聖母マリアの誕生日に向けての、ノヴェナ。
そうしようと思いたって、いつも心にノヴェナのことがあります。
もう長いこと開くことさえなかった聖書を開き、書棚にはいったままだった霊的書物を手に取り、
いつも見るような動画はちょっと控えめににして、修道女たちの生活を紹介した動画や、
聖歌を聴いたり、口ずさんでみたり。
ちょっと書物から書き写してみたり、ほんのわずかな時間、祈ってみたり。
その程度のことしか、できません。
「良くなりたいのか。」
ベトサダの池のほとりの回廊に横たわっている長患いの婦人に、イエスは声をかけた。
この池は鉱泉の一種だったらしく、水が動くとき病気を癒す効果があったようだが、
婦人には自分で池に降りていく力も、わずかしかなかった。
今の私も、彼女と同じような状態なのかもしれない。
癒しを与えてくれる場の前で、ただ横たわっていることしかできない病人。
弱い立場の人間に話しかけるイエスのまなざしは、いつもあたたかくて、やさしい。
「良くなりたいのか。」
まっすぐな瞳を向けて、主は私にも、そうお尋ねになる。
はい。 何とかこの状況から、抜け出したいのです。
良くなりたいのです。
でも、自分を治すために、自分をどこかへ運んでいくこともできないのです。
こうしたい。こうしよう。と、ときとしてよい考えが浮かんでも、
それを実行に移すことが、私にはできないのです。
あなたが良い方で、私の状態いかんによらず、私を助けることができるということを、
知識として、知っています。
でも、長い間、あなたを忘れていたし、おぼろげな知識でしかないのです。
私は自己否定の牢獄に囚われていて、そこで生きるのが当たり前になってしまいました。
どんなに嫌な人間であっても、周囲から忌み嫌われる存在であっても、
あなただけは私を肯定してくださる(はず。)
知識として持っているだけで、私はわかっていないのです。
あなたは、癒す力を持っておられる。
でも、あなたはまず、ひとにぎりの、「良くなりたい」という私からの貧しい願いを
お求めになる。
永遠に乾くことのないいのちの水の与え主であるはずのあなたは、
井戸で出会うサマリアの女性に、「水を飲ませてください」とおっしゃる。
あなたは、何に、乾いておられたのでしょうか。
自己不信に苦しみ、他人の批判に怯え、ありのままの自分を受け止めてくれる存在と
出会いたいと切望する人は、きっと、世界中にたくさんいると思います。
自分の価値判断から抜け出すことになるので、神に無条件の信頼を抱くことは、
とても難しいのです。
全能の神ではあるけれども、神は自由意思を与えるほど人間を尊重なさったので、
神の無条件の愛を、受け入れることも、拒むことも、私にはできるのです。
神は、本当は、、その自由意思で、神を受け入れて欲しいと思っておられると
思います。
「無条件の愛を、信じてほしい。あなたを愛し、あなたを癒やし、
あなたをあふれるいのちで満たしたい。あなたのうちで、私に好きなだけ、
愛のわざを行わせてほしい。
愛したいという私の望みを、何一つ拒まないで、受け入れて欲しい。」
イエスは、愛を受け入れられることに、飢えておいでだったのではないか。
そう思います。
愛を信じきれずに苦しんでいる同胞と共に、私も、イエスを信じることができるように、
イエスのなまざしを探しに行ってまいります。