港の金城埠頭に着けるようにと

朝6時10分に奈良市北西部の自宅を出発

 

6時25分奈良駅付近を通過

陸路(自動車)での奈良から名古屋方面へは

①西名阪のまほろばICから亀山経由で東名阪、伊勢湾岸線

②国道163号線で笠置経由で伊賀上野に出て、名阪国道に入り亀山へ

③京奈和自動車道、城陽で新名神、枚方で第二京阪、巨椋から京滋バイパス、草津JCTから新名神

新四日市JCTから伊勢湾岸線で名港中央(下道を走らないけど距離と高速料金大)

があるのですが

 

なんせ朝は工業団地に通勤する通勤客でラッシュアワーが延々と続くため

できるだけ工業団地のない場所を走ろうと

 

奈良公園を抜けて加茂から163号線経由で

宇治茶の産地、『日本で最も美しい村連合』で自称”茶源郷”の和束を経由して

滋賀県の信楽(高原)に出て信楽ICから新名神にのるルートを選択

 

ただ、この府道5号線(木津信楽線)

なんせ狭くてクネクネ+冬季は凍結必至の道

 

それでもなんとか7時、和束の中心部を通過

この日は奈良市内がー1℃

和束の湯船がー4℃でしたが

信楽はー7℃でした

 

 

8時、伊勢湾岸道の湾岸長嶋PA(長島温泉&スパーランド横)に到着

豚汁定食で朝ごはんとしましたが

結構ボリュームがあって美味しかったけどお腹がきつかった~

 

PAの多目的トイレで作業服に着替え

名港中央ICを下りたのが8:45

 

8:55に名古屋税関稲永支署で船陸交通許可を得て

金城埠頭へ

 

09:00には乗船するつもりだったのに

保税地域のゲートでの守衛が呆れるほど要領悪くて(人手&人材不足を実感)

よくやく09:30前々日、横浜港大黒埠頭で仕事していた船に乗り込み

 

これは本来船側の所掌ですよと説明してから作業にとりかかり

僅か10分ほどで終了

 

10:00落成書にサインを取り付けて下船となったのですが

ここはビジネスライクにと

横浜での再調査時間分とこの名古屋での経費と工賃もしっかり請求させてもらいました。

 

(↓この金城埠頭は主に輸出向けの中古車の積み込み)

因みに、ついでなので伊勢湾の自動車荷役についてお話させていただきますね

 

今回の船が荷役していたのが金城埠頭の54番バース

(レゴランドやリニア・鉄道館の近く)

名古屋駅からはあおなみ線で終点

伊勢湾岸道の名港中央ICで下りたところなので

車でのアクセスも超便利

ズームアウトするとこんな場所

 

金城埠頭は前述のとおり中古車の積出港ですが

名古屋港は至る所に自動車の積み出し岸壁があり

飛島にはたぶんホンダ車の積み出し港

潮見には日産車

対岸にはトヨタ車の積み出し岸壁があるため

この周辺ではいつも10隻前後の自動車運搬船が接岸しています。

 

続いて今度は三河湾

 

我が故郷豊橋港は

お隣の静岡県浜名湖周辺にあるスズキ、三菱岡崎工場からの輸出岸壁と

 

輸入車も

フォルクスワーゲン、ボルボ、プジョー、シトロエン

Jeepにフィアット、メルセデスベンツ

その他、ローバー、フォード、ジャガー、ダッジ、マセラッティと

1988年から一大拠点となっており

 

対岸の田原市にはトヨタ・レクサスの工場と専用の積み出し港があり

 

更にはこれまで自動車運搬船の大多数を建造してきた豊橋造船があるため

名古屋港ほどでありませんが いつも数隻の自動車運搬船が接岸しています。

実は、東京湾や大阪湾にも多数在籍していますが

特に三河湾・伊勢湾水先人組合には商船学校の同窓生だらけ

自動車運搬船に乗り組む比率が高いため

なんせ風の強い土地、自動車荷役に使うランプウエイをぶつけないようにと

接岸には気を遣うと話してました。

 

すっかり横道にそれてしまいましたが

話を戻すと

あまりにもアッサリと仕事を終えられて

『クッソ~、横浜でトラブル無かったらパーフェクトデイズの聖地巡りできてたのになぁ』

とか

『よし、それなら故郷豊橋に行って、あんかけスパか菜飯田楽でお昼して

夜は、お気に入りの居酒屋で飲み倒すか

と思ったのですが・・・

 

実は、前日東京から戻り、伊丹空港でバスを待っている間に

某社の担当者から電話が入り

「あの~、明日四国の造船所に入渠する船の整備お願いできないでしょうか?」との問合せ

 

「それでその船はいつまでドックにいるの」と聞くと

四日後の”25日日曜日まで”との事

 

「明日は名古屋港に行く予定だし、もう造船所には行かないとしているし、

そんな直前に言ってきても無理無理」と無下に断っていたのですが

 

よくよく思い出してみると

ほとんど壊れて動かなくなってからバタバタと整備の依頼をしてくる客ばかりなのに

 

ウチの会社が代理店を引き継いですぐに

就航したばかりの新造船が、前の代理店が技術力を持たず

ただ売るだけで、初期調整不良でトラブルが発生したもので

その原因を説明したところ

 

とても素直で実直な機関長と船主で

その後は、2年毎に整備を頼まれていた超優良顧客

 

実質1時間弱で問題を解決して気分がハイになってたこともあって

杓子定規に断るのも大人げないかなとの思いから

 

事務所に電話を入れ

「出渠前の明後日の金曜日で良かったら行ってもいいと連絡してくれる」と伝えると

 

「出張が連続してお疲れなのに大丈夫ですか」と気遣ってくれたのですが

 

気分がハイのうちにしっかりお仕事しないと と

相手先の了承を得て

すぐさま

着岸していた埠頭の目の前の伊勢湾岸線”名港中央IC”のゲートをくぐっちゃいました

 

『そしたらランチはどうしようかな』と

御在所PAで山本屋本店の味噌煮込みうどんにしようか

伊賀上野の大内ICまで走って ラブホの横の”第一旭の特製ラーメンかなぁ
と思っていたのですが

 

突然、伊賀で前々から気になっていながら素通りしていたラーメン屋を思い出し

丁度時刻は12:00でほぼ満席でしたが運よくカウンター席があき

その日のランチセット(麻婆天津飯+あじへいラーメン)を注文

奈良の旭川ラーメンと同じ味の素味のキムチがあり

 

実は、ランチメニューではラーメンが半玉なんですが

「ラーメンは半玉ですか?ひと玉ですか?」と尋ねられ

つい「ひと玉でお願いします」と言ってしまったのですが

 

さすがに年取って胃が小さくなっているのか

完食するのに苦労しちゃいました。

 

そのうえ、横浜での仕事が簡単に終われず

ずっと緊張状態だったこともあって

 

最近はすっかり”働かないオジサン”状態で

肉体的にも精神的にも鈍りきっていたこともあって

ペンディングだった案件が片付けられて

気分はハイテンションながら実はクッタクタ

 

朝6時過ぎに家を出発して

名古屋港で仕事を片付けて14時には家に帰ってました。

 

全行程8時間弱

距離にしてたったの280キロほど

 

マニュアル車のそれもラジアルタイヤのジムニーで

往路も復路も抜け道ばかり走ったのもあるけど

 

これくらいで疲れちゃうとは自分でもビックリ

 

 

その日は帰宅してから

お風呂に入って缶ビール数本飲んで寝床へ直行

(実は、前夜夜中に目覚めてしまい寝られなくなって寝不足でした

 

 

でも、身体を痛めつけるほど生きてる実感を味わえるんだなぁと再認識

 

もう少し頑張るか と意識を新たにしたんだとさ

 

 

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今年も年初から【老骨に鞭打って生を実感中】その①横浜大黒埠頭へ

2025-01-31 15:01:02 | 日記

昨年(2024年)12月のこと

とある官庁船の仕事の依頼を受け

実は、過去の経緯からたぶん東北方面での仕事になるだろうなと思い込み

もうお断りしている造船所での現場仕事を請け負う約束をしていたところ

 

なんと今年落札したのが大阪西成区にある造船所

 

アッチャーと思いつつ

請け負うと回答した以上仕方ないので現場に向かうと

 

65歳以上は別途誓約書が必要なうえ

両手の握力が合計で85キロ以上

両目を瞑っての片足立ち5秒以上

など面倒臭い制約だらけ

 

そんな背景もあって

『もう金輪際造船所での仕事はお断りするぞ』

と決めていたのですが

 

年が明けた途端

自動車運搬船からの仕事の依頼

 

これまでにも何隻も自動車運搬船の仕事をこなしてきて

ほとんどの船が

甲板までが高すぎるため船体の下の方に開口部を設けて

そこにギャングウエイ(一般的に呼ぶところの”タラップ”)があり

普通の貨物船よりも容易に乗下船でき

機関室と最上層の居住区までのエレベーターも備えられていたので

 

気軽に快諾して

その航海での日本国内での最初の寄港地

横浜港へ行くことにしたのですが

 

なんせもう新幹線にウンザリしているのと

65歳を過ぎてから

JALもANAも当日シニア割が使えるようになり

それを利用すれば時間はかかってしまうものの

費用的には新幹線程度で飛行機で楽々移動できるなと

 

移動日の夜中に予約を試みようとしたところ

何故か前日までシニア席も余裕で空いていたのに

その日の伊丹→羽田便のシニア席は全て売り切れ

 

JALも同様に満席で予約ができず大焦り

 

『おかしいなぁ、日曜の休日だからなのかなぁ?』

と神戸・関空と探してようやく関空便で席がとれ

 

空港までの移動が面倒だけど

(コロナ以降、奈良から関空行きの空港バスが激減しちゃったので)

それでも今更新幹線に乗りたくないな と諦めて

座席を確保しようと支払いを済ませ

 

それにしてもなんでそんなに混んでるのかなぁ

と伊丹→羽田便の予約画面を開いてみると

空席だらけ

 

 

どうやら不届きな輩が、当日の予約であれば購入期限はその日のうちだから

とりあえず闇雲に予約だけ入れてやれとしたんじゃないかなぁ

 

とはいえ、関空便を購入してしまったので

この日は、近鉄と南海電車で向かうことに

 

日曜日とあって地下街も結構混雑

南海駅は空いてる時間帯でしたが

ちょうど時刻は12:00

昔と比べるとスッカリキレイになった駅ソバに

つい、”いか天大盛り”にしちゃいました。

乗り込んだ時はそんなに混雑していませんでしたが

出発時刻には、大きなスーツケースを持ったインバウンド観光客だらけ

関空もこの有様でした。。。

 

関空の国内線も開業当時はターミナルビルの中央でしたが

インバウンド観光客が激増して南隅に追いやられ

ラウンジもショボイ安普請でした

 

この日はANAといってもスターフライヤーとのコードシェア便

ほとんどLCC仕様なんですねぇ

この日は雲が多くて富士山も厚い雲で覆われてました。

関空から羽田に飛んだことがなかったので

駿河湾沖でえらく旋回するなぁと思っていたら

こんな航跡になってました。

 

羽田へのアプローチはいつもどおりの”海ほたる”上空のコース

この日は横浜泊まりだったので京急の横浜方面行に乗車

お気に入りの 諸星は日曜日で定休日でした~

 

それから、いぜんはたしかチャンポンが売りだった食堂が

”うなぎの成瀬屋”になっててビックリ仰天

 

この急成長ぶりから、たぶんアッチ系の資本が入ってるんだろうなぁと

つい邪推しちゃいました。

でも晩御飯は、新子安で泊まり

東神奈川でレンタカーを借りる時の定番”吉田飯店”へ

久しぶりだったのと、お昼が蕎麦だけだったので

ついパーコー麺とチャーハン

レンタカーを借りに行くと

こんな但し書きが

気軽にレンタカー借りられるのもあと8年かぁ

 

翌日大黒埠頭に接岸したいる船に到着してみると・・・

自動車運搬船としては小ぶりだからか、開口部なく甲板までのギャングウエイが

この船、1999年建造の26歳

サイズは小ぶりだし、老朽船ということで

ほとんどがアジアから中近東や南米向けのドサ回り

 

この前の航海も最終の積み込みが中国・韓国で

横浜は揚げ荷だったので「何運んでんだろ?」と思ってたら

なんとテスラでした~

日本では年間で数千台しか売れてないから

たぶん韓国とかがハブになってるんだろうなぁ

隣にはたぶん普通自動車を7・8千台搭載できる

一般的な自動車運搬船が

実は、朝9時前に乗船して仕事は14時に終了したのですが

服を着替え、仕事の荷物を宅急便で送ろうとヤマトの支店に到着したところ

突然船の工務監督から電話がかかり

いま整備してきたばかりの機器の警報が鳴ったので

おかしいんじゃないかとの問合せ

 

そんな筈はないんだけど

疑念を持たれたままでは面倒だなと またまた船に戻り

レンタカー返却時間ギリギリまで対策工事をして下船

実は、この日

いつものようにお昼過ぎには仕事を終えられるだろうと

 

ついでに東京に出て

先日役所広司さん主演の”パーフェクト・デイズ”を鑑賞して

素朴で清貧な生き様にとても感動していたので

是非聖地巡りをしようと

 

まずは、浅草地下街の焼きそば”福ちゃん”で

焼きそば食べながらチューハイ飲もうと計画

そんな夢をFBに投稿したところ

学生時代の同級生で在京の仲良しが

「福ちゃん付き合うよ」と近隣の数名を誘ってくれていたのですが

 

福ちゃんを知ってる一人が「月曜日は定休日だよ」との連絡

 

それならばと、代わりに本所吾妻橋の居酒屋を予約してくれたので

アレコレ調べていろいろとアクセスに便利そうな蔵前のビジホを予約

 

船に呼び戻されるまでは(14:00頃)

1)荷物を宅急便で送ってレンタカーを返却し

2)身軽になって東神奈川から京急で蔵前へ行き、ホテルに荷物を放り込み

3)タオル一枚持ってパーフェクトデイズの聖地巡り

①主人公がお昼の休憩場所にしていた神社でサンドイッチを頬張り

②主人公が暮らしていた昭和なアパートを眺め

③毎日通っていた銭湯でのんびりとお湯に浸かり

④歩いて仲間と約束している本所吾妻橋の居酒屋へ

泥酔してホテルに戻り爆睡

⑤翌日、主人公が自転車で渡っていた桜橋を歩いて渡り

⑥開店時間に浅草地下街へ行って福ちゃんで焼きそばでチューハイを飲み

 

お昼過ぎに、大昔亡き母と浅草に行くと定番だった”三定”で

中かき丼でも食べて

適当な飛行機で帰ろうと思っていたのに大誤算

 

結局、レンタカーの返却時間ギリギリの18:00過ぎに東神奈川から電車に乗り

運悪く品川で青砥行に乗り換え

本所吾妻橋の居酒屋に到着できたのは約束の時間より30分遅れの19:00

30分前から飲んでいたので

みんな既にできあがってたので

”駆けつけ〇杯”でガブガブと生中とジョッキのチューハイを何杯も呷り

串焼き類からグラタンにメニューにもない品々を注文し

パーフェクトデイズの話題でも盛り上がり

『今度は一緒に聖地巡礼して福ちゃんで飲もうよ』となりました。

 

未だ現役で働いているので夜10時にお開き

 

そのうえ

ご馳走になっちゃったんですよ~

 

お店を出て本所吾妻橋駅に向かうと

スカイツリーが目の前

そこそこ飲み食いして満足してたはずなのに

実はお昼抜き(簡単に仕事を終わらせるつもりだったので)だったのを思い出し

閉店間際のやよい軒で鍋でご飯をガッツリ食べちゃいました。

 

その日解決できなかった問題を次の港で片付けると約束していたため

翌朝、朝食を済ませ7時にホテルをチェックアウトして

電車に乗り込んだのですが

久々の朝の通勤ラッシュは辛かった~

 

羽田に到着してラウンジに入ったのが08:00

トマトジュースと青汁オレで我慢して

飛行機に乗り込み

怖れていた遅延もなく

この日は奈良行の空港バスに乗ることができ

 

自宅でお昼を済ませて事務所に向かい

シンガポールと相談しながらペンディングとなったトラブルの原因を解決し

次の寄港地への準備を完了

 

【その②へ続く】

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑨劇症肝炎で生死の境を彷徨う】

2024-12-27 11:07:59 | 日記

【今回の記事は、私個人をご存知の隊員OBやJICA関係者向けの内容で

知らない方には全くつまらないのでご留意ください


あと、いつもながらの書き殴りで

読み直しせずに文法も文脈も

無茶苦茶


まだ編集中なのでご容赦ください。🙇

 

 

1985年9月

突然、ビールが飲めなくなり、目が真っ黄色と指摘され

その頃、TONGAの隊員も何人か感染していたA型肝炎だろうと

現地で自宅療養していたのですが

 

A型肝炎では、黄疸が出た頃がピークで
その後回復してゆくのに

 

私の場合は、日を追うごとに言葉では表現できないほどの

極度の脱力感と疲労感で寝起きさえ苦痛となり

何も食べられず、夜中になると身体中が痒くなって寝られず

(黄疸のビリルビンが毛細血管に詰まり血流が滞って起こる現象)

いつまでたっても小水はビール瓶の色で便は真っ白

 

日に日に弱っていく様子を目の当たりにしていたチャンカーが

「A型肝炎だからそのうち治るよ」と楽観視して言い張る臨床検査技師と調整員に

「絶対におかしいから血清を日本に送れ」と泣いて抗議してくれたおかげで

 

当時、やっとTONGAでもサービスを開始したDHLで日本に送ったところ

なんと、肝機能の数値GOT、GPTが

A型肝炎のピーク時で1500U/L(正常値は30~40以下)なのに

 

なんと3500U/L

(後で聞いたところ、異常な数値で普通なら肝性昏睡で危篤状態なんだとか

 

そんな訳で

協力隊事務局は少し前にもバングラデシュで劇症肝炎の隊員が死亡していたため

大騒ぎとなり、オーストラリア大使館の医師がTONGAに飛んで日本まで随行することが決まり

 

飛行機に搭乗する前に”機上で何かあっても訴えない”誓約書に署名して

車椅子で搭乗してNZのAucklandへ飛び

 

当時デイリーでのフライトが無かったためオークランドで1泊

(大使館の医師も年寄り古い知識しかなかったため、NZのホテルで「栄養のつくものを食べた方がいいよ」

「ステーキ食べなさい」と注文して無理やり食べようと思ったのですが・・・無理でした。

 

翌日のJALのフライトで4人掛けシートの肘掛けを上げてベッドにして

横になったまま成田に到着したのですが

 

まだ意識があったので、窓から外を眺めていると

ボーディングブリッジの下に濃紺の寝台車が待機してるのを見て

『救急車じゃないんだ』とビックリ

 

どうやら生きて辿り着けるかわからないと思われてた様子

 

飛行機の扉が開くと同時に協力隊事務局の医療スタッフ(看護師OG)が乗り込んできて

背負われてボーディングブリッジ横の階段を下りて

寝台車に乗り込んだところで点滴を打たれ

 

そのまま特別ゲートで入国手続きをして

高速道路をひた走り

白金台の東大医科研病院の個室に直行

 

ところが、無事日本に帰れたことで免疫力が回復したのか

偶然ピークを過ぎて快復期に入ったのか

 

病院食なのに久しぶりの日本食が美味しくてペロっと平らげ

 

それまでの闘病中にほとんど食べられずお腹が空いていたからか

お見舞いに来てくれる家族や友人に食べ物を買ってきてと頼むほど

(快復期の肝臓にはやはり栄養を摂るのが一番らしく主治医も許可)

 

まだ若い女医さんが主治医となってくれたおかげで

最新の医療の知識から

『肝臓が壊れている時に無理に食べるのは逆効果』

『目の粗い笊で汚れを除けない状態だから黄疸が酷くなって肝性昏睡を引き起こす』

『症状の一番重い時期に無理して長時間の飛行機での移動だったら危なかったかも』

等々、帰国のタイミングも幸運だったと聞いて

ホッと胸を撫で下ろしましたねぇ

 

入院した翌日、生死の境を彷徨う状態を言われていたのもあって

青年海外協力隊の事務局長(当時は外務省の課長クラス)と

次長がお見舞いに来てくれたのですが

 

ベッドに座り込んで売店で買ってきた週刊誌を読んでところだったので

想像とは真逆で驚いたものの、安堵の表情で帰っていかれました(笑)

 

これまた偶然にチャンカーも2年の任期が満了となって帰国し

奈良県での休職参加第一号(公立中学校の数学教師)だったので

東京での手続き後、復職となっていたのですが

何度も東京まで見舞いに来てくれて

 

学生時代の友人達や協力隊の同期達から

新卒で働いてた船会社の元同僚たちなどなど

沢山の人達がお見舞いに来てくれて嬉しかったですねぇ

 

体調はどんどん回復して

普段は、同室の患者さんのお膳を片付けたりお茶を注いだり

周りの入院患者さんとも仲良くなって

 

ある年配の男性入院患者さん(たぶん50代後半)

阪神の大ファンで(丁度1985年の優勝した時で待合室のTVに釘付けになってました)

たしか岐阜出身で自家用車のアウディを病院の駐車場に置いてて

糖尿病の食餌制限のために入院してたのに

時々娘さんに食べ物を持ってこさせ

 

私の病室に来ては

「長坂さん、娘に寿司買ってこさせたから一緒に食べない

と、何度誘われたことか

 

病院からも退院して

「診察のために東京まで出てくるのも大変だろうから東大医学部派閥の豊橋市立病院で経過観察したら

と言っていただいたのですが

 

何もかも放り出した状態で緊急帰国してしまったため

中途半端のまま協力隊活動を終えるなんて耐えられず

『残務整理してきたいからまた任地に戻して欲しい』と要求するも

 

「最低限、肝炎の抗体ができなかったらダメ」と言われ

主治医からは

「抗原は無くなっても必ずしも抗体はできないから、これだけはどうしようもない」

と諭されたものの

「協力隊事務局が抗体ができないと戻してくれないから」と訴え続けたところ

 

数か月して突然【抗体陽性】との結果を受け

 

当初の2年間の任期がほぼ満了していたため

現地の調整員に半年の延長要請を取り付けて

協力隊事務局を説得して

再びトンガに戻ったのですが・・・

 

主治医から「劇症肝炎によって肝臓の組織が、たとえば健康な皮膚に突然熱湯を浴びたような状態なので

しっかり冷やして養生すれば、また元の弾力ある健康な肌を取り戻せるけど

そのまま放置したらケロイドになって戻らなくなるから、1年間は禁酒すること」と告げられていたので

 

いろんな集まりがある度に

みんなから『一本くらいいいんじゃない』とビールを勧められましたが

 

「このオレが一度決めたことを覆すわけないだろ

と意地になって一滴たりとも飲みませんでしたが

 

あの頃はちゃんと我慢できたんだよなぁ 偉かったなぁ

 

そうしてまたトンガでの生活となったのですが

 

復職したチャンカーには

当時、特に中学校が荒れてた時代もあってか

日教組が蔓延り、学校という組織が私にとって無責任で信用できない存在

「くだらない教師なんか辞めて退職してトンガに来い」と伝えてあったため

 

実は、奈良県の公務員の休職参加第一号とあって

”最低でも2年の御礼奉公”が不文律で求められていたのですが

 

学校、教育委員会、協力隊事務局、その他もろもろの説得や圧力をはねのけて

ほぼ駆け落ちのような状態でトンガに呼び

また同棲生活を送ることとなりました。

 

後日談ですが

協力隊(シニア隊員)を終了したのが1986年8月末

その後、国内協力員としてJICA中部支部で8ヵ月

特別技術嘱託としてJICA本部(新宿三井ビル)でまた8ヶ月

その後フィリピン国立航海訓練所プロジェクト専門家(コーディネーター)として2年

その後、業務用ヘリコプターと双発機免許を取得するのを断念して

FIJI事務所長だった河西さんの口利きで、財団法人国際協力センターの職員となり

大阪国際研修センターの研修業務を請け負う仕事など

ODA関連業務に携わっていたのですが

あれは何時だったのかなぁ

 

そのODAで働いていた頃だったのか

その後、奈良県青年海外協力隊OB会の会長をしていた時だったか

 

近畿支部の職員(ほぼ現地採用な形で長年勤務していた主のような女史)と

パーティーのレセプションで雑談する機会があった時に

 

面識がなかったので自己紹介すると

「あら、奈良県で〇〇さんと言うと

長年県を説得して苦労してようやく休職参加が認められることになって

その第一号として協力隊員をしていた女性がいたんだけど

帰国して半年ほどで現地に残ってた隊員に呼ばれて

退職して追いかけて行っちゃったの・・・」

 

「えっ、その相手は私ですよ。養子になって改姓したから」

と言うと目玉が飛び出そうなほどの表情して驚いてましたねぇ

 

水産局長からは、「Masaの好きなだけ滞在くれたらいいヨ

と言っていただいていたのですが

 

とりあえずはしっかりと引継ぎができるように残務整理をと

 

Government Houseから出て専門家の増本さんの隣のフラットを借り

協力隊に迷惑をかけないように自分でバイクを購入し

(当時、隊員数が激増していた時期で、公用バイクが足りなかったので)

アフター5は、お酒も飲めないこともあって

だだっ広い家で

チャンカーが日本で買って持ってきてくれた

当時まだ売り出したばかりのファミコンしてました

↓ これは隣家で暮らしていた増本さん

鮪延縄実習船の漁労専門家で

私をシニア隊員にしてくれた恩人の一人でもある増本有三さん

 

20年前に当時の調整員で大親友の小野チン(小野浩OB)と

下田の別荘地でご夫婦で隠居生活していた増本さんを訪ねたところ

(その後、長年トンガで専門家をした後に、パラオ諸島で定年の70歳までシニアボランティアとして従事)

(帰国して緊張が緩んだのかステルス性胃癌になって大手術)

(ほぼ母子家庭のようにして育った二人の息子は医師となり、一人が医大病院に勤務していたためその病院で施術)

そんな話を聞いていたのですが

 

昔から酒に飲まれるトンガOB(松永君)が訪ねてきて泥酔して大暴れしたとかで

奧さんからあまり歓迎されなかったのにショックを受けて

その後音信不通となっていたのですが

(23歳年上だったので、もう存命ではないだろうなと)

 

この記事を書いていて

無性に懐かしくなり

その大学病院の名前を思い出し、ググッテみたところそれらしき人物があり

ダメ元で手紙を送ってみたところ

なんと返信があり 御年90歳となっていまは次男の家族と暮らしてるのを知らされビックリ

残念ながら

お酒の飲み過ぎからなのか(いまも依存症のように毎日飲んでるんだそう)

『認知症がすすんで、過去のことはほとんど覚えていないんですよ』

とのことでしたが(私の名前を伝えたものの会話になりませんでしたと

 

やがて残務整理のために延長していた期間が過ぎ

現地からは好きなだけ居ていいよと言っていただいていたのですが

 

まだ療養中でお酒も飲めなかったこと

無理やり教師を辞めさせてトンガに呼んだチャンカーと

そのまま駆け落ち状態で過ごしてゆくことに抵抗があったこと

 

それらを熟慮して1986年8月末で協力隊生活に終止符を打ち帰国することを決めました。

 

一番の要因は

なんでも好きなようにでき”トンガの主”のような存在となり

FIJIの日本大使館主催の友好イベントでは大使の通訳を任されたり

王家(主要貴族)にも直接話ができるほどとなり

 

なんせ波乱万丈な生き方に憧れ

”ぬるま湯”に居続けるのは信条と異なるなと

 

 

 

大の仲良しのAiseaは Vava’u支局長となり

(ピンクのアロハシャツを着てるのが地元の漁師Ipolito:よく鰹を一本くれた人物)

 

Vava'uでの送別会

なんと水産局の主要メンバーが本島のTongatapu島からも集まり

沖の無人島へ渡り

Umu料理(ポリネシア風オーブン料理)

Umuのため穴を掘り

サンゴ石の上で木を燃やし(普段はココヤシの殻)

さまざまな料理にココナッツミルクを加え

更には子豚の丸焼きまで

バナナの葉っぱがお皿代わり

この送別会を企画してくれた二人

右は 水産局の幹部の一人Pita Halo

もう一人はボートヤードのVava’u支局長

 

離任前にそれまで世話をしてきた船と記念写真

(↓現地の数学教師の再教育プロジェクトのために離島の教師を集めるためのボート)

 

鰹一本釣り漁船 TAKUO

こちらは、FAOの沿岸漁業振興プロジェクトのために建造した漁船

当初の設計があまりにお粗末で嵐で難破する事件が発生し

その後、積極的に設計に関わってできた船と

こちらは、一本釣り鰹漁用の餌の鰯を獲るために

送られた巻き網船(鰹漁自体がほとんどされなかった)

Vava’u時代にお世話になったMikioと奥さん

Mikioは戦前に移民した日本人の子孫で

親族にアメリカで活躍したプロレスラーもいたんですよ。

(Mikio Guest Houseの食堂前)

なんせブッフェスタイルの食事が売りで

いつもNZかOZのオバチャンが住みついてお手伝いしてました。

新しくコテージも数棟建てらえて

ますます盛況になるんだろうなと喜ばしく眺めてました。

夜はKava(笑)

水産局Vava’u支局のLangimaと

Vava’uのボートヤードのメンバーと

こちらは、Tongatapuでの送別会

左が桜井研次さんを兄のように慕ってた

電気技師のSiotame Taunaholo

こちらは水産局長 Semisi Fakahauの子供

長男Pita と 長女Mele

右から

初代の鮪延縄船”LOFA"の二等機関士Liuaki Taunaholo,

Pita Halo, Engineering 部門長のSiaosi, Siotame Taunaholo

水産局の主要メンバー達と記念撮影

(左側の椅子に座ってるのが水産局長のSemisi Fakahau)

 

水産局の船長から その後ドイツの援助で開設された海員訓練所の所長になったMalakai

 

迷彩服姿はVava’u時代のEngineering 部門のカウンターパートFalanisi

 

そして、いろんなところで送別会をしていただいたのですが

忘れられないのが 現地で一番人気の中華料理店”Fua Fua(華華)”

の高さんとスーリー夫妻(台湾人)

わざわざお店を閉めて招待してくれました。

この高さん、昔は日本でも料理人をしていたこともあって

日本人には親しみを感じてくれていたのもあるのですが

 

私の赴任した1982年に 王様のコックから独立して

首都Nuku’alofaのメインストリートに小さな小さな中華レストランを開業

 

その当時、陸にいた時はほぼ毎日ランチに通ってたのがFua Fuaだったことや

日本人関係者や旅行者が来ると夜の会食に利用していたこともあって

それこそ親戚のような親しい間柄でした。

何と言っても忘れられないのが

劇症肝炎を発症した直後

とてつもなく高価な”熊の胆”やその他の漢方薬を持ってきてくれて

とても心配してくれたこと

 

とっても仲良しだったのに

 

その後、南太平洋の国々もほとんどが台湾と国交を結んでいたのに

台湾から中華人民共和国に乗り換えてしまったため

台湾領事館も閉めて国交が途絶えて

あと、高さんも新天地を求めて中国本土で事業を始め

 

レストランも中国人に売却して家族で移転してしまいました。

 

その後、台湾へ行くたびに(高雄出身と聞いていたので)

高雄で誰か知ってる人物がいないかと探してみたのですが

(当時国交のあったTongaでレストランをしていたので領事館の記録とかないかと)

未だみつからず、台湾のTV番組に投稿してみようかと思いつつ

既に30年以上の年月が経ってしまいました。

 

↓ 1986年8月31日

任期満了して帰国した時の空港へ見送りに来てくれた協力隊とJICA関係者の面々と

(LOFAは操業で出ていたため、機関長KAFOと二等機関士Satekiの家族と奥さんが来てくれました)

 

こうして写真を観直して 

改めて、TONGA滞在中どれだけ多くの人のお世話になったんだなぁと再認識

(日本人連中は、こちらがお世話したことしかありませんでしたが

 

よし、ほとんどがNZやオーストラリアに移住してしまったり

既に他界した人だらけだけど

近々TONGAに飛んでご恩返ししてこよっと

 

 

 

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これもある種の終活?(古い写真やビデオをデジタル化して保存してみました)

2024-11-19 16:30:35 | 日記

【自分流、昔のビデオや写真の保存方法のご案内】

 

1989年のほぼ大晦日前にフィリピンから帰国して諸手続きを済ませ

その時には年明け早々渡米して

双発のプロペラ機&ヘリコプターの免許を取るつもりだったのが

 

業務用免許でも30代後半での取得となると

就職先はないと知らされ

 

将来の計画が音もなく崩れ

愕然としてとりあえずチャンカーの実家の奈良で暮らすことを決め

 

帰国から約2月半後の1990年3月に第一子が生まれ

喜び勇んでビデオ撮影機を購入し

 

 

嬉しくて子供がらみの行事やイベント、家族旅行と

主に子供達が高校生の頃まで

まめにビデオ撮影していたテープが山ほど溜まっていたものの

 

さて、これを子供達にも残してやろうと思ったものの

長年放置してテープは劣化してるしカビも生えてどうしようかと悩んでいたところ


ダビングサービスがあることを知り
 
VHSCと
miniDVも全てDVDにして

DVDとして子供達に渡すことにしたところ

 

 

トンガ王国で暮らしていた当初の1982年~1984年の間に撮影した

こちらも膨大なスライドフィルムもカビが生えたり

プロジェクターを使うのが面倒になってほとんどお蔵入りで

 
もう帰国報告会やいろんな場所でお見せする機会はないだろうなと思いつつ
還暦を過ぎて若い頃を思い出す懐古趣味に喜びを感じるようになっていたところ
 
桜井研次さんが急逝してご遺族にトンガの写真をお見せしようと四苦八苦していた時に
ネガ、ポジ、スライド、プリント写真をスキャンできる装置があることを知り
 
すかさず購入
 

フィルムのサイズ別のトレイがあり

そこに挟んで

セッテイング

画像を確認してSDに取り込むだけ
(↓は、1983年にSamoaで同期隊員の配属先(高校)を訪れた時のスライドフィルム)



ネガフィルムも簡単にデジタル化できちゃうんですよ
(↓ NZ旅行の時のネガフィルム)
(

 
写真プリントも中に置いてデジタル化できちゃうんです
因みに、古い昭和のアルバム写真もこれでデジタル化しちゃいました。
 
ほんの一部をご紹介すると・・・
 
 
1979年 運輸省航海訓練所練習船”青雲丸”の遠洋航海実習で
環太平洋航路でトンガに寄港した時の写真
(Ministry of Tourismの観光案内所にて)
 
(王宮近くを歩いていたたぶん公務員の女性達と)
 
名所のひとつBlowholls(潮吹き岩)にて珍しい日本人を見に集まってきた小学生たちと
 
1973年商船学校に入学後の一年生の時に
三重国体が開催され全日本陸連の役員だった父と伊勢神宮を参拝した時の写真
(当時、一年生は制服以外での外出ができない時代でした)
 
夏の高校野球大会へ応援に行った時の写真や
(右端の赤い鉢巻がわたくし
 
古い父の写真もデジタル化して取り込み
(大正3年生まれだったので、たぶん昭和一桁時代)
 
たぶん父が高校を卒業して鐘紡の実業団選手となった頃
 
生家で二歳上の兄と
(ムッチャ昭和でしょ~(笑)
 
小学校6年生の修学旅行
 
小学校5年生の林間学校
 
 
などなど
とりあえず身近にあったフィルムや写真をデジタル化してSDに保存して

 

更に、テレビで簡単に観られるようにと

ハードディスク【バッファローの”おもいでばこ”2TB】と

バックアップ用のSSDでこちらも2TBメディアを購入し

この”おもいでばこ”2TBもあるため

たぶん1万枚以上の画像と数十時間分のビデオを入れても

まだディスク容量の15%程度

 

 

デジカメやスマホであれば撮影日時別にしっかり保存してくれるので

とっても便利

(ネガやポジフィルムとプリント写真は日付登録する必要がありますが)

 

いつでも簡単に観られるので

もっぱら一人で目を細めながら昔の画像やビデオを鑑賞しては

思い出に浸ってる次第です。

 

 

最近、昔を回顧した記事を残すようになったのも

実は、この”おもでばこ”のおかげなんですよ。

 

とりあえず、同じように昔のビデオや写真等を残すことをお考えの方の

ご参考になれば幸いです。

 

 

まだスキャナーで取り込まないといけない古い写真が山ほどありますが

 

とりあえず一旦満足しちゃってるので

スキャナーいつでもお貸ししますのでお気軽にご連絡くださいね。

特にネガフィルムからの取り込みは簡単でとっても便利ですヨ

 

※終活だったら断捨離で処分しないといけないのかなぁ と思いつつ

 

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万年浦島太郎【後悔先に立たず】を痛感させられた旅の備忘録

2024-11-12 14:56:05 | 日記

 

約一月前の10月中旬

伊勢湾フェリーの蒲郡航路実証実験の乗船と

豊橋の戦後の歴史的建造物”水上ビル”の老舗居酒屋”カク一”他

忘年会の下見を兼ねて旅した時に

 

これまた前々から気になってた元養鰻場の直売鰻を試食がてら買って帰ってみたところ

これがまた超美味

 

すっかり虜になってしまい

早速文化の日の三連休を使って

まだ訪れてみたかった居酒屋と

食料品の買い出しに出掛けようとホテルを探すと

 

何故かまたまた超高額設定で

普段なら7ー8,000円で泊まれるホテルが20,000円弱

 

いつもの安宿が最後の一室だけ残っていたので

すかさず予約を入れようとすると

何故か『システム障害』で受け付けてくれず

 

やり直してみると、既に”空室なし”(要するにクリック遅れ)

 

仕方なく、何かイベントでもあるのかなと検索してみると

11月2日(土)に”炎の祭典”なる手筒花火の催しが見つかり



 

ガックリ

 

それなら仕方ないなと翌週に順延したのですが

今度はホテルから確保しようと宿泊サイトを開いてみると

特に目立ったイベントはなさそうなのに

またまた土曜日は普段の倍以上

 

ABホテルごときがなんと土曜日は17,800円 

 

 

全く同じ部屋が平日なら7,200円

 

 

田原のABは、もっとひどくて

土曜日が21,000円 

 

土曜日だったからなのか、秋の行楽シーズンだったからなのか

もう待てないな 

と金曜日に休みを取って

11月8日(金)の朝

 

名古屋方面への奈良公園向きは

朝9時までは県庁や市役所の通勤ラッシュで大渋滞するのでと

9時半に家を出たところ

 

まだ阪奈道路が大渋滞

よくよく考えたら紅葉の季節は奈良観光のハイシーズンで

あれこれと迂回路を探してようやく名阪国道、東名阪、湾岸線、国道23号バイパスを抜けて

蒲郡ICを下りれたのは13:00過ぎ

 



 

13:30 ようやく豊川のメガモールにできた”あんかけスパ”の新店舗に到着

いつもの”バイキング(チキンカツとミニソーセージ)”鉄板Lサイズを注文したのですが

粉チーズを口頭で伝えると

タッチパネルで操作しろと面倒臭そうにあしらわれ

その上、あんの味もどうにも昔とは異なり

”空腹は最高のスパイス”の筈なのに全く美味しく感じられず

期待を裏切られてガッカリ

以前は本店で食べてたのですが

この店もTVで紹介されてから全国から客が訪れるようになって

昼時ともなると大行列でウンザリしてしまい

 

その上、どうやらオーナーも代替わりして経営方針も変わった感じで

何十年も働いてた熟練のオバチャンウエイトレスも定年になったのか

それ以外の顔馴染みのスッタフも居なくなり

まだ20代そこそこの若いスタッフだらけ

 

それなりにテキパキと働いているのですが

愛想もなくまるでロボットを相手にしているような感覚

 

今時はどこに行ってもこんななのかなぁ

 

その後、両親が眠る墓に手を合わせてから

今回の旅で一番楽しみにしていた居酒屋を開店時から訪れるために

ホテルにチェックインして荷物を放り込み

 

その居酒屋の”口コミ”を調べてみると

『人気のお店なので事前に予約した方がいい』とあったので

16時半に電話して予約を入れ

期待に胸膨らませながら

時間調整しながらお店に向かいました。

 

豊橋駅の西口は、東海道新幹線ができて改札口もできたのですが

長年”裏側”の存在で怪しげな戦後のバラック時代から残る

少し怪しげな飲み屋(たぶん売春とかも残ってた)街だったのですが
最近は、”わんぱく通り”と呼ばれる若者にも人気のグルメ通りになってるんです。

豊橋駅には、南北に走る線路の両端にそれぞれ古い跨線橋があって

実は、この跨線橋のおかげで 

たしか東海道新幹線では三つしかない地上にある駅のひとつなんです。

(品川と米原がその残りで、その他はみんな高架駅)

元々は1930年に伊勢電気鉄道の宮川を渡るための鉄橋だったのが

1942年に鉄道が廃止されて橋梁も不要となったのですが

大部分は近鉄名古屋本線の揖斐川、木曽川、立田川に転用され

その一部が豊橋にも転用されたもので

以前は、この高架下にも古い飲み屋(座布団売春してる店だったとか)が並んでいたのですが

支柱の耐震補強工事をした時に全て撤去されちゃいました。

 

そうこう想い出探ししながら時間潰しして17:00に店に到着

喜び勇んで暖簾をくぐり

とりあえず瓶ビールを注文

 

オススメの1000円セットを注文して

店内を眺めてみると酒も肴も凝ったメニューだらけ

いや~、最高だなぁと喜びながら

四種の利き酒セットを飲んでから

お刺身の盛り合わせ、焼き鳥とツクネの串焼き

 

そしてこの日のマスターのオススメの鳥ハムで

 

よし、焼酎を飲もうとボトルで注文

続けてとろとろレバーと砂肝の串

砂肝はさておき、レバーは最高に美味しかった~

そして鯵フライを頼み、マスターと常連さんとの会話を楽しんでいたのですが・・・

そこそこ酔いが回ってきた頃

常連らしき女性客(たぶん50前くらい?)が来店し

カウンターの中でマスターのヘルプとフロア係の同じような年頃スタッフ2名との会話が聞こえ

 

なにやらつまらない世間のネタ(マスゴミに踊らされたデマ)を大声で

話だしたのに我慢ができなくなって

つい焼酎を注いでは飲み続け

 

とうとう空になってしまい

堪忍袋の緒が切れて『くだらない馬鹿な話ばっかするな』と大説教

 

すると、マスターにとっては大切な店のスタッフと常連の方が大切なんでしょう

こちらが咎められてすっかり興醒め

 

浦島太郎なので

三河人はそんなミーハーで薄っぺらい人間じゃない筈だぞ‼️

と怒りが収まらず

 

仕方なく清算して店を出て

前回気に入った居酒屋に向かってみると

既に時刻は9時半を過ぎていて「もう閉店です」と告げられてしまい

(10時閉店なので)

 

それならお酒はもういいやと

〆のラーメンが食べたくなって、いつもの裏駅の町中華に向かうも

同じく「すみませんもう閉店です」とのことで
また表駅に戻り

餃子の王将でタンメンと餃子でお腹を満たしてから

 

すっかり泥酔状態でホテルに戻ったものの

この辺りから記憶が定かではなくなってしまい

 

気がついたら服を着たままでベッドに横になってました。(深夜2時ごろ)

 

記憶が無くなる状態まで泥酔するなんて

ほぼ67年間の生涯で片手も経験無かったのですが

 

この時ばかりは大後悔

 

とても素敵な居酒屋だったのに

もう行けなくなっちゃったなぁ と大反省

 

実は、つい最近、団塊の世代のマスターが脳塞栓になってしまったらしく

営業は週にたった二日の金曜日と土曜日だけ

 

よくよく考えたら店内のポップも全て女性のもので

あの女性スタッフが書いたんだろうなと気づき

 

あれだけ毒づいちゃったら”出禁”で当然だし

何よりこちらの言動で不快な思いをさせてしまったと思うと

もう暖簾を潜るのも遠慮しなきゃダメだよなぁ。。。

 

その後も、その時のことを思い出し頭を抱えて溜息ばかり

 

『覆水盆に返らず』な事をしてしまいました。。。

 

そんな出来事もあり

用事を済ませて家に帰ろうと

 

チェックアウト時間ギリギリまでホテルで酔いを醒ましてから

牛丼屋で朝ごはんを食べ

小学校同級生の女子の職場でカレンダーを渡してから

田原城跡の近くにある異母姉の墓参をすませ

鰻をたっぷり買い込んでから

実家に立ち寄って焼きたて鰻を渡しほんの少しだけ雑談してから

小学校同級生の家に立ち寄ってカレンダーを投函し

御年たしか93歳になる小学校高学年時代の恩師のお宅に立ち寄って

カレンダーを手渡すと

とても嬉しそうだったので

「先生、それではまた年末に同級生の有志を連れてご挨拶に伺わせていただきますね」と伝えると

ご夫婦で「是非お願いします。楽しみに待ってます。」と笑顔で答えられ

年末に再訪する楽しみができました。

 

 

その後、城下町時代からの東海道脇の魚町にあるスーパーで生鰹と

豊橋名産のちくわ屋でオデンネタを土産用に買い

8月上旬に断食センターから戻ってからも

朝は茶粥、昼もお茶漬けと粗食で体重を維持しているため

老舗の佃煮屋にも立ち寄り

 

その後、この日は何故か口が”うどん”になってたので

老舗のうどん屋に向かうと駐車場が満車で諦め

 

帰り道にどこかで入ったらいいやと思っていたのですが

どうにも近場で見つからず午後2時近くとなってお腹ペコペコ

 

ようやく一軒のうどん屋がみつかり

最初は、味噌煮込みうどんを食べるつもりだったのに

ついガッツリのカキフライ丼のセットを注文しちゃいました。

 

その後、またまた国道23号線バイパスで帰ろうと蒲郡に向かい

IC近くのG.Sでガソリンを満タンにして(なんとリッター159円なんですよ)

 

豊明ICから湾岸線、東名阪、亀山から名阪国道をひた走り

早く家に着けたらいいなと西名阪で帰ろうと思っていた矢先

 

福住ICを過ぎたところで

”事故 福住~天理東 7キロ渋滞”との表示にガックリ

 

福住の前だったら下道で帰れたのにと、

地団駄を踏みたい気分でしたが

名阪国道の名所(?)魔のオメガカーブの難所で

とうとう抜けるのに1時間以上かかってしまいました。

 

今回の旅は 距離にして約500km 時間にして34時間弱

 

今回のお買い物は

伊賀上野のギュートラ(伊勢志摩のスーパーマーケット)で

のりの佃煮

豊橋 魚町の佃煮屋 濱金であさりとしじみの佃煮3種

生鰹

そして会社の社員さんと我が家でワケワケのお土産

 

そして焼きたて鰻(白焼きと蒲焼)を各3尾と

 

真空パックを各4尾

 

 

つい最近、薬師寺の近くにできたチェーンの鰻屋が安いと耳にして

それまでは年に一度食べるか食べないか程度だった鰻を

月イチから隔月くらいで食べていたのですが



 

 

正直に打ち明けると

価格は上うな重(一匹分)2,800円

上白焼膳(一匹分)2,800円

でも他と比べてリーズナブルで良いなと思いつつ

蒲焼のタレがどうにも安っぽいのと

国産鰻が売りだけど 泥抜きが足りないのか

臭みを感じていたものの

それくらいは我慢しなきゃいけないかなと思っていたのですが

 

 

今回みつけたこの元養鰻場のうなぎは

サイズも大きくて肉厚で臭みは皆無なうえに

タレも尾を引く美味さで

白焼き(一匹)1,800円

蒲焼き(一匹)1,900円

 

食べてる間じゅう『美味しいねぇ』と何度も呟いてしまい

食べ終わってからもまだ食べたいほど尾を引く美味さで

この値段だったらもっとちょくちょく食べたいなと

保存のきく真空パックを買い込んでしまった次第です。

 

店のまわしものではありませんが

コンビニ後払いや代引き、銀行振り込みもあるので

興味あれば一度ご賞味してみてくださいね。


 

さて、それにしても返す返すも、我が身の愚かな所業で

楽しみにしていた居酒屋に金輪際訪れられない

とても残念な結果となってしまい大反省

 

酒に飲まれるようなっちゃあダメですよねぇ

 

そんな失敗を忘れないように

備忘録として残しておきたいと思います。

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑧再赴任とそれから】

2024-11-07 13:30:46 | 日記

【その⑦からの続き】

初回の任期を満了し日本に帰国して僅か約2・5ヵ月後の1984年5月

青年海外協力隊シニア隊員としてTONGA王国に再赴任させていただいたのですが

 

その前に

このタイトルにしてるのは、昨年末に桜井研次さんが急逝したのを知り

協力隊員としてトンガに派遣されて以来

大恩人の一人だったので

桜井さんの知り合いや遺族の方々に

桜井研次さんがどんなところで青春時代を送っていたのか

知っていただこうと思った次第

 

また、想い出写真の一枚が見つかったので

先にその説明をさせていただきますね。

 

1982年10月

桜井研次さんの送別会と官舎への引継ぎを済ませた後

転勤先のVava'u島に戻るのにオセアニア航路の貨物船を使ったのですが

 

と言うのも、一般のトンガ人が船酔いし易かったのか、船の構造が悪かったのか

1981年にドイツで建造され国内フェリーとして

首都Tongatapu島のNuku’alofaとHa’apai諸島のNomuka島とPangai島

そしてVava’u島のNeiafuの間を週一で運航していたMV Olovahaがあったのですが

 

一般のTONGA人が船酔いし易かったのか

はたまた船の構造の問題で横揺れ縦揺れが酷すぎたのか

要するに”ゲロ船”だったので

 

耐えきれずNuku'alofaからNeiafuまで直行で移動時間も少ないこの船の存在を知り

その後Vava’uへの移動はこの船を利用

 

夕方出航してNeiafuには翌早朝に到着するのですが

なんせ乗客は貨物と同じ扱いで、座席もない雨ざらしの甲板で過ごすので

それを不憫に思ったのか、桜井研次さんがニンジンでキンピラをおかずにしたお弁当を作ってくれて

届けがてら見送ってくれた時の写真

(後日、桜井さんが日本に帰国してから郵便で送ってくれたもの)

桜井さんも米どころ、酒どころの新潟生まれだったので

お酒は好きでしたが、私のようなアル中ではなかったのと

 

しっかり自己管理できる人だったので

任期中の手当を貯めて、たしか任国外旅行はNZ

帰路変更では、Tongaからどこを経由したのか

Tahitiに飛び、アメリカ本土のLAの知人に会いにゆき

その後PhilippinesのManilaにも立ち寄ったと聞いたのですが

たぶんもっといろんな国を周ったんじゃないかな

 

生前にもっとその時の話も聞いとくんだったなぁ

 

 

さて、それでは話を元に戻しますね

 

協力隊員として赴任した時は

FijiのNadiからSamoaのApiaに飛び

駐在員(着任時は伊藤英明という人物)への赴任前の挨拶とブリーフィングを済ませてから

Tongaに飛んだのですが

 

この短い間に(たぶん1984年4月から)

Fijiの首都SuvaにJICA事務所が開設されたため

Samoaで赴任の挨拶をする必要が無くなり

 

更に、SuvaからNuku’alofaへの直行便があったので

日本出発から僅か4日で着けたんじゃなかったかな

 

当時Tongaに就航していた海外からの航空機は

FijiのAir Pacific、SamoaのPolynesian Airway, NZのAir Newzealandがそれぞれ週3便ほどと

American SamoaのSPIA(South Pacific Island Airways)

そして当時はリン鉱石の輸出で大金持ちの国だったNauru共和国からのNauru Airlines

 

面白かったのは、Air PacificとPolynesian Airwayが

Fiji, Samoa, Tongaの三ヵ国を

トライアングルで飛ぶ便があって

(時計回りと反時計回りがありました)

 

時としてFijiからTongaに帰るのに

いちいちSamoaを経由しなければならない事もありましたが

せいぜい半年に一度程度しか飛行機に乗れなかったので

むしろ喜んでましたねぇ。

↑これはTongaのFa’amotu airportのある日の風景

偶然、Air pacificとAir Newzealandのフライトが重なった時でした。

 

1984年の5月はシニア隊員として着任したのですが

あまりの短期間で決まったため住居の準備ができず

 

しばらくは、アメリカ平和部隊と協力隊員用に水産局が建てた

木造、ブリキ張の平屋で暮らすこととなりましたが

まだ大恋愛中だったチャンカーと一緒に過ごせるだけで幸せでしたねぇ

 

鮪延縄実習船LOFAの乗組員も

遠洋漁業から戻ってまたまたすぐに歓迎会をしてくれ

Tongaに戻るために尽力してくれた大恩人の漁労専門家の増本さんに

同期の漁具漁法隊員と後任の隊員、そしてチャンカーも勿論ご招待

(我が家の掘っ立て小屋の空き地でBBQ)

 

少しして、またLOFAに乗り込むこともありましたが

(漁労長の増本さんと船長のHene)

その頃は、後任の船舶機関隊員が気を遣ってくれたのか

積極的に船に乗り込んでくれていたため

その船に乗るのはFIJIでのドック入りの時くらいになりました。

 

前にも書いたかな

鮪延縄では、平均1日に35匹程度のビンチョウ鮪と

それ以外のバチ、イエローフィン、ブルーフィン、カジキ鮪が獲れるのですが

 

鮫は、その倍以上かかるので

(↓延縄にかかってる間に鮫に食べられたカジキマグロ)

 

可哀相に生きている時は角が怖くて近寄らないだろうに

縄で身動きが取れないとわかるのか食べられ放題

鮫は、利用できる

肝臓(病院の入院食にしてました)と鰭を切り取って

鰭は天日干しして乾燥させ、水揚げ地にいる中国人ブローカーが

買い取ってくれるので乗組員の副収入源になっていました。

 

これは、これまた大恩人のAisea Tuipulotu(右端)が

家に呼んでくれた時の一枚

 

再赴任から数か月後

ようやく水産局の官舎(日本政府がODAで水産局の施設を建てた時のもの)が空き

ブリキの掘っ立て小屋からお引っ越し

主にチャンカーと二人で暮らしていましたが

2ベッドルームもあって贅沢だなと、その後ようやくトンガにも調整員が赴任することになって

彼の住居が決まるまで、三食昼寝付きで居候させてましたねぇ(笑)

 

 

お隣さんが、水産局長のSemisi Fakahau氏の住居(Government house)だったので

彼の家族ともとっても仲良しで

長男のPitaとは伯父さんと甥っこのような間柄でした。

Semisi Fakahauは、その後農林省から水産局を独立させ水産省となってから

大臣まで務めた優秀な人物だったのですが

若い頃にPNG(パプアニューギニア)で研修を受講していた時に知り合った

看護師さんと結婚していたので

良く肝炎ワクチンの接種などもお願いしてましたねぇ

 

仕事は、前述のとおり、LOFAへは後任隊員が乗り込んでくれていたため
その他の船の整備と

当時、開始されたばかりのFAO(国連の世界食糧機構)とJICAの

小型漁船建造プロジェクトの様子を観察していたところ

(船体等の合板や接着剤等はFAOが、エンジン、無線機その他の艤装品は日本のODAで

漁業者は開発銀行からのソフトローンで購入して長期で返済するシステム)

この水産局のBoatyardには

長年、FAOの専門家として英国人とVSO(イギリス版平和部隊)の若者Devid

そして新たにイギリス流木造船の欧州人の技師がいたのですが・・・

一見良さげな設計(沖合ではポールとセールで帆走して燃費を節約する)でしたが

セーリングするための帆柱まで合板を接着剤で張り合わせたものだったり

数日間沖合での漁を過ごせるようにキャビンがあるものの

エンジンは簡単な箱を被せるだけ

 

私の天敵である大滝某は、ヨットが趣味でどうやらこの設計にも助言した模様

遊びの船ならそれで良いけど漁をするための漁船で

沿岸警備隊も海上保安庁もない絶海の島々で

気象庁も天気予報もできない場所で

もし荒天に遭遇したら

こんな船じゃあもたないだろうなと想像したとおり

 

引き渡されたばかりの一隻が嵐に遭遇し

浸水してエンジンは停止し海に放り出され乗組員全員行方不明

この↓中心の黒い丸いのが手動の排水ポンプ

こんな船体で浸水したら沈没するのがわかりきってるだろ

と、私の所掌ではありませんでしたがどうにも我慢できず

船体からエンジンの設置その他もろもろ大改造をする陣頭指揮をとってしまいました。

 

それからも大滝某

ど素人のクセに馬鹿な提案ばかり

 

ある日、水産局長のSemisiが相談に来て

どうしたのかと話を聞くと

欧米人とばかりと仲良くしていた大滝が

Vava’uにできたヨーロッパ人が始めたヨット用のスリップを

水産局の船のドックで使って欲しいと頼まれ

安請け合いしたものの、私を信頼しているSemisiには言えないので

農林省の上層部にドック経費を軽減できると進言し

農林省からSemisiに指示があったらしく

『Masa, 本当に大丈夫だろうか?』との問合せだったので

 

「現地で調査してくるから待ってて」と伝え

Vava’uへ飛び 確認したらこの有様↓ 

狭くて、短くて

満ち潮になったら海水に浸かってしまうので

プロペラ軸を抜くこともできないし

喫水下の船体塗装も勿論無理

 

その上、こんなチャチな船台が重量に耐えられるわけがなく

たぶん転倒してクレーンもないVava’uではそのまま廃船になるだろうなと

ど素人の浅慮な発想にビックリ

水産局に戻って

使えない理由を箇条書きにして渡し

ことなきを得ましたが

 

もし自分が戻ってなかったらどうなってただろうかと

背筋が凍る思いにさせられました。

 

因みにそのスリップに入れようとしたのが この鰹一本釣り漁船

 

この大滝某は、延長を続けてトンガに居座るつもりだったので

その後、JICA事務所長に『使えないどころか大問題を起こしそうな専門家は不要です』

と進言してたしか3年ほどで帰国させたのですが

 

縁故で専門家にさせたJICA職員(伊藤英明元駐在員)が

何を思ってかSAMOAにまた専門家として派遣したのですが

(現地に専門家派遣要請を無理やりさせた様子)

 

私がその昔、船会社で働いていた頃に

大型貨物船の船尾管のパッキン交換をするために

潜水士を頼んで船尾管に防水処理を施し

接岸中に交換したことがあったと話していたのを思い出したのか

 

↑の鰹一本釣り船と同型船を

岸壁に係留したままで聞きかじりだけの知識で防水処置して

パッキンを取り外したところ浸水して沈没

そのまま廃船にしてしまったと伝聞したのですが

 

ど素人を専門家にして派遣した伊藤英明氏にも責任があるし

糾弾されなければならないと思ったものでした。

 

 

おっと、つい怒りに燃えて吐露してしまいました。

 

 

【ここからはランダムにトンガでの生活風景を貼り付けさせていただきますね】

その後の現地での生活に話を戻すと

長年、日本からのODAは水産局関係の援助だけだったのが

チャンカーの教育関係も始まり

その後、国立病院の臨床検査センターのプロジェクトも開始して

厚生省の臨床検査技師の専門家も数名赴任して

その家族も暮らすようになって賑やかになりました

(医療プロジェクトの調整員の子供と)

↓は、チャンカーと黒い服の女性がトンガ外務省のキャリア

日本へも高級研修員として受講していたため少し日本語も話せてとっても助かりました

こちらはまたまた仲良しだったトンガ警察の交通課

FIJIのJICA事務所長の河西さんとその後ろが医療プロジェクトのリーダー(ホダテさん)

元東京大学医科学研究所の院長で協力隊の顧問医だった大谷さんが来トンした時の記念写真

(Capt. Cock landing tree碑にて)

右端から家政隊員の西澤範子さん、理数科教師の千田さん

大谷さん、調整員の小野チンと私

 

チャンカーと同じ、小学校教師への再教育で派遣されていた理数科教師の深谷さん

調整員が派遣され、隊員の連絡事務所にした建物と敷地

調整員の小野チン

シニア隊員で再派遣されて約1年後の1985年4月

またまたLOFAに乗船してた時

乗船中は海水シャワーしか浴びれられないため

針路に雨雲を見つけると

石鹸とシャンプーを手に甲板に上り

急いで洗髪して身体を洗って髭剃りをと凌いでいたのですが

 

ある日雨雲が小さすぎて途中で雨が止んでしまい

仕方なく甲板に溜まった水で髭剃りをしたのが悪かったようで

傷口から黴菌が入ったらしく左顎が化膿してしまい

腫れあがって抗生物質を飲んでも治らずにいたのですが

 

半年毎の健康診断でFIJIへ行く予定があり

現地で懇親会にご招待していただいていたところ

 

レストランのトイレで在FIJI大使館の書記官だった穴田浩一さんと

すれ違ったところ、シルエットで私の顔が変形しているのに気づき

『大丈夫ですか?』と心配されたのに驚き

 

その時に専門家としてFIJIへ派遣されていた協力隊OBの高野さんの家にお呼ばれした時に
看護師OGだった奥さんに相談したところ

針を焙って中の膿を出すのが良いかもとのアドバイスで

その施術をしてもらったのですが

化膿している場所が奥深すぎて膿が出ず

仕方なく健康診断を終えてTONGAに戻り

 

国立病院の外科で簡単な切開手術をしてもらうことになり

当初、手術室でと言われたのを

「この程度だから外来の施術室で大丈夫」と断って

注射器で麻酔をしてからメスで切開して膿を取り出して

一安心して、前々からチャンカーと予定していた任国外旅行に出発し

 

約一月、NZをほぼ一周して旅行を楽しんだのですが・・・

(当時のNZの公共交通機関は国鉄のみだったので、決めた期間内乗り放題のチケットがありました)

この時は、2週間乗り放題のチケットで有効的に周遊しようと

Aucklandから首都のWerringtonまでの寝台列車とWerringtonからChrist church経由でMt. Cockに飛び

Queens' Townからパスを使ったんだったかな?

いずれにしても、丸々1ケ月NZの隅から隅まで堪能させてもらいました。

南島の田舎では、何度もこんな場面に出くわし

定期バスの運転手が新聞配達も兼ね

窓から放り投げて配達する光景に目が点(笑)

 

そんな楽しい時間を過ごしてからTONGAに戻り

また普段の日常生活を送っていたのですが

 

たしか8月末だったか

また海に潜ってLOFAのプロペラ軸に絡まった枝縄を除去して

連絡事務所で”おつかれさま”ビールを飲もうとしたところ

口元まで缶を持っていってるのに

どうにも唇をつける気(飲む気)になれず

 

『おかしいなぁ』と思ったところ

居合わせた隊員から「長坂さん、目が真っ黄色ですよ!」と言われ

大焦り

 

その頃、何人かA型肝炎にかかっていたので

てっきりA型肝炎だろうから急性期を過ぎたら治るだろうと高を括っていたのですが

 

【その⑨劇症肝炎で生死の境を彷徨う】

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑦任期満了で帰国するつもりが】

2024-10-29 17:39:00 | 日記

いつまでも思い出話ばかりですみません。

 

最近、友人や知人もこのブログを閲覧してくれてるようなので

当時の事を知ってもらいたいなと

備忘録を兼ねて記事を続けさせていただきますね。

 

さて、鮪延縄実習船に乗船していた時の様子

(↓操舵室の隣の機関長室での執務風景)

前述したとおり、寄港した時に船の保守整備を徹底していたので

操業中にトラブルが発生することはなく

機関室での当直業務はエンジニアに任せて

乗船中は、専ら部屋でドックオーダー作り

こちらは、またまた前述のとおり

トンガ王国は憲法で日曜日は安息日として労働が禁止されているため

沖では操業を休止して趣味と実益を兼ねて乗組員個人の底釣り日

そもそも広い海域にもかかわらず沖合に出る漁師も漁船もないため

延縄で使った餌のサンマを使うからかいつも豊漁

首都に戻った時の家族へのお土産や市場での販売用に売れて個人収入となるため

みな喜喜として底釣りに励んでました。(安息日なのにいいのかな?と思いつつ

その後、現地での活動と生活を送りながら 

派遣された翌年の1983年の8月にも

当時交際していたGFがその年はFIJIまで来てくれて

私も年に1月与えられる休暇を利用して

隊員に許されていた任国外旅行としてFIJIに飛び

首都Suvaのアパートメント式ホテルに滞在して

久しぶりの再会を楽しんだのですが・・・

 

実はこの時、GFのふるまいから自分が覚えている様子と異なることを不審に思い

更に、ある日どうにも寂しくなって高額な電話代を払って国際電話をかけた時に

なぜか彼女の代わりに普段別居している妹が出て

(彼女は)どこにいるのかと尋ねると、即答できずに狼狽した時があったのを思い出し

直感で別の男性と付き合ってるなと気づいてしまい

問い質すと「(あなたが)居なくなって寂しさを紛らわすためだった」と白状したものの

「それだったら、なんでわざわざFIJIまで来たんだ。」と突然の告白に呆然自失

 

「旅の予定をキャンセルして、もうトンガに帰るから日本に帰れ」と告げたものの

泣いて謝る彼女をそのまま見捨てられず

「しばらく時間を置いて考えよう」と結論を先延ばし予定の日まで過ごしたのですが

 

実は、協力隊で派遣されることとなった時に

「私たちの関係はどうなるの?」と聞かれ

「2年の任期が満了するまで付き合っていられたら結婚しよう」

と話していたのですが

 

たぶん何かのキッカケで将来諍いとなったら

このことを苦々しく思い出して責めちゃうだろうなと

「やはり無理だったか。。。」と諦めをつけ

 

トンガに帰国してから日本へ別れの手紙を送り

彼女の送ってくれたAir Mail、たぶん百通以上ありましたが

未練を残さないようにと全て燃やし

辛い別れとなって傷心の日々を送っていたのですが

 

 その心の傷を癒やすように

現地では超可愛子ちゃんで有名だった

鰐淵晴子似の娘と恋愛したり

精神的な安らぎを求めて

彷徨っていた最中

 

トンガ🇹🇴王国初の

女性隊員として赴任してきたのが

いまのチャンカー🤣 

 

これは前にも載せた乗組員が食べ物を持ち込んでくれての

我が家での懇親会の一日(たぶんクリスマスかな?)

チャンカーと、何度も鮪延縄船に一緒に乗船していて仲良しだった専門家の増本さんと

この時はご馳走の子豚の丸焼きも持って来てくれた時の写真の一枚

 

実は、私の最初の任期が満了する3月前の1983年10月

トンガ教育省へ小学校の教師向け理数科教師として派遣されてきた

(なんせ当時は学校の先生も”数の概念”を理解しておらず
算数も指導要領を黒板に板書するだけで、子供達への理解ができていなかったため

日本政府のODAで首都のあるTongatapu島の東西二箇所に小学校を建設し

併せて教師を再教育するプロジェクトが開始)

その数学教師隊員と恋に落ちてしまい

 

公然と付き合うようになっていたのですが・・・

 

それでも任期がきたら帰国するしかないなと思っていたところ

[↓この辺り、もしかしたら自分に良いように記憶変えちゃってるかも

[チャンカーと大恋愛してるの知ってたアイセアが慮って次長に延長の話を持っていってくれたような

[いずれにしても、延長を申請しなかった経緯を話した記憶はありますねぇ]

 

ある日、水産局の次長のTaniela Koloaが話があるとのことで部屋に行ってみると

「Masa, もうすぐ任期満了だけど、MasaはTongaの事が嫌いだったのか?同期のHiromiは延長するのに」と問われ

「ん?今頃どうしたの?1年前に大滝(どうしようもない専門家)から任期延長するのか聞かれた時に

『自分の意志よりもトンガ側がどう思ってるかで決めたい』と尋ねたら

”どっちでもいい”と言われたと聞いて『そんなつもりなら2年で帰る』と答えたんだけど?」と伝えると

 

実は、この大滝明という一応名目は”漁船エンジン専門家”

ただの三流私学大の工学部卒で

船舶の免状も持たず、船舶機関など取扱い経験もないし

全くのど素人のくせにJICA職員の縁故で高給取りの専門家になった人物で

その道のプロを自認していた私が疎ましかったようで

面と向かっては何も言えないので陰で嫌がらせばかりしていた輩

 

「水産局は、Masaが来てとても感謝していてできれば延長して欲しいと願ってるんだよ」と言われ

大仰天

 

実は、兄弟のように仲良くしてたAisea Tuipulotu(通称アイセア)が

チャンカーと大恋愛中してて離れがたい想いでいると察知して

次長に進言してくれたらしく

 

「そこまで言ってくれるなら、延長してもいいよ」と快諾

次長はすぐに外交文書を作成して正式ルートで任期延長の申請をしてくれたのですが

(Tonga水産省=農林水産省→Tonga外務省→在FIJI日本大使館→日本の外務省→協力隊事務局)

 

当時、トンガには大使館もJICA事務所も駐在員も調整員もおらず

隣国のサモアの駐在員(豊島一郎さん)が3月に一度訪れて隊員の様子を窺ったり

トンガ政府との調整をしていたのですが

その要請を受けて確認と状況説明のために来トンしてきて

現場の状況を良く知る専門家の増本さんを交えて面談したところ

 

①交替要員の協力隊候補生が訓練所で、1月末には派遣される予定になっている

②在FIJI日本大使館の担当書記官が、大滝専門家から彼女ができて延長したくなったと聞いていて難色を示している

③いずれにしても時間切れで延長申請は受け入れられない

なので任期延長は諦めてくれとの話だったのですが

 

※この辺りも少し補足説明しますね。

当時、日本側の管轄が複雑で

TONGA王国はFiji大使館の管轄

SAMOAはNewzelandの管轄

但し、協力隊員は派遣人数の多いSAMOAにしか駐在員を置いていなかったため

 

隊員業務(報告書の提出先とか現地との調整)では問題ないものの

そうした外交上のルートではTONGAはFiji管轄だったので

SAMOAの駐在員は口出しができなかったのです。

 

 

同席していた増本さんが、駐在員の豊島さんに

「長坂君がどれほど水産局、ひいてはトンガに貢献してくれてるか説明させてください」

「彼のおかげで鮪延縄船がトラブルなく操業できるようになって、

その上自分達で整備してくれるからドック費用も激減して巨額の外貨収入に貢献してくれてるんです」

「それにも関わらず青年海外協力隊の僅かな手当だけで、遠洋漁業の鮪船に乗り組んでくれているんですよ」

「延長がダメなら、専門家として再派遣してください」

「大滝が邪魔して長坂君が戻ってこれないなんて我慢できないんです」

と、涙ながらに怒りを込めて訴えてくれたこともあって

 

駐在員の豊島さんも、納得してくれて

まだ若干25歳とあって、JICA専門家は無理なので

青年海外協力隊のシニア試験(主に語学試験)を受けてシニア隊員として再派遣できるようと尽力してくれて

 

実は、英語なら英検一級並みの語学力でないとシニア試験にパスできないため

わざわざトンガ語での受験ができるように事務局に話をつけてくれたのですが

 

実は、その漁船エンジン専門家なる輩と

私の交替隊員(船舶機関隊員)が派遣されるため

私が戻ってきたら同じような職種の人間が狭くて小さな国に3名は不要だと

先に述べた在FIJI日本大使館のODA担当書記官が難色を示し
私の派遣要請書を差し戻ししていたんです。

 

駐在員の豊島さんがそれらを含めた状況を

水産局長のSemisi Fakahauにその旨を伝えてくれていたため

水産局全員が参加してのFarewell Party(歓送会)では

「私のいま一番の仕事は、Masaを日本から呼び戻すこと」と宣言してくれ

 

さて、いったいどうなっちゃうのかな  と不安に思いつつ

当時は、任期満了のご褒美のように与えられていた帰路変更をせずに

帰国限度日までトンガで過ごし離任日を迎え

チャンカーと増本さんに見送られての旅立ちとなりました。

(↓は、トンガを離れる日にチャンカーの暮らしていたGovernment house前にて)

 

TongatapuのFaamotu Airportにて再派遣への道を作ってくれた

漁労の専門家増本有三さんと

この時、日本への帰国ルートとして

TongatapuからAmerican SamoaのPagopagoに飛び

そこからHawaiian AirでHonolulu経由で成田から入国するのが

最も移動時間も少なく安価だと勧められ

 

Tongatapuから双発の小型機でAmerican Samoaに飛び

大型ジェット機に乗り換えてPagopagoを飛び立って数時間

2年ぶりに見る眩いばかりの光の洪水の夜景に見惚れながら

Honolulu空港に到着したのですが・・・

チケットを手配してくれた航空代理店で

Hawaiiは乗り換えのTransitだけだからVisaは不要と聞いてたのに

 

Honolulu空港で成田行きの飛行機に乗り換えようと思っていたところ

入管で入国を拒否されて別室に連れていかれ

結局不法入国扱いとなって、飛行機会社負担で成田便に搭乗するまで警備員が貼りつくことに

 

トイレの中まで離れずについてこられたのには困りましたねぇ

たしかJALの747だったと思うけど

ボーディングゲートで日本人観光客が山ほど待ってるその前を

警備員に連れられてCA以外誰も乗り込んでいない機内に移され

『犯罪者の移送?』と訝しそうな視線を浴びながら

成田に到着

 

Honoluluでも突然文明社会に放り込まれたような衝撃だったのに

2年前に出国した成田空港のターミナルビルがあまりにモダンで嬉しくて動けなくなり

数時間、施設内を彷徨ってから東京駅行のリムジンバスに乗り込んだのですが

窓にかじりつくようにして外を眺め続け

 

東京駅に到着してからも、協力隊に参加するまで働いていた船会社が八重洲にあったので

かってはランチで良く使ってた飲食店が懐かしくてまたまた八重洲界隈を徘徊

(この日、東京は大雪で歩道を歩くのも苦労するほどの積雪)

 

ようやく気持ちを落ち着けてタクシーに乗り込み

広尾にあった協力隊事務局に到着したのですが

成田空港に昼頃到着したのに 広尾では既に夜8時頃

それも週末で職員は誰もおらず警備員のみ

 

どこか泊まるところはありませんか?と尋ねると

「帰国隊員は、いろんな病気持って帰ってくるから泊めてくれるホテルなかなか無いんですよ」

と言われたものの

雪の積もった中で放っておくこともできないと思ってくれたのか

直ぐ近くにあった”麻布高知寮(高知県の東京出張者のための宿泊施設)”に連絡を取って許可をもらい

和室の部屋で荷物を広げたのがこの写真↓

その後、とりあえず晩御飯と言うよりも居酒屋に行きたくて

訓練中によく訪れてた広尾商店街の赤提灯に飛び込んだのですが

 

演歌が流れ、お品書きで埋まった壁を眺めながら

全部食べたい衝動に駆られ

「それじゃあ、とりあえず熱燗の大徳利2本とそのお品書きの端から順番にお願いします」

と注文しちゃいましたねぇ(笑)

 

その後、帰国後の健康診断や事務局での報告や再就職の進路相談などの手続きで

数日広尾で過ごしたのですが

 

前述のとおり、私はシニア試験を受ける事となっていたため

進路相談課でその旨を伝えると

 

実は、チャンカーはその隊では有名な女子隊員だったらしく

赴任したそうそう悪い虫がついたと噂されてたようで

「そんな現地語の試験、誰が問題を作ってヒヤリングや採点できるんだ」と

苦々し気に冷たく突き放すように嫌味を込めて言われたのですが

 

 

それでも別部署でトンガ語でシニア試験を受験できると告げられ

トンガを離れる前に急遽手に入れた”トンガ語の教本”

INTENSIVE COURSE IN TONGANで猛勉強

実は、アメリカ平和部隊の語学用に作られたもので

なんとレッスン130を含めて723ページの本なのですが

全て丸暗記してしまうほど何十回も復習したんです。

 

それも実家では子供の頃から宿題を一度もしたことがなかったので

集中できないなと 

上京して都内のビジネスホテルに泊まりこみで猛勉強

私の人生で、あれだけ必死になって勉強したのって

あれが最初で最後だったかも

 

Tonga語は、Polynesia語のひとつで

日本語と同じように母音との組み合わせのため

発音や読みは苦労しませんでしたが

 

なんせ1777年にCapt. Cookによって発見されるまで

文明から取り残された未開の地で

文字もなく口承伝承だけ

 

なのでボキャブラリーも少なくて一見楽そうなんですが

文法は複雑怪奇そのもので

前置詞と後置詞があって

所有代名詞、複数所有代名詞、二重不定詞、

その上人称(一人、二人、三人)で変化と超複雑

更に庶民の一般会話では必要ありませんでしたが

平民語、貴族語、王族語があるんですよ。

 

そしてようやくシニア試験を受験することとなったのですが

実は、たった一人では実施できないとの条件があったため

 

そこで事務局の担当者が既に1年以上前に帰国して

横浜で暮らしていた桜井研次さんに依頼して

一緒に受験してもらうことで実現となったと聞き

 

桜井さんにお礼方々

その後再派遣となるまでの3ケ月

お休みの前日は桜井さんのアパートに泊めてもらい

ほぼ毎週のように歓談しながら居酒屋で盃を交わしていただきました。

 

桜井さんは、新潟の南魚沼の出身で

専門学校で冷凍機技術を習得して

協力隊に参加するまでも横浜の企業で働いていて

 

帰国してからもまた古巣の横浜(浅間台)のアパートに住み

仕事を終えてから

渋谷の鍼灸の夜学の専門学校に通い

数年かけて鍼灸師の資格を取ったのですが

 

結局独立するのが難しいと

資格を取ったものの、その後もずっと空調と冷凍機関係の仕事に従事してました。

 

 

さて、駐在員だった豊島一郎さんのことも少しお話させていただきますね。

 

実は、豊島さんは元広尾訓練所の所長で、大酒飲みで

訓練生達と本音で語り合いたいと訓練所内で酒を飲ませたところ

泥酔した訓練生が宿舎を壊すなどの大事件を起こし

 

それが原因で、訓練所長を辞めさせられ

辞職を覚悟して家に帰ったところ

奧さんから「あなたが信念を持ってしたことでしょう?だったらそれでいいじゃない」と言われ

 

その後、左遷でケニア駐在員となって

普通ではありえない、ケニアからサモアにそのまま転勤となった不遇の人生を送ることになったのですが

”男豊島”と隊員から慕われた人物で

 

1983年に中曽根首相がアセアン諸国を歴訪した時に

『将来の国造りを担う青年をわが国に約1ヶ月間招聘し、友好・協力関係を培う』

”21世紀のための友情計画”を提唱し

豊島さんの実力が認められその初代のアセアン青年招聘室長に任命され

ほぼ私と同時期に栄転帰国していたんです。

 

その前に、トンガ水産局長のSemisi Fakahauに

邪魔をする日本大使館を飛び越えるウルトラCを伝授してくれたようで

 

通常の外交ルートである在FIJI日本大使館を通さなくてもよい

トンガ王国の外務大臣から日本の外務大臣への”大臣親書”を送ってもらい

 

当時の外務大臣”安倍晋太郎氏”から

なんと外務省の特殊法人だった国際協力事業団(JICA)傘下の

青年海外協力隊事務局へ通達がなされていたのでした。

当時の派遣担当部署のトンガ担当者から

「外務大臣から直々に派遣の指示書が送られてきてビックリしたよ」

と聞いて、こちらもそれ以上にビックリ

 

 

実は、豊島さんの奥さんが陰の支援者で

トンガ出張の時や半年毎の健康診断でサモアを訪れた時に

私の事をとても気に入ってくれてたため

豊島さんからトンガ水産局が再派遣を切望してるとの話を聞いて

『絶対に実現してあげて』と頼んでいてくれたのを

後日知ったのですが

 

飛び上がるほど嬉しかったですね~

 

(↓1984年9月定期健康診断のためトンガ派遣中の隊員とサモアに出張した時の一枚)

(私の右隣の車に座っているのが豊島夫人)

とはいえ、シニア試験に無事合格できたのか不安でいっぱいだったところ

 

ある日サモアの協力隊OBとOGの結婚式があり

披露宴に招待していただいていたため会場に向かったところ

 

豊島さんご夫妻もいらしゃって

奧さんの方から歩み寄ってきて

「長坂君、シニア合格おめでとう」と言っていただいたのですが

 

正直、合格に至ることができたのか不安だったので

「いえ、それが合格点に達することができたのか自信がないんですよ」と答えると

 

「あら、心配いらないわよ。あのね、試験前から決まってるのよ

「だって、長坂君のためにトンガ語の試験をわざわざ作ったんだから

と笑いながら話してくれて、目玉が飛び出しそうになりました 

 

数日後、合格通知が届き、即座に派遣日も決まり

帰国から約二月後の1984年5月

 

2年半前と同じ

FIJI経由でTongaに向かいました。

 

青年海外協力隊のシニア隊員とは

現地手当も国内積立金も現地での待遇もその他の条件も(妻帯者は帯同も可能)一般隊員とは段違い

 

この時は、FIJIの首都Suvaでいつか泊まってみたかった

GPH(Grand pacific Hotel)に泊まり

大使館での表敬訪問を終えて

ワクワクしながらトンガ行のフライトを待ちました

 

辛いことも山ほど体験しましたが

それ以上にいろんな人に助けられて

信じられないような幸せな人生を送ることができて

いまでも思い出すたびに

あの時期はこの世の春を謳歌させていただいたなぁと感謝している次第です。

 

【その⑧に続く】

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またどっぷりとドラマの世界に浸り感情移入しちゃいました。【母の待つ里】

2024-10-20 16:19:36 | 日記

 

先日もシリーズで9月末のその旅を記事にさせていただきましたが

 

朝ドラ”あまちゃん”にはまり込み

ロケ地の聖地(袖ヶ浜→小袖海岸)を訪れて

未だ余韻に浸ってるところなんですが

 

実は、あのドラマで特に個人的に気に入ってしまったキャストが

①夏バッパ(宮本信子)

②鈴鹿ひろみ(薬師丸ひろ子)

③海女クラブ弥生さん(渡辺えり)

 

※ 実在してたら訪れてみたかった場所は

喫茶リアス&スナック梨明日と常連メンバー

無頼鮨

 

そんな想いがますます強くなっていたところに

ネットニュースで

宮本信子さん主演のドラマ【母の待つ里】を知り

 

↓ 短い予告編もあるのでよろしければご覧ください。

https://www.nhk.jp/p/ts/L66351K8RG/movie/

 

 

初回の第1話・第2話を見逃していたので

焦って第3話・最終話を録画して

 

精神的にゆとりのできた昨日

ようやく第1話・第2話をU-Nextのトライアルで視聴し

続けて録画しておいた第3話・最終話を観て大感動

今朝も録画している分を何度も観て

涙涙で感涙しながら瞼を腫らしておりました。

 

ネタバレしては申し訳ないので

詳細については書きませんが

いいドラマでしたよ~

 

現実には

”藤原ちよ”さんのような母が存在するわけもなく

あくまでも夢物語とわかっていても


あの里であの母に出会ったら

何度もリピーターになって

移住したくなっちゃうだろうなぁ

 

自分も中学校卒業して生家を離れ

勿論、学生時代の休暇には帰省していましたが

18歳になったばかりで心臓が弱ってた父が急逝

 

その後も学業と卒業後は上京して地元を離れたものの

青年海外協力隊員になってから劇症肝炎で緊急帰国して

再派遣するまでの間、半年近く自宅療養してた時期もあって

母と実家で過ごした期間もありましたが

 

またまた海外派遣となって32歳で帰国したものの

その後は関西で暮らすようになって

盆暮れに帰省する程度となっていたところ

 

42歳の時に母は脳梗塞で倒れ脊髄を痛め

寝たままからそのまま認知症となってしまい

ショートステイ以外は兄嫁のお世話になりながら

家で介護をしてもらっていたため

多い時には月に2・3度とお見舞いに訪れていたものの

まともに会話する機会なく私が50歳の時に亡くなってしまい

 

とうとう親孝行できないままお別れしたなと

心残りだったこともあって

このドラマが心の琴線に触れてしまったようです。

 

 

それにしても

映画”夜叉”といい

5年ほど前には、中国上海からの帰路に

大阪までの客船”新鑑真号”に乗船したところ

船内で放送していた中国のTV番組で観た

”深夜食堂”にハマりこみ

新宿二丁目を彷徨ったもの当然のことながら実在せず

ガッカリと肩を落としたこともありましたし

 

火野正平さんのにっぽん縦断こころ旅で

訪れた”こころの風景”やランチに立ち寄った店にも行きたくなって

これまでにもそこそこ日本各地津々浦々徘徊してきて

 

先日は、記事にもした”あまちゃん”にハマり

ロケ地の聖地巡礼してきたばかり

 

こんな映画やドラマに感情移入してしまう気質、

調べてみたら

HSP(Highly Sensitive Person:敏感気質)
って言うんだとか
 
 
今回は、撮影時期と同じ4月の桜の咲く季節に
ロケ地を歩いてみようと妄想中
 
駅、バス、曲がり家、佐々木酒店、お寺
を航空写真で探して
 
古い民家風の民宿に泊まって
ジンギスカン食べて
浄土ヶ浜に行って
 
ついでにまたまた”にっぽん縦断こころ旅”で訪れた場所や
宮古の居酒屋に立ち寄ろうと
いまからワクワクしてるところなんですよ。
 
 
さて、しばらくドラマで出てきた風景の場所探しで
忙しくなるぞ~
 
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たいした鉄道マニアでもないのに、どうしてそんなに豊橋鉄道に詳しいのか?[種明かし]【加筆】

2024-10-17 15:23:05 | 日記

前回の記事で

豊橋鉄道の市電と渥美線の車輛の型式を

知ったかぶりして書いた[種明かし]

しておこうと思います。

 

まず、私にとって豊橋鉄道は

 

昭和39年、豊橋市立福岡小学校1年生の時の秋の遠足が

当時、市電(路面電車)の支線の始発駅だった”柳生橋”電停から

貸切車両で吉田城にあった動物園までの移動に使ったのがあまりに楽しくて

(ただ柳生橋までどうやって行ったのかは記憶なし

 

柳生橋から市電で動物園に行けることを覚え

翌週、すぐに家の近所の洟垂れ小僧達を引き連れて

1.2km離れた柳生橋まで歩いて向かい

 

市電に乗り、新川電停で本線に乗り換えて動物園まで行き

帰りは豊橋駅に出て丸物百貨店の前を歩いていたところ

 

たぶん仕事帰りだった担任の竹村先生(女)を見かけ

喜んで声をかけたところ

 

「あら長坂君、お母さんと来たの?」と問われ

「ううん、自分たちだけで来た動物園行ってたんだよ」と自慢げに答えたところ

 

先生は驚愕して大慌て

その後、家まで連れていかれたのか覚えていませんが

 

翌日、学校に登校すると

校長室に連れていかれて校長先生直々大目玉

 

実は、父親が当時市役所に勤めていて

市役所は吉田城の隣にあったこともあり

幼稚園児の頃から母や姉、兄と何度も訪れていて

勝手知ったる場所だったので

『なんで怒られちゃったのかなぁ?』と合点がいきませんでしたが

 

 

(因みに、生家から豊橋駅までが2km、市役所まで3kmで

普段家族で外食や駅前の百貨店&繁華街へ出る時は路線バスに乗っていましたが

隣の小学校の校区だったので”遠い”との印象はありませんでした)

 

そんな出来事があったため

市電には特別な思い出があり

 

渥美線も最寄りの路線バスの停留所のすぐ裏を走っていて

当時、路線バスは伊良湖岬行、太平洋側の表浜行、ニチボー行、トピー工業行と

5・6分間隔であったため

駅前へ出る時にあまり利用することはありませんでしたが

ごくごく普段の生活の中で目にする交通機関でした。

 

特に、中学校を卒業して豊橋を離れてからは

帰省してもほとんど利用する機会もなく、あまり気にしていませんでしたが

 

駅前の再開発で渥美線の新豊橋駅が取り壊されると聞いて

愛車のMini Cooperで写真を撮りに行った時の一枚

【平成20年3月14日撮影】

 

更に、レトロ感満載で大好きだった渥美線の柳生橋駅も取り壊されると聞いて

またまた急いで写真に残してきました。

【平成21年2月21日撮影】

これが平成20年代まで残ってたんですよ~

 

 

そんな出来事もありましたが

またまたほぼ”市電&渥美線”のことを忘れかけていたところ

 

ネットで豊橋鉄道100年を記念して

美術館で”市電と渥美線”展が催されることを知らされ

 

以前の記事でも書かせていただきましたが

断食センターへ向かう前に

時間をかけてじっくりと拝観し

図録も購入していたんです。

これが”種明かし” 

 

図録のなかにこれまで使われてた車両の型式や年代

写真まで載せてくれてたので

わかっちゃったって訳です。

 

 

豊橋という土地は

元々が東海道の城下町(吉田藩)で江戸側から数えて34番目の宿場町

 

『吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が』と詠われたところ

(飯盛り女が多かったらしいです。

 

その後、明治維新で近代的な軍隊の整備が進められ

明治17年に名古屋で創設されて第三師団下の豊橋陸軍歩兵第18連隊が

日露戦争後には、陸軍第15師団が増設されることなり

誘致合戦の結果、豊橋への駐屯が決まり

 

師団の司令部が置かれ、高師原、天伯原の広大な台地が

満州の地形に似ていたことから演習場が作られ

 

当時人口4万人ほどの土地に

軍関係だけで2万人が加わって地域経済が活性化してインフラの整備も進み

豊橋のまちは一気に近代化されたんだそうです。

 

(昭和18年には、三河湾の洲を埋め立てて造られた大崎島が

海軍の航空隊の基地となって飛行場もあったんです。

 

そのひとつが1924年に開業した渥美線と市電

 

豊橋駅から北東約1.5kmの吉田城跡に陸軍歩兵第18連隊

 

豊橋駅からほぼ真南2.5kmの高師原に

日露戦争の際に大陸で編成された第十五師団を置くことが決定され

約50万坪の敷地に多くの施設がつくられ

第15師団司令部・歩兵第69連隊・兵器支廠・騎兵第19連隊

騎兵第25連隊・騎兵第26連隊・野砲兵第21連隊・輛砲兵第15大隊

衛生病院・衛生監獄・憲兵隊本部・豊橋陸軍教導学校・陸軍予備士官学校

関連した軍需工場も設置され

 

などと

 

渥美半島の先端伊良湖には

陸軍研究所伊良湖試験場があり

 

更には現伊勢湾フェリーで鳥羽に渡り

伊勢神宮への参拝客を取り込む計画もあり

 

渥美線は国有化して伊良湖の手前”福江・堀切”まで延伸する予定だったんです。

(昭和までレールと電線はないものの、三河田原の先まで線路跡は残ってました)

 

それらの施設や兵舎(兵隊)の交通手段としての

需要が見込まれ計画され作られたもの

 

結局終戦前年の1944年に戦況の悪化と資金難から

三河田原駅以西は不要不急路線として休止されてしまいました。

 

また、人口が流入してきたことから

廓の需要も激増し

江戸時代から東海道の旅人で栄えた宿場町の札木・上伝馬の遊郭では

賄いきれなくなり(一説には性病が蔓延したの移転の理由)

吉田城(歩兵第18連隊)からほぼ真東約2kmの東田に遊郭を移転させ

〔渥美線の小池駅近くにも小池遊郭がありました〕

 

更には競馬場(現競輪場)もあり

それらへのアクセスとして市電が計画され設立されたようです。

 

そんな背景もあって

展示されている資料を見ながら改めて豊橋の生い立ちを再認識

 

 

 

↓ 黄色い部分が陸軍歩兵第18連隊

 

 

 

 

と言うことで、もしかしたら豊橋っ子がブログをのぞくこともあるかもと

 

ご参考までに

図録を貼り付けておきますね。

↓ 第15師団を中心に設置された高師の施設

歩兵第69連隊(現:愛知大学)

第15師団司令部(現:愛知大学

兵器支廠(現:南部中学校、栄小学校)

騎兵第19連隊(現:福岡小学校)

騎兵第25連隊(現:盲学校、以前は製綱工場も)

騎兵第26連隊(現:ユタカ自動車学校 それ以前は紡績工場)

野砲兵第21連隊(現:時習館高校)

輛砲兵第15大隊(現:豊橋工業高校、聾学校)

衛生病院(元国立病院)

衛生監獄(元紡績工場?)

 

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑥Nuku’alofaでの生活編】

2024-10-08 16:01:45 | 日記

1982年 12月

ようやく鮪延縄漁業訓練船”Lofa”のNuku’alofaの岸壁での保守整備

(エンジン3台をオーバーホール)と

American Samoaでのドック入りを済ませ

 

久しぶりにNuku’alofaでの生活となり

桜井研次さんから引き継いだ家でホッと一息

 

昔の青年海外協力隊は技術を備えたプロ集団で

発展途上国の国造りの手助けできる人材を派遣するとしていたため

受入国側の条件として隊員が暮らす家を提供することなっていて

Tonga政府が協力隊員の住居として準備したのが”Government House”

そのGovernment House(FalePuleanga:官舎)のNo.39でしたが

”39=Tolu Hiva” にはどうやらおかしな逸話があるようで

『どこに住んでるの?』と尋ねられ、『39』と答えると

何故だかいつもみんな大笑い

 

オッとその前にTongatapu島と首都Nuku’alofa

その住居と水産局の位置関係をお知らせすると・・・

 

↓これがTongatapu島

Tonga=南 Tapu=俗にいう”タブー”神聖なるって意味


航空写真ではこんな感じ
(因みにMu’aとは英語で言うBeforeで昔という意味、Fa’amotuは飛行場のある場所)

Nuku’alofaを拡大すると↓
 
こちらの中心部で赤いマーカーの場所に私が暮らしていたGovernment Houseがありました。
上の海岸線の左上に写真スポットとその横に丸く写真のマークがある場所が王宮
Government Houseから勤務先である当時の水産局
(Ministry of Aguriculture and Forestry, Fisheries Division)
赤いマーカー位置までは距離にして4.5km バイク(車)で8分



 

その他、市内にはモダンな鉄筋コンクリートにアルミサッシの新築の官舎がありましたが

主に白人(欧米人)向けの家族持ち用で 

1983年以降に初めて理数科教師の女性隊員も派遣されるようになり

彼女達に提供されていました。(ウチのチャンカーもその一人)

 

それまでは、Tongaの協力隊員は初代が昭和47年で農業機械隊員、

その後はずっと水産局派遣のみで

9年目の私が12人目

この家は歴代の水産隊員が引き継いで使っていました。

 

玄関側に屋根付きのベランダがあり

12畳ほどのリビングと6畳ほどのベッドルーム

広いトイレとバスタブのあるシャワールーム

(電気温水ヒーター付きでしたが、これがまた漏電しててスイッチを入れてから水道栓を素手で触ると痺れるため木片で水量を調節と命懸け)

リビングの後ろには勝手口からも入れる

冷蔵庫とプロパンガスのオーブン付きのクッキングコンロのあるキッチンがあり

コンクリート製の雨水タンクのある中庭の後ろには

元女中部屋があり(歴代の日本人が置いていった書籍類や、

1979年にドラマ撮影があり【太陽は沈まず:竹脇無我主演、坂上忍も子役で出演のドラマ】

で使われたゴムボートを協力隊員のレジャー用に買い取ってくれたのでそれらの倉庫にしてました)

↓ 私の家にはBBQ用の網があり、休日に潜って獲ったサザエやその他貝類を焼いてBBQパーティーしてました。

こちら↓は リビングでわざとらしくポーズをとって写真撮影したもの

(日本の家族や当時のGFに様子を知らせようとカッコつけたりして)

 

↓ 手紙を書いている様子

なんせ文字を書くのが大嫌いだったので

私的な手紙以外では 

結局、合計5年弱の活動中、

レポートを書いたのは着任後と任期満了前の2度のみでしたが

(タイプライターは、日本で船会社で働いてた頃から使ってたOlivette。

主に日本のGFへのAir Mailの封筒と造船所へのドックオーダー用に使ってました。)

私の家の敷地にはココナッツの木が数本あり

たわわにココナッツ🥥が実ると毎月頼んでいた芝刈りの子供達にとって持ち帰らせていました。

↓ こちらは、鮪延縄船の乗組員がビールと食べ物を持ち込んできて

懇親会をした時の様子

 

なんせトンガ人、一人で20缶は飲むので大変でした(笑)

 

こちらは、休日王宮前の埠頭で飛び込みする子供達の様子

海に囲まれてるから泳ぎも上手かと思ったら大間違い

ほとんどのトンガ人は、泳ぎは犬かきしかできず

それでも水遊びは大好きで

こうして岸壁から飛び込んでは大騒ぎしてましたねぇ

 

私は、Tongaに派遣されるようになって

毎年、船の整備を徹底して行い、故障や操業中にトラブルを発生させない

とのポリシーで信念を持って活動していたため

 

船を推進させるエンジン(主機)は勿論

発電機や鮪を水揚げまで保存するための冷凍機も

自分たちだけで分解して清掃して組み立ててと

 

鮪延縄船、鰹の一本釣り漁船、鰯用の巻き網船に

小型漁船まで数隻を整備するのが日課となりましたが

実は、着任した直後(約4月後)

日本からODA(政府開発援助)で8年ほど前に供与された鰹の一本釣り漁船の機器が

それまで全く整備されていないのを知って

 

当時の水産局長(イギリス人)に

オーバーホールすると宣言したものの

水産局のEngineering部門の人間は誰も手伝おうとせず

 

たった一人で岸壁に係留されていたその船に乗り込み

黙々とエンジンを分解しはじめたのですが

 

乗組員の一人がスカイライト(機関室の上にある窓)から

何してるんだろうかと覗き込むだけ

 

我慢強く何日も作業を続けていた期間

水産局に部品や工具を取りに戻ると

機械のことなど何も知らない経理のクラークから

「もう何日も船が動かせなくなってるけど、お前は船を壊しに来たのか」と

多くの水産局のスタッフの面前で罵倒された時には

そんな陰口を叩かれてたのかと流石にショックでしたね~

それでもオーバーホールしてエンジンの調子が良くなった船をみて

乗組員からその様子が伝わり

ようやく整備=保守することの大切さを理解して

私の存在が認められるようになりましたが

 

今から思い出してもあの時は辛かったなぁ

 

それまでにも数名の船舶機関の隊員がいたのですが

ほとんどが船外機か小型のディーゼルエンジンを扱う程度で

大型のエンジンは隣国でのドックで造船所任せにしていたのがその原因

 

その鰹一本釣り漁船は

実は、当時あまり実務経験のなかったJICA専門家が

近隣諸国の真似をしたのか

ODAでSamoaと全く同じ鰹一本釣り漁船を供与されたものの

 

トンガの海域には年間を通して鰹が回遊しないうえ

餌のイワシを入手する術がなく

鰹の一本釣りとしてはほとんど使われず

よってドックに入る予算もなく、ほとんど岸壁で係留されてたから

 

運よく、鮪延縄実習船は

それまでは日曜日が憲法で安息日とされ出漁しても

毎週戻ってくるような操業から

日曜日は沖で流して安息日とすることにして

一度出漁したら、食料が無くなるか、搭載している水が無くなるか

または豊漁で魚倉がいっぱいになるまで戻らず

平均1~1.5月の操業となって大成功

(約3月に一度、American SamoaかFijiのLevuka島の缶詰工場で

水揚げと餌の冷凍サンマを積み込み)

 

更に機械の整備を自分たちですることになって

ドック費用も船体の錆落としと塗装

プロペラ軸の抜き出し点検と

ドックでしかできない船底弁の整備程度で

ドック費用が激減

 

約30名ほどの乗組員も

水揚げした収入から燃料費、食糧費、経費を除き

4割(6割は政府が貯蓄)を歩合制で支払われることになり

 

前述のAmerican Samoaでドック入りした頃には

船長・漁労長の収入は国の大臣クラスより高給取りとなっていたこともあって

 

それまで外航商船で機関士をしていた人物が

二等機関士で乗り込んできて、一緒に保守整備をしたところ

とても優秀な人物で経験も責任感も文句なしだったので

水産局長に進言して彼を機関長に昇格させ安泰

(↓右端がその機関長)

とはいえ、なんせ”お山の大将”気質なので

エンジンの整備では相も変わらず親方気取り(笑)

そんな訳で、若干24歳頃にもかかわらず鮪延縄実習船でも一番偉そうにしてました。

 

彼等は高給取りとなっていましたが

私は青年海外協力隊隊員としての手当のみ(月額30,000円程度)

そんな訳で、船が戻ってくると

彼等の家族がご馳走を作り

ビールもOZかNZの缶ビールを何ケースも運んできて

飲めや歌えの大宴会(笑)

 

これは、ある日の出漁を見送りに行った時の記念写真
(服装からしてトンガの冬、8月頃)

(↓ 右から二等機関士、機関員、船長、機関長、私、一等機関士)

そんな風に彼等から年下なのに兄貴分にように信頼して慕ってもらっていたので

とても幸せな隊員生活を送らせていただいたなと今も感謝しています。 

 

見送りにきていた一等機関士と機関長の嫁さんとその子供

暫く夫と会えないから寂しそうでした。

 

こちらは、ドックから半年後

スクリューとプロペラ軸に巻き付いた延縄の枝縄を切断するために

スキューバした時の写真

放置してしまうとドンドン巻きついたワイヤー製の縄がプロペラ軸の軸受に入り込んで痛めてしまうので

次のドックまでの間に潜水してロープガードを取り外し

ワイヤーカッターで何十本と絡みついたワイヤーを切らなければならず

水深は浅いものの

ボンベ3本以上連続して潜っていると

窒素酔いしてしまい

上下がわからなくなって

そのまま頭から海の底に沈んでった事も良くありました。(笑)

今から考えるとホントに一生懸命だったんだなぁ

 

ここからは日常の風景など

 

こちらはトンガ警察の交通部署

仲良しの水産局のエンジニアの奥さんが勤務していたため

よくアイスクリームの賄賂を渡しては

酒類の購買許可証を発行してもらってました。

(実際には仲良しだったので、暇潰しに雑談相手してもらってたんだけどね)

 

なんの脈絡もなく

突然ですが、ある日 Joes Hotelで開催されたオカマショー

 

気持ち悪いでしょ~(爆)

 

トンガでは馬も結構飼われていて

日曜日には教会のミサへ行くための交通手段のサリオテと呼ぶ馬車を曳いたり

客船が寄港した時には観光客に乗馬させてたりしていましたが

 

子供を乗せた馬をリーフ内の浅瀬で見かけた時の風景

 

↓ こちらは、着任して約1月後の日本人専門家の送別会での一コマ

同じ水産局に派遣されていたアメリカ平和部隊のブライアン

(私よりも先に着任していましたが年齢は一つ下だったので兄貴ぶってました)

 

こちらがFijiの造船所での入渠風景

鰹一本釣り漁船のTakuoと乗組員

鮪延縄実習船LOFAの乗組員と私

 

これはFijiのLevuka島にある缶詰工場での水揚げ風景

ビンチョウ鮪で缶詰を作っていたので

それ以外の鮪(バチ、イエローフィン他)は冷凍のまま日本に送られてました。

 

 

またまた何の脈絡もなく

トンガのハンディクラフトのひとつ

タパクロス(Tapa Cloth 樹皮布)

カジノキというコウゾと同じ木から皮を剥き

水に浸してから干して乾燥させ

硬い木の上で日長一日、水に浸けては叩いて平たくして布にします

これをキャッサバなのを糊にして張り合わせて大きな布にするのですが

あるときは賭け布団だったりジュータンだったり

お葬式では遺体を包む棺桶替わりになったり

また結婚式やお葬式、行事の時は身体に巻いて正装の衣装などなど

 

我が家には、帰国する時にプレゼントしてくれたタパクロスが

たぶん畳20畳分くらいあるかも(笑)

 

鮪延縄実習船のLOFAには、その後もちょくちょく乗り込んでましたが

正直な話、酒が飲めなくて煙草が吸えなくてディスコがないので

理由をつけては陸のサポートに徹するようにしてました。

 

その後は、Vava’uに遊びに行く時は飛行機を使っていたので

よく空からリーフや島々を眺めてましたが

こちらはTongatapuとVava’uの間にあるHa’api諸島

貿易風で基本的に風向が決まっているため

滑走路もその風に向かうように作らなければならないため

小さなHa’apaiでは東西に一番長いところにギリギリに滑走路が作られていて

飛行機が来る時間になると道路を閉鎖してました。

(赤道直下のNauru島はジェット機も離着陸できる滑走路でしたが

やはり島が小さすぎて普通の国道が真ん中を走ってました)

これはいつの写真だったのかな?

1986年当時の水産局の上層部のスタッフが居るので

たぶん私の送別会のある日の一日だったのかも

青年海外協力隊隊員として最後に帰国した時には

Tongatapu、Vava’u、Ha’apaiと

そこらじゅうで送別会をしてくれましたねぇ

 

これは左端のSiotame Taunaholoという

桜井研次さんを兄のように慕っていた電気エンジニアの家

桜井さんの申請で日本へ研修に送られ、恩人だったので

口を開くといつも”KENJI” ”KENJI”と比較されてばっかでしたが

それくらい恩義を感じていたんだろうなぁ

 

桜井さんが生きてる間に会わせてやりたかったな。。。

 

 

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑤Vava’uの続きとその後】

2024-09-25 15:14:13 | 日記

さて、前の記事【その④突然Vava'u島へ転勤辞令】

の続きをさせていただこうと思ったところ

 

いつもながらの、その時の気分で思いつくまま書き記してしまうため

読み直してみるとあまりに適当すぎて大汗

 

前の記事を訂正したらいいのですが

なんせ画像貼りまくりで、文字数の限度を超過してるため

加筆するのは到底無理

 

と言うことで

『まあ、ほとんど人目に触れることもないからこれでいいか』

と思いつつ

とりあえず順序が逆となってしまいましたが

Vava’u島と登場する場所の位置関係をもう少し説明させていただきますね。

 

↓ こちらがVava’u諸島の地図


(Google Mapでは発音がいい加減なので間違いだらけ、
Laimatuaはレイマツア、Hungaはフンガなんですよ)
 
航空写真だとこんな感じ

ノッペリした首都のあるTongatapu島とは全く異なる
そこそこ起伏のある地形で
それもあって深い入り江や複雑な半島が連なる島なんです。

とはいえ、所詮隆起サンゴできた島なので高い山はなく
↓でもおわかりのとおり
サンゴ石と赤土に覆われた土地なので
緑の部分もしっかりと畑として開墾されています。
(ココナッツ、バナナ、パイナップル、ヴァニラ、カヴァ、タロ芋など栽培)


 
Vava’uの中心Neiafuは、
最も深い入り江の奥深く、
いくつもの半島に囲まれ風や波に影響されない場所にあります。

↓のほぼ一番下がParadise Hotel
上の方の埋め立てられた場所が港で
水産局のVava’u支局は”Tro”の位置
Bellavista Cafeの下の写真スポットが住居の掘っ立て小屋のあった場所
これは現在の航空写真なので
観光地らしくCafeや家も沢山ありますが
1982年当時は、レストランと言えばParadise Hotelのみ
あとはスタンド式のTake awayというテイクアウトの店がある程度でした。
 
海岸に沿って浮かんでいるのが世界中から集まった
太平洋横断中のヨット
 
Neiafuと飛行場、近隣のBeachを結ぶ主要道路以外は
こんな↓感じ
 
これはVava’u本島の西端の村 Tu’anukuにあるClarkのLangimaの家へ
バイクで遊びに行く時に通過した坂のひとつ


これは青年海外協力隊の最初の2年の終わりごろ

クリスマス休暇を過ごすために飛行機で訪れた時の写真

右下がNeiafuで、右側に続く半島の先にParadise Hotelがありました。

 

これは、前の記事でもちょっとだけ紹介した

年に一度、王様が来島した時の様子

年に一度の”Royal Agriculture show”という催しで

王様に農作物や水産物の出来を見てもらうもの

この時はほとんど全島から人々が集まるお祭りのようなイベントなんです

仲良しだった警官や地元の人々

 

こちらは、日系人のMikioという人物が

TongaとNew zealand, Australiaを結ぶ貨物船

Warner Pacific Lineという船会社のVava'u支店長をしていて

自宅では奧さんがMikio’s Guest Houseという宿を経営していたのですが

奧さん(左端)が料理上手で

素泊まりではなく、1泊2食付きだったため

NZやOZの年金暮らしの長期滞在者に大人気で

いつもほぼ満室の宿でした。

右側が末娘のEiko

私が任期を終えて帰る前の1986年頃には

コテージを何棟が建ててましたが

現在のGoogle Mapsでは宿として出てこず

Mikioや奧さんも亡くなってGuest Houseをやめちゃったのかも

こんな感じで宿泊者もBuffet Styleで食べられました。

この日は、Paradise HotelでもCarpenterとしてオーナーの手伝いをしていたPita

たしか、この日は誕生パーテイーのFiestで

子豚の丸焼きから伊勢海老にその他もろもろ大ご馳走が並びました。

 

 

ある日水産局支局で働いていると

現地の子連れの家族が私と話したいと訪ねてきて

これ(天然の黒真珠)を誰か買ってくれないだろうかとの話

実は、1980年頃、日本の田崎真珠が

Vava'u島で黒真珠の養殖を試みたことがあって

(隣国のFijiやTahitiでは黒真珠養殖に成功してた)

結局は定住して養殖に携わるスタッフが得られず

断念してしまったのですが

 

たぶん生き残った黒蝶貝から獲れたものらしいもの

 

たったひとつだけなのと、あまりに小ぶりなのと

ビール代でキチキチの貧乏協力隊員だったので

お断りしちゃいました。

 

続いては、客船が来たときの

ハンディクラフト市場の様子

私が赴任していた1980年代前半は

普段の生活ではラジオ(国営のRadio Tongaのみ)は全国民が聴いていて

そこで流されるポリネシアンな曲と歌

あとは、ニュースと公報、それとOngo Ongoという伝言番組があり

離島には電話など繋がらない時代だったので

離島と首都のTongatapuとの連絡といえばそのOngo Ongoのみ

 

『どこそこ村のナニガシが来週のOlovaha(フェリー)に乗るから出迎えに来て』

『〇日の〇時に無線連絡するから無線局で待ってて』などなど

個人情報ダダ洩れどころか筒抜け(笑)

 

Vava'uも町の中心に無線局があって

1台だけの無線で本島との連絡を取るために

毎日朝から夕方まで大行列で

私は、日本人と話さなくても全く気にならなかったので

一度も無線を使ったことがありませんでした。

 

あと、雑貨屋のOtoの二階に島で一軒だけの映画館があって

時々Muuliと観に行ってましたが

 

なんせ世界中を回ってきたFilm

映写機が時々止まると強いライトでFilmが溶けるのも日常茶飯事

 

1本まともに観れないのが普通でした

 

そうそう、Vava’uだけじゃなく首都のNuku’alofa でも

古い映画館は木製のベンチが座席だったからか

南京虫だらけ

 

映画鑑賞は貴重な娯楽で楽しかったけど

虫刺されで痒くて大変でもありました(笑)

 

あと、たまーに教会裏の広場の木を使って

大きな布をスクリーンがわりに張って

そこで入場無料の映画会もありましたが

 

その時は、それこそ全島から人が集まったのかと思うほどの盛況ぶりで

楽しかったですね~

 

おっと、またまた話が横道にそれてしまいましたが

そんな訳で普段の夜の生活は

家でラジオを聴く程度だったので

 

内職があたりまえ

みんな家でタパクロスや籠を作って観光客に売っては

生活の糧を得てましたね。

 

そしてVava'uに転勤して2月が経過した1982年10月後半

本島Tongatapuに出張するようにとの連絡があり

 

運悪く定期フェリーのOlovahaがNZでDock入りしていたため

古い鮪延縄漁船を改造した旅客船に乗り込んだのですが

(↓ 元は水産局で使っていた鮪延縄漁船のEkiaki号)

Vava’u島のNeiafuを出航してから

途中Ha’apai諸島の島々に立ち寄ってから数日かけて

首都のNuku’alofaに到着するもので

 

船を推進させる主機エンジン以外はほとんど壊れていて

船内の照明は勿論、レーダーも無線機も航海灯もつけずに

サンゴのリーフだらけの海でも夜間航行してて

それはそれはスリル満点の船旅でした

(そんなEkiaki号も1984年頃にハリケーンが直撃した時に座礁してしまいました。。。

 

実は、首都のNuku’alofaに呼ばれた理由が

当時、Tongaには青年海外協力隊員が4名居たのですが

2名が昭和56年度3次隊の私と同期の漁具漁法隊員

そして残りの2名が昭和54年度2次隊の冷凍機隊員の桜井研次さんと養殖隊員の倉松さん

その二人が任期満了で帰国するため

 

その二人の送別会と

Vava’u転勤まで暮らしていた水産局横の家から

桜井研次さんが暮らしていた街中のGovernment Houseへの引っ越しのため

 

↓これは、客船を眺めてる桜井研次さん

服装からしてたぶん7月頃(Tongaの冬)に

水産局に供与された小型のFRP漁船で週末に沖の無人島へ遊びに行った時のもの

正面の船は、オーストラリアを起点に英国のクルーズ会社P&Oの運航で

定期南太平洋クルーズに就航していた

当時は名の知れた客船S/S”Oriana”号(1959年建造)

その後フローティングホテルとして売却され1986年には別府にあった時期もありました。

 

そしてすぐさま送別会が催され

桜井さんの家の隣の同期隊員の部屋に

水産局の同僚が食べ物を持ち寄り(ビールは日本人が提供)

無礼講でのドンチャン騒ぎ

桜井さんは、当時トンガ語が一番上手で

兄弟のように慕っていたカウンターパートもいて

とっても楽しい歓送会となりました。

 

その後、桜井さんの暮らしていたGovernmemt House #39 (Fika Tolu Hiva)に

Tongatapuに置いておいた私物の荷物を運びこみ

今度は、外航貨物船でVava'uへ戻ることとなったのですが

 

桜井さんがVava’u島でたった一人の日本人で苦労してると同情してくれたようで

港まで見送りに来てくれて

手作りのニンジンでキンピラと卵焼きとご飯のお弁当を手渡してくれて

ありがたかったですねぇ

 

その後、またしばらくVava’uで面白おかしく勤務していたところ

11月中旬、Nuku’alofa の本局に戻るようにとの辞令

 

実は、その時が前述した王様が島々を周るイベントの時で

Vava’u島のあと、Ha’apai諸島に立ち寄ることとなり

定期船のフェリーは王様専用で使われていたため

(↓ Ha’apai諸島はほとんど砂洲のような島々で接岸できる岸壁がないため

王様は上陸用舟艇に乗り換えて上陸してました)

(↓ これは、桜井さんの送別会でTongatapuに戻る際に乗ったEkiaki号での様子)

水産局の鰹一本釣り用の漁船(Takuo)も王様のサポートで同行していたため

その船に乗り込んでの移動となりました。

 

それにしても、Vava’uでの生活はそれなりに楽しかったけど

なんせ食生活はあまり恵まれてなかったからか

その時に撮った我が身があまりにもゲソゲソでちょっとビックリ

 

Tongatapuに戻ったところ

着任早々機関長として乗船していた鮪延縄漁業練習船(Lofa)を

American Samoaで入渠することになり

 

ようするに

Dockでの仕事など経験のないJICA専門家(大滝なにがし)が

自分でこなす自信がなく呼び戻されたわけだったんです

 

まあ、私は青年海外協力隊に参加するまで

外資系船会社の工務監督見習いをしていて

入渠前のドックオーダーを作成して

入渠中は工務監督の補佐でアテンドと

まあその道のプロだったので

 

船体の洗浄から塗装

船尾管とプロペラの点検、ドックでしか整備できない

船底弁のオーダーなどを作成して見積もりを取り

造船所との打ち合わせも全て担当

 

そうしてAmerican SamoaのPagopagoを訪れた時の写真が残っていました。

 

Samoaは、西サモアを含め 火山でできた島

Tongaでは見られない急峻な山々が眩しかったですねぇ

ロープウェイで展望台に行けることを知って

ドック仕事の合間に登ってみた時の一枚(セルフィで)

なにやら慰霊塔があったので 説明書きをみてみると

ロープウェイのロープにひっかかった飛行機の犠牲者の慰霊碑でした。

American SamoaもSamoa同様、

緯度的にはTongaより相当赤道寄りのため

暑くて堪りませんでしたが、展望台は高台にあって少し楽。

↓ この写真のほぼ中央にあるのが造船所のSlip way

American SamoaにはアメリカのStar kistという缶詰会社があるため

巻き網船や鮪延縄船が獲った魚の水揚げに寄港する基地で

このアメリカの巻き網船は、小型ヘリコプターが搭載されていて

上空から魚の群れを見つけて一網打尽にしてしまうもの

 

延縄漁や一本釣りのように

餌を食べた魚だけ釣る漁法と異なり群れの全てを獲ってしまうため

資源を枯渇させてしまうんだそうです。

(二隻の巻き網船の後ろがTongaにODAで供与されたLOFA)

この時は、操業を終えてからTongaの岸壁で

機関室の主要機器

(プロペラを回すための低速ディーゼルエンジン:主機)

(冷凍機と船内の電源をまかなうディーゼルエンジン:補機(発電機))

(延縄漁の餌(冷凍サンマ)や獲った魚を保存するためのレシプロ式コンプレッサー:冷凍機)

その他、機器類のほとんどを整備してからAmerican Samoaに向かったため

それまで機械類の整備もドックオーダーしていたものを

ドック費用を極限まで抑えられるようになって

ようやく私の存在意義が認められるようになりました。

 

【またまた文字数が20,000字を超過してしまいましたので、その⑥Nuku’alofaでの生活編に続く】

↓(Nuku’alofaでの住居:Governement House #39)

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その④突然Vava’u島へ転勤辞令】

2024-09-15 12:31:00 | 日記

 

先日のこと、偶然にもトンガ王国に派遣されていた協力隊の先輩隊員OBが

この記事をみつけ、懐かしくご覧いただいたとのコメントをいただきました

 

日々の生活に追われ、続きを投稿せずブランクができてしまいましたが

またTongaの続きを記事にさせていただきたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【これまでの要約】

1982年1月末に日本を出発し FIJI, SAMOAを経由して

ようやくTongaに赴任したところ

アナカン(別送荷物)も届いてない状態で

現地訓練との名目ながら、実際には機関長として鮪延縄漁船に乗り込み

2航海目の操業の途中

 

Tonga史上最大とも言われたハリケーンに遭遇し

首都のあるTongatapu島は高潮で島のほとんどが壊滅的被害を受け

その復旧作業に忙殺されることとなったものの

陸上での生活が送れるようになってカルチャーショックを受けながらも

それなりに日々の生活を楽しめるようになったのでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その後、当時付き合っていたGFが

女子中高の進学校で働いていたため夏休みを使って

格安航空券などない時代に夏のボーナスをはたいてTongaまで遊びにきてくれ

島内の名所を案内したりと
 
Tongatapu島の南側にある
’Oholei Beachという海岸の洞窟の中で
トンガ料理とFire Danceなどのショーが観られる場所




こちらは、当時2軒しかなかったHotelのひとつ
Joe’s Hotelの屋上レストランで
コックをしていたオカマの自称Sukiyaki Sakamoto(通称スキ)と
 
このオカマ、以前お話した17年トンガで専門家をしていた
川上晋さんの家で女中をしていたため
日本料理もどきをつくってくれるし
日本人のことをとても良くわかってるので
ちょくちょくレストランを訪れては雑談してました。
 
 

そんな風に

限られた時間の中で精神的にも安らぎの時間を過ごしていたのですが

 

GFが帰国した途端

突然、首都のあるTongatapu島から北へ366kmほどの位置にあるVava’u島(Neiafu)への

転勤を命じられ

ビックリしながら辞令に従いフェリーに乗船

とはいえなんせ

当時、協力隊員としては初めてのVava'u転勤

 

鮪延縄漁船もあるし、その他にも鰹の一本釣り漁船に巻き網船もあり

ただでさえ、大型商船の船乗りだったため

それまで触ったこともないような小型のエンジンや機器に呆れてたのに

 

離島では 数十馬力の漁民のエンジンや船外機と聞いて

いったいどうなることやらと思いつつ赴任したのですが

 

住居は、アメリカ平和部隊あがりで

SPC(South Pacific Community)という組織で働いていた人間が

休暇で一時帰国するため、その間彼の家で住んでくれと言われ

眺めの良いコテージに掃除から洗濯、賄いまでしてくれる女中さん付きで

Vava’u勤務も悪くはないなと喜んでいたのですが・・・

Vava'uに着任して1・2週間

そんな風に気楽に過ごしていたところ

休暇で一時帰国していたアメリカ人が戻ってきて

『もう出ていってくれ』と冷たく言われ

(ようするに現地人にあまり好まれてない人物だったので、

帰国中に泥棒に盗まれないように番人代わりにしたかっただけ)

 

実は、転勤もそれが理由で当時のイギリス人水産局長に交渉して辞令を出したとわかり怒り心頭

 

職場は、Neaifu港の端の水産局のVava’u支局

(右側の建物は、援助で建てられた冷凍庫と漁具倉庫)

事務棟は小さな平屋の建物に支局長室と会議室

中央にトイレとビニールホースでシャワーと小さな倉庫があるのみ

 

そこの手前にWorkshopがあり、小型エンジンの保守整備というよりも修理業務が私の任務

私にとってはオモチャのような小さな漁船のエンジンを

現地のメカニックと一緒に油まみれになって整備するのが日常となったのですが

 

なんせその頃、初めて島で暮らす日本人

(Tongaにも首都のNuku’alofa には戦前から移民してきた日本人が居て、

短期間でしたがVava’uにも、百貨店もどきの雑貨屋があって

そこへマネージャーとして日本人が雇われてた時代がありました。

田中邦衛さん主演の”トンガ冒険家族”のモデルとなった方)

 

人格者で心優しい支局長のサポートもあって

何もない僻地での不便な生活でしたが精神的には癒されてましたねぇ

↑ 左端が支局長のNaita 右端が助手のメカニックのFalanisi

あと水産局で見習いスタッフだった若者のMa’afuと

 

 

 

↓ 彼女は事務所のクラーク Langimaa

とても優しい性格でお世話好きで

金曜になると『洗濯物出しなさい』って言われ

渡すと週末家で洗濯してくれてました。

 

↓ここが半島の先っぽの彼女の自宅

日曜日にウム(休日のご馳走)を食べにおいでと誘われて

道なき道のオフロードをバイクで訪問していた時の一枚

 

話を戻して、そんな訳で糞ったれのアメリカ人から追い出され

支局長がなけなしの予算から

別の貸しコテージを借りようとしてくれたのですが

どうにも毎月の費用を捻出するのが大変そうだとわかり

 

かわりにと

漁具倉庫兼、ローカル職員の寝泊りに使ってた掘っ立て小屋を改造して

提供してくれたのですが・・・

(一番下の紺と朱色に塗ったトタンの小屋が住居、

その上の段にトイレとシャワールームを作ってくれたのですが

それが完成するまでは肥え溜め式の小屋しかなく

小は夜だけ海に向かって立ちショ〇ベン

〔夜中の真っ暗闇でも目敏いトンガ人から「Masa!昨日海にオシッコしてたろ」とからかわれながら〕

大は便意を催すと堪らず水産局までバイクを走らせなければならず、苦労しました。)

引っ越した時にはまだ電気がなく

なんとかランプを買ったもののホヤがなく

炎を大きくすると真っ黒な煙が出るので

こんなマッチの灯りのような中で夜を過ごしていました。

それでも、一応キッチンに水道、冷蔵庫にテーブルやタンスまで置いてくれて

ありがたいなぁと感謝しましたねぇ

寝室側はこんな感じ

この写真を撮った時には なんとか電気も通してくれて

裸電球でもありがたかったなぁ

別の水産局のスタッフが独り暮らしじゃあ寂しいだろうと

子猫をくれ、それ以降大切な家族の一員となりました(笑)

なんせ島でたった一人の日本人

動物園のパンダ状態で、毎日子供達が集まってきて大変でした(笑)

右手の人物は、近くの漁具小屋で寝泊まりしてた離島の人物でたしか名前はMuuli

毎日映画に誘ってくれたり雑談の相手をしてくれるのですが

毎晩我が家に入り浸って帰ろうとしないため

ある日、玄関の扉に『何人も入室禁止!!!』と貼り紙をしたのに

『この”何人”って、オレは入ってないよね?』と馬耳東風

まあ、それでも彼のおかげで面白おかしく過ごせるようになりました。

 

(↓この日は年に一度の王様が来島してのお祭りイベントの日)

(トンガ風に巻スカートとfalaniという飾りをつけて正装)

(真ん中のお兄ちゃんが子猫をくれたHenma)

オンボロの掘っ建て小屋でしたが

現地人がいつも気軽に遊びに来てくれて

”これぞ協力隊員”って気がして、辛さよりむしろ嬉しかったですねぇ。

 

 

さて、それではまたVava'uのことに話を戻すと

大型の客船が来ると

上陸する観光客を狙って島中の車が大集結

(ただのトラックで荷台がバス代わり)

Vava'u島は、入り組んだ入り江と島影で風や波が遮られ

Port of Refuge(天然の避難港)と呼ばれる、世界中のヨット乗りの憧れの土地のため

いつもたくさんのヨットが訪れていました。

 

これはさっきの掘っ立て小屋からの夕陽

こちら↓は、Vava'u島のランドマーク Mt. Talauと

見えにくいですが放し飼いの黒豚

こちらはTongatapuにある Tonga Club, Yacht Club, Nuku’alofa Club同様

それなりにハイソなメンバーだけが入場してビリヤードや酒を楽しめる

Vava’u Club

協力隊員も外国人特例で入れることができたので

町のスーパーのビールが売り切れると、焦って駆け込んでました。(笑)

 

こちら↓は、月に一度ほど週末になるとバナナ倉庫が生バンドのディスコになるのですが

大切な社交場なので おばあちゃんから孫娘まで、家族揃って来場してましたねぇ

(要するにチャラい男にナンパされないようにオバアチャンが監視係)

 

↓ これがそのディスコ

蛍光灯の下でしたが、大事な男女の出会いの場所(笑)

基本は男性が女性に声をかけて踊るのがマナー

同期隊員は女性に声をかけられず、でも踊りたかったようで

水産局の仲間(男)に声かけてましたねぇ(笑)

 

お次は、ボートでしか行けないのですが

観光名所のひとつ”Ana Pekepeka”

英語で言うと Swallows Cave

自然にあいた鍾乳洞のような洞穴で蝙蝠やツバメの棲家

小型ボートなら中まで入れるんです。

 

お次は、Ana Uku (英語でMariners' cave)

 

↓ 中央の色の濃い部分が穴になっていて

潜ってその穴を10mほど進んで浮上すると

内部には空気のある大きな空洞あるので

息ができるのと、外側から入る光に照らされて

内側から外を眺めるとまさに青の洞窟

そんな景色に魅了されてお気に入りの場所だったので

日曜日になると住居の掘っ立て小屋の前に係留していた

水産局のボートで、毎週のように潜りに行ってました。

日曜日はトンガでは憲法で定められた安息日

なので、いつもお供は子猫のみ(笑)

ついでに素潜りでサザエや高瀬貝(ボタンにする巻貝ですが、これが結構美味)を獲って酒の肴に

 

あと、オフの時間に過ごしていた場所のひとつが

島で最もモダンな施設だった Paradise Hotel

たしかアメリカ人の年寄りの大富豪が、若いオーストラリア女性と結婚して

半分趣味のように経営していた五つ星級リゾートホテル

いくつものコテージの客室とアメリカンスタンダードなレストランがあって

定員10名ほどの双発のプロペラ機を所有して

海側にはマリーナがあって

モーターボート数隻とスキューバ、水上スキーなどの貸し出し。

 

共同経営者が、グリーンベレーあがりのPieterというドイツ系アメリカ人で

彼も飛行機の操縦免許をもってたので

チャーターで隣国のアメリカンサモアやフィジーからの

お客があると送迎したりしてました。

(Pieterはマリーナ経営と飛行機の操縦が担当)

 

ホテル側のオーナーは

建物の資機材をアメリカやオーストラリアから輸入して

ローカルの若者に手伝わせ、自ら率先してカーペンターのごとく

溶接したりコテージの増設してました。

 

その後、Paradise Hotelは、オーナーが幼い子供たちの将来のことを考えてなのか

Tonga政府に売却してその後国営となったのですが

20年ほど前に失火によるものなのかメインの建物が火事で焼失し

いまは廃墟のような施設になってしまったようです。。。

 

ドイツ系アメリカ人のPieterとはとても仲良くしていて

休日モーターボートでお客を案内している時に

自分が水上スキーしたくなったからボート操縦してと頼まれたりしてましたねぇ。

(学生時代、ヤマハのリゾート”合歓の里”のマリーナでバイトしてた時

観光用&白浜海水浴場への送迎で一日中モーターボートの操縦してたので得意でした)

 

その後、ホテルが売却されたときに

水上飛行機に買い替え

Vava’uを拠点に首都のあるTongatapu島や

Tongaの北端の諸島

もうSamoaの方が近い Niuatoputapu島やNiuafo’ou島

トンガ富士と呼んでたKao島やTofua島への観光飛行とかしていましたが・・・

 

年齢的にももう引退しちゃっただろうなぁ

(たしか私より20歳以上年上でした)

 

 

その他、なんせVava’u島は

王国の中でも比較的自由な空気で

(Tongatapuは王家や貴族に支配されてる感あり) 

風光明媚なうえに常夏の地だったので

 

特にオーストラリアやニュージーランドからの移住者や

年金生活を気楽に過ごしているOZ,NZの年寄りも住みついていて

ほとんどは、Guest Houseと呼ぶ最も安価な宿(当時は素泊まり一泊T$3~T$5:当時の為替でT$1=250円くらい)

を利用していましたが

 

こんな瀟洒な家を建てて暮らしたりしてる移住者もいて羨ましかったですね。

(とはいえ、外国人は土地を買うことはできないので借地)

 

↓は、以前日本人マネージャーを雇っていた雑貨屋

通称Otoと呼ばれていたお店

私の住んでいた掘っ立て小屋がこの店の横から下った場所にあって

お隣さんだったのと 

店の経営者の娘と仲良しだったので

食料品を買いにいっては、値切り交渉しながら談笑してました(笑)

 

島のメインの外貨収入源はなんといっても

世界中から寄港するクルーズ客船の観光客が落とすお金

接岸できるような港はないので

水深のある湾内に錨をおろし

救命艇兼用のボートでお客をピストン輸送

荷台に幌をかけ、木製のベンチを置いただけのトラックが観光バス代わり

クルーズ船が入港すると島中のトラックが港に集結してました。

客船が来るとわかると

事前に燃料を補給しておこうと

島にひとつだけのガソンリンスタンドに集まるのですが

なんせ手動のポンプ一台のみ

(透明のガラスの容器にハンドポンプで地下の燃料を汲み上げて

注文した量にセットしたパイプに届いたらオーバーフロー。 

その後ホースへのコックを開けて給油する仕組み)

 

こちらは、舗装された滑走路を持つ新飛行場

ジェット機が離着陸できるほどの長さを持たないため

基本プロペラ機のみで

当時は、首都のNuku’alofa (Ha’apai経由)からの国内便と

American Samoaへの国際線のみ

 

(近年は、Whale Watching観光が人気となってFiji便もできたそうです)

こちらは、新飛行場ができる前まで使われてた赤土の滑走路の旧飛行場

島の北端に滑走路ギリギリで作られたため延伸ができずそのままで放置されてました。

↓これは国内線のTonga Airの1982年当時の一機

(Tonga冒険家族のドラマ撮影隊(田中邦衛さん)が帰る時に撮影した一枚)

 

Vava’u島での交通手段と言えば

道路が本島の比較的平坦な部分だけしかなかったため

 

ヒョロヒョロした半島の先っぽや離島へは

 

船外機のボートが主要交通手段

そんな朝夕の通勤・通学時の風景です。

 

トンガ冒険家族のドラマ撮影隊が来ていた時のひとこま

撮影がお休みの日にAna Ukuを案内した時に中原ひとみさんと

 

ドラマの監督(工藤栄一さん)

学生時代夢中になって視聴していた”傷だらけの天使”の監督さんなんですよ。

この集合写真の一番奥の中央が田中邦衛さん

(Paradise HotelでのVava’uロケクランクアップのパーティーで)

実は撮影隊がVava’u島に到着した時に

助監督さんが臨時で雇われコーディネーターをしていた

川口正徳OB(その③で紹介した現地人と結婚して移住してた人)に連れられて

Vava’uのことを一番知ってる日本人として私のところへ挨拶に来たのですが

 

それがあの”掘っ立て小屋”

茣蓙に座って一緒に瓶ビールのラッパ飲みをオススメしたのですが

 

あまりの環境に衝撃を受けて絶句

『撮影期間中は、ホテルの隣でCateringを頼んでるので

三食ずっと食べおいでよ』

『夜は田中邦衛さんや撮影スタッフで飲み会するのでそこにも是非』

とお誘いしてくれ

 

2週間くらいだったでしょうか

その期間は毎晩田中邦衛さんの話が面白くて

ビールも好き放題飲んで リッチな食事が食べられて

 

Vava'u生活の中でも忘れられない思い出を作っていただきました。

 

 

【その⑤に続く:たぶん

 

 

 

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ディープな大阪民国(?)探訪記(道具屋筋、日本橋でんでんタウン、裏難波、猪飼野)

2024-04-23 16:04:03 | 日記

4月11日木曜日

 

2000年に会社を開始してから

当初はまだまだFAXが主流の時代だったのですが

年を追うごとにIT化がすすみ

仕事上でも電子メールにネット検索なしでは業務ができない時代となって

これまで数年ごとに買い替えていたのですが・・・

 

〔1998年起業前に購入:2002年にロシア人秘書に譲る〕

NEC:98note(オフィス用)

 

〔2000年購入:数年後突然不具合発生〕

IBM: Thinkpad (オフィス&出張兼用)

 

〔2002年購入:数年後突然立ち上がらなくなる〕

HITACHI: Prius(オフィス用)

 

〔2003年購入:小型すぎて使い勝手が悪くお蔵入り〕

SONY : Vaio(出張用)

 

〔2005年購入:Windows XPのサポート終了でお蔵入り〕

DELL: Inspiron(出張用)

DELL: Dimension(オフィス用)

 

〔2008年購入:持ち運びすぎて液晶が壊れる〕

PANASONIC: Let's note CF-S (出張用)

 

〔2012年購入:現在も使用中〕

PANASONIC: Let's note CF-B11(オフィス用)

 

〔2018年購入:現在も使用中〕

Microsoft: Surface Pro8 (出張用)

 

 

オフィス用に使っているCF-B11も既に12年目

Windows 11をインストールしているものの

公式には対応不可&不具合が発生しても自己責任と

『買い替えろ』と脅されているような状態

 

それなら、そろそろ買い替えの検討しようかなと大阪難波に出て

千日前のBIG CAMERAで下見してから

ついでに前々から猪鍋用に使ってる鍋の蓋が欲しいなと思っていたので

道具屋筋に向かい 店員に尋ねると簡単に探してきて

「そんで、なんぼなん」と大阪の商人風に値段を聞いたものの
なんせエセ関西人

値切る度胸なく アッサリ言い値で購入

『アカンがなぁ~』と沈みながら

大阪の電器屋街”日本橋でんでんタウン”で

とりあえずラップトップの中古を調べて

新品と差がなかったらネットで買おうと考えてたのですが

まだ使えてるし、事務所での仕事はほとんどスタッフ任せで

たまーに、エンジニアとしての顧客からの質問や要望への回答メールに返信するほかは

ネットサーフィンして遊んでるか、Amazon Primで映画観てるだけ

 

焦って買う必要無いか

と、アッサリと当初の目的を放棄して

久しぶりに裏難波を探検することにしちゃいました。

久しぶりに昭和のキャバレーを覗き

午後1時から営業のミス・パールにご出勤のホステスさん(推定年齢50代前半)を見かけ

『”昼サロ”で入っちゃおかなぁ~』と

鍋の蓋が入ったレジ袋をぶら下げながら一瞬迷ったのですが

一応、社員に日本橋でパソコンの下見してくると外出していた手前

そこまでハメ外しちゃあダメかな と反省

 

後ろ髪をひかれる思いでその場を立ち去り

いつも昼間に通ってはいつか来ようと思ってる炉端焼きの居酒屋を眺め

 

これまたいつも『いつか飲み倒したんで~』と思ってる

ちゃんこ屋と

ホルモン屋を眺め 

腹減った~ と腕時計を見ると 時刻は12時05分

 

最近は食べ物屋だらけになった 地下街”なんなんタウン”は
インバウンド観光客だらけで

 

店も観光客からボッタくる気満々の様子に怖れをなし

 

近鉄で鶴橋に移動

以前看板をみて 久しぶりにソルロンタンでも食べよ と

ハングル訛りの店員に

「ソルロンタン、ハナ(1つ)」

「それからメクチューもハンビョン(1本)」と注文し

ワクワクしながらソルロンタンを待っていたのですが・・・

韓国と違って、しょぼいパンチャン(食事の突き出し)は仕方ないなと諦めたものの

これまたショボすぎるソルロンタンにガッカリ

韓国に駐在してた頃は

ウルサンの中小造船所(青丘)に行くと必ずお昼に立ち寄るソルロンタン専門店があって

大きなカクテキ(大根キムチ)といくつものパンチョンが並び

グツグツの鍋と一緒に素麺と生卵が出され

粗塩と胡椒をふって火傷しそうなスープを飲むのが最高だったんだよなぁ

 

ガッカリしながら店を出たものの

瓶ビールで勢いがついちゃったので

昭和の闇市をいまでも感じさせるアーケードを彷徨い

普段は朝から開けてる居酒屋に行くと お休みの貼り紙

 

仕方なく、晩酌のおともに豚足とむし豚でも買おうかなと思ったのですが

やっぱり諦めがつかず大阪在日の聖地"猪飼野"らしさの残るアーケードを彷徨って

コリアンタウンの近くまで来たところ

またまた、パソコンの下見と言ってるのに

昼間から酔っぱらって事務所に帰ったら

社員さんが呆れちゃうだろうなぁ と思い直し

(↑この辺りはシクタン(食堂)の客引きのアジュマ(オバハン)だらけ)

 

キムチを買って素直に事務所に戻ることにしちゃいました。

 

奈良で暮らすようになった1990年

伊丹空港周辺から阪神高速が夜でも照明がいらないほどのネオンに驚かされ

ミナミ(難波、道頓堀、心斎橋、宗右衛門町、天王寺)では

ネオンに喧噪も加わり異国にしか思えず

近づけない土地でしたが

 

何の因果か2006年から好き嫌いにかかわらず借金返済のために韓国で駐在することになり

帰国してからも本場のキムチが食べたくなって

猪飼野(日本の中の小さな済州と呼ばれる韓国朝鮮人部落)辺りを

時々彷徨うようになったのですが

 

まさに”血と骨”の舞台を彷彿させる空気が

気づかずに緊張させてしまうのか

鶴橋から電車に乗った途端にクッタクタ

いまや本国には残っていない”らしさ”溢れる

ある種貴重な土地なんだなぁと再認識

近頃はKポップや韓流映画ドラマで抵抗が無くなったのか

海外旅行でも”韓国”が人気の渡航先になってるようですが

猪飼野の方が、古き良き(?)朝鮮半島文化の名残を感じられますよ

 

但し、本国では美味しくなかったら生き残れない飲食店も

ココでは日本人からボッタくろうと商魂たくましい”アジュマ(オバハン)”だらけなので

注意と覚悟してくださいね。

 

ご参考までに、猪飼野の歴史はこちらから↓(映画”血と骨”の世界です)

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/32856.html

 

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2024年奈良吉野山&奥吉野花見紀行

2024-04-22 21:20:54 | 日記

今年は、東京x1名、神奈川x1名、愛知x1名、福岡x1名

そして私、奈良x1名の計5名で催行した花見紀行のご報告

〔参加者の許可を取っていないため顔は出さないように

でも雰囲気を感じて欲しいなと顔を黒塗りした画像を貼り付けさせていただきました

 

4月3日

午前10時45分 小雨模様のなか大和西大寺駅出発

先日の下見とその後に発生した国道169号線の法面崩落による通行止めにより

奥吉野の秘境、不動七重の滝と前鬼山集落跡に行くことを諦めていたので

代案でのコースとなりました。

 

最初に個人的に大好きな南都七大寺のひとつ

癌封じで有名な大安寺へ案内して健康祈願

(これまで、自分自身に家内、親族に知人、友人と癌になったと聞いて20名以上を祈祷して

その後高齢となって亡くなった人がいるものの、癌が進行して亡くなった人がいないこと)

(入山料も駐車場代も取らないところが気に入ってると説明しながら)

移動のスケジュールがタイトなことと

宿で豪華な夕食が待っているからと

お昼はたこ焼きで我慢してもらいました(笑)

大安寺から京終を経由して天理街道を南下して

日本最古の神社のひとつ物部氏の総氏神石上神宮前を通って天理に向かい

その後旧道で天理ダムを眺め、笠から纏向、

三輪山をご神体とする日本最古の神社のひとつ大神神社前を通過して

長谷寺へ

”いざいざ奈良”の鈴木亮平のように
跪いて十一面観世音菩薩立像の足に触れながら願い事を伝え

舞台から境内の春の絶景を堪能

(GoProの動画からのショットなのでピンボケで失礼しました

 

その後初瀬街道から室生ダムを眺め、数日前のルートで室生寺へ向かおうとするも

前日の4月2日に雨による崩落が発生して通行止め

 

仕方なくトンネルのバイパスから室生寺に辿り着き

雨の中室生寺の境内に入り金堂を十二神将を拝観しようとしたところ

半分は宝物殿、残りの半分は金堂にあり

それぞれ拝観料を徴取するとの説明に

”いざいざ奈良”で観光客が溢れることを願ってる感アリアリの

御朱印用においずる(巡礼衣)までできてて

個人的にはちょっと興醒め

広大な敷地に点在するお堂や塔を維持するのにお金は必要だろうと思うものの

入山料から更にいくつもの拝観料をせしめようとする根性を

本堂の如意輪観音はどう思ってのと問いかけてしまいました。

その後は下見ルートのとおり、枝垂れ桜の西方寺から林道で峠越えしようと思っていたのですが

一般道が崩落したとすると林道も引き返す可能性大だなと諦め

 

榛原から菟田野、東吉野村の丹生川上神社中社と夢淵に行くつもりだったのも

雨で歩くのを避けようとの思いと、時間的に宿への到着が遅れるかもと

黒滝村の森物語、森の交流館に直行することにしました。

 

温泉を浴びて

大和牛のすき焼き食べ放題+活鮑焼きコースを堪能

 



こんな山の中で鮑が出るなんて、便利な世の中になりましたよねぇ

 

それぞれ遠方からの移動で早朝出発による睡眠不足と駆け足での古刹巡りで疲れてる様子だったので

温泉の終了間際に歓談タイムをお開きにして二度目の温泉に浸かり就寝となりました。

 

翌朝は、朝風呂を浴びてから朝食

この黒滝村村営の宿での一泊二食コース

桜のシーズンでそこそこのお値段でしたがお腹パンパン

 

朝はアッサリ茶粥に発酵した漬物で十分だから、その分お安くして欲しいなぁ 

などと、つい考えてしましました。

 

その後、宿の前で記念撮影して吉野山へ出発しました

黒滝村からは得意の険道で吉野山の勝手神社横に出て

奥千本口の金峯神社前から花矢倉、上千本を通り

勝手神社近くの駐車場に車を停め

吉水神社へ

 

一目千本から上千本がまだ少し早かった(3分咲き)ものの

念願の吉野山の桜を堪能できて喜んでくれてホッと一息



 

今回は、吉水神社と後醍醐天皇の南朝皇居、源義経・静御前潜居の間を拝観してから

贔屓にしている金峯山寺横の柿の葉寿司の店でランチ

(葛入りにゅうめん+柿の葉寿司+葛切りセット)

 

金峯山寺で護摩焚きの読経と太鼓の音を聴きながら蔵王大権現を外から眺め

宿坊が連なる参道を眺めながら駐車場に戻ったのですが

 

ハイシーズンとあって、普段はほとんど扉を閉めている”だらにすけ”のお店の

ガマガエルも張り切ってました(笑)

私は、また大峯山系を歩き奥駆道の靡きで般若心経を唱える時に使えるようにと

桜井研次さんのご夫婦を奥吉野に案内した時に錫杖を購入していたのですが

いつかお数珠もと思っていたので法衣・法具店で購入 念願かなってルンルン

靡きでの読経に、岩場を登るときには腕に巻いたり首にかけたりと

お数珠は必須アイテムなんですね。

その後

参加者の一人がどうても仕事のため平日3日の休みが取れず

吉野山までとして神奈川に戻ることになっていたため吉野駅で見送りして

残りの4名で十津川村に向かい

途中、猿谷ダム、谷瀬の吊橋、風屋ダム、二津野ダムに立ち寄り

二泊目の宿

元祖源泉かけながしの十津川温泉に到着



 

選択の余地なく決めた超レトロな宿だったので、みんな大丈夫かなぁ?と心配に思っていたところ

さすがは元青年海外協力隊員

「もうこんな昭和な温泉宿みつからないよ」と慰めてもらい

硫黄の匂いのする岩風呂の内湯と

手作り感溢れる露天風呂を堪能し

これまた古風な温泉宿の夕餉に舌鼓を打ちましたが

焼き立ての”あまごの塩焼き”美味しかったぁ

運転の疲れもあってまたお風呂に入るという仲間に断って早寝してしまったため

夜中の2時に目が覚めて24時間入れる岩風呂にのんびりと浸かり

また寝なおしてから朝食

 

その後、代案では、十津川温泉に泊まってから

めったに行けない玉置神社と瀞八丁をまわってから

龍神温泉経由で高野山奥の院に連れていくつもりでしたが・・・

 

前日、一人が伊丹から午後5時発の飛行機を予約しているとのことで

 

予定変更して近場の果無(はてなし)集落(熊野古道の人気スポット)へ立ち寄り

名物のおばあちゃんは入院していて母屋の雨戸は閉まったままでしたが

ゼンマイを揉んでいた息子さんとも話ができ

なぜか”立ち入り禁止”の看板で乗るのを諦めた野猿を見学して

大塔村から日本一小さい野迫川村を抜けて

高野山に向かおうとすると

崩落修復の工事の交通規制なのか、時間別に一方通行となっていて

次の通過時間までの待ち時間が長すぎて断念

 

それなら生駒山のスリランカレストランでランチにしましょと奈良方面に戻り

時間調整して伊丹行の空港バスの停留所に見送り

 

残りの二人を大和西大寺駅にお見送りして

今回の旅を完結することとしました。

(あまり遅くなるとそれぞれ帰宅するのも深夜になってしまうかなと)

 

いずれにしても今回も楽しかった~

 

ただでさえお節介焼きなので奈良のそれも奥吉野を案内するのが大好き

そのうえ、心の底から繋がってる仲間との旅なので

嬉しくないわけがないわけで(?)

 

参加者の一人が『奈良から帰るのがいっつも寂しくてたまらない』と言ってもらい

今回もみんなをお誘いして良かった~とつくづく感じいった次第です。

 

 

 

今回の旅を紀伊半島南端からみるとこんな感じ ↓ 

 

ほぼ奈良県の北の端から南の端を縦断
(一筆書きにできなかったのが心残りでしたが

長谷寺はこんな感じで

室生寺は奥の院を断念してもこんな感じ

こちら↓は、吉野山

(一番下の黄色いルートが奥千本口までの登りで橙色と赤が桜の絶景を堪能できる下り道)

そしてこちらが猿谷ダム

(市町村合併で五條市に編入されてしまいましたが、元大塔村のダム)

 

対岸の集落がお金を出しあって架けた日本一の”谷瀬の吊橋”

二津野ダム

 

熊野古道の果無集落と野猿

十津川の往復は、通行止めだらけで泣く泣く単純往復となってしまったのと

十津川からの帰りは飛行機の時刻に間に合わせようと

高速の出せる京奈和道&西名阪を使ってしまいましたが

カーナビに逆らって酷道、険道を走りたい変人丸出しの軌跡(笑)

 

そんなこんなで参加者に喜んでもらおうと

いつも内容テンコ盛りで旅程をギチギチにしてしまうのですが

 

今回は、これでも結構運転疲れが出てクタクタだったので

いくつか訪問先やルートを断念してしまいましたが

それで良かったのかな

”禍を転じて福と為す”で正解だよね

などどメゲルことなく大雑把なオプティミストは思うのでした。

 

余談ですが、これまで国内外のアチコチを旅してきましたが

やはり奈良の歴史と大自然は別格

 

なんせ鎌倉時代?平安?って何って言うお土地柄

1300年以上前の歴史の宝庫というか

 

仏教や文字が伝来する前の土地なんだと実感させられ

 

弘法大師さえ新参者と思わせる

日本の国の始まりを至る所で実感できるんだもんなぁ

(土着のジモピーは鈍感でそれを気づくこともありませんが

ジモピーがこのブログみてたら怒られるかも

 

酷道、険道だらけの紀伊山地の大自然の中にあって

21世紀の現代でも文明を馬鹿にしてるような

至る所で道路の崩落による通行止めだらけ

外界との接触を拒んでいるのかも

 

特に、役行者と前鬼後鬼の存在がいまも続く不思議

そして蔵王大権現の世界を体感できる奥吉野の痺れるような凄さ

知って欲しいような、あまり知られたくないような・・・

 

まあ、ほとんど閲覧者のいないブログなので

そんな危惧など不要と思いつつ投稿することにしてみます。

 

ちょっと酔いがまわっていつも以上に支離滅裂ですが

歴史の痕跡を目の当たりにしながら太古の昔を想像する面白さを是非味わいに

奈良にお越しくださいませ

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