ここで改めて、「愛宕百韻」に対する明智憲三郎氏の見解について検証したいと思います。
まず、「愛宕百韻」にまつわる問題として客観的見地から指摘できるのは以下の点です。
① 「愛宕百韻」での光秀の発句に最初に注目したのは、秀吉が御伽衆であった大村由己に著させた『惟任退治記』である。
② 指摘されているのは「謀反の先兆」ということであり、光秀の出自に纏わる「土岐氏云々」にまでは言及されていない。
③ 当時、光秀自身が土岐氏であることを主張していたと確実に立証できる史料は無い。
④ 太田牛一の『信長(公)記』を始め、当時の人々は謀反の理由を光秀の野心や恨みから起こされたものと考え、
信じていた。
⑤ 同時代の人々は、光秀がかつて細川藤孝の家臣であったと認識していた。
⑥ 光秀の詠んだ発句に土岐氏を絡めた解釈を最初に明記したのは『明智軍記』だと見られる。
⑦ 当初、広められた「愛宕百韻」の発句、脇区、三句は、語句の一部が改変あるいは誤伝されていると見られる。
⑧ 愛宕山西之坊威徳院住職の行祐の詠んだ脇句は、発句の光秀や三句の紹巴らも参加した前年の連歌会で
細川藤孝の詠んだ句に擬えたものと見られる。
①については憲三郎氏も指摘されるところで異論はありません。問題はそれ以降にあります。
次の②ですが、それについては憲三郎氏も認めるものの「当時の人々にはそれで十分意味が通じると判断したからである。」としているのは、次の③からは疑問であり、それに伴い謀反の理由を「土岐氏再興」に求めた氏の解釈も④からは疑問であり、⑥を史実として直視すべきだと言えます。
当時の人々にとって光秀は⑤の藤孝の旧臣という認識が一般的で、「土岐氏の盟主」として見ていたような形跡はなく、あくまで謀反は光秀個人の理由によって起こされたというのが一般的な認識であったと言えます。
その上で光秀の発句に土岐氏をからめた解釈は、一次史料では不明である美濃時代の光秀の経歴に言及している『明智軍記』こそが初見であり、
同書が数々の「光秀伝説」の淵源となっていることは憲三郎氏も認める定説であることからも、光秀の発句についても同様であったと考えられます。
次に⑦の問題については、意図的に改変されたものか添削されたものか俄かに判断し難いところがありますが、上記の点からも、「土岐氏再興」の絡みがその理由にあったとは考えられません。その際、注目すべきは⑧の点であり、光秀の句に疑惑を掛けることで藤孝にまで累が及ぶことを慮り改変されたのではないでしょうか。
藤孝にとって光秀は、息子の嫁の父とはいえ元家臣。それに対し藤孝の出自は足利将軍家に繋がる家柄であり、ことさら「土岐氏再興」を願うべき理由があったとは考えられません。
光秀の子孫を称する憲三郎氏にすれば、謀反が光秀個人や親族、家中の問題から起こされたとするよりは、より大きな「土岐一族」の窮状を憂い再興を目指したと思われたいのでしょうが、少なくとも「愛宕百韻」の解釈にそれを求めるのは無理があると言わざるを得ません。
現代の「犯罪捜査規範」において事件関係者が捜査から外されるのは、そうした「思い込み」により捜査が進められることを忌避するからです。
まず、「愛宕百韻」にまつわる問題として客観的見地から指摘できるのは以下の点です。
① 「愛宕百韻」での光秀の発句に最初に注目したのは、秀吉が御伽衆であった大村由己に著させた『惟任退治記』である。
② 指摘されているのは「謀反の先兆」ということであり、光秀の出自に纏わる「土岐氏云々」にまでは言及されていない。
③ 当時、光秀自身が土岐氏であることを主張していたと確実に立証できる史料は無い。
④ 太田牛一の『信長(公)記』を始め、当時の人々は謀反の理由を光秀の野心や恨みから起こされたものと考え、
信じていた。
⑤ 同時代の人々は、光秀がかつて細川藤孝の家臣であったと認識していた。
⑥ 光秀の詠んだ発句に土岐氏を絡めた解釈を最初に明記したのは『明智軍記』だと見られる。
⑦ 当初、広められた「愛宕百韻」の発句、脇区、三句は、語句の一部が改変あるいは誤伝されていると見られる。
⑧ 愛宕山西之坊威徳院住職の行祐の詠んだ脇句は、発句の光秀や三句の紹巴らも参加した前年の連歌会で
細川藤孝の詠んだ句に擬えたものと見られる。
①については憲三郎氏も指摘されるところで異論はありません。問題はそれ以降にあります。
次の②ですが、それについては憲三郎氏も認めるものの「当時の人々にはそれで十分意味が通じると判断したからである。」としているのは、次の③からは疑問であり、それに伴い謀反の理由を「土岐氏再興」に求めた氏の解釈も④からは疑問であり、⑥を史実として直視すべきだと言えます。
当時の人々にとって光秀は⑤の藤孝の旧臣という認識が一般的で、「土岐氏の盟主」として見ていたような形跡はなく、あくまで謀反は光秀個人の理由によって起こされたというのが一般的な認識であったと言えます。
その上で光秀の発句に土岐氏をからめた解釈は、一次史料では不明である美濃時代の光秀の経歴に言及している『明智軍記』こそが初見であり、
同書が数々の「光秀伝説」の淵源となっていることは憲三郎氏も認める定説であることからも、光秀の発句についても同様であったと考えられます。
次に⑦の問題については、意図的に改変されたものか添削されたものか俄かに判断し難いところがありますが、上記の点からも、「土岐氏再興」の絡みがその理由にあったとは考えられません。その際、注目すべきは⑧の点であり、光秀の句に疑惑を掛けることで藤孝にまで累が及ぶことを慮り改変されたのではないでしょうか。
藤孝にとって光秀は、息子の嫁の父とはいえ元家臣。それに対し藤孝の出自は足利将軍家に繋がる家柄であり、ことさら「土岐氏再興」を願うべき理由があったとは考えられません。
光秀の子孫を称する憲三郎氏にすれば、謀反が光秀個人や親族、家中の問題から起こされたとするよりは、より大きな「土岐一族」の窮状を憂い再興を目指したと思われたいのでしょうが、少なくとも「愛宕百韻」の解釈にそれを求めるのは無理があると言わざるを得ません。
現代の「犯罪捜査規範」において事件関係者が捜査から外されるのは、そうした「思い込み」により捜査が進められることを忌避するからです。
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