秋紀 芳慧 (Yoshie Akinori)

カラス公演

昨日東京新国立劇場での勅使川原三郎+KARAS「ガラスの牙」公演を観てまいりました。
結論からいうと、問題作でした。お世辞にもおもしろいとはいえない。ダンス作品と銘打っていながらダンスといえるのかどうか分からない。おそらくNHKとかでも放送はされないでしょう。あまりにもマイナーな、実験的な作品で、おそらくヨーロッパで制作されたと思うのですが、ヨーロッパでないとなかなかあんな作品は出来なかったのではないかと思う。音楽でいう通でしか受けない作品。
しかしダンスとは何かを問う非常に重要な作品として記憶されると思う。
一部ではステージに敷かれたガラスをバリバリ踏みながら歩き踊る。踊るっていってもふわふわ今までの勅使川原のもつやわらかい動きがいかに危険をともなっていたのか思い知らされるイントロ。そしてその後に続くグループによる息を合わせたダンス。前から感じたが、おそらく音きっかけとかで動くのではなく、いっせいのーでで動くダンスだと思う。ダンサーのもつ身体の質感を見せつける、思い知らされる、そんな作品。ダンスの質感とかをシンプルに見せられた。ある意味分かりやすい、そんな作品だった。
二部は勅使川原さんのガラスの板に四方か六方を囲まれてクセナキスで踊る。狭い活動可能な平面の上で、ほとんどステップはなく、ゆがんだ身体を見せる。もうダンスらしくない。少なくとも今までの勅使川原さんのダンスではない。勅使川原さんよりも勅使川原さんの上の何もない舞台の空間を見つめる。何もないそこに彼の思考が走っているというか、おそらく膨大な思考の上に身体をたゆたっているというかのたうっているというか動いている。途中で宮田圭さんがちょこっと出現。もっと踊っているシーンがみたいです、宮田さん。
その後に「Scream and Whisper」の中のパートが挿入される。今回佐東利穂子さん他メンバーの力が少し物足りない気がしたがここ佐東さんの力が少し物足りないのが特に顕著に出ていたように思う。勅使川原さんとのアンバランスさが気になりつつ口に挿入されたコンタクトマイクでの二人の叫び声と呼吸とはすばらしいものだった。ガラスの割って歩く音すらマイクで拾って音楽と化していた。そして異常だったのは勅使川原さんの日常動作を繰り返し(ズボンをはく仕草)とパントマイム的な顔のおどけかたはもうただ単なる芸人のような、感じですごい…としか感想がない。感動とかそんなものはなく、ただ誤解されそうな振り(お芝居、パントマイムなど)をあえてやる。もちろん意味性を考えてした動きでないのは分かるはずだとは思うが。おそらく僕を含めて彼の真意はつかめなく誤解してしまうだろう。そして最後に勅使川原さんのソロ。この公演全体が少々バランスがバラけてしまった感のあるこの日の公演を最後にギュっと締めた。
このあまりにも難解な作品は問題作だろう。そして彼自身次のステージに挑戦しているのだと感じた。






僕自身勅使川原さんの影響下で身体の稽古をいろいろスタートさせたが、結局彼は単なる個性であってあれは主流ではない。そして主流はそもそも存在しない。またそれを意識する事自体おかしい。自分のしたいことは自分でしか出来ない。そしてダンサーというものはそもそもソロである。ダンスとは何か、考えさせられる。グループを今までほんの少しだがやってきた。それは本当に正しい、良い方向に進んできているだろうか、考えさせられた。もっとピュアにならなければならない。僕の本来の強みはピュアである。それを生かさなければならない。いろいろ考えされられた。問いを突きつけられた、そんな一日だった。

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