『信長考記』

織田信長について考える。

『フロイス・日本史』の「唐入り」は真実か 第六章(p127~140)

2014-03-14 08:17:42 | 本能寺の変 431年目の真実
 秀吉の「唐入り」について明智憲三郎氏は、ルイス・フロイスの『日本史』の
  彼が強く望んでいるのは、彼が恐れており、将来なんらかの支障をもたらすかも知れぬすべての諸侯なり
  高位者を、日本から放逐し、それを実現した暁には、日本の諸国をほしいままに自らの家臣、友人、
  その他の己れが欲する者に分与することであった

という記述を紹介し、「秀吉は信長のアイデアを真似て実現しようとしたのだ。」と述べられています。

 しかし、客観的にみて信長の真似といえるのは「唐入り」の意思の継承であり、その意図まで同じであったというのは憲三郎氏の思い込み以外の何者でもありません。しかもその秀吉の「唐入り」ですら、実はフロイスのそれと日本側の記録とでは大きく異なっています。

 秀吉が最初に「唐入り」の意思を表明したのは天正十三年(1585)九月の関白就任直後のことでしたが※、実行に移された天正二十年(1592)の五月十八日付けで養子の関白・秀次へ送った宛朱印状でその構想を明らかにしています。
 いわゆる「三国国割構想」と呼ばれるものであり詳細は略しますが、注目すべきは秀吉自らが大陸(※寧波)に居することを表明しており、後継者である秀次もまた北京へと移すことが記されています。
 すなわちそれは積極的な「大陸進出構想」とも呼ぶべきものであり、フロイスの言うような “邪魔者を追放する” といった姑息な考えとは大きく異なっています。どちらを信ずるべきかは言うまでもないでしょう。

 『日本史』のそれは、「唐入り」の失敗を踏まえ、ともすれば誇大妄想とも言うべき秀吉の構想を皮肉り矮小化したフロイスの主観的記述であったと考えられます。


※一柳市介への書状


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