菜の花の先にたまたま良い感じの所が
あるなあっと通りかかっただけです。
貴志川には丹生神社は2カ所有るようです。
和歌山には 丹生都比売神社 が有る関係で
丹生神社は多いのかと…
下の方から鳥居を潜って
森の中って感じの景色です。
こちらが本殿のようですが、
ちょっと雰囲気が誓う感じです。
祭壇って言うんでしょうか
森の中って感じでやっぱり違うような感じです。
脇にはこのようなこのような物がありました。
神社名丹生神社(たんじょうじんじゃ)
住所(鎮座地 ちんざち)紀の川市貴志川町北九一八番地 しょうへい 丹生神社は丹生都姫命(にうつひめのみこと)他十八柱を祭神とし、承平五年(九三五年)十二月十日郷士藤原 宗重が紀伊国伊都郡天野村常磐の丹生都姫神を勧請し、当地の霊岸山に小社を営み産土(うぶすな)神 としたのが起源である。高野山よりは寺領として特別の帰敬を受けたとされている。 正嘉(しょうか)元年(一二五七年)十二月十日高野山の寺僧の報賽に依り境内を拡張し、本殿・幣殿 の建立を始め文応元年(一二六〇年)十二月十日に完成し、この時境内に丹生寺も同時に 建立されたとなっています。元亀三年(一五七二年)室町時代に更に境内拡張社殿修復 され文禄四年(一五九五年)高野山木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)(一五三七~一六〇八年)によって神饌料八 石、御輿一台、それに神殿修復及び宝蔵を建てると共に丹生寺へも八石を寄進されました。 その後嘉永五年(一八五二年)高野山より永代大神楽料(えいだいだいがくらりょう)として耕地八反歩及び参道馬場 の寄進があり、文久二年(一八六二年)丹生寺僧坊を焼失明治維新に際会、神仏分離の命を 受け再建計画中止明治六年(一八七三年)に村社となり、明治四十年(一九〇七年)四月神饌。 幣帛料供進神社に指定された。その後町村合併により昭和三十年(一九五五年)貴志川町 東貴志地区の守護神、平成十七年(二〇〇五年)紀の川市となり、現在紀の川市貴志川町東 貴志地区の護神として祭られています。 丹生神社神事 一、一月一日元旦祭 一、四月五日春季例大祭 一、七月三十日夏越大祓(輪くぐり) 一、十月十七日秋季例大祭
住所(鎮座地 ちんざち)紀の川市貴志川町北九一八番地 しょうへい 丹生神社は丹生都姫命(にうつひめのみこと)他十八柱を祭神とし、承平五年(九三五年)十二月十日郷士藤原 宗重が紀伊国伊都郡天野村常磐の丹生都姫神を勧請し、当地の霊岸山に小社を営み産土(うぶすな)神 としたのが起源である。高野山よりは寺領として特別の帰敬を受けたとされている。 正嘉(しょうか)元年(一二五七年)十二月十日高野山の寺僧の報賽に依り境内を拡張し、本殿・幣殿 の建立を始め文応元年(一二六〇年)十二月十日に完成し、この時境内に丹生寺も同時に 建立されたとなっています。元亀三年(一五七二年)室町時代に更に境内拡張社殿修復 され文禄四年(一五九五年)高野山木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)(一五三七~一六〇八年)によって神饌料八 石、御輿一台、それに神殿修復及び宝蔵を建てると共に丹生寺へも八石を寄進されました。 その後嘉永五年(一八五二年)高野山より永代大神楽料(えいだいだいがくらりょう)として耕地八反歩及び参道馬場 の寄進があり、文久二年(一八六二年)丹生寺僧坊を焼失明治維新に際会、神仏分離の命を 受け再建計画中止明治六年(一八七三年)に村社となり、明治四十年(一九〇七年)四月神饌。 幣帛料供進神社に指定された。その後町村合併により昭和三十年(一九五五年)貴志川町 東貴志地区の守護神、平成十七年(二〇〇五年)紀の川市となり、現在紀の川市貴志川町東 貴志地区の護神として祭られています。 丹生神社神事 一、一月一日元旦祭 一、四月五日春季例大祭 一、七月三十日夏越大祓(輪くぐり) 一、十月十七日秋季例大祭
この神社はかなり古いみたいです。
私がこちらに立ち入ったからか…
常に音楽が流れていたような感じです。