8月1日 ビジャエルモサには早朝6時に着いた。 第9話
バスは暑い。町も暑い。とにかく暑い!!
このままパレンケ遺跡に行こうとしたがバスは無く、バスは午後の1時30分発。
バックパックを預かってくれるところを一通り捜したが見つからず、半端ない暑さに負けてバス停近くのジュース屋でお願いし、
取りあえずコーヒーショップで朝食。
オアハカに行く時プエルトエスコンディードで乗り合わせたスイス人のカップルとこんなところで再会した。
エアオンが効いているのでいろんな話をしながらどこにも行かずバスの時間まで居座った。
しかしバスは結局1時間遅れで、1時間暑さの中待機。ヤッパしか!? 2時30分に出発した。
こんなことは日常茶飯事で普通のこと。驚きに値しない。
パレンケ(PALENQUE)。ホテルミソルハ 2000ペソ=1.4ドル=約190円
非常にコンパクトな町、イヤ、村だが一応観光地なので店はある。
ある店では若いとてもきれいな女の娘が店番していたが、自分の綺麗さをかなり自覚しており、服装も小奇麗で日焼けしないように長袖を着、
顔を隠すようにベールをかぶっていた。「ヒナ(田舎)には稀な美女」とでもいうのかな。
日本人女性2人に会う。麻由子さんと千春さん
8月2日 パレンケ遺跡(AC300~900)見学(世界遺産)
この遺跡は世界的にも有名で中央アメリカのピラミッドはエジプトと違って墓がないという定説を覆した。
碑文神殿から発掘されたパカル王(?)の石棺は横2m、縦4mで、横に見るとロケットに乗って操縦桿を握っているように見えたためマヤ文明に宇宙人説が出た。
また、石棺の中にはヒスイのマスクを被った王が発見され話題となった。
しかし、メキシコ市にある国立人類学博物館に展示してあったがクリスマスイブに盗難に遭い「黒いサンタクロース」と呼ばれたらしい。
因みに犯人は捕まりヒスイの仮面は戻ったが今はレプリカの展示。
この神殿は、今は登れないようだ。
私が行った時は神殿の一番下の石棺の場所まで人がすれ違うには体がくっ付きあうほどの狭い石段を下りられたが、中はジメジメしており階段もヌルヌルだった。
きょうもかなり暑いが遺跡の中を歩けるだけ歩いた。
夜まで時間をつぶして汽車の駅へ。10時50分発
日本人の女性二人も駅にいた。
電車来ず!? 待つ!! 待つ!! 待つ!! 待つ!! 待つ!! ひたすら待つ。
現在4時30分am 聞く人もいない。その後7時30分の張り紙あり。誰が? 何時?
張り紙したのだ。スイカを買ってきて待ち人みんなで分けて食べる。
6時ごろまで駅にいて、一緒に駅にいたアメリカ人と相談し、きっとこのまま駅にいても汽車は来ないだろうし、来ても出発はきっとその日の夜10時50分発だろうからと云うことになり、違う手段(バス)を選択しようと云うことになった。
彼女らに説明。一緒に行くと云うので通りを走っている車を見つけて交渉、メリダ行きが通るところまで乗せてもらった。
車代は忘れたが、スペイン語の上手な彼がたいした金額ではないと出してくれたのかもしれない。
早朝なのに異常に暑い!!
彼に「ここで大丈夫?」と聞くと「ちゃんと聞いたから大丈夫だ」と笑った。
ラティーノは結構いい加減だから心配なのだ。結局9時ごろまで待ってバスが来た。
ラッキーなことに座れた。 バス料金 1000ペソ=72セント=93円
メリダ(MERIDA)6時pm 着。 約9時間かかった。
つまり前日の列車の駅から換算するとメリダまで20時間かかったことになる。
女性2人も一緒に泊まると云うので、宿探し。
ホテル PAZ 一人3000ペソ=2.1ドル=約280円 シャワー付きだ。
順番にシャワータイムとなったが最後の俺の番になって途中で水が途切れる。
まっ、暑いからいいが回復するまで素っ裸で待機。やるせない!!
8月4日
彼女たちと別れて、取り合えず、洗濯(洗濯をしてくれるところを探すのだ)。12時30分に仕上がるとのこと。2000ペソ=約190円
その後、英国大使館を探したが、なかなか見つからない。聞く人聞く人違う道を教えるからだ。
熱くて、暑くて、死にそうだ!!
ベリーゼ(BELIZE)たぶん日本語では「ベリーズ」になっていると思うが、英国領となっているので通過ビザを取るためだ。
そのころはグアテマラと領有権争いをしており、グアテマラは自国領を主張していたがイギリスの力に押され実効支配をしていた。
(現在は独立している)
ベリーゼの魅力はマヤ遺跡やオーストラリアのグレイト・バリア・リーフに次ぐきれいなバリアリーフのカリブ海だが
私は通過を決めた。VISAは4時半ごろできるとのこと。
しかし、4時から5時ごろまで雷雨。街は水はけが悪く、道路を雨が川のように流れている。
ここからの遺跡巡りを止め、カンクン(CANCUN)に行くことにした。
しかし、チチェンイッツア(Chichen Itza)やウシュマル(Uxmal)に行かなかったことを後悔した。
100$us両替 1$=1412ペソ 前回より少し率がいい。
8月5日 カンクン着。
何時に出発して、何時に着いたのかシミで日記の判別ができない。
カンクンはアメリカ人のリゾートなのですべての物価が高い。
だからここからすぐにイスラムへ―レス島へ向買うことにした。
(Isla Mujeres)「女の島」と云う意味です。
南北に細長いこの島は全長およそ8㎞と小さい。
とにかく早朝で、すぐに船がないのでバスターミナルで4時間も過ごし、タクシーで船着き場まで。
タクシー料金は1500ペソ=140円くらいだ。
そこで、またまた、スイス人カップルに出合う。「女に島」には7時ごろ島に到着した。
逆算するとフェリーがだいたい45分~1時間くらい。カンクン出発がだいたい6時、バスターミナルの到着が1時amごろ。と云うことで、メリダの出発時間が深夜だったと予測される。
オアハカ(Oaxaca)到着 7月28日5:30PM 第8話
「ふぅ~」息を思いっきり吸い込んでもう一度「ふぅ~~」
やっとの思いで到着。マイッタ、マイッタ、本当にマイッタ。
雨はすっかり上がっている。
毎回言いますがバックパッカーはこれからが大変なのです。
重いバックパックを担いでの宿探しが始まります。
基本条件「安い&綺麗」
あれこれ5、6軒回ってSAN JOSE HOTELに決めた。
シャワー別で3800ペソ=2.7ドル=354円
部屋に入るやいなやどっと倒れこみたかったが荷物を置いてすぐにシャワー。
体中がナメクジに這いまわされた感じでとにかく洗い流したかった。
疲れが徐々に緩和され、力が体中に張り巡らされた血管の一本一本に甦って来るのが感じられる。
生き返った。
この町はヨーロッパ人が多い。
気候も割といいし、国境も近くビザに困らないから住みやすいのだろう。
早速食事をと表に出たが、途中洗濯屋を見つけ値段を聞いて宿に引き返し、ジーンズ、靴下、Tシャツ、下着等を預けて再び夜の町に出た。
きょうはもう洗濯する力が残っていない。
少し高いが「まっ、いいっか」1㎏-2000ペソ=1.4ドル=182円
食事はコミダ・コリダと云うものでメキシカンチャーハンのような物。
2200ペソ+ビール1本600ペソ(約260円)=2800ペソ(約2ドル)
帰り道がわからなくなりアタフタ、探し回ってしまった。
かなり疲れていたんだなぁ。
7月29日 9時起床。
サント・ドミンゴ教会→オアハカ博物館→ファレスの家(メキシコ初のインディオ出身の大統領)。この家、昔はすごかったのか知れないが
長屋の中の一つであり全くの田舎家そのものだった。
午後1時洗濯物を取りに行く。ホテルに戻って、しばらく休息し、2時30分のバスでモンテ・アルバン(Monte Alban)遺跡へ。(1987年世界遺産登録)
遺跡全体の大きさは42K㎡
BC800年頃からAC800年続いたらしい。ティオティワカンの影響を受けており、昔は極彩色に彩られたピラミッドだったようだ。
因みに、メキシコのピラミッドはどれも極彩色に彩られたものだということです。
13のピラミッドが山頂にあり360度オアハカ盆地が展望できます。
気になる方はネットで検索してください。見どころ満載の遺跡です。
下痢がまた始まった。
何が原因かわからないが、美味いと思う食べ物にまだお目にかかっていない。
美味いと思うのはフルーツとビールのみ!!
本日は夕方まで果物一つとパイナップル一切れ飲み。モンテ・アルバン遺跡の片隅で食べたのみだ。
さすがにのどが渇いたが当時は遺跡周辺で何も売っていなかった。
何も食べない、飲まないでよく遺跡巡りに出かけたと我ながら感心する。
昨夜は正露丸5粒飲んで就寝。
7月30日
10時30分頃 2等バスターミナルへ。
なかなかきれいなバスで9000ペソ(6.4ドル)
ミトラ(Mitla)遺跡へ向かう。1時間30分くらいかかった。
入場料700ペソ=約50セント=63円くらいかな
小さな遺跡だが幾何学模様のモザイクはすばらしい。
その後ヤグル(YAGUL)へ。
国道から1㎞ほど離れていたがバスが止まるのを忘れ変なところで降ろされたのでそこから近道をするため谷や畑を横断し道なき道を歩いたが「怪しい奴め!?」と番犬3匹に吠えまくられて追い払うのに膝と足首をひねってしまい、痛い足を引きずりながらようやくに舗装された道に出て、炎天下ひたすらなだらかな登りの道を歩いた。
ここもさほど大きくはない。見学者は10人もいない。入場料500ペソ=36セント=45円くらい
モンテ・アルバン遺跡、ミトラ遺跡、ヤグル遺跡も詳しく書きませんが、それなりに「すごい」ので気になる方は調べてみてください。
この辺りには有史以前の洞窟群(147あるらしい)の見学ができるかどうかわかりません。
暑さと下痢で脱水症状を起こしているが、気合で舗装された道をトボトボと国道まで下った。
バスはなかなか来ない。「暑い!! 暑い!! 暑い!!」しかし待つしかない。
ようやく来たバスはすし詰め。
でも、「俺は乗るぞ!!」昔、通学・通勤電車で鍛えられた俺ならできる。
Tuleの巨木へ
ここからオアハカに戻る道すじにトゥーレの巨木(Arbol del Tule)があるので寄ることにした。
しかし、途中土砂降りの雨になりすし詰め状態のバスは、半分は欧米人だったが誰も降りる者がなく、大声で「バハ(降りる)!!」「I get-off!!」と叫んで押し分け無理やり降りた。
しばらく木の下でシャワーを浴びた状態になりながら止むのを待った。
先ほどまで炎天下をひたすら歩き回ったので心地よく生き返ったようだ。
頭の先から足の先まで服を着たまま川に入った状態でずぶぬれを通り越している。
しばらくして雨が止み、靴の中の水を振り絞り、Tシャツも脱いで絞ったが、さすがにパンツはできないので我慢するしかないが次のバスに乗るころにはおおよそ乾いていた。
この杉科の巨木は樹齢1433年~1600年の間と言われているが定かではない。
幹周はおよそ30m、大人30人が手をつないでようやく取り囲むことができるくらいだが
これもはっきりしていない。いずれにしても日本の巨木、縄文杉(約16m)よりはるかに大きい。
ギネスに認定されているし、世界遺産にも登録されている。
とにかくこれが世界一太い樹木なんだとただ思った。
バスに乗り(100ペソ=9円)オアハカを目指したが途中でエンコし、違うバスを待ってセントロで下車。
また100ペソ払う。ここからビジャエルモサ(Villahermosa)までのチケットを買いに1等バスターミナルまで足を引きずりながら歩いたがかなり遠い。
13,015ペソ=9.3ドル=1,210円。 窓口のオヤジが釣銭出さない。13,100ペソ出し85ペソのつりを待っていても出さないので「出せ」と強く言ったら50ペソ寄こしたが35ペソ今はないと言って出さない。
大した金額ではないが気分の問題だ。でも早く宿に帰りたいのであきらめた。
夕食、ビール2本付きで5,900ペソ=約4.2ドル=約550円
明日は夕刻、17時00分出発だ。
メキシコ市→アカプルコ バス料金640円
下痢はまだ治っていない。
これまで深夜に腹痛と下痢が襲ってくるので夜行バスは非常に危険を感じていたが「ええい、ままよ!」気合で出発した。
(当時バスにはトイレはない)
旅で出会った通称ゲーリ後藤又の名を若年寄後藤はバス移動の途中何度もバスを止めさせて道端で用を足したとのことだが、乗客も運転手も皆あきれてうんざり顔だったそうだ。
あるとき運転手の悪ふざけで車を少しずつスタートさせ、置いてかれては大変と彼はあわてて「ちゃんと拭く間もなかったよ」と皆を笑わせていたが、経験のある方ならおわかりになることでしょう。ホント下痢は大変なのです。
力が入らず、この非常な辛さ、情けなさ、せつなさ、哀れさは少し腰をかがめた顔がものがたっています。
私も彼に劣らず至る所で下痢になるのですが、あまり続くと何か風土病にでもかかったのかと不安になったりもしました。
私の場合、幸い何事もなくアカプルコへ向かっていましたが車内はガンガンのラテンミュージックで走行。
ラテンは嫌いではありませんが好みの曲もありこの夜はうるさいだけ、嫌なものは神経を逆なでし、まったく眠れません。
しかも長距離バスで、体調が悪いので食事も摂ってなく最悪。
しかし、音を止めさせて居眠りでもされたら大変なのでひたすらガマンガマン。
しかし、しかし、他の乗客を見回しても不満そうな顔は誰一人なく、「Um、さすがラティーノ」と感嘆せざるをえませんでした。
ともかくも、無事到着。
夜明け直後の町は観光地にありがちな静けさでしたが、野良犬が何匹かラテン系らしい歩き方で徘徊していた。
「えっ、犬までラティーノってどんな感じ?」(見たい方は行くしかありません)。
バスターミナル近辺に一息入れる場所はなくマルガリートの義母が住んでいる“プエルト・マルケス”へ直行することにした。
バスはこの時間にはないのでタクシー。
30分以内で到着。380円也 まだ薄暗い。
プエルト・マルケス(puerto marques)
あまり時間をかけずに見つかった。
“ANITA”の看板が大きくわかりやすい。
ビーチが始まる所から4軒目のレストランだ。
さあてと・・・、入り口を探すが「どこでもドア」道路からでも海からでも、どっからでも入れる。
「ブエノスディアス(オハヨウございます)」声をかけながら入っていったが中は薄暗く静まり返っている。
コンクリートが打ちっぱなしの店内にテーブルが10宅余ほど所狭しと並べられており、その上に椅子が載りオープン前の様相だ。
正面から大股で4歩くらい進むとそこはもう砂浜、早朝なので一帯は穏やかな波が打ち寄せている音しか聞こえてこない。
声をもう少し大きくして「ブエノスディアス」「ブエノスディアス」
すると、左手奥からモコモコと何かが動く気配を感じて目を移すと3畳くらいの角まった部屋のような場所があり、毛布をすっぽり被った“蓑虫”状態が二つあった。
(グアテマラでもそうだったがマヤやインカの末裔達は背にした子供を頭からすっぽりと衣類を被せたまま、家事や仕事をしたり、町を歩いているのをよく目にしたが息苦しくないのかといつも不思議であった。)
寝返りを打ち“蓑虫”の頭が見えた。母子のようだ。
二人とも寝ぼけ眼(まなこ)でボ~としていたが、次の瞬間“カッ!!!”っとショック状態の固まった感じで目の前に立っている私に目を向けた。
早朝にしかも一段高い所からベッドを見下ろしているのだから、177cmの私が190cmにも見えたのかもしれない。
それに私と云えば、髪は少しパーマーがかかったぼさぼさ頭で、顔は連日の外歩きでかなりの日焼けで浅黒く、髭をはやし真っ黒のバックパックを背にし、あまり上等とは云えないジーンズ姿、この辺りで見かけない東洋人の男が突然に出現したのでは誰でも驚くだろう。
「ケッ‐パソ(なっ 何んだ)!?」
私は前もって辞書を引きメモをしておいたのを取り出して、来た理由を説明した。
ウム・・・、母親は一生懸命聞いてはいるが解ったかどうか?
中学生くらいの娘はしきりと目をこすりながら耳を傾けている。
「あっ、そうだ!」寝不足のせいか私のほうが少しボケている。
手紙のことをすっかり忘れていたのだ。 母親に渡した。
名前を確かめ封を切ると中から手紙とお金が出てきた。
笑みがこぼれた。
母親が手紙に目を通している中、今度はテーブルに椅子が積み上げられているフロアの奥から物音がする。住民がもう一人居た。
よくマンガに出てくる雷に打たれたような逆立てたロングヘアー痩せた若い男(たぶん19歳くらい)が顔と目をこすりながら椅子とテーブルを退けながら出てきた。
「朝っぱらから何だ、何事?」と母娘に近づくと妹がしきりに話している。
経過を説明しているようだ。
30分後バックパックを下ろした私は静かに打ち寄せる、靴が波をかぶるくらいの砂浜で特別に仕立てられたテーブルに腰をおろし朝食を食べていた。
遠くまで見渡せるビーチはまだ観光客も地元の人も誰も見あたらない貸切状態だ。
「最高だ!!」
グリルされた魚、サラダ、焼きたてのトルティヤ(トルティジャとも発音する)、そしてリモン(ライムのように緑がかっており小さい)付のサ(セ)ルベッサ(ビール)。
スニーカーの靴底に波が少し当たる。
「最高だね!!」ひとりごちた。
今朝までの疲れも下痢も全て海とその風景にのまれたように元気が毛細血管の一本一本に至るまで浸透し湧き出て来るのが感じられた。
プエルト・マルケスはアカプルコとは違って地元の人が行くビーチです。
200メートル以上あるでしょうか、そこに長屋状に塩気をたっぷり含んだ古めかしい店が連なっている。
海側の長屋は概ねレストランだが通りを挟んだ反対側は雑貨屋、トルティヤ屋、駄菓子屋などさまざまだ。
さて、前述したが新しい所に着いたらまず、寝床(ホテル)だ。
これがバックパッカーの最も悩ますところ、猛暑でも風雨でも探さなければならない。安くて清潔な所がポイントなので余程のことがない限り一軒では決めない。
しかし、何件か行ってやはりあそこが良かったと戻ってももう空いてなかったなんて事はざらにある。
ガックシ何てもんじゃない、これは泣ける。疲れが倍増だ。
さて、朝食前にマルガリートの義母に頼んでおいたら食後にはもう見つけてくれていた。
“ANITA”の前の雑貨屋の2階だ。
老夫婦と30歳代の娘とその子供の4人家族。
部屋は昼間でもナメクジ館みたいにジメジメしており、シャワー付だが水の出は非常に悪く用を足すのにもテクニックと時間が必要だった。
天井には大きなプロペラの扇風機が取り付けてある。これは助かった。
暑さしのぎだけではなく臭いもしのげるからだ。
さて、料金はというと 一泊3000ペソ=2.2ドル=280円 まっ いいか!
誰かが寝ていた場所を空けたようだ。
私がいない間はシャワーやトイレは家族の者が使っていた形跡は常にあった。
初日の夜、移動と下痢の疲れから早い時間にベットに入ったが深夜になって、異様な声と音で目を覚ました。
土砂降りを表す英語に“CATS & DOGS ”と云う言葉がありますが、ここでは猫や犬たちだけでなく豚達、鶏達、アヒル達、山羊達などの家畜達が恐怖におののき、辛さにガマンできず、寂しさに震え、泣きわめきの大合唱。
外は激しく叩きつける雨、うなりをあげる波音、家が波と風にのまれるのではと思った。
「嵐だ!!」
映画で観た“ノアの箱舟”のような天地創造かと思われる状態で一睡もできず朝を迎えた。
トルコのイスタンブールで同じように初日の早朝、大音響の異様なうなり音で何事かと飛び起きたことがあったが、それは夜明けとともに始まるコーランの祈りの声で、街中いたるところに備え付けられた拡声器によるものだった。
快晴の朝を迎えた。
昨夜の眠れない理由がもう一つあった。
それは彼らがあまりに暴れたせいで雨が入り込んだ家畜小屋がこね回され、濡れた動物特有の匂いが入り混じって、締め切った部屋に充満したことだ。
鼻が曲がりそうとはこのことで、呼吸が出来ない状態だ。
顔にタオルを当てて息を止めてしのぐのだがガマンしきれなくなった後が大変。
思いっきりその空気を吸わなければならないからだ。
少し吸ってガマン、少し吸ってガマンを繰り返した。
夜明けとともに風雨が止み、夜明けともにシャワーを浴び、そして早々に外へ出た。
大きく深呼吸。「生き返ったぞ!!!」
ブタ、アヒル、ニワトリ、ネコ、イヌ、ヤギたちが何事もなかったようにケロッとした顔をして車も人も居ない通りを闊歩している。
昼近くになると人も車も増え、一日中クラクションが鳴り響く。
アメリカ映画に出てくるメキシコの村のワンシーンで、「プーッ、プー、プッー」と車がイヌやニワトリやロバをかきわけながら進むあの光景が思い起こされる。
しばらく通りを散歩した後、アニタに行くとマルガリートの義母が手真似で「朝食食べる?」と聞いてきた。
彼女はいつでも私の顔を見るとこの手真似をするには苦笑したが、彼女の優しさが体中ににじみ出ておりとても嬉しかった。
今思い起こすと私がいつも腹をすかしている顔をしていたのかも知れません。
この手真似は、中南米の多くの人たちは生まれたとき“蒙古斑”がありその性かと考えたが、おおよその国でこのサインが通じたからやはり万国共通なのだろう。
“アニタ”でほとんど3食取っていたが義母はマルガリートの友人と云うことでお金は絶対受け取らなかった。
出る前日、お金を無理やり置いてきたが私の気持ちに気分を害さねばと願うばかりだ。
アニタの息子と娘は仕事をしていない。従業員が二人いる。
一人はキッチンで女性、もう一人は呼び込みで若いが結婚していた。
この店は週末でもあまり客が来ていないのに経営は大丈夫かァと心配でもあり、不思議でもあった。
ある日、アニタで働いてる女性の子供の案内で金持ちが行くビーチ、“プリンセス”を見に行くことになった。
歩いて20分余、大きなホテルが見えた。
中にあるプールサイドには色とりどりのおしゃれな水着の男女が優雅に歩いている。プールの先はビーチでカフェがあるが、その周辺をお茶を飲むでもなく泳ぐでもなく若者達がブラブラとプールサイドに時折目を向けながらたむろしている。
何かを求めているのだ。
プールサイドのバーに行こうとしたが彼は一瞬たじろいだ。
「バモス」行こう!!と私に背中を押されてカウター腰をおろした。
バーテンダーは見るからに金持ちそうにない二人が座ったから変な顔をして見ている。
バーテンダーを呼びピーニャ(パイナップル)ジュースとビールを注文した。
彼は嬉しげに、誇らしげに、そして居心地悪そうに辺りをキョロキョロしながら飲んでいた。
勘定はニューヨーク並。私も驚いたが彼はもっと驚いていた。
そして、帰途、彼の足は踊っていた。
プエルト・マルケスでの毎日は泳いだり、あまり忙しくないレストランを手伝ったり、わずかな町並みをブラブラしたりしてたが、そこにには「へぇ!?」とか「ほぉ!?」
とかが満載しており毎日飽きなかった。
その中でも「えっつ、ウソでしょう!?」と思わず笑ってしまったのは、トルティヤを作って販売している小さな店が宿泊していた家の隣にあったがそこの17,8才の娘が仕事中にいきなり駆け足で道路を横切り、アニタを突っ切って海へザブ~ン。
単に暑いかららしいが、ヒト泳ぎすると客がいようが居まいがアニタの中をびしょぬれで平然と通り抜け仕事に戻るのだった。
Tシャツにショートパンツ、サンダルときわめて軽装なので何も問題は無いが初めて見たときは何事かと思った。
一日に何回かこれをやっていたが何回見ても笑ってしまった。
しかし、残念ながらこの辺りの人たちが食べているトルティヤ製造機の上にある材料には無数のハエが集っており、それを見てしまった後はいかに焼いているとはいえ食べるのには毎回結構気合が必要だった。
アカプルコのラ・ケプラダへアニタの若ダンナとダイビングショウーを観に行った。
テレビなんかで観た人がいると思いますが「すごい!!」
ホテル内のレストランから食事をしながら観ることが出来るようになっているが、勿論切り裂いた崖の上からも観ることが出来る。
ダイバーはパフォーマンス後再び崖を登って見物人の中を歩きながらチップをもらうのだ。
ライトの照らされた下を見ると、切り立った岩肌の隙間から時折白い波のしぶきが見えるだけだが、彼らはその寄せる波しぶきと次の波の時間を予測し、その一瞬を読んで45メートルの高さから飛び込むのだ。
常に死と向かい合わせで生きているといっても決して大袈裟ではない。
だから、飛び込む前の「祈り」は欠かせない。
一晩に何回か飛び込むのだが、高所恐怖症の人でなくても身震いがし吸い込まれそうになる。
一番人気のあったハンサムガイは上がって来ると拍手とチップをもらいながら笑顔で我々の方にまっすぐに向かって来た。
なんと若ダンナの友人で、俺と一緒に写真が撮れるようにしてくれたのだ。
感激と感謝!!
ちょっとつまんで一杯呑んで帰宅。
入場料 約30円 プエルトマルケス→アカプルコ バス代 14円
プエルトエスコンディード経由オアハカへの出発の日、3時頃までアニタで過ごした。
泊まっていた所の娘さん(シルビア)も一緒にアカプルコに行くことになった。
彼女も久々の外出らしい。ハシャいでいる。
次の地へのバスはアカプルコから深夜出る。
時間がたっぷりあるので映画を観ようということになってバス停近くにバックパックを預けた。
メキシコは映画が安い!!! 約95円
観終わって表に出るとシルビアは俺の手を取って開口一番
「どうして何もしないの?」
「私のこと嫌い?」と聞いてきた。
「えっ!?」「何のこと?」どぎまぎしたがすぐに理解した。
もう1本観たいとこだけど彼女の帰宅時間が迫っていた。
「ウーーー残念!!」
云われてみると確かに映画館の中はそんな雰囲気になっていたし、メキシコ在住の人から聞いた話では安い映画はある意味Hな場所になっているようだが、
やりすぎて警察ザタになった日本人もいたらしい。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」昔の人はいい事言いました。
8時半過ぎにシルビアが帰り、1時間半ほどぶらぶらと時間をつぶしてから映画をもう1本観た。今度は勿論一人だ。
最初にシルビアと観たのがオーストラリアの俳優で以前ターザン役をやった男の刑事もの。
次がリチャード・ギアの刑事もの。
映画ファンの俺だがどちらも似たり寄ったりの暇つぶしでしかない。
映画は12時頃終わり2時頃まで本を読んで過ごした。
雨だ!!。
バスは定刻どうり2時に来た。
座席指定ので安心してゆっくり乗り込むと俺の席に座っている奴がいる。
ここは俺の席だと言うと、彼は俺のだと言い張る。
イライラするのでチケットを振りかざして「俺の席だ!!」と怒鳴ったら、びっくりした顔でどいた。
アメリカで暮らしているとこれが言える。
そして出発と同時に眠りについた。
プエルト・エスコンディード 8時30分着。どしゃ降りだ。
乗り換えは丘の上のバスターミナルまで歩かなければならない。
手持ちのペソを勘違いして両替しなかったため300ペソ(28円)しか持っていない。だから昨夜はろくな物を食べていない。
とにかくバス代も必要だし両替しに行かなくてはと下を見るとかなりの距離があるようだ。
このどしゃ降りの中バックパックを担いでの上り下りは腹の具合から止めて、バスターミナルにある荷物預かり所まで行った。
200ペソ(18円)
出発時間まで1時間、下に降りて銀行を探し両替。
オアハカには夕方着くので少し多めに替えたが率が悪いのに替えすぎたと後で後悔した。
1ドル=1396(20ペソ増) 120ドル(15600円)=替えた。
円で考えるとたいした金額ではないがその国行ったらそこの貨幣価値に合わせて過ごすのがバックパッカーの極意。
出発まであと10分、夜通しのバスと大急ぎで坂道を上り下りしたので喉がカラカラ、しかし、下痢気味で不安なのでトイレが先決。タダではない。使用料14円
急いで切符を買った。朝食も摂りたかったが時間が無い、バスが何故か定刻だ。
急いでコーク(コカコーラ)を買ったがビンのまま持ってきたので50ペソ余分に取られた。
(ビンの値段は当時中南米どこでも高く、皆ビニールに移し変えてもらう。これにストローが付くと少し豊か?、氷が2,3個入るとすごく豊か。
そしてビンごと買えるが冷えてない国、冷えたコークをビンごとストロー付きで飲める国と国々の経済格差の一端を垣間見る。)
オアハカまで4700ペソ=3.37ドル=約438円
9:30AM バスに乗り込む。バスの中で出会ったスイス人のカップルからプエルト・エスコンディードのすばらしさを聞いて急ぐ旅でもないのに立ち止まらなかったことを後悔した。
後にいろんな人から観光客の少ない静かな、綺麗な砂浜と海、すごく落ち着くところと聞かされますます残念な思いが残った。
何故かと考えると、まず知らなかったこと、到着時どしゃぶりで視界が悪かったこと、
9:30AMの次が10:30PMで何故かオアハカに決めていたので早いほうに乗ってしまったのだ。
体調のせいもかなり関係していると思うが、とにかく何かにあせっていた。
バスには発車間際に乗ったのでオアハカ近くまでまったく座れず、鮨詰め、昨夜はろくな物食べていないし、朝食も抜き、そして下痢で体調がすぐれず最悪のコンディションだった。
しかも暑いのに走行中雨で窓が開けられず車内はサウナ風呂、加えて強烈な体臭三昧で失神するのではないかと思った。
翌朝部屋を移動Rm#115、ここはフロントに近いが暗いのでよく眠れる。下痢がなければね。
午後1時頃まで部屋でうだうだしていた。
前日もそうだったが、出かけるときはトイレを一番心配する。
ニューヨークではトイレマップはしっかり頭に入っていましたが他の国では本当に大変ですよ。
日本だとデパート、パチンコ屋、喫茶店、レストラン、等の店でも断られることはありませんし、まず心配いりませんよね。
これは世界的にもすごいことだと思います。
そんな中初めてのメキシコですから非常に不安で、一番に行く所は様子をみるためにいつでも対応出来る様な場所は選んでいました。
でも昼間は嘘のように快調。
本日はまず、「AUTAN」という名の虫除けを薬局に買いに行った。 約330円
次にバスで自然史博物館へ出かけたがなかなか見つからず、暑さの中歩きに歩きまくってようやく遊園地の上のほうにあるのを探しあてた。 入場料4円
パイナップル缶=113円、水=93円、ヨーグルト=40円、ビニールに入ったアイスキャンディ(お菓子付き)=9円
そうそう、土産物を見ながら歩いていると5円玉を使っての飾り物が多く売られており日本人がきっと大量に持ち込んでるに違いない。
あるとき、街を散策していると日本語の声がかかった。
「すみませ~ん、すみませ~ん」声の方向をみると日本人らしき男が宝石店の前に立っている。
「日本人ですよね?」「なんでしょう?」「すみません、あなた折り紙できますか?」「何でもいいんですが・・・」
「鶴でしたらできますよ」
と言うことで中に入ると客が待っており、さっそくオリガミ。
彼の説明によると話の流れから日本のオリガミの話題になり、「じゃあ折って見せて」と折り始めたが忘れてしまってうまく出来ない、そこにちょうど通りかかったと言うわけだ。
一つ作って、あとは作り方の手順を7コマくらいに分けて折って置いてきたが店にいたみんなが感嘆の声を上げ拍手してくれた。 「えっ、こんなことぐらいで!!」
閑話休題;
水事情が悪いのは経験済みでしたので前述のプエブラの友人宅へ行くときアメリカから浄水器と検査器を持って行きました。
基準は0がベストで“5”くらいまでが飲み水としてOK。悪くて“7”ですが、プエブラで水道水が“15”を越えていました。
友人宅では水は買っていましたがそれを検査すると“9”でびっくり。
彼らのショックは大きく要望で何度も計りましたが数字は変わりませんでした。
水道に器械を設置し計測すると“3”になりました。
因みにアメリカもよくありませんがニューヨークは“1”です。
まったく問題ありません。
昨夜小山氏とニューヨーク以来の再会。こんなところで会うなんて不思議だ。
翌朝一緒にちょっと小奇麗な店でコーヒータイム。一杯=50円
出会った森、加藤両氏と2時半頃昼食。
別れて動物園へ行ったがパンダ現れず。入場料無料
その後は当てもなくブラブラ。
DONDON(日本食レストラン)で夕食。
生姜焼き定食=370円 ビール=80円 マズ~イ!!
9時からバレー鑑賞(665円)。
民族衣装でのバレーが主だが結構楽しめる。
しかし、フラッシュをたかないように再三再四アナウンスが入るがいっこうに収まらない。いったい何処の観光客だ!?
帰りにFRESA CON LECHE(ミルクイチゴジュース)2杯=60円
2杯要らないと一杯頼んでも料金は2杯分取られます。
滞在中、オブレゴン将軍記念碑、カルメン博物館、メキシコ自治大学(ここの壁画、オゴールマン作モザイク画はギネス記録を持っています)、アラメダ公園、三文文化広場、etc,いろいろあるが、メキシコは遺跡だけではなく、闘牛、マリアッチ、オペラ、クラシック、サッカー、プロレス等エンターテーメントがあり趣味に応じて楽しめるところです。
ホテルから一番近いカテドラル(大聖堂)にあるアステカ時代の遺跡は見ごたえあり。残念ながらメキシコ全土ほとんどの遺跡に見られるように、ここでもスペイン人は自分達の権威の象徴と土着宗教の改宗を目的として遺跡の上に教会を建てた。
結果現在ほとんどの人がカトリック教徒なので教会を壊して遺跡の発掘とはいかず困っているようだ。大聖堂の地下にも遺跡がありますが一般公開はしていません。
シティから少し遠いのですが奇跡を起こすと言われている「涙を流すマリア像」があることで有名なグァダルーペ寺院があります。
門前から聖堂の入り口まで跪いて歩くと願いが叶う(奇跡が起こる)と言い伝えがあるので信仰の厚い人達は膝に血を流しながら祈りを込めて石畳を進みます。
その姿はある意味宗教の恐ろしさをみます。
私にとって宗教は「困った時の神頼み」でしかありませんが、心の支えになっている人達を否定しません。
宗教家達が平和、平等、無償の愛、等等と最高の言葉を並べ立てて「神を信じよ、さらば救われん」と力説している割には何故か建造物や調度品、そして神の使徒の位が上がればあがるほど衣服や持ち物が豪華絢爛となることに理解できません。
また、自分の神だけが正しいと云う教えにも理解しがたく、それ以外の人達を武力で洗脳するか、排除(殺戮)するという宗教戦争は「神」と「使徒」の心の狭さを感じ、許しがたいとそんなニュースを見聞きするたびに思います。
ティオティワカンへ
アラメダ公園からタクシー(チップ込みで95円)で北中央バスターミナルへ行き
アステカ最大の宗教都市と云われているティオティワカンへ向かった。
バスは途中乗降自由、バス停がない。
バス代=80円 入場料=66円
中心地域約18㎢ の壮大なスケールで造られたピラミッド群は圧巻だ。
最大の「太陽の神殿」と呼ばれているピラミッドは高さ65M、1辺の長さ225M
階段を一段一段上っていると近くにいた末裔の人?から「登る時も降りる時も斜めに歩くといいよ」「後で足がガクガクしないからね」と教えられたが確かに効果はあった。因みに登る時は体重を前方に、降りる時は体重を少し後ろにすると身体に負担がすくないようです。
私が訪れた日は快晴で遺跡群のどこにも日陰になる物がなく「死者の道(幅40M、全長2.3K)」の大通りを歩いて「月の神殿」を登り降り、他の遺跡群も同様にあちらこちらと観ながらもと来た死者の道を入り口近くまで戻って来た時にはサウナの中で運動してきた如くかなり干からびており、まさに死者に近い顔つきだったに違いない。
現在と違ってそのころはペットボトルを持ち歩く習慣がなかった。
勿論、ニューヨークでもね。
死者の道と名づけた理由はここを神の都と考え、道の左右にあるピラミッド群が墓石に見えたためらしい。
ついでながら、前述したプエブラには世界最大と云われているピラミッド「チョルーラの遺跡」がある。
底面1辺400M、すべて発掘されてないようですが本当にでかい!
ここも残念ながら頂上には教会が建っている。
さて、そろそろアカプルコへ行くか!?
何故って? ボ~っとしてらたまたま名前が浮かんできた。
勿論用もあるけど急ぐ旅でもないし、、、マっ、いっか!?
翌日午後切符を買いにTASQUEŇAへ。
下痢はまだ止まらない。
朝食は小山氏と昼食は森&加藤氏と。彼らはユカタンに今夕出る。
夕食はホテル近くで、えび10匹、牡蠣7個、魚フライ3匹、ビール2本
計1040円 ちょっとやけ食いかな?
絵はがき50枚=510円(かなり値切ってこれ)
鍵2個=ちょっと高い方を買った270円
メキシコ市は物売り、ギターやアコーディオンを抱えてバスやレストランに
入ってくる者、物売り、物乞い、子連れの浮浪者等など多種多彩。
インディオでも服装が小奇麗な者からひどい者もいて、とにかく貧富の差がひどい。
バックパッカー 中南米 1987 ~ 1988
ニューヨーク → メキシコ市 飛行機運賃 約3万8000円
メキシコ市
地下鉄=5円
ホテル 1泊 約400円(室内シャワー付き)
コーラ 1本=40円 水=95円 ヨーグルト=40円 コーヒー=5円
ビニール袋に入ったアイスキャンディ(お菓子付き)=9円
この国の歴史は壮絶だ。
約2万年前以前から人が住んでいたという遺跡が発見されている。
その後、オルメカ文明から様々な文明が建ち、火山の噴火で消滅したり、戦争で消滅したりしたが、1500年代にスペインに征服されるまで数多くの文明は続いた。いまでも一部の遺跡やピラミッドを国中で見学することができる。
メキシコ市はその昔、湖に浮かぶ島だった、
アステカ帝国の都ティノティトラン中央神殿跡は現在の中央大聖堂の下にある。
(スペイン人は征服後必ず神殿の上に教会を建てた)
スペインによる300年の植民地支配から独立したが貧困は続いた。
当時も物乞い(子連れが多かった)、物売り、流し、泥棒とインフレとスモッグに苦しむ街だった。
しかし、見どころ満載の国でもある。
7月16日 8:30AM起床。
昨夜は蚊がプーンとうるさいし、湿気が無いわりにはなんだか薄暗いじめじめした、小汚い部屋のせいでなんだか息苦しくて眠れなかった。
朝方になってようやく少し寝た。
シャワーを浴び散歩がてら両替に行く。
街の大きな通りは車でごったがえし、小さい通りに歩道はない。
それに地震による被害の修復も厳しいインフレでままならず、手付かず状態の所も多くかなり危険な場所もある。
大聖堂(前述した遺跡の上にわざわざスペイン人が建てた)のあるソカロ周辺には遺跡があり観光客が絶えないので子ずれの乞食が結構いて、道行く人の袖を引く悲しい光景だ。
街中をぶらぶらと散策するのは「知らない街角を曲がるそこから旅は始まる」の如くさまざまな出会いがありとても愉しい、のだが、大通りは目を開けてられないほどの排気ガスで呼吸困難に陥るほどだ。
一日中歩き回っている顔から手足に至るまですすける。本当ですよ。
日本でも交通量の多い所に住んでいる方ならおわかりだと思います。
メキシコ市はその昔ティノティトランと呼ばれ大きな湖に浮かぶ島だったことはあまり知られていません。
オルメカからアステカに至る壮大で高度な文化は1521年のスペイン人の侵略により略奪、破壊、殺戮でほとんど失われましたが歴史があまり好きじゃない方も必見です。
さて、アラメダ公園前にあるメキシコ銀行で80ドル両替。
その足で中央郵便局へ。
途中で買った絵ハガキ1枚58円。 知人、友人、皆が楽しみにしてるだろうと50枚買った。
アメリカまでは31円 その後JALへ行き、ツワー会社メキシコ観光へ行ったが何をしに行ったのかは覚えていない。
きっと暇のせいだろう。
ソナロッサで昼食。ポテトサラダ、ビール2本
ブラブラしているとエクアドルから帰ってきたという知人の佐々木氏にばったり。
小休止。カフェテリアでまた、メキシコの話や中南米の話を聞かせてもらった。
そのあとで、メキシコにくれば必ずは訪れてほしい「国立人類学博物館」へ行った。
メキシコ文化の粋を集めた見ごたえのある所。
ニューヨークのメトロポリタンミュージアムに匹敵するすばらしさだ。
上野の博物館と比べてはいけません。
ここのカフェテリアで食べたスイカは何故か芸術的?薄切りで4枚。
4枚合わせても一般的な1つにはならない。
スイカって薄切りは味気ない。勘弁してください。
ソナロッサに戻り地下鉄の駅INSURGENTES(インスルヘンテス)からBALDERAS(バルデラス)、そこからまたJUAREZ(フアレス)と街を散策。
地下鉄は5枚券で10円、つまり距離に関係なく1枚2円ということです。
信じられないでしょう?
と言うことで移動はバスか地下鉄が安くて便利。
もう一つ、ペセロという乗降場所自由なすし詰め15人乗りのワゴン車があるがバスより少し高い。
バスはギターにアコーディオンオを持ったオヤジが1人だったり、2人だったり、3人だったりと乗り込んできては演奏、結構愉しい。
地下鉄の車内もホームも見たことがなかったがたぶん禁止されてるのだろう。
ニューヨークではバスも車内もなく街角かホームや駅構内が多い。
地下鉄はラッシュ時の混みようはすさましいし、集団スリが多いので要注意。
日本では最近女性専用車両ができたがメキシコでは10年以上前からあり、しかも子供も一緒だ。
ホームも車両も綺麗だが何故かホームにテレビが1メートル間隔でずらーっと備え付けている。
何人かのメキシコ人に尋ねても理由は誰も知らなかった。
タクシーは乗合もあるが、料金だけは確認の必要あり。タクシーの型はほとんどフォルクスワーゲンのカブトムシ。
余談だが、1997年にメキシコに再度行ったとき、シティより南へ車で1時間ほど下ったプエブラという街の友人に会いに行った。ここにはフォルクスワーゲン社がありタクシーは99%くらい、カブトムシだった。
友人もそこに勤めているが、彼の話では社員は車検も保険も込みで月々100ドルの払いで新車を購入出来るとのこと。
車種は何でもOKだそうです。
彼の話では週休2日だが1週間の休みもたまにあるとのこと。実際私が行ったときもそうだった。
勿論長期休暇もあるが、俺達メキシコ人がこれだけ働いているからドイツ人達は週3日休めるのだ、と怒っていた。
でもドイツに行けば勿論メキシコ人も週休3日だそうで、話を聞いていると羨ましいかぎりで、先進国と自負している日本は週2日なんて今だ少なく8時間労働や有給休暇の消化もあやしい会社がたくさんある。
ついでにレンターカーの話をすると“おまわり”要注意。
なんぐせつけて金を要求してくる。
ニューヨークで働いていた元メキシコ市警の知人に聞いたが相当でたらめらしい。
物品のちょろまかしや賄賂は日常茶飯事。
理由は「給料が安いんだからしかたない」にはあきれる。
彼も警察を辞めた後、家には押収した自動小銃や拳銃を10丁ちかく持っており奥さんに嫌がられていると笑っていた。
怖い話ですね。
7月17日 スペイン侵略によって惨殺されたクワウテモック王の侵入者に対する祟りかひどい下痢。
深夜1時を回ってから突然強烈な腹痛に襲われベットで暫くノタウチ、トイレへ。
これの間隔と回数が短く早くなり、一睡もせず夜明けを迎え、ようやく少し落ち着いてウトウト。
昨夜の夕食はPOLLO(チキン)とビール2本 =345円だったがこれが怪しい。
あれだけ水に気をつけていても食物を摂る限りどこからか菌が侵入するのだろう。
さて、正露丸を飲だし、脱水症にならないよう水分を補給、力をつけるために何か食べに行こう。
せっかく来たのだし、国を街を町を人を観に行かなくちゃ。
昼近くになってホテルを出た。
バルパライソ伯爵宮殿(現銀行)に行ってみた。天井の高い、重厚な建物で銀行に相応しいかもしれない。
1623年伊達正宗がローマ法王へ送った使節の一行が滞在した所だ。町人を含めた総勢100人余がアカプルコの南に到着、支蔵常長を長として主なものだけでメキシコ市へ行きそこからローマへ。
行列はメキシコ人にとってかなりものめずらしかったようですが想像できますよね。
ちょんまげに刀を差した人達が歩いているんですよ。
帰途メキシコに残った者も多数いたようですが今でもどこかでその血筋を脈々と続けている人達が居るだろうと云うことを考えた時、どのように受け継がれているのか気になる。
また、当時まったく情報もなく、言葉も、文化も、習慣も、まるで違う国に残ろうと考えた心の中を覗いてみたい。
誰が建てたかアカプルコには支蔵常長の銅像がある。
閑話休題;
帰途についた人達の悲劇は、日本を離れている間に江戸幕府はキリシタン弾圧、渡航及び入国禁止令(鎖国)を発令していた。使節団の多くはカトリック教徒に改宗していたため、確かフィリピン辺りに寄港、再改宗した。拒否した者は当然ながら残ったのだ。しつこく続きを書きますが、キリスト教徒弾圧と書かないでカトリック教徒と書いたのは、当時オランダは日本の富を独占しようと企んだ。
その策略として他の諸外国は布教の為と言ってやって来た神父の後に必ず軍隊を差し向けて侵略し滅ばされると入れ知恵をしたからだ。
「島原の乱」はキリシタンへの弾圧による農民の抵抗だと思っている方がたくさんいると思いますが間違いではありません。しかし、本質は彼らに掛けられた「人頭税」にあります。子供がうまれても税金、死んでも税金と何かにつけて税金を徴収したからなのです。
もうこれでは生きていけないと一揆が一気に始まった。
確か1村を除いた全村がカトリック教徒だったため結束が固く、また死を恐れなかったために当時のなまくら武士が手を焼き幕府命で他の藩から援軍で終結したのです。
ついでに、あの剣豪、宮本武蔵は参戦したものの農民の投げた石にあたって怪我をし、活躍出来なかったそうな。史実は歴史学者におまかせします。
次にラテンアメリカタワーに行った。
高さもさほどなく東京タワーか通天閣に登ったのと同じだが排気ガスで視界が悪い。ここの絵ハガキは1枚=14円
バスに乗ってチャペルテペック城へ。ブラブラしながら徒歩でソナロサへ戻った。
夕食はビフテキ(265円)、スープCREMAD CHAMPIŇNES(90円)、ビール61円。 バスでソカロまで戻りホテルへ。
炎天下きょうもよく歩いたなぁ。
機は一路メキシコへの経由地テキサス州ダラスへ向かっていた。
ダラス空港では当時すごく人気のあったドラマ“ダラス”と同じくテンガロンハット姿の(西部劇でお馴染のカ-ボーイハットですよ)男性が多く「さすが」と行き交う人のスタイルを楽しみながら乗り換えの時を過ごした。
メキシコシティ空港(メキシコ) 12:30着
ダラスを定刻通り離陸。うとうととしている間に最初の目的地メキシコに着いた。
ここには前職場の仲間ファビアンの家族が迎えに来ているはずだ。
いや、彼に頼まれた土産物(靴、ラジカセ、その他)を受け取りに。
通関では聞いていた通り引っかかった。
ゆっくりと荷物を見ながら質問してくる。英語ではない。何故かスペイン語だ。
「これは何だ?」見ればわかるのに!?、、、。「いくらした?」
「友人のメキシコ人に頼まれたもので値段はわかりませんよ」
もう一度今度は少し語気荒く聞いた。「いくらだ?」
「(本当は新品なのだが)新しい物じゃないし、、、ウム、、、」
「10ドラレス(ドル)かな」
「パスポートを見せろ」
渡されたパスポートを1ページ1ページゆっくりめくりながら
「所持金はいくらだ?」
「20ドラレス持っています」 当たり前だ今アメリカから着いた所だ。
「ペソなら少し持っています」
「じゃあそれをここに挟め」とパスポートを差し出した。
「税金がかかるなら向こうで払ってきます」とTAXを払う場所を指差した。
「まぁまぁ いいからいいから」ともう一度パスポート少し広げて差し出した。
いずれにしても払わなければならないだろうと予測しており20ドル分(約2600円)だけペソに両替しており細かく分けて何ヶ所かのポケットに入れていた。
これは常に危険が付きまとうニューヨーク生活の賜物かも知れない。
少ない方のポケットに手を入れ1ドルくらい挟んだ。
彼は一瞬ニヤリとして「下でやれ」「下でやれ」
パスポートを持った私の手を押さえながらすばやく札を抜き取りポケットに入れた。
マジシャン顔負けの早業だった。
外に出るとたくさんの出迎えが来ている。
多くはアメリカへ出稼ぎに行った人達の迎えだろう。手に、カートに山積みの荷物だ。迎えは家族総出といった様相で再会を喜びあっており、なんだかお祭りのような大賑わいだ。
閑話休題;
アメリカへ出稼ぎに行った人達の多くは、密入国者でパスポートは持っていない。
しかし、不思議なことに帰国は堂々と飛行機に乗って帰るのだ。
彼らは笑いながらその不思議を説明してくれた。
それによると町や村を出る際その長に自分の出生地等の証明書を発行してもらいそれがパスポートの変わりになるらしい。Ummmありえる。
密入国の手口は陸続きなので ①山を越える ②川を泳ぐ ③金を払う
経験者の話では①②は夜半に乗じてやるのが普通だが明かりが一切使用できないためルートを間違えておぼれたり、転落したり、ガラガラヘビにやられたりと危険だし、だいたいどの辺りの国境を越えてくるのかバレバレらしい。
昼間は見えている分だけ安全だが当然見つかりやすい。
いずれにしても国境警備隊に撃たれて死んだ者もいるとのこと。
③は何とかやっとの思いで金を都合し(一人約600ドル(当時))トラックに乗り込むのだがこれは何かの手違いがない限り成功する。
幌を開けられることもないそうだ。
手違いについては話のついている国境の係官が突発的に何かが起こり約束の時間帯にいなかったことが原因らしい。ま、いろんな場合も考えられますが―。
この頃(1987年)はメキシコでは一般的な一ヶ月の給料が50ドル(6500円)くらいなので600ドルは彼らの1年分の給料に匹敵する大変な額なのだ。
*為替
「当時米国生活でしたのでペソと円の値を把握していません。
文中の為替の換算はメキシコ通貨ペソ対米ドルです。
ですからドル対円換算からペソ対円の計算です。」
野を越え、山を越え、川を渡り、様々な危険にさらされながらようやく国境を越えたと思ったら逮捕。何度送還されても神に成功を祈ってトライ。
また、高額な金を払ってでもアメリカを目指すのは彼らの稼いだお金が、国に帰れば大きな働きをすることを考えれば当然の行動かも知れません。
そんな彼らで早い者は1年ぶりで帰国するのだがその手に大金はない。
すべて仕送りしてしまうからだ。
前出のファビアンやウエイトレスをしていたタイ人のナンシーもせっせと送金して建てた家の写真を見せてくれた。これは羨ましくもショックですね。
我々日本人は彼らよりはるかに給料がいいけど日本に送ったからと云って家は建ちません。
私の場合日本に帰るくらいならこうやって中南米の旅に出るかヨーロッパを回っている方がはるかにお金はかからないし、愉しい。
日本への望郷の念にかられるのは「風呂」温泉と食事(特にお茶漬けは無性に食べたくなる時があるのです)かな。
母の介護で1年半程病院暮らしをしましたがその当時円は1ドル=87円
銀行に両替に行く度、行員に「今替えると損ですよ」と忠告されるのですがドルで給料をもらっていた私にはどうするすべもありません。
泣きましたねぇ。
さて、人混みを流れに沿って歩いているとファビアンの家族はすぐわかった。
あまりに皆がそっくりなのだ。
ウイークディなのに家族総出の5人。
仕事は大丈夫なんだろうかと心配になったがメキシコ人だからなぁ、なんてなんだかわけのわからない納得をして、声をかけた。
「なんでわかったんだろう??」そんな顔をして彼らは驚いていた。
全員に順番に挨拶を済ませ、子供達の目の方向にある届け物を渡した。
車で市内まで送ってくれると言うので駐車場へ向かったが車を見てびっくり!
小型でドコ製見分けがつかないポンコツに6人と荷物を含めてギュウギュウと音が出るくらいに押し込んで、いつバラバラになってもおかしくない走りをしながら市内のホテルまで送ってくれた。感謝!!
メキシコ市
「キャピタルホテル」はバックパッカーなら耳にしたことのある安宿で市の中心地(ソカロ)に近く便利がいいがハッキリ言って汚い。
1ドル=1375ペソ
まず、値段を聞いた。ニューヨークで聞いていた通り一泊約3ドル=400円。
とにかく部屋を見せてもらう。
空いている三部屋を見てRM#325に決めた。(シャワー付き)
これからの長い旅を考えればこれくらいが妥当だろう。
その後このホテルに銃を持った強盗が押し入ったようだが、安宿とはいえ金を持った日本人が泊まっているという情報をどこかで得たのだろう。
さてさて、寝床を確保して一安心。ベッドの上にバックパックを放り投げ、続けて身体も飛んだ。
大きく深呼吸し「とうとう来たなぁ」しばらくぼんやりと天井を眺めていた。
空腹に気が付いた 「さぁーて、何を食べるかなぁ」バックパックに少しだけフレッシュエアーを吸わせて遅い昼食を摂りに表へ出た。
ウルグアイ通りから目と鼻の先にあるソカロへと向かった。(正式名は憲法広場)
この一帯はアステカ王モクテスマの中央神殿があった場所だ。
途中ちょっと小奇麗な店を目にし、初日の安心を買ってそこに入った。
シーフードレストランでえび10匹、牡蠣7個、魚フライ(小)3、ビール2本(小ビン)と大盤振る舞い。8ドル近かった。メキシコ市は内陸部なので魚介類は当然高いが今考えると少しボラれたのかも知れない。
ビールは銘柄にもよるが95円くらいだ。メキシコのビールは美味しいですよ。
ニューヨークではメキシカンビヤーにとうもろこしで作ったトルティジャ(トルティヤ)チップスにピカンテ(結構辛い)を付けて食べながらよく飲んだが私が行っていたバーのチップスは無料でした。
ソカロ周辺をぶらぶらと散策して暗くなる頃ホテルへ。
夕食はホテル近くで勿論ビールと定食、3ドルしなかった。
ホテルではコーラ1本=40円、街では水=95円、ヨーグルト=40円、コーヒー=5円、ビニールに入ったアイスキャンディ(お菓子付き)=9円
機は快晴のラ・グアディア空港を定刻通り飛び立つ。
マナハタンの街並みが眼下ににせまり「いよいよかぁ」となんだか感慨深けになり、旅立ち前のさまざまな想いが蘇って来た。
メキシコを始めとする中米から南米への憧れは子供の頃から、歴史の時間、写真、テレビ等々で充分過ぎるほど持っていたが、アメリカに来ていろんな州を観たり、ヨーロッパの国々を訪問したりして“Seeing(見る) is(ことは) believing(信じることだ)”の格言どおり「行かなければ見られない、見なければ真実が見えない、だから行く」。
旅行好きとはちょっと違う。はっきり言って、町に着く度に最初の仕事が安宿を探して何軒も歩くバックパッカーなんて私の性に合わず大嫌いなのだから。
想像してください。
炎天下の中や雨の中重い荷物を背負って、何軒も歩いてやっぱり最初の所(とこ)が値段的にも清潔さにおいても一番だと思って戻るともう誰かに決まっており、また探し歩く姿を。
「よしっ、行こう!!」と決心したのは1年前で、ニューヨーク市で最も古い由緒ある日本レストランでアルバイトをしていた時だった。
(因みにこのレストランで湯川秀樹博士のノーベル賞受賞パーティを開いたとのこと)
)この頃はもう代も変わりお世辞にも綺麗とは言いがたく、また美味しいとも言い難い店だったが、ミッドタウンのど真中、カーネギーホールも近く、大きなホテルもたくさんあり地の利で私がいた頃は結構繁盛していた。
ウエイター、ウエイトレス、デリバリーマン、ディッシュウォッシャー等々の職に入れ替わり立ち代りいろんな人がやって来るが、そのほとんどが日本人だと旅行者か留学生くずれ、タイ人、インドネシア人、そして中南米(圧倒的にメキシコ人)からの出稼ぎ者だが、オーナーの人柄か従業員はいい奴が多く、・・・と云うか訳のわからない面白い連中いて愉しいところだった。
そんな中、中南米旅行経験者がおり話を聞くのに事欠かなかったし、他のレストランで働いている旅行経験者達からもいろんな話を聞いた。
勿論中南米出身者いわゆるアミーゴ達からも情報は得た。
アミーゴ(女性はアミーガ)はスペイン語で友達の意味だが一般的にはスペイン語を話す中南米人つまりスパニッシュのことだ。(ヨーロッパのスペイン人にはここではあまり使用しない)
これで必需品や様々な費用の算出も大まかではあるが出た。
しかし、その人(日本人や現地人も含めて)によって育った環境の違いや年齢等で見方、感じ方にかなり差があるため、幅広く数多くの人達から情報を得た結果だった。
「あっ そうだ」機内で思わず声が出た。
メキシコ人の友人マルガリートからアカプルコに住む義母宛てのお金の入った手紙を預かったのだ。忘れずに持ってきただろうか?
不安になり目を閉じたままそっと手探りに秘密のポケットに手を当ててみた。
「あった!」安堵とともにラ・グアディア空港に近い友人の中台家でのあわただしい朝の詰め込み作業が思い出された。(彼にはその後もずいぶん世話になったが)
マルガリートとは約1年後にニューヨークにも戻った際、暫く一緒に元いた店で」働いたが、皿洗いからてんぷら揚げ担当になりとても誇らしげに喜んでいたのが忘れられない。
その後私の生活も変わり疎遠になったが3、4年経った頃だろうか、5番街でばったりと出くわした同僚だったメキシコ人チェビオの話では新しく始めたビジネスのトラブルで喧嘩になり射殺されたとのことだった。
とても陽気な男だったが幼子をかかえたマルガリートより細くて小柄な奥さんはいったいどうしたのだろうと気になり彼に尋ねたが残念ながら何も知らなかった。
さて、秘密のポケットだが以前ヨーロッパを旅するときに考案した物で二丁拳銃のガンベルト風になっておりズボンの下につけられるようにしたものだ。
ポケットの位置をズボンの位置と同じにしているため少し膨らんでいても不自然ではない。
まず、スリの被害にあわない、パスポートやトラベラーズチェック等の貴重品、そしてその日使用しない現金を入れておくのに便利。“優れもの”と自画自賛している。
もう一つは膝の下、ふくらはぎのトップ。ここにずり落ちないように工夫した小さなポケットも考案した。ここには現金だ。絶対見つからない!!!
これを作るとき、仕立屋とクリーニング店をやっているトルコ人の友人イスマイルの所へ持っていくと、彼は私がここをこうしてと指示するたびに日本人は頭がいいと何度も繰り返し、日本車とか、エレクトロニクス製品を加味して妙に感心しきっていた。
彼は私がスーツやズボンの直しを頼むと、友人だからとお金を取ることを拒んだが、今俺は払えるお金を持っている、困っているときはそう言って助けてもらうからと言ってもなかなか承知せず困ったが、君は商売しているのだから、技術と労力、そして時間を使っているんだから納得してもらい安くするということで話はついた。
しかし安さはべらぼうで申し訳なく、次回からは友人の頼まれ物だと言って持って行くとそれでも安くはしてくれたがちょうどいいマケ具合だった。
エクアドル人のラファエロは私が勤めていた店の中では一番英語が出来たが、容貌と云うか風貌と云うか、無口(実際はよくしゃべったが)と思われており、皆から暗い奴、文句の多い奴と言われていた、が、彼の要求は正論であり、話すと結構面白い奴だった。彼の仕事はデリバリーで近隣の地図に明るく、彼に「近々中南米を旅する予定なんだよ」「南極も行きたいと考えているんだよ」「すべての中南米の領事館の場所わかる?」と尋ねると彼は何で店を辞めてまで中南米なんかに行きたがるのか不思議そうだったが、その話を覚えており、後日すべての領事館の住所と電話番号を書いたものを渡してくれた。しかも別の日には南極の資料まで探して持って来てくれたのだ。
さらに出発前には“サウスアメリカンハンドブック”という中南米旅行者のバイブル的本をプレゼントしてくれた。しかしこの本は高い。彼の少ないチップからの出費はかなりの痛手だったに違いない。感謝と感激を表すと、彼は外国人特有の少し首傾け大きく横に振りながら手も大きく広げ“No(イヤ),No(イヤ),No(大丈夫),No proburema(問題ない)”を連発しハニカンでいた。
帰米後彼の所在は誰も判らなかったが10年経った頃ウエストサイドの23丁目辺りでばったり出くわし、お互いに驚くと共に再会を喜びあったが、互いに時間がなく電話番号を交換したが後日電話しても不通になっていた。
ラファエロは以前より少し垢抜けてはいたが相変わらずで仕事もデリバリーマンだった。
閑話休題;
本の話の蛇足だが日本からやって来る旅行者のほとんどが持っている旅行案内書は彼らにとってバイブルに等しいようだが、笑ってしまうのは「ここは日本人に知られていないいい場所」「ここは日本人に出会わないいい所」「日本人観光客の行かない取って置きのスポット」と書いてあることです。
本にでれば意味をなさないし、同国人に会って何が悪いんだ。
居ても居なくてもいいところはいい、綺麗なものは綺麗だと思うのですが。
実際日本人がたくさん居ると外国に来た気がしない、シラケルと云うがじゃあ「何故ハワイ?何故グアムは?」みんなが行くような観光地は必ず日本人はいますよ。
しかし、トラブルが起こると日本人を探しまわり頼るのだ。
諸外国を旅するとちょっと立ち止まってキョロキョロしていると声をかけてくれる人が多く私もずいぶん助けてもらいましたが、日本人が日本語で「どうしました?」と言っても知らん顔ですが、いわゆる外人顔だと答えます。
でも私が英語で声をかけると振り向きます。やはり島国なんですよね。
2,3日和食を食べないだけで「久しぶり、なつかしいナァ」って聞くとなるほどと云う感がありますね。
なんだか面白いなぁ。
本の話でした。続きですがあの本には経験談がたくさん掲載されておりますが確認をとってないのでしょうね。
投稿者が誤解していたり、悪意を持って嘘を書いたりしている人もいるため小さいですがトラブルにあった人もたくさんいると聞きました。
例えば本を頼りに行ったホテルが無かったり、汚かったり、ぼられたり、盗まれたりと、従業員による被害が続出していたところだった。
大使館や領事館の場所が間違っていたりと情報にでたらめが多いようです。
私は「地球の迷い方」と呼んでいます。(私が旅したころの話です)
でも役立ってるところも沢山あるようですよ、念の為。
ゴーーーと切れ目なく耳障りな音の中に目を閉じたまま出発までの様々な出来事が何故か走馬灯のように出ては消え、消えては出て。
機は一路メキシコへの経由地テキサス州ダラスへ向かっていた。
ダラス空港では当時すごく人気のあったドラマ“ダラス”と同じくテンガロンハット姿の(西部劇でお馴染のカ-ボーイハットですよ)男性が多く「さすが」と行き交う人のスタイルを楽しみながら乗り換えの時を過ごした。
迎えを頼んだ日系人の彼は非常に不機嫌な顔で来た。
朝になってもその不機嫌さは変わらずブスっとして口も聞かない状態だった。
奥さんに「どうして?」と理由(わけ)を聞くと「ケガをしたから」と云うことだった。
パーティを台無しにしたには違いないが何だかこちとらも非常に不愉快だ。
早々に帰宅したいので送ってくれと言うと返事も無く、マンハッタンまでさほどの距離ではないのに駅で降ろされた。タクシーを呼べと言われないだけましかナ。
頭部にはグルグルに巻かれた包帯が痛々しく、どうにかなりそうな頭痛が絶え間なく襲ってくるというのに―。
因みに奥さんは現役の看護士だったがケガした当初から帰宅までの行動を考えると
「ホントに看護士?」と疑いたくなる態度だった。
そして夢遊病者みたいにフラフラしながら、電車を乗り継いで気合でアパートにたどり着いたが、部屋に入るなり服を着たままベッドに倒れこんでしまった。
病院から言われた通り4、5日して抜糸に病院に行ったが勿論ニュージャージー州ではない。
紹介された病院は綺麗なところだったので安心したが、手荒く抜かれた痛みは今だ残っている頭痛に拍車をかけた。
だがそれより困ったのはちょうどカギ裂きになった10センチ四方のヘアーがカット(剃りこみ)されており、そこに縫い目に沿ってバンドエイドがちょこんと貼られたことだ。
どう見てもまったく大したケガではないようで友人達も話の割には「なぁ~んだ」と云う顔を会う奴、会う奴にされた。
しかし、もっと深刻な問題があった。
と云うのもケガをした側(ちょうど頭の右半分)が麻酔にかかったままで感覚がない。しかも何か変に痒いのだ。
このまま心配事をのこしたまま旅にでることも出来ずNYU(ニューヨーク大学)の病院に勤めている知人にドクターを紹介してもらい診てもらった。
受付ではいの一番に保険の有無を聞かれた。
前述しなかったが最初の病院も抜糸の病院も同じで払えるか払えないかが大問題。
私の場合保険に加入していたので問題はなかったがアメリカでは国による健康保険制度がないため、ハッキリ言って金の無いものは私立病院等の
いい医者にはかかれない。
以前シカゴで友人が交通事故に遭い病院に運ばれたがその跳ねた奴(申し訳ないが奴と呼ばせてもらおう)が医師で自分が勤めている私立の病院には
運ばず、真向かいにある市立に運んだのだ。
その病院の入ったところにでっかいゴリラの写真が掲げてあり、そこに大きくこう書いてあった。
「前(通りの)の病院はお金さえ払えばサルでも診る」
さて、診察結果は
「脳波は問題ありませんが麻酔の方は神経に入った為消えるのは1年くらいかかるでしょう」
「これから中南米に旅行しようと計画しているのですが」
「旅行しても問題ありませんよ」
しかし、またレストランでアルバイトをさせてもらい体調を整えながら様子をみた。
予定より1ヶ月遅れとなったが頭部右半分に麻酔を残したまま出発した。
旅立ち前
ニューヨーク市クイーンズ区にあるラ・グアディア空港から中南米の旅に出発(で)たのは1978年7月13日で、満37歳の誕生日から1ヶ月後だった。
アメリカに来て7年目、久々の海外旅行である。
計画では、、、と云っても無計画の計画だが一応出発(で)た日を思い出しやすくするために誕生日に決めていた。
だが、誕生日の次の日が土曜日で、友人がパーティをやるから来ないかと云うのだ。当時私はマンハッタンに住んでおり、わざわざ遠くへ行くのはあまり気が進まなかったし、予定の変更もしたくはなかったが、私の送別会と誕生日会を兼ねて“カワイイ娘”も声をかけてあるからのという話に心はすっかり惑わされあっさり承諾してしまった。
これが後、災難となる。
ニューヨーク(マンハッタン)からまずニュージャージー州のニューワークまで行き、言われた通りの電車を乗り継いでだ。
しかし何個目の駅か聞かなかったために必死で止まる駅、止まる駅に目を凝らしながらようやくに着いた。
私が最後の到着者で初めての顔が4、5人居た。(残念ながら約束のカワイイ娘は見あたらなかったが)
紹介が終わりパーティはまずテニスから始まった。近くの短大のコートが簡単に使用できるのだ。軽くプレイ後、戻ってバーベーキュー。
酒もフードも一段落したところで再度テニスをしようと云うことになりまた足を運んだのだが、私は連日の壮行会の呑み疲れと食べ疲れも重なり金網の外で見学。
ダブルスも盛り上がりを見せている中、一人が疲れたから交代をしてほしいと言って来た。雰囲気的に断れず付き合ったのが運のつき、で1ゲームが終わり惨敗。
持ち前のスポーツ精神が出てしまい、今度は自ら2ゲーム目を申し込んでしまったのだ。
すっかりムキになってしまいコートを走り回っていたが酒酔いではブレーキが利かず金網を巻き付けてある鉄柱に激突!!!
金網デスマッチの様相になってしまった。
額から頭部にかけてカギ裂きにポッカリと割れ、白いTシャツからパンツ、そして白い靴まで真っ赤な鮮血でアッという間に染まり、頭部はタオルで押さえてはいるものの、頭部でしかもアルコールが入っているため恐ろしい勢いで血が吹き出てくるのだった。
みんなオロオロしている中、友人に救急車を頼んだが彼の車で病院へ運んでもらった。
救急車で運ばれていないのでなかなか診てくれない。
文句を言いたいのだが頭がガンガンと連続的に投打されている如く割れるように痛くそれどころではない。
付き添いの二人は3世で言葉にまったく不自由はなく、彼らに早く診てくれるよう頼むのだが順番だからと何もせずにただ黙って不愉快そうな顔をしながら座っているだけだった。
痛みは増すばかりで、イライラも頂点に達し、「もう死にそうだからと何とかしてくれ」と怒鳴り込むように自分で頼みに行ったらようやくに振り向いてくれた。
が、今度は過去の病歴、ケガの状況説明、アレルギー等々の問診が始まった。
もともと英語力が乏しい上に読むのも聞くのも、話すのも容易ではない状況だ。しかも医学用語ときている。
付き添いの二人は無関心に座っているだけ。とにかくいい加減に答えるわけにもいかず、力を振り絞って、必死になって何とか答え問診は終わった。
付き添ってくれた二人にはうっとうしいほどに何だか腹が立ち、素っ気無く「ありがとう」とだけ言って帰ってもらった。
暫くしてようやくストレッチャーに乗せられたが、これからがまた大変だった。
まずこのまま廊下に2時間以上放置された。ようやくに病室に入れられたがそこでまた2時間以上放置。
強烈な頭痛は相変わらずだったがとにかく目をつぶっているしかなく気をまぎらすことばかり意味も無いことを考えていたが、そのときパチッ、パチッと音がするではないか?
何事かと目を開けるとジーンズに白衣姿の男がカメラを手にしきりと私を撮っている。
驚きと怒りの声で彼に聞いた。
” What(何を) a(やって) hell(いるんだ) doing(この) here(やろう)? “
いきなり目を開けて怒鳴った私に彼は、びっくり!!「えっ 何!?」と云う顔をしたが、自分の胸元にある名札を指で挟んで少し持ち上げるようにしながら私の目の前にかざし平然と答えた。「俺はここの医者だよ」「保険のことがあるから撮っているのだよ」
と言って、私が次の質問に移ろうとする時には病室から出て行った。
それからどれくらい時間が経過したのかわからないが、かなりの時間が経過した頃男性看護士がやってきてこう告げた。
「もうすぐドクターがやって来るよ」「今日は君が最後のサージュリー(手術)だからきっと丁寧にやってくれるよ」「じゃあ」と言い残して出て行った。
今度は割合早く、その看護士とドクターがやって来た。
「サァ始めようか」と言うと局部麻酔をし、縫い始めた。と同時に二人の会話も始まった。
「なぁ、あの〇〇階のブルーネットでショートヘァーの彼女、名前は… なんだったけなぁ?」
「ほら、○○をやっている背の高いスタイルのいい女(こ)だよ」
「ああ、00にいつもいる女(こ)でしょう?」
「そうそう、あれいい女じゃない?」
「ウム、でも彼女もいいけど… ほらあの○○の… 」
そんなやり取りが暫く続いて一段落した後、看護士がちょっと用があるからと出て行った。
なんとドクターまでが後を追うように「ちょっと失礼」と出て行ってしまったのだ。
すぐ戻ってきたがまた暫くするとまた出て行く。
3、4回繰り返した。頭部には針と糸が付いたままだ。
“ Hey(おい)! What’s(何を) happened(やっているだんだよ)? ”
しかし彼は「うん、ちょっと」と言うだけだ。私も早く終わってほしいのでそれ以上は聞かない。
そして、そして、ようやくに手術は終わった。 まるで大手術のようだ。
「何針縫った?」彼は素っ気無く ” Many(たくさん) ”「帰っていいよ」
まったくもってあきれるばかりで恐れ入りましたとしか云い様が無い。
廊下に出ると人影はまったくなく、友人に迎えに来てもらうために電話を掛けに行って時計を見て愕然とした。
なんと深夜の1時。病院に来てから9時間も経過していたのだった。