ー私は、これこれの犠牲を払います、だから、これこれの願いを聞き届けてください。ー
宗教のいかんによらず、こういう必死な祈りを捧げる姿は古今東西に
見受けられる。身近な例でいえば、御百度詣りなども、そうだと思う。
出征した息子の無事を祈る母親しかり。
美しい場面である。だが、こちらの犠牲と、聞き届けられる願いとが
対になっているとき、ときに考えさせられることがある。
ギブアンドテイクという暗黙のルールは、日頃のお付き合いにも
社会常識としても登場する。助けてもらったら、相応のお礼をする。
贈り物をもらったら、お礼の品を返す。それらはときとして
楽しい友情の交換であり、別のときは義理立てに使われることもあるだろう。
ところで、神のいつくしみを見つめるときに、
ぶれてはいけないと思う点がある。
神の価値観は、人間のそれとは明らかに違う。
朝から働いている人にも、夕方のこのこやってきた雇われ人にも、
同じように好待遇で報酬を払う、気前の良い雇用主なのである。
別の見方をすれば、わざに応じて報いるような正当報酬を与える方では
ないということである。
神のなさり方を、人間は自力で理解することはできない。
相手の度量は、どうしても自分の推量とモノサシでしか測れない。
愛する価値のない人間が、無条件で愛されることは、
人間の尺度では、ありえない。
だから、神がそうなさっていると言われても、なかなか受け入れることが
できない。
愛されることには、何か根拠があるはずであり、
何かのお礼をしなければならないーたとえ一度信じても、すぐにそれが
信じられなくなって、そういう理屈を持ち出してしまう。
カトリックの修道生活の修練をしていた頃、私が辛く感じた一つはそれだった。
たくさんの聖人伝を読んだ。驚くべき偉業をなしとげた聖人達がいた。
だがその多くは、上流階級の出身で、優れたキリスト者の家庭で育ったサラブレッドだった。
彼らの多くは、最初から優れた素質を持っていた。
もちろん、素質を持っている人なら誰でも開花できるとは限らないのだろう。
オリンピックのメダリストを思えば、才能と努力、精神力のすべてで秀でていなければ、
表彰台には登れないことがわかる。
しかし、恵まれた環境と素質がなければ、聖人にはなれないとでも
言いそうな聖人伝は、私を鼓舞するよりは、むしろ失望させた。
「幼児洗礼の賜物は本当に大きい。」
修練女たちを前にして、院長はたびたびそう言った。
一年先輩の二人は、揃って名門カトリックの家柄だった。
院長があまりにもそう繰り返すので、二人は幼児洗礼でない私を気遣って、
当惑した顔を浮かべていたのを、今でも憶えている。
生来のひがみやすい性格もあって、そういう言葉は当時、
私に何の良い効果も生まなかった。しかし、今ならその意味がわかる。
ただ、こつこつとした精進を積む生活をしていると、
自分のしたことに応じて、神さまから認められるのだと思い込む誘惑が
あるのである。
そうではない。私には、何の価値もない。
何かをしたから、愛される価値があるのではなく、
何もできないままだから、愛される価値がないわけでもない。
私の状態いかんにかかわらず、神のあわれみは無限であり、一方的であり、
つまづいても、かがみこんでも、いわんや拒絶し、その手を振り払ったとしても、
両手を広げて迎え入れる姿勢をけして崩さないお方なのである。
ぶれずに、神のいつくしみを信じ、それを無条件に受け入れる。
神がなさりたいように、神が愛したいとなさるがままに、身をまかせる。
神は無条件で愛したいのに、あまりにもあちこちで、その愛を拒まれてしまうから、
無条件で受け入れてくれる相手に、飢えておられるのである。
自分の不信感、喪失感を投げ出して、神のなさりたいことを、私のうちに
実現する。すなわち、無条件に私を愛そうとなさる神の御手をどこまでも拒まないこと、
神の慈しみを無条件で信じきることである。
実はこれが難しい。もとより愛のない自分なので、なおさら難しい。
今、それができて書いているのではない。
昔読んだ良書を読み返し、昔の知識を思い出し、
こうだったのでないか・・・と思いながら書いているにすぎない。
そのために私はノベナを始めた。
神よ、あなたをもう一度見出すために、私に光を与えてください。
聖母よ、あなたの子供であることを、私が思い出せるように、
私を導いてください。
自分の惨めさにかがみこむのではなく、神のいつくしみに心を開くことが
できるように、歩ませてください。
宗教のいかんによらず、こういう必死な祈りを捧げる姿は古今東西に
見受けられる。身近な例でいえば、御百度詣りなども、そうだと思う。
出征した息子の無事を祈る母親しかり。
美しい場面である。だが、こちらの犠牲と、聞き届けられる願いとが
対になっているとき、ときに考えさせられることがある。
ギブアンドテイクという暗黙のルールは、日頃のお付き合いにも
社会常識としても登場する。助けてもらったら、相応のお礼をする。
贈り物をもらったら、お礼の品を返す。それらはときとして
楽しい友情の交換であり、別のときは義理立てに使われることもあるだろう。
ところで、神のいつくしみを見つめるときに、
ぶれてはいけないと思う点がある。
神の価値観は、人間のそれとは明らかに違う。
朝から働いている人にも、夕方のこのこやってきた雇われ人にも、
同じように好待遇で報酬を払う、気前の良い雇用主なのである。
別の見方をすれば、わざに応じて報いるような正当報酬を与える方では
ないということである。
神のなさり方を、人間は自力で理解することはできない。
相手の度量は、どうしても自分の推量とモノサシでしか測れない。
愛する価値のない人間が、無条件で愛されることは、
人間の尺度では、ありえない。
だから、神がそうなさっていると言われても、なかなか受け入れることが
できない。
愛されることには、何か根拠があるはずであり、
何かのお礼をしなければならないーたとえ一度信じても、すぐにそれが
信じられなくなって、そういう理屈を持ち出してしまう。
カトリックの修道生活の修練をしていた頃、私が辛く感じた一つはそれだった。
たくさんの聖人伝を読んだ。驚くべき偉業をなしとげた聖人達がいた。
だがその多くは、上流階級の出身で、優れたキリスト者の家庭で育ったサラブレッドだった。
彼らの多くは、最初から優れた素質を持っていた。
もちろん、素質を持っている人なら誰でも開花できるとは限らないのだろう。
オリンピックのメダリストを思えば、才能と努力、精神力のすべてで秀でていなければ、
表彰台には登れないことがわかる。
しかし、恵まれた環境と素質がなければ、聖人にはなれないとでも
言いそうな聖人伝は、私を鼓舞するよりは、むしろ失望させた。
「幼児洗礼の賜物は本当に大きい。」
修練女たちを前にして、院長はたびたびそう言った。
一年先輩の二人は、揃って名門カトリックの家柄だった。
院長があまりにもそう繰り返すので、二人は幼児洗礼でない私を気遣って、
当惑した顔を浮かべていたのを、今でも憶えている。
生来のひがみやすい性格もあって、そういう言葉は当時、
私に何の良い効果も生まなかった。しかし、今ならその意味がわかる。
ただ、こつこつとした精進を積む生活をしていると、
自分のしたことに応じて、神さまから認められるのだと思い込む誘惑が
あるのである。
そうではない。私には、何の価値もない。
何かをしたから、愛される価値があるのではなく、
何もできないままだから、愛される価値がないわけでもない。
私の状態いかんにかかわらず、神のあわれみは無限であり、一方的であり、
つまづいても、かがみこんでも、いわんや拒絶し、その手を振り払ったとしても、
両手を広げて迎え入れる姿勢をけして崩さないお方なのである。
ぶれずに、神のいつくしみを信じ、それを無条件に受け入れる。
神がなさりたいように、神が愛したいとなさるがままに、身をまかせる。
神は無条件で愛したいのに、あまりにもあちこちで、その愛を拒まれてしまうから、
無条件で受け入れてくれる相手に、飢えておられるのである。
自分の不信感、喪失感を投げ出して、神のなさりたいことを、私のうちに
実現する。すなわち、無条件に私を愛そうとなさる神の御手をどこまでも拒まないこと、
神の慈しみを無条件で信じきることである。
実はこれが難しい。もとより愛のない自分なので、なおさら難しい。
今、それができて書いているのではない。
昔読んだ良書を読み返し、昔の知識を思い出し、
こうだったのでないか・・・と思いながら書いているにすぎない。
そのために私はノベナを始めた。
神よ、あなたをもう一度見出すために、私に光を与えてください。
聖母よ、あなたの子供であることを、私が思い出せるように、
私を導いてください。
自分の惨めさにかがみこむのではなく、神のいつくしみに心を開くことが
できるように、歩ませてください。