
大河「べらぼう」の舞台を訪ねて、その3。
さらに大河「べらぼう」の舞台を歩く。
耕書堂で土産物を物色した後、再び私は仲之町通りを歩きだした。
この通りの両側に、かつては遊郭が並んでいたのか・・などと思いながら歩くと、ドラマや映画などで見た遊郭の幻影がみえるような気がした。
もちろん今はもう遊郭はない。
だが、あたりには風俗店が立ち並び、ここは昔も今も風俗街なんだなと実感。
普段この町は、風俗店目当てで男性客が来る町のはず。
だが2025年は、大河「べらぼう」の舞台がここということで、女性客も多かった。
その意味では、例年とは違う客層が多く、町としては少し戸惑っているような気もした。
だが仲之町通りを外れて路地に入ると、そこはひっそりして、静かに風俗店が多數立ち並んでいた。
↑路地に入ると、ひっそりと風俗店が並んでいた。大河の影響で女性客が増えてる時期は、風俗店目当てで来た人は、入り辛いのでは(笑)。
仲之町通りに戻り、なおも歩いてると、大河でも出てきた九郎助稲荷(くろすけいなり)があった。
ドラマでは蔦屋重三郎こと「つたじゅう」と花魁「玉ノ井(瀬川)」がよく語らっていた稲荷。
遊女たちもここては願掛けをしていたことだろう。
↑九郎助稲荷。大河「べらぼう」では、頻繁に出てきた場所だ。
↑九郎助稲荷の稲荷像。大河では、綾瀬はるかさんが声をあてていたよね。
↑とのことです。
その後少し公園で休んでると、仲之町通りの後部の方にもS字カーブの道があることがわかった。
↑吉原大門の前にあったS字カーブと似たようなカーブの道が。
その近辺には、弁財天のある弁天池跡があった。
↑弁財天ののぼり。鮮やかな赤。
↑私が訪れた時、この位置で写真撮影をされてた女性がいた。モデルか何かだったのかな。
↑弁天様は音楽や芸能の神なので遊郭があった時代から、この地域の人たちを見守ってきたのだろう。ある意味、遊女たちにとっては、御稲荷様と共に心のよりどころだったのかもしれない。
弁天さま、これからもこの地を見守ってあげてくたさい。ついでに私にも音楽の才能をお分け下さい。
↑弁天池跡にあった滝?関東大震災の時、吉原の弁天池は多数の遊女たちの遺体で埋もれたらしい。火災を逃れるために、遊女たちは弁天池に逃げ込んだが、火の勢いは収まらなかったそうな。
堀に囲まれてた上に、木造の建物が密集してたことも火災被害の大きさの理由だろう。
弁天池はその後埋め立てられたが、再現したものがここに残っている。滝は吉原の新たな名物にするために、人工的に設置されたものらしい。昔の弁天池はそれなりの大きさがあったようだが、今の弁天池はかなり小さかった。大きな鯉が泳いでいた。
仲之町通りには普通の飲食店は、心なしか少なかった。全然なかったわけではないけれど。
通りには喫茶店は多かったが、どうも妖しい雰囲気がして、私には入りづらかった。
だから、私は普通の飲食店が少なく感じられたのかもしれない。
↑仲之町通りを戻って、私は帰途についた。
昔ながらの遊郭は今はもうない。
遊郭は1872年(明治5年)に、明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、貸座敷と名称を改めて存続し続けた。
その後、1900年(明治33年)に、廃娼運動が起きるようになると、弾圧されるようになり、制限されるようになった。だが、完全になくなったわけてはなかったようだ。
そのへん、たくましい。
だが第二次世界大戦後、GHQにより公娼制度が廃止されると、「赤線」の通称で存続したが、1957年に売春防止法、更に1958年にそれが施行されるに至り、遊郭の存在はトドメを刺されてしまうことになった。
とはいえ、吉原は今でも日本有数の風俗街として、かつての遊郭の歴史の名残を残している。
吉原は、やはりたくましい・・私はそんなことを考えながら、吉原を後にした。
かつての遊女たちや、そこに集まってきた人たち、そこで暮らしてた蔦屋重三郎のような人たちに思いを馳せながら。
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