空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑦

造りたくても造れなかった?その③


 前回の引き続きです。

 1945年3月20日には陣地構築が「ほぼ完了」したようです。以下「陣中日誌」から引用します。

 「三月二十日 晴 第一次戦闘配備計画作業(舟艇秘匿及び出撃準備等海上作戦の準備作業)完了のため戦隊は本二十日、二十一日の二日間を休養日とし各隊休養す。」

 第一次戦闘配備計画作業の完了というのは、簡単にいえば命令が下れば即応可能な体制が整ったということです。ただし、これはあくまでもマルレ(高速艇)による攻撃体制であって、実際に起こった持久戦や籠城戦といった地上戦の準備が整ったということではありません。

 二日間の休養ののち、第二次戦闘配備計画が始まりますので、以下に引用します。

 「三月二十二日 晴 戦隊は第二次戦闘配備計画に基き陣地構築特攻訓練を開始、海岸砲十糎加農砲受領のため勤務隊より下士官外座間味島へ連絡船にて出発」

 第二次戦闘配備計画における陣地構築というのは、具体的にどういうものなのか不明です。枝葉末節な事柄なのか「陣中日誌」を含む様々な資料からは、「何をして何をしなかったのか」がわかりません。
 「ある神話の背景」によりますと「新たに稜線上に陣地を築く」ということです。これだけではどこの稜線上なのか判断がつきませんが、「陣中日誌」によるところの「海岸砲十糎加農砲受領のため」という記述から推測するならば、マルレの秘匿壕が点在するような、現在でいうところの渡嘉志久ビーチや、阿波連ビーチに沿った陣地の構築ではないかと思われます。
 ちなみに「海岸砲十糎加農砲」というのは10センチ口径のキャノン砲ということですので、わかりやすく言えば軍艦や艦船を砲撃するための大砲になります。したがってこれら一連の行動内容は、海上に現れた敵を迎え撃つための布陣を構築するためではないでしょうか。ただし、あくまで推測の域を出られないということも付言します。

 3月23日から米軍の空襲が始まり26日まで続きます。
 この間の第三戦隊は一言でいうと全くの混乱状態でした。ただし詳細な行動や戦闘経過については省略します。興味のある方は様々な書籍がございますので、各自お読みになっていただきたいです。
 しかしながら、「陣地構築」「地下壕の構築」という観点からすれば「それどころではない」状況であったということは、簡単に想像できるのではないかと思われます。

 3月27日、米軍が上陸作戦を展開します。
 これも詳細については省略しますが、第三戦隊は既に26日の時点でマルレによる本来の攻撃を断念し、全てのマルレを自沈させる処置をいたしました。
 つまり舟艇での出撃から地上戦への転換が、集団自決が起こる2日前の3月26日に行われたということになり、二次的と想定されたサブ的な地上戦がここでメインとなったのです。

 地上戦への転換が決定され、第三戦隊は戦隊長をはじめ「複郭陣地」への移動を開始します。

 戦隊本部と第二中隊(渡嘉志久地区)の主力は、27日の未明に本部のあった旭沢から移動を開始し、27日の朝には到着したということです。
 第二中隊と同じ渡嘉志久地区にいた第三中隊は、移動命令が遅れたことにより、渡嘉志久の海岸に上陸した米軍を迎撃し、後退の途中でも米軍と逐次交戦しながら、28日の朝に「複郭陣地」へ到着した模様です。
 「複郭陣地」から一番遠い場所に位置する阿波連地区にいた第一中隊も移動命令が遅れ、第三中隊と同じように米軍と交戦しながら後退し、集団自決後の30日になって到着した模様です。

 第三戦隊は一斉に整然というような移動ではなく、各部隊が米軍に攻撃にさらされながら逐次「複郭陣地」へと向かっていきました。
 集団自決がおきた28日を基準とするならば、戦隊本部と第二中隊は1日前で、第三中隊は当日、第一中隊にいたっては2日後ということになります。

 米軍の攻撃や時間的余裕といった状況を考慮した場合、また、重機といった工作機械を有しない人力のみでの作業ペースも加味すると、「鉄の暴風」に描写された「地下壕陣地」が、第三戦隊が最初に複郭陣地へ到着した3月27日から28日の時点で構築されていたのかは、非常に疑問です。

 このようにして1944年9月9日第三大隊の渡嘉敷上陸から集団自決が起きた1945年3月28日までの経緯を、「陣地構築」や「地下壕陣地」という観点から考察してまいりました。また、資料が少なく詳細な部分が不明瞭だったり、推測の域を出ない部分もあったりしました。
 それでも、第三大隊や第三戦隊には「鉄の暴風」で描写された、複郭陣地内の「地下壕陣地」を構築する余裕がなかったという結論、すなわち「地下壕陣地はなかった」ということになると思います。

 メインである舟艇基地と付属施設の建設が様々な理由によって遅延が生じ、その基地群がほぼ完成した直後に米軍の攻撃が始まりました。なおかつ予想外だった米軍への対応で混乱しながら、それでも集団自決が起きる複郭陣地へと移動していく状況では、第三戦隊には「地下壕陣地」を「造りたくても造れなかった」のです。

 地下壕から出たり入ったりして住民を威嚇し、無情にも追い出していた赤松大尉とやらは、いったいどこの誰だったのでしょうか、ということを再び掲示します。


次回以降に続きます。


参考文献

防衛省防衛研究所所蔵『海上挺身第三戦隊 渡嘉敷島戦闘概要』
別掲 『海上挺身第三戦隊 陣中日誌(複製版)』
別掲 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』
別掲 『ある神話の背景』

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