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通勤電車や通学電車では、たいがいいつも同じような電車に乗り、同じようなコースで学校や仕事場に通うケースが大半だろう。
そんな毎日の中で、決まったコースの電車の駅や窓からはるか遠くの方向や、進行方向と逆方面に遠い山の姿が見えてたりする。
いつものコースとは外れて、遠くに見える山の方に向かってみたくなることがある。
昔私は小田急線で通っていた。
通常は新宿方面に出る。
だが、新宿方面とは逆方面のはるか彼方には山が見えた。
大山、あるいは富士山。
ちょいといつもと逆のホームに行き、そこに入ってきた電車に乗り、いつもとは逆方向に、延々と進めば、山方面に着くはずだ。
ごみごみした場所を通って仕事場に向かうよりも、行方不明にでもなったかのように、逆方面に進んで、遠くに見える山に向かってみたい。
そんなことを考えながらも、結局はいつもと同じ方向に向かう電車に乗り、都心方面に向かってしまうことになる。
ある時、思い立って、休日に、都心方面とは逆方向に向かって、遠くの山方面を目指したことは何度かある。
でも・・せっかくいつもの妄想を実現させてるのに、そういう時って、思ったほどには心が高ぶらなかった。
不思議だった。
それは・・なぜだったのだろう。
それは・・休日だったからだと思う。
決まりきった日常を脱するには、休日じゃない通常の日に、逆方向に向かうことだった。
それって、もしかしたら、現実逃避をしたかっただけなのかもしれない。
それを実際にやると仕事をサボることになるから、小心者の私としては中々それは実現できなかった。
もしもそれを実現させてたら、開放感とスリル(仕事をサボってるというスリル)を感じることができた・・かどうかは定かではない(笑)。
でも、普段の日常で、都心方面に仕事に向かう私を遠くから見てる山々は、「おい、たまにはこっちへおいでよ」とか「そっちを逃れて、こっちにきて一休みしなよ」とでも誘っているかのようだった。
町から遠く離れた遠方に連なる山々が見えると、ついつい気にはなってしまう。
あの山までどれくらい時間がかかるかな・・とか、あの山はどうなっているかな・・とか、あの山々の近くに住んでる人はあの山にちょくちょく行ってるのかな・・とか、あの山に行ったらノンビリできるかな・・とか。
もっとも、そういう山の近くに住んでたりしても、実際にはそうそう頻繁にその山に行ってる人は案外多くはないものだとは思うけどね。
遠方に見える山姿は、「非日常」が形になったものだと思う。
あるいは、非日常の場所が具体的に遠方に見えているということだろう。
そう、それは、「非日常の姿」なのだ。
そういうのに惹かれるのは、日常の中にいて、どこか非日常を心の中で求めている・・・ということなのかもしれない。
入院していた頃、病室の窓からは富士山がクッキリと見えた。
入院してると、病室が「日常の場所」である。
だからこそ、病室の窓から見える富士山には、大いに惹きつけられたものだった。
病室を抜け出し、あの富士山に行けたらどんなにいいだろう・・とも思ったものだった。
退院したら富士山に行きたい・・・と思ったものだった。
でも、退院したら、私の気持ちは富士山にではなく、「あんかけうどん」に向かった(笑)。
そんな毎日の中で、決まったコースの電車の駅や窓からはるか遠くの方向や、進行方向と逆方面に遠い山の姿が見えてたりする。
いつものコースとは外れて、遠くに見える山の方に向かってみたくなることがある。
昔私は小田急線で通っていた。
通常は新宿方面に出る。
だが、新宿方面とは逆方面のはるか彼方には山が見えた。
大山、あるいは富士山。
ちょいといつもと逆のホームに行き、そこに入ってきた電車に乗り、いつもとは逆方向に、延々と進めば、山方面に着くはずだ。
ごみごみした場所を通って仕事場に向かうよりも、行方不明にでもなったかのように、逆方面に進んで、遠くに見える山に向かってみたい。
そんなことを考えながらも、結局はいつもと同じ方向に向かう電車に乗り、都心方面に向かってしまうことになる。
ある時、思い立って、休日に、都心方面とは逆方向に向かって、遠くの山方面を目指したことは何度かある。
でも・・せっかくいつもの妄想を実現させてるのに、そういう時って、思ったほどには心が高ぶらなかった。
不思議だった。
それは・・なぜだったのだろう。
それは・・休日だったからだと思う。
決まりきった日常を脱するには、休日じゃない通常の日に、逆方向に向かうことだった。
それって、もしかしたら、現実逃避をしたかっただけなのかもしれない。
それを実際にやると仕事をサボることになるから、小心者の私としては中々それは実現できなかった。
もしもそれを実現させてたら、開放感とスリル(仕事をサボってるというスリル)を感じることができた・・かどうかは定かではない(笑)。
でも、普段の日常で、都心方面に仕事に向かう私を遠くから見てる山々は、「おい、たまにはこっちへおいでよ」とか「そっちを逃れて、こっちにきて一休みしなよ」とでも誘っているかのようだった。
町から遠く離れた遠方に連なる山々が見えると、ついつい気にはなってしまう。
あの山までどれくらい時間がかかるかな・・とか、あの山はどうなっているかな・・とか、あの山々の近くに住んでる人はあの山にちょくちょく行ってるのかな・・とか、あの山に行ったらノンビリできるかな・・とか。
もっとも、そういう山の近くに住んでたりしても、実際にはそうそう頻繁にその山に行ってる人は案外多くはないものだとは思うけどね。
遠方に見える山姿は、「非日常」が形になったものだと思う。
あるいは、非日常の場所が具体的に遠方に見えているということだろう。
そう、それは、「非日常の姿」なのだ。
そういうのに惹かれるのは、日常の中にいて、どこか非日常を心の中で求めている・・・ということなのかもしれない。
入院していた頃、病室の窓からは富士山がクッキリと見えた。
入院してると、病室が「日常の場所」である。
だからこそ、病室の窓から見える富士山には、大いに惹きつけられたものだった。
病室を抜け出し、あの富士山に行けたらどんなにいいだろう・・とも思ったものだった。
退院したら富士山に行きたい・・・と思ったものだった。
でも、退院したら、私の気持ちは富士山にではなく、「あんかけうどん」に向かった(笑)。