前章まで事あるごとに謀反の理由として「一族の滅亡」を強調してきた明智憲三郎氏ですが、本章では
よく考えてみれば長宗我部氏滅亡が光秀の「一族の滅亡」に直結するわけではないのだ。
と、「四国問題」が切欠でしかなかったことを認めています。
つまりそれだけでは謀反の理由としては弱いということであり、もし他に理由となる出来事がなければ光秀は長宗我部氏の滅亡を容認していた、せざるを得なかったであろうということになるのではないでしょうか。それはすなわち、前章で述べた「長宗我部氏も土岐一族」という主張に反し、自ら「土岐一揆」なるもの限界を示されたことに他ありません。
動機としては弱い「四国問題」に代わり憲三郎氏が次に提示されたのは「織田家の長期政権構想」です。
その憲三郎氏言うところの「織田家の長期政権構想」ですが、一つは谷口克弘氏が指摘された「近国掌握構想」※であり、多くの研究者が、いずれ信長は安土から大坂へ移転していたであろうと口を揃えて述べるなか、前段階として、近江近国に近習たちを配しての直轄支配を進めたであろうことを指摘されています。
憲三郎氏はそれに加え、織田家一門による安土・京を中心とした領国支配を指摘し、
これは信長が織田家の氏族長として、自分亡き後の織田家の安泰をどう図るかを
周到に考えた末に決断されたものだったに違いない。
と述べられています。
そして憲三郎氏が指摘する「織田家の長期政権構想」のもう一つが「唐入り」であり、氏はそれを「近国掌握構想」の延長として捉え、やがて不足するであろう恩賞の確保とともに、有力武将を海外へと送り出し国内での謀反の芽を摘む狙いがあったとされています。
憲三郎氏の主張される謀反の真の理由とは、やがて一族が海外へと追われ滅亡するとの危機感から起こしたのだということになります。
しかし憲三郎氏のその主張には、根本的な誤りがあると言わざるを得ません。
※谷口克弘・著『信長の親衛隊』中公新書(1998/12)
よく考えてみれば長宗我部氏滅亡が光秀の「一族の滅亡」に直結するわけではないのだ。
と、「四国問題」が切欠でしかなかったことを認めています。
つまりそれだけでは謀反の理由としては弱いということであり、もし他に理由となる出来事がなければ光秀は長宗我部氏の滅亡を容認していた、せざるを得なかったであろうということになるのではないでしょうか。それはすなわち、前章で述べた「長宗我部氏も土岐一族」という主張に反し、自ら「土岐一揆」なるもの限界を示されたことに他ありません。
動機としては弱い「四国問題」に代わり憲三郎氏が次に提示されたのは「織田家の長期政権構想」です。
その憲三郎氏言うところの「織田家の長期政権構想」ですが、一つは谷口克弘氏が指摘された「近国掌握構想」※であり、多くの研究者が、いずれ信長は安土から大坂へ移転していたであろうと口を揃えて述べるなか、前段階として、近江近国に近習たちを配しての直轄支配を進めたであろうことを指摘されています。
憲三郎氏はそれに加え、織田家一門による安土・京を中心とした領国支配を指摘し、
これは信長が織田家の氏族長として、自分亡き後の織田家の安泰をどう図るかを
周到に考えた末に決断されたものだったに違いない。
と述べられています。
そして憲三郎氏が指摘する「織田家の長期政権構想」のもう一つが「唐入り」であり、氏はそれを「近国掌握構想」の延長として捉え、やがて不足するであろう恩賞の確保とともに、有力武将を海外へと送り出し国内での謀反の芽を摘む狙いがあったとされています。
憲三郎氏の主張される謀反の真の理由とは、やがて一族が海外へと追われ滅亡するとの危機感から起こしたのだということになります。
しかし憲三郎氏のその主張には、根本的な誤りがあると言わざるを得ません。
※谷口克弘・著『信長の親衛隊』中公新書(1998/12)
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