自分は飛行機マニアで軍事オタクですから、
戦争経験者たちのいろんな話を、
多分、人一倍興味を持って聞いていたと思うのですが、
自分の祖父についてはほとんど聞いたことがありません。
もっとも、父方の祖父は自分が生まれる前に亡くなって、
母方の祖父は自分が小学校に入る前に亡くなりましたから、
全くといっていいほど記憶がないんですよね。
ちなみに自分は昭和46年生まれのオッサンだし、
父は昭和17年生まれ、母は昭和19年生まれですし、
両親ともすでに亡くなっていますから、
祖父が亡くなったのは昭和の頃のお話です。
とはいっても、やっぱり自分としては、
祖父がどのような戦争体験をしたのかということも、
時々は気になることがありまして、
祖母(が生きていた頃)をはじめとして、
親戚の方から断片的に聞いたことがありました。
まず、父方の祖父ですが、
どうも若い時は東京に住んでいて、
なぜか知らないけど皇宮警察に入ろうとしていたらしいのです。
でも視力検査で落されてしまい、
やがて太平戦争がはじまり空襲が激しくなったときに、
実家である栃木に引っ越して農業をしていたそうです。
そういうわけですから、
戦地へ赴いたというわけでもないみたいです。
次に母方の祖父なんですが、
母親から生前に聞いた話によりますと、
戦時中は呉にいたそうです。
呉というのは広島県の呉市です。
呉といえばまず思い浮かべるのが「海軍」ですから、
祖父は海軍の兵隊さんだったのかなぁ~なんて、
おぼろげながら考えていましたが、
伯母からさらに聞いた話によりますと、
どうもそうではないらしいのです。
伯母が小さかった頃の祖父は色々な場所への出張が多く、
しかも結構長い期間だったらしいのです。
そうやって長期の出張から帰ってくると、
その土地その土地の名産物を買ってきてくれたらしく、
伯母は毎回楽しみにしていたそうなんです。
特に海産物関係は嬉しかったらしい。
たしかに海のない栃木県ですから、
普段食べられないものを買ってきてくれたとなると、
特に嬉しくなってしまったのでしょうね。
それが鮮明な記憶として残っているのでしょう。
気持ちは十分わかります。
でも海軍の軍人ではなかったみたいなのです。
ただ、伯母から聞いたもう一つのエピソードがあって、
これは終戦後の話なんですが、
近所の橋を造ったのは祖父だということなんです。
近所の橋というのは、
現在自分が住んでいる自宅(母の実家)から、
歩いて5分ぐらいにある橋なんです。
昔から慣れ親しんで当たり前に渡っていた橋が、
実は祖父が作った橋だったって初めて聞かされた時は、
ちょっとだけビックリしましたね。
そういうこともありまして、
あらためて祖父の位牌を確認したら、
終戦時は36才という年齢でした。
年齢からすれば多分、
海軍の軍人ではなかったかもしれませんが、
戦前からエンジニアとして
主に海軍に徴用されていたのではないか、
と、そんな風に考えております。
新規の架橋から爆撃後の修復作業までを考えると、
長期出張も不思議ではありません。
あるいは仕事が「架橋」ですから、
陸軍にも徴用されたかもしれません。
個人的にはむしろ陸軍の方ではないかと、
そんな感じもしますけど、どうでしょうね。
とにもかくにも架橋関連のエンジニアとして、
様々な場所で橋を架けていたのだと思いますよ。
そう、あなたが何気なく渡っているあの橋も、
何気なく川面を覗いていたその橋も
実はウチのジ~さんが作ったのかもしれません…
な~んてね。