私の好きなテレビ番組企画のひとつに、「秘境駅」ものがある。
特に、安田大サーカスの団長が秘境駅に降り立ち、その駅を生活で使用している人が現れるまで帰れない・・という企画。
秘境駅と言われるぐらいの駅だから、出てくる駅はどれも僻地。
電車こそたまに通るけど、その駅で降りる人もいなければ、乗る人もいない。
でも、駅としては存在している。
駅として存在しているからには、誰か利用している人もいるはず。
だが・・・実際には一日待っても誰もいないこともあったりする。その場合は、そこで団長は泊りになってしまう・・。
あくまでも、誰か生活のために利用する人が現れるまでは帰れない。
私が地方に旅しても、現地の在来線を使った時に、たった一両だけの電車が走っていることもある。一両だけで足りるのかな・・と思いきや、利用者があまりいなくて、一両でも十分に思えたりする電車はある。
そんな電車では、人の乗り降りがない駅もあった。
そんな駅に出会うと、その駅が駅として機能しているのかな・・などと思ったことはあった。
その駅があるからには、その駅の利用者がいるからだろう・・とは思うのだが、それを駅で待って確かめるような時間的余裕は、旅行者にとってはなかったりする。
だから、安田団長が秘境駅に降り立ち、その駅を生活のために使う人が現れるまで待つ・・というのは、私にとっても非常に興味がある企画だ。
私ができなかったり、自身ではやりたくないようなことを団長が変わりにやってくれている・・・そんな印象だ。
だが、映像を見てると、この企画を担当している団長は、大変そうだ。
見ている視聴者としては楽しいけれど、実際に自分がそういうことをやるはめになったら、かなりキツイと思う。
一時間に一本、もしくは数時間に一本しかこない電車を、延々と駅で待ち続ける。
待ちに待ってやっと電車が来たとしても、誰一人乗り降りしないのはザラ。というか、そんな展開が大半だ。
だからこそ、待ちに待って、生活のためにその駅を利用する人が現れると、その人に興味を持ってしまうし、なにやら安堵感も感じてしまう。
その安堵感は、「この寂れた駅も、ちゃんと利用者はいるんだ」ということが判明したことから来る感覚だ。
私がこれまで見た限りでは、その「やっと現れた人」は、高校生だったり、おばあちゃんだったりした。
その人たちにしても、その駅の近くに住んでるわけでもなく、駅から自宅までけっこう距離があり、それを延々と歩いていったりする。
でも、一応利用者であることには変わりない。
そういう人がいる限り、その駅は、ちゃんと駅としての役割を果たせているのだ。
高校生の場合、通学で使っていたりするわけで、それが分かると、・・なんていうか、自分が駅の立場になったような気分になり、なにやら救われたような気分になる。
一方、利用者がおばあちゃんだったりすると、そのおばあちゃんの後を着いて行ってみれば山奥の不便な場所にある一軒家で暮らしていたりする。
その家のそばには他に民家がなかったりすると、その人がそこまでしてその場所に一軒家で暮らす理由があったりする。
そんなところに、人それぞれのドラマを感じたりする。
で、しみじみとしたり、心温まるものを感じたり。
そして、それは決してテレビディレクターの演出などではない。
そんな点が私は好きだ。
僻地の秘境駅が、ちゃんと駅として機能している理由がわかったようで。
一見、何の役にも立っていないかのように僻地にポツリとたたずむ秘境駅が、ちゃんと役割があり、駅として誰かの役にたっていて、存在理由があることに、なぜか私は嬉しくなる。
どんなに長く待っても、誰一人利用者がいなくて、それでも駅として残っているのだとしたら、こんなに寂しい光景はない。
そういう駅は・・・ただ、廃駅になるのを待つだけのような気がするし・・・いや、へたしたら・・・その駅を通る電車が廃線になるのを、黙って待つしかないような気がするから。
何もできず、消滅するのを待つしかない・・・そういう状況は、悲しい。
なお、写真の駅は、秘境駅というほどではありません。
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