時間の外  ~since 2006~

気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

九郎助稲荷と弁財天

2025年03月08日 | 

大河「べらぼう」の舞台を訪ねて、その3。

 

さらに大河「べらぼう」の舞台を歩く。

耕書堂で土産物を物色した後、再び私は仲之町通りを歩きだした。
この通りの両側に、かつては遊郭が並んでいたのか・・などと思いながら歩くと、ドラマや映画などで見た遊郭の幻影がみえるような気がした。
もちろん今はもう遊郭はない。

だが、あたりには風俗店が立ち並び、ここは昔も今も風俗街なんだなと実感。
普段この町は、風俗店目当てで男性客が来る町のはず。
だが2025年は、大河「べらぼう」の舞台がここということで、女性客も多かった。
その意味では、例年とは違う客層が多く、町としては少し戸惑っているような気もした。

だが仲之町通りを外れて路地に入ると、そこはひっそりして、静かに風俗店が多數立ち並んでいた。


↑路地に入ると、ひっそりと風俗店が並んでいた。大河の影響で女性客が増えてる時期は、風俗店目当てで来た人は、入り辛いのでは(笑)。


仲之町通りに戻り、なおも歩いてると、大河でも出てきた九郎助稲荷(くろすけいなり)があった。
ドラマでは蔦屋重三郎こと「つたじゅう」と花魁「玉ノ井(瀬川)」がよく語らっていた稲荷。
遊女たちもここては願掛けをしていたことだろう。


↑九郎助稲荷。大河「べらぼう」では、頻繁に出てきた場所だ。



↑九郎助稲荷の稲荷像。大河では、綾瀬はるかさんが声をあてていたよね。


↑とのことです。



その後少し公園で休んでると、仲之町通りの後部の方にもS字カーブの道があることがわかった。



↑吉原大門の前にあったS字カーブと似たようなカーブの道が。


その近辺には、弁財天のある弁天池跡があった。



↑弁財天ののぼり。鮮やかな赤。



↑私が訪れた時、この位置で写真撮影をされてた女性がいた。モデルか何かだったのかな。



↑弁天様は音楽や芸能の神なので遊郭があった時代から、この地域の人たちを見守ってきたのだろう。ある意味、遊女たちにとっては、御稲荷様と共に心のよりどころだったのかもしれない。
弁天さま、これからもこの地を見守ってあげてくたさい。ついでに私にも音楽の才能をお分け下さい。


↑弁天池跡にあった滝?関東大震災の時、吉原の弁天池は多数の遊女たちの遺体で埋もれたらしい。火災を逃れるために、遊女たちは弁天池に逃げ込んだが、火の勢いは収まらなかったそうな。
堀に囲まれてた上に、木造の建物が密集してたことも火災被害の大きさの理由だろう。
弁天池はその後埋め立てられたが、再現したものがここに残っている。滝は吉原の新たな名物にするために、人工的に設置されたものらしい。昔の弁天池はそれなりの大きさがあったようだが、今の弁天池はかなり小さかった。大きな鯉が泳いでいた。



仲之町通りには普通の飲食店は、心なしか少なかった。全然なかったわけではないけれど。
通りには喫茶店は多かったが、どうも妖しい雰囲気がして、私には入りづらかった。
だから、私は普通の飲食店が少なく感じられたのかもしれない。




↑仲之町通りを戻って、私は帰途についた。

 
昔ながらの遊郭は今はもうない。
遊郭は1872年(明治5年)に、明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、貸座敷と名称を改めて存続し続けた。

その後、1900年(明治33年)に、廃娼運動が起きるようになると、弾圧されるようになり、制限されるようになった。だが、完全になくなったわけてはなかったようだ。
そのへん、たくましい。

だが第二次世界大戦後、GHQにより公娼制度が廃止されると、「赤線」の通称で存続したが、1957年に売春防止法、更に1958年にそれが施行されるに至り、遊郭の存在はトドメを刺されてしまうことになった。


とはいえ、吉原は今でも日本有数の風俗街として、かつての遊郭の歴史の名残を残している。



吉原は、やはりたくましい・・私はそんなことを考えながら、吉原を後にした。
かつての遊女たちや、そこに集まってきた人たち、そこで暮らしてた蔦屋重三郎のような人たちに思いを馳せながら。









コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大河ドラマの影響で賑わう吉... | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事