呼子で「イカ丸」遊覧船に乗って「七つ釜」を見た後、一度宿に戻った私は宿でレンタル自転車を借り、街へ出た。
昼飯を食べる場所を探しながら、街を自転車でスイスイ。
まずは橋を渡り、唐津城へ向かった。
↑舞鶴橋と唐津城。定番アングルのひとつ?後で、あの天守にのぼる予定。そこからは、ここがどう見えてるだろう。
↑唐津城は補修でもしてるのか、城より高いクレーンが映っていた。あのクレーンは、一体何メートルあるのだろう、、、。
唐津城はあのあたりでは目立つ存在だったし、唐津エリアでは観光スポットであろう。
斜めに進む有料エレベーターで山の上のほうへ。
とりあえずその時点での眺めも、中々のものだった。
↑ もちろん、エレベーターを使わずに、階段で上るルートもあった。外国人客、多し。
↑変則エレベーターを上がった場所からの眺め。街を見下ろせる、良い景色。
↑くねって続く浜は、虹の松原と呼ばれるエリア。
↑唐津城天守閣。ただし、昔の天守閣は残ってなかったので、現代に新築されたもの。城内は展示館のようだった。
さらにそこから城の中に入り、最上階を目指した。
城自体は、昔の城がそのまま残ってるわけではなく、外観は城でも内部はコンクリートのビルの内部みたいな感じ。
内部にいるとあまり城の中にいるという感覚はなかったが、さすがに最上階に出て回廊に立ち、唐津の街を見渡してみると、素晴らしい眺め。圧巻。
この眺めが見れるだけでも、唐津城の最上階には来る価値はあると思った。
↑最上階。回廊から見下ろす下界は、圧巻!
↑天守閣から、唐津の町を見渡す。海は川となって、くねって内陸へ。
↑今回の旅行で、一番の絶景かも。エレベータ^ーを降りたエリアあたりから見た景色も良かったが、ここ天守閣から見下ろす光景は、より高さがあったため、木々に遮られず、さらに素晴らしかった。ちなみに、あの橋を向こう岸に渡ったあたりの地点から撮った写真が、前述の 「舞鶴橋と唐津城」の写真。それにしても・・・川が広い。
↑天守閣から、海に浮かぶ高島を見る。う~ん、やはりかわいい形だ。 ぽっかり浮かんでいた。海のプリン?
↑高島方面よりやや視界を左にずらして見た。機嫌良さげな空と海。
↑ここは夏は海水浴場になるのかな。 そういや、私は長いこと海水浴には行ってないな・・。
海に浮かぶ「高島」という島は、宿の窓からも見えていたが、あらためて面白い形の島だと思った。
唐津城の足元で海が大きな川となって大地の中にクネッと進んでいた。
川と海の境目あたりに架かる橋にはひっきりなしに車が通っていた。
浜辺の方を遠方まで見やると、白い浜がゆるやかなカーブを描き続いていたが、その浜は多数の松林で波打ち際を飾られていた(この日記の一番上の写真参照)。
あのあたりが「虹の松原」と呼ばれている場所なのだろう。
城を降りたあとに、町のどこかで昼飯を食べ、その後あの「虹の松原」には行ってみるつもりだ。
ひとしきり唐津城からの眺めを楽しんだ後、私は自転車で町を走りだした。
そう、そろそろ昼飯の心配をしないと。辺りは町だから、飯屋はあれこれあるだろう・・そう思って走りだしたのだが・・。
すぐに店は見つかるだろうと思ってたのに、これが中々見つからなかった。
正直、城の近くにそば屋とかレストランぐらいはあるのではないかと思ってたのだが・・。
立ち食いそば屋はすぐに見つかったが、旅先で立ち食いそばというのは少し味気ないかな・・と思って、やりすごして、更に町を進んだ。
でも・・これがなかなかない。
どれぐらい走っただろう。
かなり町の奥まで進んだが、飯屋以外の店はいくつも見つかったが、昼飯を食べられそうな店がみつからず、「え?どうなってるの?」とか「この町の人は、どこで昼飯を食べてるのだろう」などと思い始めた。
それなりに開けた町だと思ったので、飲食店街みたいなエリアがあるはずだと思った私は、すっかりあてが外れてしまった。
町のだいぶ奥まで行って、やっとの思いでポツリとあった飲食店を1店見つけ、そこに入った。
その時店の人に「飲食店街は、ないのですか?昼飯を食べられる店を探して、えんえんと自転車で走りまわりましたよ」と言ったら、「このへんは、飲食店が密集していないで、各地にポツリポツリとバラけてあるのですよ」との答。
どうやら私は自分の住んでる町や、よくある観光地を基準にしすぎていたようだ。
こういう町もあるのだ・・ということだね。
無事に昼飯を食べた後、腹ごなしをかねて自転車で、先ほど唐津城から見えていた「虹の松原」エリアへ向かった。
↑ひっそりと、「虹の松原」の石碑が。ここから松原の中に入っていけた。自転車でこのまま入っていいのかどうか、迷った。
そこは無数の松が植えてあるエリアで、ともかく松だらけ。
これは町の人たちによって保護されているようだ。
その無数の松林は、海からの風や、いざという時の津波などの心配から、町を守ってくれているのだ。
↑虹の松原、内部。御覧の通り、無数の松が生えていた。
↑虹の松原内部で見つけた、ひときわ大きな松。三つ首の竜のよう??
松林は延々と続き、中々浜に出られるルートが見つからなかった。
どれだけ進んだだろう。やっと、浜に出れる小さなルートを見つけ、浜に出てみた。
↑松林の中から浜辺に出れる個所は、少なかった。ここは貴重な「浜への通路」。写真真ん中の小さな通路から、出入りできた。
海はあいかわらず波が高かった。
海の水は透き通った感じではなく、日本海特有の色とでも言えばいいのだろうか。
太平洋と日本海では、やはり海の色は微妙に違うということを、ここでも実感。
↑虹の松原の浜辺でしばらく休む。それにしても「虹の松原」とは、良い名前だ。
↑写真には写っていないが、犬の散歩をしている人が数人いた。 こんな環境だと、犬ものびのびとするのかな?
↑海の音を間近で聞きながらだと、いつまでも休んでいられそうな気がした。
↑御覧の通り、海にそって無数の松林がびっしり続いていた。 この町を津波などから守ってあげてほしい。
↑唐津の町方面に続く、松林と浜辺。松がびっしり。
↑つい、海に浮かぶ高島を視界に入れてしまう。私は相当、高島が気に入ったようだ。海はさほど透明という感じはなかった。
この日も東唐津の宿で一夜を過ごし、翌日はいよいよ福岡県に戻り、博多の街を目指す。
博多の街。そこには・・私の自己満足企画「日本全47都道府県・完泊」の旅の最終ゴールにふさわしい「ある場所」がある。
その場所に着いた時、私の「日本全47都道府県・完泊」は完結するのだ。
前にも書きましたが、
旅に関心が持てない私にとっては本当に羨ましい限りです。
ところで佐賀といえば唐津や呼子のイカはもちろん美味しいですが、
「シシリアンライス」はお召し上がりになりましたか?
私も話にはよく聞くのですが、残念ながら食べた事がありません。
いわゆるB級グルメの類のようです。
「日本全47都道府県・完泊」の旅の最終ゴールが博多なんですか!!!
え〜!どこだろう?歴史のある街ですからね〜
私の勝手な予想としては…
その1 金印発見の地 志賀島
その2 元寇防塁
その3 鴻臚館跡
その4 福岡城址
その5 野村望東尼居住の平尾山荘…などなど
戦国時代かな〜とか、いやいやだんぞうさんなら幕末や維新がらみかな〜とか。
いろいろ考えてみましたが、やっぱわかりません(笑)
あ、案外博多うどんの名店「かろのうろん」とかラーメンの「長浜屋」だったりして。
でも「長浜屋」って看板あげてる店が何件もあるんですよね〜
それぞれ元祖!とか本家!って名乗ってますね(笑)
いや〜博多旅行記、楽しみにしとりますばい。
先生の作品に出てきた旅先を、「巡礼」していた時期がありましたから。
先生が当時泊まっていた宿で、後年「秘湯の宿」に認定された温泉がいくつもありますし、情報が少なかった当時にそういう宿や温泉をかぎ分けていた嗅覚はすごいです。
シシリアンライス?
あ・・食べていないかもです。
唐津の町では飲食店があまり見あたらなかったので、ともかく「あいてる飲食店」を探すだけでいっぱいいっぱいでした・・。
全47都道府県・完泊の旅のゴール地・・・それはいずれこのブログで書きます。
あと数日後にはアップします。
福岡の某所であることは間違いありません。
まあ、私らしいゴール地だとは思います。
博多ではうどんも食べましたが、ラーメン同様にうどんも美味かったです。
さすが博多、食文化も強力ですね。
地元人に愛されているのが分かります。
それにしても、捨丸さん、博多にお詳しいですね。
さすがです。
野村望東尼などはだんぞうさんも関心あるかな〜って思います。
かの高杉晋作とも親交が深く、望東尼が玄界灘の孤島「姫島」に流刑になった際は、
晋作の指示の元奪還作戦が実行され、無事救出されました。
また晋作が亡くなる時は、その枕元にずっと寄り添っていたとも言われ、
晋作の辞世「おもしろき 事もなき世に おもしろく」に
「住みなすものは 心なりけり」という下の句を付けました。
私自身は博多の有名ラーメン店ってあまり興味ありません。
まず並ぶのが嫌いだし、なんか変なこだわり押し付ける店が多いんですよね〜
「まず麺だけを味わってください」とかね〜
好きに食わせてくれよ〜って言いたくなります。
うどん、関東の方からすると麺が柔らか過ぎで、汁がが甘過ぎたんじゃないでしょうか?
ばってん、そいが博多のうどんったい!
もうすぐ博多は山笠の季節を迎えます。
「山笠のあるけん博多たい!」
かつて地元の銘菓のCMで使われたこのフレーズも今や全国区なんだとか。
ただ間違えてる人が多いですね。
「やまがさがあるけん博多たい」…
山笠は濁らず「やまかさ」と読み、あくまで「山笠のあるけん」なんです。
ならば知識だけでなく、愛着も強いことでしょうね。
高杉晋作は好きな人物なので、野村望東尼の存在や、その句も知ってました。
野村望東尼の下の句を聞いて、晋作は「おもしろいのお」と答えたんですよね。
ラーメンに限らず、私も料理は好きなように食べたいほうです。
なので、捨丸さんの気持ちはわかります。
ちなみに私が懐石料理があまり得意じゃないのは、同じ理由です。
うどんは、冷やしとろろうどんでした。
甘さはあまり感じませんでした。
博多というか、福岡はいつかまた行きたいです。
今回行けなかった場所で、いつか行きたい場所もあるので。
手間かかってて美味しいんでしょうけどね。
以前、仕事で日本料理の板前さん、というか超ベテランの料理人の方にお話を伺った事があります。
その頃、某グルメ漫画で「わさび」を扱った回がありました。
その中でわさびを醤油に溶かして食べる人間はダメだみたいな表現があり、
醤油溶かし派の私はカチンと来てました。
そこで私はその料理人の方にその事を聞いてみました。
「へ〜そんな漫画がありますのん?
それ描いた人はわさびを刺身に乗せて食べる事が正しゅうて上品やと教わりはったんやろうけど、
お客さんが自分が美味しい思う食べ方でええんとちゃいますか?
わてら作る側からしたら変な事気にしいしい食べはるより、
好きなように食べてもろうて、出がけにうまかったで!言われたらそれでもうよろし」
そうなんですよね〜私、話を聞いてて思わず握手を求めてしまい、驚かれた事を憶えています(笑)
それにしても、捨丸さんが握手した料理人さん、心意気がいいですねえ。
そういう人にも、食のコミックの主人公か、もしくは重要なメイン登場人物になってもらいたいです。
豊富な写真を掲載した旅のブログは読んで楽しく、感銘を受けました。
イカ丸って、面白い名前の船ですね。
浜辺や海の写真には、本能的な郷愁を感じました。また、夏が本格的になれば泳ぎに行きたいです。
◎Tバック、ビキニの女子と、手をつなぎ、
渚で遊びし、思い出ほのか。 中森綺蘭
捨丸様も、おっしゃつてますが『野村望東』様、、、、当時の勤皇派の尼さんだったんですね。
薩摩・長州の勤皇派の武士を支援した立派なかただったそうです。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のこと、まあ、ぼくには何とも言いようがないですね。趣旨が分からないです。
おそらく、秀吉は、当時のスペインやポルトガル、続いて英国、オランダが全世界へ領土拡張(今から言えば、侵略ですが)政策をしていたので、それに触発され対抗意識を燃やしていたのかも知れません。
日本と西ヨ-ロッパがきわめて類似した歴史過程を歩んだことは、多くの歴史家から指摘されていますが、この【朝鮮遠征】も、、そのひとつの表れかもしれません。。。。まあ、ぼくにはこれ以上のことは言えないですね。
ただ、いまの価値観で過去の歴史を裁くことは困難かも知れません。
石田三成は、秀吉の生存中は『いまふうに言えば【官房長官】みたいな立場』だった人ですが、たいへん律義な性格の人だったらしいです。
ぼくは、山岡荘八先生の『徳川家康』は、素晴らしい名著だと思いますが、石田三成を卑小な人物に描いてる事には感心できませんね。
もちろん、石田三成を悪し様に否定的評価をするようになったのは徳川時代になってからです。
ただし、家康の孫の徳川光圀(水戸黄門)は、石田三成について、『敵(かたき)だとは言え、憎むべからず』と言っており、均衡の取れた公正な見方をしています。
◎よく、『豊臣びいき』か『徳川びいき』かと、言った質問をされますが、ぼくは、どちらもひいきにしています。
真田幸村も大好きですしね、、、、、
もちろん、幕末の尊皇攘夷派の武士には心情的な共感を感じます。 新撰組も、まあ、好きです。
ただ、その時代の風潮で『賞賛して、持ち上げたり』あるいは逆に『糾弾して、こきおろしたり』するのは、おかしいと思いますね。
☆☆ところで、ですね、、、、
いまの天皇家のかたは、母系を通じて『豊臣家』の血を引いておられるそうです。
昭和天皇の母君『貞明皇后』は、祖先をさかのぼると豊臣秀吉の姉さん(日秀尼)につきあたるそうです。
豊臣家は、決して滅びてはいないんですね。!
◎とりとめのないことを、、だらだら書いてしまいましたが、
だんぞう様の紀行文を拝読し、色んな思いにかられました。
イカ丸は、かわいい名前ですよね。
唐津の浜辺を訪れたのは5月だったせいか、浜には人はあまりいませんでした。
たまに、犬の散歩で通りがかる人がいたくらいでした。
私はもう長年海水浴には行ってません。
日焼けが苦手なので(笑)。
女の子と海水浴、、、、若い頃以来そんな記憶は、、、。
秀吉の大陸進出は、信長が最初に考えていたビジョンだった、、、という説があります。
信長が長生きしたら秀吉と同じことを実際にしたかどうかは、今となってはわかりませんが。
なんにせよ、仰る通り、今の価値観で昔の歴史を裁くのは無理がありそうですよね。
石田三成は昔はあまり良く描かれていなかっあようですか、それは勝利者側の徳川家が勝者の都合で歴史を記していったからでしょう。
ただ近年、三成をそれなりに良く描く作品も増えてます。
三成は今は名誉回復が進んでると言えるでしょう。
水戸黄門さんの見方は、さすがですなあ。
歴史の流れは、善悪では捉えきれないですね。
どちらにも正義はあったりしますから。
天皇家のその話は知りませんでした。
目からウロコです。
その話を聞いたら、秀吉は喜ぶかもしれませんね。