佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:平和という危うさ……「死」の意味づけを失った戦後日本-------から抜粋。
戦後の日本は社会の価値の基軸に「死」の位置づけがない。したがって死を超える価値から死を意義づけることができない「生命尊重のアポリア」に落ち込んでいる。ここから抜け出して、価値の基軸に死を位置づけるためには、「生きている」ことに対してある種の「罪の意識」を感じ、ただ生きるのではなく、「死者」の思いを引き継いで生きるほかない、という宗教心が必要である。。
・・・おおよその社会の「価値」の基軸は「死」へのまなざしから生じているといってもよいだろう。
さいあたり、「死」と関わるものを、霊性といってもよいし、来世といってもよいし、救済といってもよいが、いずれにせよ広い意味で宗教的なものであろう。
とすれば、宗教的なるものをほとんど公式的に追放した戦後日本において、「死」はそのような意味をもつのであろうか。(p.89)
・・・・
ひとつの社会における「死」という点から見れば、今日の日本において、「死」は個人の個体の消滅であり、固有名詞の登録抹殺に過ぎない。(p.90)
・・・・
確かに今日の日本では、「生」とは何よりまず、生物体としての生そのものにほかならない。かくて戦後の日本社会では、この意味での「生命」を至上のものとしたのである。(p.90)
・・・・
生命を至上のものとするならば、もしも生命が脅かされればどうするのか。生命を守るためにもわれわれはその脅威と戦わなければならないであろう。つまり「生命を守るためにも生命を犠牲にする覚悟をもたなければならない」のである。これは一種の背理であり、アポリアである。ディレンマといってもよい。
同様のアポリアは戦後日本の中心的価値である平和主義についてもいえる。「平和」は大事である、としよう。で、「平和」が脅かされればどうするのか。「平和」を守るためにも武器をとらざるをえないであろう。(p.90)
・・・・
「民主主義」は至上のものだとしよう。しかし、民主主義が脅かされた場合には、平等の原則からして国民全員が戦わなければなるまい。いったん戦いの状況に入れば意思決定は通常全体主義的になるから、民主主義を守るためにも全体主義が要請されることになる。
こういう背理の根本にあるものは、「生命尊重のアポリア」というべき、「生命を守るためには時には生命を捨てねばならない」という事情なのである。(p.91)
・・・
・・・戦後日本においてはこの(生命尊重の)アポリアさえほとんど意識されなかった、ということなのだ。「生命」にせよ、「平和」にせよ、あたかも自明な所与の条件と見なされてしまったからだ。本来は「生命尊重」や「平和主義」と貼り合わせになつた「生命を守る」「平和を守る」ための自己犠牲、すなわち「死」が意識されることはほとんどなかった。(p.92)
・・・
・・・このことが意味するのはどういうことだろうか。
「生命」であれ、「平和」であれ、「民主主義」であれ、あるいは「国体」であれ、「天皇」であれ、ともかくもそれらをひとたび「価値」とするなら、「守る」という観念において「守るために生命を賭す」という原理が作用する。それが「民主主義」であろうと「天皇」であろうと基本形は同じことで「……を守る」ためには「死」を覚悟する、ということになる。この場合には、「…‥・を守る」の「……」よりも以前に、「守る」という態度がなければならない。(p.90)
・・・・
「……を守るために死ぬ」ということは生命より一層高い価値を想定するほかないのだが、「生命」それ自体を最高の価値におけば、このような態度が出来しようがないからである。つまり、何らかの自己犠牲の精神そのものがでてこない。戦後においては「死」というものを、たとえ「……のため」という形においても、意味づけることができないのだ。(p.94)
・・・・
われわれの「死」への思いには・・・・。「死」を救済と見なす観念はない。「正義の死」という観念もない。肉体の消滅はすべての消滅なのである。このすべての消滅という「無」の前にはすべては理不尽としかいいようがない。ここでは「無」は絶対であり、「死」は理不尽な偶然によって与えられる。(p.95)
だがだからこそ、生者はただ「生きている」ことに対してある種の「罪の意識」を感じるのではなかろうか。ここで生者はただ生きるのではなく、「死者」の思いを引き継いで生きるほかない、という意識である。この時、われわれはかろうじてあの「ただ生きていることが大事だ」という「生命尊重主義」を少しは超え出ることができるのではないだろうか。(p.95)
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.89-95)。
.『文明的野蛮の時代』 目次
第1部”小見出:平和という危うさ……「死」の意味づけを失った戦後日本-------から抜粋。
戦後の日本は社会の価値の基軸に「死」の位置づけがない。したがって死を超える価値から死を意義づけることができない「生命尊重のアポリア」に落ち込んでいる。ここから抜け出して、価値の基軸に死を位置づけるためには、「生きている」ことに対してある種の「罪の意識」を感じ、ただ生きるのではなく、「死者」の思いを引き継いで生きるほかない、という宗教心が必要である。。
・・・おおよその社会の「価値」の基軸は「死」へのまなざしから生じているといってもよいだろう。
さいあたり、「死」と関わるものを、霊性といってもよいし、来世といってもよいし、救済といってもよいが、いずれにせよ広い意味で宗教的なものであろう。
とすれば、宗教的なるものをほとんど公式的に追放した戦後日本において、「死」はそのような意味をもつのであろうか。(p.89)
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ひとつの社会における「死」という点から見れば、今日の日本において、「死」は個人の個体の消滅であり、固有名詞の登録抹殺に過ぎない。(p.90)
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確かに今日の日本では、「生」とは何よりまず、生物体としての生そのものにほかならない。かくて戦後の日本社会では、この意味での「生命」を至上のものとしたのである。(p.90)
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生命を至上のものとするならば、もしも生命が脅かされればどうするのか。生命を守るためにもわれわれはその脅威と戦わなければならないであろう。つまり「生命を守るためにも生命を犠牲にする覚悟をもたなければならない」のである。これは一種の背理であり、アポリアである。ディレンマといってもよい。
同様のアポリアは戦後日本の中心的価値である平和主義についてもいえる。「平和」は大事である、としよう。で、「平和」が脅かされればどうするのか。「平和」を守るためにも武器をとらざるをえないであろう。(p.90)
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「民主主義」は至上のものだとしよう。しかし、民主主義が脅かされた場合には、平等の原則からして国民全員が戦わなければなるまい。いったん戦いの状況に入れば意思決定は通常全体主義的になるから、民主主義を守るためにも全体主義が要請されることになる。
こういう背理の根本にあるものは、「生命尊重のアポリア」というべき、「生命を守るためには時には生命を捨てねばならない」という事情なのである。(p.91)
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・・・戦後日本においてはこの(生命尊重の)アポリアさえほとんど意識されなかった、ということなのだ。「生命」にせよ、「平和」にせよ、あたかも自明な所与の条件と見なされてしまったからだ。本来は「生命尊重」や「平和主義」と貼り合わせになつた「生命を守る」「平和を守る」ための自己犠牲、すなわち「死」が意識されることはほとんどなかった。(p.92)
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・・・このことが意味するのはどういうことだろうか。
「生命」であれ、「平和」であれ、「民主主義」であれ、あるいは「国体」であれ、「天皇」であれ、ともかくもそれらをひとたび「価値」とするなら、「守る」という観念において「守るために生命を賭す」という原理が作用する。それが「民主主義」であろうと「天皇」であろうと基本形は同じことで「……を守る」ためには「死」を覚悟する、ということになる。この場合には、「…‥・を守る」の「……」よりも以前に、「守る」という態度がなければならない。(p.90)
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「……を守るために死ぬ」ということは生命より一層高い価値を想定するほかないのだが、「生命」それ自体を最高の価値におけば、このような態度が出来しようがないからである。つまり、何らかの自己犠牲の精神そのものがでてこない。戦後においては「死」というものを、たとえ「……のため」という形においても、意味づけることができないのだ。(p.94)
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われわれの「死」への思いには・・・・。「死」を救済と見なす観念はない。「正義の死」という観念もない。肉体の消滅はすべての消滅なのである。このすべての消滅という「無」の前にはすべては理不尽としかいいようがない。ここでは「無」は絶対であり、「死」は理不尽な偶然によって与えられる。(p.95)
だがだからこそ、生者はただ「生きている」ことに対してある種の「罪の意識」を感じるのではなかろうか。ここで生者はただ生きるのではなく、「死者」の思いを引き継いで生きるほかない、という意識である。この時、われわれはかろうじてあの「ただ生きていることが大事だ」という「生命尊重主義」を少しは超え出ることができるのではないだろうか。(p.95)
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.89-95)。
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