久しぶりのブログ。下書きは1週間まえに書いてあったのだが、雨降りやリハビリ、旧友からの長電話等々。
健康な人の3分の1か、5分の1ぐらいの体力しかなく、辛い1週間だった。
さて、どこか旅行したりすると、大抵神社仏閣へ行く。そこで買う小物に、こんなものがあり、葬儀用のバッグにしのばせたりしている。
観音経のほうはどこで買ったか覚えていないが、般若経のほうは、大須観音とあり、思い出した。母の3回忌が近くの寺であり、幼な馴染みとそこで待ち合わせた。三婆で通りを散策し、古本屋でいい資料を見つけたのも覚えている。
般若心経は短く、残りは、やはり観音経。小さいのに、フリガナまでしてある。
ツイートのほうで、こんなのを見つけた。
般若心経 現代語訳
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。もっと力を抜いて楽になるんだ。苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ。
この世は空しいモンだ。痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。この世は変わり行くモンだ。苦を楽に変える事だって出来る。汚れることもありゃ背負い込む事だってある。だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。
この世がどれだけいい加減か分ったか?苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。見えているものにこだわるなよ。聞こえるものにしがみつくな。味や香りなんて人それぞれだろ?なんのアテにもなりゃしない。揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。それが『無』ってやつさ。生きてりゃ色々あるさ。辛いモノを見ないようにするのは難しい。でも、そんなモンその場に置いていけよ。
先のことは誰にも見えねぇ。無理して照らそうとしなくていいのさ。見えない事を愉しめばいいだろ。それが生きてる実感ってヤツなんだよ。正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
菩薩として生きるコツがあるんだ。苦しんで生きる必要なんてねえよ。愉しんで生きる菩薩になれよ。全く恐れを知らなくなったらロクな事にはならねえけどな。適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。
勘違いするなよ。非情になれって言ってるんじゃねえ。夢や空想や慈悲の心を忘れるな。それができりゃ涅槃はどこにだってある。
生き方は何も変わらねえ。ただ受け止め方が変わるのさ。心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんたぜ。
この般若を覚えとけ。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい。細けえことはいいんだよ。苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
ということだそうである。分かりやすいが、くだけ過ぎていて、有難みがうすい。聞き慣れた正調で、わけ分からないほうがいいかもしれない。別に、信心から言っているのではなく、ふだんは造花が飾ってあるだけ。真面目に唱えたことなど一度もなく、ほんとに苦しみが小さくなる? なかなかお経のように悟れないところが、また有難みがある。どうせ、ブログを書いたら、また忘れてしまうだろう。
般若心経をyoutubeで聴いてみたが、やはり幼いころからの宗派のが馴染み深かった。
これは、姉の形見。お数珠にもあるが、ヒョウタン形の細いほうから覗くと阿弥陀さまが見える。
そんなに苦労せずに、撮ることができた。