東京の街から,遠い富士山が見える時がある。
カラッとよく晴れて、なおかつ空気がきれいな日でないと見れないから、そうそう頻繁ではない。
だから、東京から富士山が見えた時って、得したような気分になり、どことなく機嫌もよくなる。
心がのどかになり、癒されたりもする。
季節は今、冬。
冬は夏よりも空気が澄んでいる。
年末年始には里帰りする人が多く、都会は人が少なくなり、その結果道路を走る車も減る。
そうなると都会の空気の汚れは澄み、富士山が見える日は多くなる。
年末年始は、都会から富士を見る格好の機会なのだ。
東京から見える富士ってのは、下の方は見えない。
というのは、富士の前に丹沢の山があるからだ。
丹沢の山が富士の下半分(?)を隠している。
かといって、この丹沢が邪魔かというと、そうとも言い切れない。
というのは、東京から見える丹沢の山々の一番左に、粋な形の山があるからだ。
その「粋な形」の山は「大山」。
なぜ粋かというと、ちょっとしたピラミッドみたいな形をしており、夕焼けなどにはよく映える。
富士も大山も私は何度か行ったことがある。
特に富士などは、子供の頃から数えると、もう何度行ったかわからないくらいだ。
だが、私は富士に登ったことはない。
五合目すら行ったことがない。自分でも意外。
富士の広い山麓までは、何度も行っている。
山中湖、河口湖、忍野八海、富士サファリパーク、富士急ハイランド、樹海、その他。
いつか富士の・・・せめて五合目までだけでも登ってみたいとは思ってるのだが、中々機会がない。
東京から富士や丹沢がくっきり見えると、そのまま行きたくてたまらなくなることもあるのだが、いかんせん忙しい仕事の合間だと、行けるはずもない。
富士は、日本を代表する景色だ。
その姿は、絶世の美女だと言える。
だが、その美女ぶりは、遠くから見た場合・・のようだ。
というのは、富士にはゴミが相当捨てられているらしいからだ。
外国人に誇りたくなるほど美しい富士ではあるが、放置されたゴミのおかげで世界遺産にはなれないでいる。
もし、ゴミの問題が無ければ、日本を代表する景色として、世界遺産に登録されててもおかしくない。いや、「自然遺産」として、真っ先に登録されていたかもしれない。
それが、人間のわがままによるゴミのせいで世界遺産になれないなんて、大きな損失。
理由が理由だけに、日本の恥ではないかとさえ思える。
東京から見える富士は遠望。
遠目で見ると、その美しさはかけがえのない艶姿。
でも、実は、その肌に傷をかかえているのだ。日本の恥もかかえている。
つまり・・遠目で見る富士は、一種の虚像なのだ。
虚像のスーパースターであり、アイドルであり、ミス日本なのだ。
傷をおいながらも、その傷を人にわからないように隠した、痛ましい姿。
せめて遠目だけでも、私の傷は見えないようにしたい・・・富士はそう言って、泣きながら虚像の艶姿を、日本にいる人に見せているように思えてならない。
そう、遠望の富士は、必死に傷をこらえて「美しい富士山」を演じているのだね。
以前、大晦日に救急車で運ばれ、正月を病院のベッドで過ごしたことがある。
私のベッドは、運良く窓際だった。
窓際からは、連日富士山が見えた。
病気や入院で心細くなっている時、遠望の富士山の姿には、おおいに慰められたものだった。
人ってのは身勝手なもんで、そういう自分が心細く気弱になっている時ほど、人のちょっとした優しさ、身内のありがたみ、そして普段何気なく見過ごしてる自然の風景のかけがえのなさ、などを強く感じたりする。身にしみる・・とでも言おうか。
私の、東京から見える富士のありがたみや痛々しさへの思いは、その時を境に強くなった。
で、それは今も続いている。
なぜなら、富士は今日も富士を演じているから。
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