地下壕陣地はあったのですが…
実のところ地下壕陣地はありました。
渡嘉敷村の指定戦争遺跡として、集団自決跡地や特攻艇秘匿壕等とともに、「赤松隊陣地跡」という名称で整備され、2019年現在は詳細な案内図や遊歩道が設置されていますので、比較的簡単に訪れることができると思われます。
その場所には複数の「地下壕陣地」という名称にふさわしい人工的なトンネルがあり、人間が何人も入れるような規模のものが現存しております。このブログをお読みになっていただいている方の中には、実際に現地を訪れているのかもしれませんが、いかがでしょうか。
しかし再三指摘しておりますが、住民と元軍人の証言や第三戦隊と第三大隊がおかれた状況を総合的に考察すると、集団自決の前に完成されていたとは思われません。
つまり、現存する「地下壕陣地」は集団自決以後に構築され完成したものなのです。
第三戦隊や第三大隊が「造りたくても造れなかった地下壕陣地」を、集団自決後には造ることができたということになりますが、ではその原因は一体何なのでしょうか。
その筆頭に挙げられるのは、米軍の行動であると思われます。
米軍が渡嘉敷島攻略について、具体的にどのような行動をとっていたかというのは、様々な文献で取り上げられています。興味がある方はそういった文献でお調べください。ここで詳細を説明することは、若干趣旨が違ってくることになりますので省きます。
ただ、米軍がとった行動をわかりやすく説明すると、日本軍を武力によって殲滅させるというより、降参するように投降を呼びかけていたということになります。
散発的な銃撃戦といった小競り合いはあったようなのですが、本格的な武力衝突はありませんでした。
その分、第三戦隊は地下壕陣地を造る余裕があったのだと思われます。
ただし、造る余裕があったのだといっても、平時の土木作業ではありません。住民も含めてそれなりの苦労があったのだろうといった状況だったことも、元軍人や住民からの証言でその一端を垣間見ることができます。
いつ頃に完成させたかといったものは、集団自決前ではなく以後であるということが判明した以上、あまり意味を持ちませんので省略いたします。
また、集団自決後に起こった「住民のスパイ視」や「住民処刑」も、当ブログは赤松大尉や日本軍を糾弾するようなプロパガンダではありませんし、集団自決とはまた別の事案だと認識しておりますので、ここでは一切取り上げません。
「地下壕陣地」の有無についてのことに戻りますが、この現存する地下壕陣地の存在によって、集団自決の前に地下壕陣地があったという誤認が生まれた、最大の要因ではないのでしょうか。
つまり「現に地下壕があるのだから、集団自決の前に完成していたにちがいない」あるいは「完成していてもおかしくはない」といったことが信じられ、集団自決という記憶の中の共通認識として流布し、やがては「鉄の暴風」という形で具現化されたのではないかと思われます。
そして「造りたくても造れなかった」地下壕陣地で将校会議がおこなわれ、そこで住民に自決させて死に追いやることを決定し、それでも生き残った住民を「造りたくても造れなかった」地下壕陣地の前で、無情にも赤松大尉らしき悪人指揮官が追い払った、というような幻想が立ち現れたのではないでしょうか。
誰がその幻想を最初に作り上げたのかはわかりません。確実なことはノンフィクションのはずだった「鉄の暴風」に描写されているのは事実ではない、ということだけです。
次回以降に続きます。