明け方から省エネモードのネコさんをみても、暑くなりそうです。
私も省エネ?しながら、珍しくモーツァルトが聴きたくなり、レクイエムを流すことに。
レクイエム ニ短調(Requiem in d-Moll)K. 626
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年 - 1791年)が作曲したレクイエム(死者のためのミサ曲)であります。
彼の死により作品は未完のまま残され、弟子により完成されたもの。
作曲の経緯を思い出してみました。
フランス革命の動乱下のヨーロッパで、1791年、モーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い、苦しい生活を送っていました。
ジングシュピール『魔笛』K. 620の作曲をほぼ終えたモーツァルトは、7月末に、プラハでのボヘミア王としての皇帝レオポルト2世の戴冠式で上演するオペラ・セリア『皇帝ティートの慈悲』K. 621の注文を受け、これを優先して作曲することにします。
ようやく完成の目処が立ち、8月末にプラハへ出発する直前、見知らぬ男が彼を訪ねてきました。
男は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていったというのです。
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このシーンはアマデウスを観た時、かなり怖い印象が残っています。顔が黒いマスクに覆われてたか、ほんとに怪しかった。。。
9月中旬、プラハから戻ったモーツァルト。
『魔笛』の残りを急いで書き上げ、9月末の初演に間に合わせました。
その後、レクイエムの作曲に取りかかるも、体調を崩しがちとなり、
11月20日頃には寝たきりに、12月になると病状はさらに悪化して、
モーツァルトは回復することなく、12月5日の未明に亡くなります。
あまりにも急なモーツァルトの死。
彼の死後、モーツァルトは死の世界からの使者の依頼で自らのためにレクイエムを作曲していたのだ、という伝説が流布しました。
当時、依頼者が公になっていなかったことに加え、
ロレンツォ・ダ・ポンテに宛てたとされる有名な書簡において、
彼が死をいかに身近に感じているかを語り、
灰色の服を着た使者に催促されて自分自身のために
レクイエムを作曲していると書いていたからです。
天才にふさわしく、神秘的なエピソードですが、
1964年になって、匿名の依頼者が誰だったのか、その理由も明らかになります。
ロレンツォに宛てた書簡も偽作説もあるようですが、
モーツァルトが自らの死を知ってか知らずか、肉体を持った最後の仕事としてレクイエムを作曲したことは、
なんともいえない感情を掻き立てられます。。。