バックパッカー中南米旅日記 23話  (プンタアレナスからブエノスアイレスへ)

2019-08-15 09:43:58 | 日記

2月12日(金曜日) 23話
南極ツワーで出会ったカリフォルニアから来たMITSUKOさんが欲しがっていた、ペンギンのピンを見つけたので早速購入。
小が1個235ペソ(90セント=108円)大239ペソ   1㌦=259㌷ すぐ郵便局へ行き彼女に送った。
夕方鈴木さんの帰国への切符を買いに行った。
夜は必ず来てくれと言われていた絵を描く彼女の家に遊びに行く。

2月13日(土曜日)
南極で書いた最後のハガキを投函。午後広島から来た若い男と会うとだけしか書いていないので何も思い出さない。
こういった出会いはよくある。
夜は鈴木さんとお別れ会。食後アリシアへボトルを届けた。このボトルが何だったか書いていない。
その後アマリアとアリシアに会いセントロへ。

2月14日(日曜日)
10時発のバスでRIO GALLEGOS へ。4時着。 P2600=$10=¥1200
イギリス人デヴィットと会い一緒に空港へ行くこととなった。ブエノスアイレス(Buenos Aires)まで約83㌦=¥9960  1㌦=120円(当時)
夜9時発ー12:30着
電話は長距離用コイン(大)と市内用(小)があり当然値段も違う。
大を10枚買い電話機に入れたが終わってもコインが1枚も戻らなかった。  大10枚=5A=88C=105円
以前メキシコで電話のカードを買い、電話すると相手が出なくても呼び鈴を鳴らすだけでお金が減っていくシステムには驚いた。

2月15日(月曜日) アルゼンチン共和国―首都ブエノスアイレス
23州と1つの特別区からなるがパンパ(大草原)はガウチョ(アメリカのカウボーイに似ている)で有名だが国土の25%を占めておりさまざまな物で多くの富を生んでいる。
人口4000万を越えるが現在多くの白人と称する人達も6割以上は原住民の血が流れていると言われている。
世界遺産は文化遺産が5、自然遺産が4ある。また、文化、芸術、スポーツにも優れている。

ホテルsport manへ。二人で26A,一人だと16A。相談の結果相部屋にした。これだと一人13A=$2.3=¥275になる。
在ここはすこぶる評判が悪いホテルだ。   

2月16日(火曜日) 両替100㌦ ー 1㌦=5.68アルゼンチンペソ
日本大使館を探して予防接種が出来る病院を紹介してもらいに行った。大使館は全く把握しておらず、そこの病院から新たな病院を紹介してもらったが
時間が無くなり2日後になった。とりあえずホテルに戻り破れたジーンズを繕う。
ブエノスアイレスの夜は遅くから始まる。8時過ぎないとレストランも開かない。
11:30頃からデイヴイットと呑みに行く。2:30ホテルに戻る。
ブエノスで呑むなら CRISTOBAL COLON LAS MERAS +-2300 WHISKERIA
ENTRE PUEYRREPOP Y GACILEO #60のバス (定かではない)

 2月17日(水曜日)
溜まった洗濯を洗濯屋に出しに行った。A12=$2.11=¥254
何をしに行ったのか書いてないが、日本領事館広報センタと書いてある。PIPPOで食事。

2月18日(木曜日)
デイヴィットが早朝6時に発った。どこに行ったか書いていない。
俺は一人朝食。ミルクX2 トーストしたパンにハムとチーズのサンドイッチ。 A7.9=$1.39=¥167
日本人会(732Ave Independencia)で昼食。幕の内弁当ーA21、冷奴ーA7,ビール中ー6 計A34=$5.98=¥718  12時~18時まで。
少し高いがたまにはいいか。味は普通。
予防接種に行った。料金は無料。注射針をきちんと交換しているか確認のため覗きに行った。OK、じゃやろう!!
Unidad Sanitaria Puerto de Buenas Aires
バス#64 or 86 Fiebre Amarilla 14~16Hs Ingeuiero Huergo 1497  phone 361-0659 (7415)
カンビオ(両替屋)に行った。1㌦5.78  A140=$24=¥2906 これで準備が出来た。俺もアスンシオン(パラグアイ)に向けて出発だ。
6時発が6時30分になった。バス料金 A117=$20.59=¥2471(食事込みA155=$27=¥3275)
ここでパラグアイに住んでいるチャイニーズHUNGと知り合う。

2月19日金曜日

朝7時30分ごろ到着。POSADAS 出国スタンプをもらい渡し船でパラグアイ側へ。すっかり忘れていたがビザが切れていた。ま、何とかなるだろうと出入国管理局へ向かった。アルゼンチン人もパラグアイ人も何事もなくみんな首都アスンシオン行きに乗り込んで行く。しかし、俺だけ3ドル払えと云う、何故だと聞いてもとにかく3ドルだと譲らない、押し問答をしていると知り合ったチャイニーズのHUNGが来て、みんながお前だけ待っているんだから3ドル払えと云う、ビザの件もあるから仕方なく払った。車中彼が「どこまで行くんだ」と聞いてくる。「アスンシオンだ」と答えると、「泊まるとこは?」「内山田旅館だ」と答えると、そこは知っているからそこまで案内すると言ってくれた。アスンシオンのどこかに住んでいるんだと思いきや、途中、「あそこを見ろよ、あの青い屋根の家、あれが俺の家だ」「えっ、じゃ降りなきゃ」と云うと「大丈夫送っていくよと」笑顔で答えた。午後3時30分ごろ着いた。彼の案内で内山田旅館へ。暑い!! パラグアイのお金を持っていない俺に彼はジュースを買ってくれた。おかげで無事内山田旅館に到着した。彼に「一緒に食事しないか」尋ねると「大丈夫、急いでいるから」と帰っていった。まったく親切な奴だ。夕方セントロで取りあえずの両替。      内山田旅館 1泊2500G=約2.8ドル 入ってすぐがフロントで大きなテレビがある。また、日本語の本も置いてある。部屋は結構広く風呂付だった。風呂を洗って久しぶりの入浴。やっぱりシャワーより良い。疲れが取れる。

2月20日 土曜日 今日もカンカン照りだ。

内山田旅館は朝食付きで内容もいい。夕食は隣のレストランですき焼きを食べた。街を散策しに出かけたがあまりの暑さに閉口した。観光もそこそこに明日のイグアスへのチケットを買いに行った。バス#8でバスターミナルへ。イグアスへのチケット代3050G=3.4ドル

2月21日 日曜日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


バックパッカー つれづれなるままに。旅日記

2018-12-30 16:48:13 | 日記

29日(火曜日)Weather-cooudy  Wind-W bft2 Air-10c Temp-41F  State of sea-Rough     第22話

 Drake Passage  Approaching Cape Hone 揺れがまだかなりあり少し船酔いが残る。

700730 early morning coffee   7:30~9:00 Breakfast  900 meeting

9301000 Leacure “The Pinnipedia” ヒレ脚類について(羽毛を含む)

10001030 海洋哺乳類の死にゆく生理学に関する議論

1100 Hot Bouillon served  及びデッキで通り過ぎた島々と海鳥を観る

1230 ランチ BuffetLidoにて。

15001530 “Deep Ecology” 保全における新しい概念についてのレクチャー

16001630 Tea & Cofee time in the Lido Lounge いつもの場所。

16301730 “Tierra del Fuego”についてのレクチャー 

18001900 “ Tierra del Fuego” BBC video documentary

1930 Dinner

21:30 Movie “The gods must be crazy”     23:00 Late night Snacks

午後 下船に備えてTC250㌦を両替(現金化)

ケープホーンを通過。予報は曇りだが晴れている。

 

210日(火曜日)Weather-cloudy Wind-w bft2 Air-12c Temp-52F 海はSmooth

 200 Beagle channelに入る。若き日のCharles Darwin1835年に世界を旅している時に通過したここの、氷河と雪をかぶった山々の余りの綺麗さに感嘆し、“The land of fire and ice” と呼んだ。

Beagleはその時の船の名前)

630700 early morning coffee   7:00 デッキにてその美しい光景を観賞

700900 Breakfast  8:30 Briefing “ROMANCHE” 氷河について

 9:00 ほんの少しだけ“ROMANCHE”フエゴ島に上陸。

  11:00 いつものHot Bouillon is served in the LIDO lounge.

  11:30~12:00  メインサロンで下船の注意事項等の説明

 1230 ランチ in the Marco Polo Restaurant.  Buffet in the LIDO

  15:30 World Discoverer このクルーズの果敢な探検ビデオ上映会

 16001700 いつものTea and Coffee time in the LIDO lounge

  18:45 メインサロンで船長招待のお別れカクテルパーティ

 1930 船長主催のお別れディナー

 2230 いつもの、Late night Snacks

*クルー達へのチップの説明書きがあり、一人に対して178㌦の目安とのことだ。

 封筒とボックスがフロントにあるので入れてくださいとのことだったがバックパッカーの俺にはかなり厳しい金額だね。

 

211日(水曜日)Weather-cloudy Wind-W,bft3 Air-11c Temp-52F(11) State of sea-Smooth

 早朝600 船は予定通りPunta Arenasに到着した。

131日に Puerto Williamsを出港してから1011日の旅だったが、この旅は誰もが行ける所ではないので非常に貴重なものだ。

だから、旅で出会った日本人たちは皆「しげきさん」と呼んでいたがこれからは必ず「南極帰りのしげきさん」と呼んでくれとしつこいほど言っていた。

この南極の旅はいろんな人との出会いもあったが、一番はIRISだろう。彼女の仕事はキャビンスチュワーデスで彼女とはブラジル(リオデジャネイロ)で再会したが、その後私がN.Yに帰ってからも私を訪ねて来てしばらくは一緒に住んでいた。母一人子一人で母親が日本人と付き合うのを嫌っていた。彼女はドイツに帰国してから、幾度となく手紙や電話のやりとりがあり、仕舞には自分の名前の後にYAMASHITAといつも書いてあり、理由を尋ねると「私はあなたと結婚するつもりだから」と云われて驚いたが、或る時、彼女からの手紙に週刊誌に載った壱岐の入り江が血の海の写真を同封してあり、日本人はイルカを殺して食べることやクジラのことも書かれてあり暗に私を批難して来た。返信には検索してもらった英文を間違いがないよう、読みやすいようにタイプ打ちにし、A445枚くらいだったと記憶しているが、まず、人種による批難なら「あなたはドイツ人だから“ナチ”と云っているのと同じだ」「イルカ漁は壱岐の漁師たちの網が破られて困っている、追い出してもまた入ってくるだから漁をしているのだ」「漁師の死活問題にあなたならどう対応するのだ?」「しかも我々はその命を無駄にはしない(どう無駄にしていないかも書いた)」「クジラの種類がどれくらいあるのかをあなたは知っていますか?」「それぞれの今の頭数を知っていますか?」

「鯨の食事どれくらいの量か知っていますか?」「我々が南極で見たクジラの骨の数々(それは島一杯のとてつもない量だった)、アメリカ人の捕鯨は油だけでしたが我々日本人は蛋白源とする食糧だけでなく髭に(伝統芸能に使用)に至るまで余すところなく利用している」「それぞれの国には食文化があり、欧米だけが正しいと考えているのは間違いだ」等々、を書いて送った。

随分と経ってからお詫びの返事が来て、まだ友達でいてくれますか?とのことに「勿論」と返信し、その後も何回かやり取りがあったがそれっきりになった。どうしていることやら。

アメリカ人の夫婦にも出会った。Arthur & Vivian WEBER アーサーはオレゴン大学出身の元空軍大尉でアメリカンフットボール部出身だったのですぐ意気投合した。ヴィヴィアンはスペイン語を話すバイリンガルだった。そして、日本人をオレゴン州に来てもらいホームステイを経験させるという仕事をしていた。ホストファミリー向けに日本人に対する注意事項が書いてあるのを見せて内容が変だと思ったら直してほしいと言ってきたのでとにかく預かることにしてシアトルに戻ってからexガールフレンドのリンダに説明して正しい英語に直してもらい後日届けた。たぶん当時日本で放送されていたドラマ、「オレゴンから愛」だったかの影響を受けていた日本人がたくさんいたのだろう。。因みにそのディレクターかプロデューサーは友人の松田だったような気がする。とにかく後にシアトルの友人宅に遊びに行った際、彼らの家に泊めてもらい、彼のワイナリーやワインを飲ませてもらったし、オレゴン一大きいという彼らの家のすぐ上にあるところも見学させてもらった。(あまりに小さかったのでこれがオレゴン一番大きい?と驚いたがね)。また、オレゴン州立大のフットボール部の練習も見学に行った思う出がある。オレゴンはいいところだ。

船では毎日サウナに入った。ある日鈴木さんが、サウナに行くと云って出たのにすぐ帰って来た。「どうしたの?」と聞くと若い女性(クルー達)が一杯入って来たので逃げてきたと聞いて笑ってしまった。私も遭遇したことがあったが彼女らはまったく気にしない。勿論素っ裸だ。

ともかくもそれなりにいろんな出来事があったが無事寄港した。楽しい日々だった。

111日にプンタアレナスに来たがその時泊まったのがここホテルロカ。そして、今日またホテル―ロカへやって来た。街をブラブラしてると絵を描く子と会った。面白いかわいい子だ。

1㌦=259ペソになった。ハガキを買い投函。

明日からまた、チリでの生活が始まり、次はどこだろう?


バックパッカー つれづれなるままに。旅日記

2018-12-30 16:08:29 | 日記

131日(日曜日) World Discoverer 号(全長約87m、重さ3153トン)いざ南極へ!!     第21話

 WEATHER - Blue Sky  WIND-calm air  air-16c  temp -61F  STATE OF SEA - smmoth

 5時乗船。 12時出発。特大のウイスキーを手にしているのでクルーたちは皆笑っている。

 一番は南極の氷で飲むことだ。

が、俺は東京の写真家林田さん宅で経験済み。音は「パチパチパチ」小刻みにはじける。

船の一番上がBOAT DECK 二番目がODYSSEY DECK 三番目がVOYAGER DECK そして、船底がDISCOVERER DECK  私と鈴木さんはチリでチケットを買ってVOYAAGER DECK 日本から来たカメラマンの榎本さんは船底で、305号室。彼は我々より高いチケットを買ったのにと航海中ずっとぼやいていたが我々に言われてもはっきり言って「知ったこっちゃない!!」みんな自分で希望してチケットをかったのだから。

BOAT DECKはプール、サンデッキ、ラウンジ、バー(2つ)、サロン、ダンスフロア、ショップ等々がある。

映画やショーも確かこのフロアだった。

食事はその下のODYSSEY DECK。ここに全員が集まる。しかしスイートルームの人たちは知らない。

我々のフロアにはHOSPITALがある。

因みに、一番上がOBSERVATION DECK その下が、BRIDGE DECK,そして、BOAT DECKと続く。

この船は南極が夏の間だけここを往復するが、その後は世界を旅するのだ。

乗船後、さっそくスケジュールや船内のことの確認があった。

資料は乗船前に渡されており、それを見ながらの説明となる。当然英語なのでところどころ必要なところを二人に説明した。

夕食は1945 2130リラックスタイム。この旅の説明をするレクチャールームで映画(クッロコダイルダンディ)がある。2300からメインサロンでlate night snacks タイム。

 2400 ケープホーンに向けて出港。 

2月1日(月曜日) Cape Horn   blue sky  SE bft 2  air-10c  temp - 50F10 ℃)slight(少し波)

上陸 朝8時30分~10時30分 帰船

 沖合からゾディアックボート(zodiac boat)に乗り換えて上陸。勿論全員救命胴衣を着けているし上陸するときは必ず手と手でなく、お互いの腕をつかんで支え合うのだ。もし、滑っても最後には手と手がある。これの練習は何回かさせられた。

さて、ROCKY BEACHへ上陸すると、目の前に木の階段。滑るのでラバーブーツを履いた方がいいとの説明。かなりの段を踏みしめて頂上へ。ここに教会と測候所がある。

こんな所までペンギンが登って来ている。あの歩き方でよくぞここまで、だ。

ペンギン恐るべし、半端ねぇ!!

レクチューではマゼランペンギンの他オーストラリアのツグミや雀の生息地だそうだ。

ここから望むホーン岬そしてその先がドレイク海峡、とにかく圧巻と云えよう。

矢印の付いた立札があり、そこには、どこどこまで何キロメートルとか書いてあったがどこがかいてあったか、有名な都市だったが忘れた。

帰りに、石段の途中でクルーがワインを手に、一人一人に「ウエルカム」と云いながら渡している。

中々おしゃれなふるまい酒だ。実に心地よい。確かホットワインだったような気がするがもしかしたらホットワインは別の場所だったかも知れない。

船に戻り、帰船早々ホットブイオンがふるまわれた。11時 サウナ。1230ランチ

昼食後スーパーボール観戦。レッドスキン(42)VSデンバー(10)

15:00 写真撮影についてのレクチャー    16001630 tea & coffee time at rido lounge

16:30 南極点への道のりについてのレクチャー

1845 船長招待のウエルカムドリンク 

7時30分 夕食。これは何人かが船長招待で彼を囲んでの夕食だ。我々日本人から一人と云われて鈴木さんに行ってもらった。ネクタイとシャツを探す(借りる)のに大わらわだった。彼には理解できない英語に反応しないように、とか飲み物をすすらないようにとか、音を立てないようにとか、いろいろ注意をして送り出した。何故ならサンチアゴからずっと一緒にいたのだから、彼のマナーはわかっていた。

2300 メインサロンで軽食が出た。

 

2月2日(火曜日) ドレイク海峡通過(Drake Passage)  overcast SWxS bft  air-4c  temp-39F(4)

 名前の通り海賊ドレイクの荒っぽい洗礼を受ける。

本日のスケジュールはまず、700730 早めのコーヒータイム 730900 朝食

9:30 ペンギンについてのレクチャー。1030 ラウンジでホットブイオン 

1100 Irying Johnson船長解説のドキュメンタリービデオ”Around the Hone”(1929)鑑賞

11451215 ケープホーンの解説 12:30 ランチ

1500 レクチャー 南極の政治と条約について 16001630 ティ&コーヒータイム

17001800 帰りのチケットや座席の確認。私と鈴木さんは関係ない。

18301900 説明の続き。1930夕食 2130 また、クロコダイルダンディの映画

2300 軽食タイム 

あまりの揺れに、鈴木、榎本両氏も船酔い。とにかく食べなくちゃと朝食も昼食も取ったが、食べてすぐ船室でぐったり。夕食時は少し気分が良くなった。

 

2月3日(水曜日)  blue sky  wind-nw bft 5  air-1c  temp-34F(1) slight

本日のschedule;  700730 early morning coffee   7:30~9:00 朝食 

朝食後、930「何故南極に氷があるのか?」のレクチャー。10:3011:00 hot bouillon time

12:00~13:00 昼食

Paulet Island 上陸前のレクチャーを受ける。特にペンギンたちのコロニアルに足を踏み入れるわけだから注意が必要だ。13:00 昼食後いつものボートで上陸。

ちなみに「ゾディアックボート」は軍が使用する頑丈なボートなので安心だ。

16:0016:30 tea & coffee time  19:30 夕食

夕食を済ませてから、アルゼンチン基地 Hope Bayへ上陸。ここは南極の半島だが特に何もなし。

半島を観てアルゼンチン基地に行ったというだけだ。

2300 船はTrinity Islandに向けて出港  23:00いつもの軽食タイム

 

2月4日(木曜日)King George Island(Bellinghausen/Marsh) 7:00 到着予定。

 今日のスケジュールは;

7:007:30 朝のお茶タイム 7:009:00朝食 9:00 打ち合わせ

  Weather-overcast  wind-w bft 2  Air-6c Temp-43F(6) State of sea-smooth

 ここにはチリ基地(Teniente Rodolfo Marsh Chile –Est,1980 )とロシア基地(Bellingshausen Russia-Est 1968)がある。ロシア基地に行ってはいけないと言われていたが、チリ基地から歩いている途中向こうから手を振っている人たちがいる。こっちへ来いと云っているのだ。向かっているとクルーたちが「行くな!行くな!」と身振り手振りで叫んでいる。せっかくなので、殺されはしないだろうと無視して向かった。見ると俺を含めて2.3人だけになった。

ものすごい歓迎で、いろいろ案内してくれたし写真も自由に撮っていいと云ってくれた。いい思い出だ。

1130には船に戻り、King George Ilandを離れてPoint Thomas

12:30 ランチ。 1500 レクチャー「南極における人間の存在」

1600 Point Thomasに到着。16001630 Tea & coffee time

1630 Arctowski(Polish-est.1977) 午後はポーランド基地へ。

ここも笑顔で大歓迎。たくさんのお菓子とお茶が用意されていたが誰も手を付けない。アチコチでいくらだろうと心配している。俺は大した料金じゃないだろうと、お菓子とお茶をいただいた。すごく喜んでくれて帰り際お菓子を渡してくれたがそれは断った。彼らの貴重な品々だろうから。勿論お代はタダだった。彼らはききっと人恋しいのだろう。 1830 帰船。  1930 夕食。

2130 映画観賞。 Cannery Row  ニックノルティ、デボラ・ウインガー

2300 いつもの軽食タイム。

 

2月5日(金曜日) Weather-overcast Wind-var bft2  Air-3c  Temp-37F(3) smooth

630700 いつものコーヒータイム。 700830 朝食。

800 Mikkelson Harbour on Trinity Island の到着予定 830 ゾディアックボートでTrinity Island

1030 帰船。 10:30 いつものHot Bouillon time.   11:00 Cuverville Island へ 1130 Briefing

12:30 昼食。 1500 Lecture “Gentle Giants” なんのことだったか覚えていない。

16001630 Tea & Coffee time  16:00  Arrive Cuvervlle Island

16:30  Zodiacs で Cuveryille Islandへ。1830 帰船。 1930 Dinner 

2130映画 Top Gun を観た。2300 Late night snacks

 

2月6日(土曜日)Weather-overcast wind-w bft 2 air-3c temp-37F State of sea -smooth

 630700 morning coffee  7:00~8:30 Breakfast   8:00 Arrival Paradise Bay

 8:30 本日は南極大陸を二度目に歩く日で「遠征日」と銘打っている。

 この地の小屋にはアルゼンチンまで3500キロと書いてあった。

 このLemaire Channel Jacob Lemaireにちなんで命名され、Willem Schouterと共に

 16161月にケープホーンを発見したということだ。

 1100 Hot Bouillon time.   12:00 Lunch

  ランチを食べながら、Neumayyer Channel に入りPort Lockroyへ。

 1600 Tea & Coffee time 

1900 The Pool DeckExecutive Chefとスタッフによるバーベキュー

 2130 Crew Show   23:00 Late night Snacks

 

27日(日曜日)weather-overcast wind-nw bft2 Air-3c Temp-37F smooth

  7:00~7:30 Early morning coffee 7:30~9:00 Breakfast

  9:00 Deception Island 到着予定。

 ここは、アルゼンチン、チリ、英国と重複する3つのステーションサイト。

 1967年に噴火し、69年と70年に強制された国々が避難した。チリはいまだに地震活動を監視している。

 930 Telefon Bay  に上陸し、1970年の噴火の結果できたクレタ―まで歩く。

1100 帰船。 

1130 特別なランチと云うことで、シェフたちが作った作品の写真撮影が行われた。

1230 場所を変えて、Buffet Lunch

1330 南極で温泉体験。 めちゃくちゃ熱い湯が沸き出ている所に入るが、隣はめちゃくちゃ冷たい 

    水が取り巻いているので、ず~と手でかき回していないと肩まで浸かることが出来ない。

     だから、ほんの少ししか「温泉」を体験できない。勿論、海水パンツ一丁で入った。

     上がると、すぐスタッフがバスタオルとバスローブをかけてくれたので以外に寒くはない。

1500 帰船。船はNelson Islandに向けて出発。

1600 Tea & coffee time

1700 Lecture  南極のGeology(地質学)について。

1815今夜のスケジュールについての報告会

1900 今夜の夕食は珍しくイタリアン。 2000 Nelson Island 到着

2030 ゾディアックボートでNelson Island   22:00帰船

2230 Drake Passageを抜けて北へ 

2300 いつものLate night Snacks

 

28日(月曜日)Weather-cloudy Wind-SW bft6 Air-5c Temp-41F  Rough

 昨夜からのドレイク海峡通過で船は大揺れ。船酔いだ。

 700 early morning coffee time.   7:30~9:00 Breakfast.

  930 海鳥についてのレクチャー  

10301100 ナチュラリストによる”Quirks ‘n’ Quarks”

 1100 Hot Bouillon is served in the Lido Lounge

 1130 Killer Whales(シャチ)についてのレクチャー

 1230 Lunch  Buffet in the LIDO  13301430 Nap time(昼寝)

1500 レクチャー 「南極探査の歴史」

16001630 Tea & Coffee time in the lido luunge

  170018:00 video Documentary

  1930 夕食。 21:30 映画「The Hoosiers」ジーン・ハックマン主演を観る

 2300 Late night snacks

 *鈴木・榎本両氏の船酔いのために食事がままならずクルーメスに行っておかゆを作る

  (榎本さんが梅干しを持っていたので二人は喜んでくれた)。

  クルーたちが船酔いにはスープがいいと作ってくれようとしたが、我々日本人にはおかゆがいいと云って場所を借りて

     作ったのだった。

  私は何故大して船酔いにならなかったのかと云うと行のドレイク海峡でひどい船酔いになったと知り合った女性に話したら、彼女が三半規管に貼る「パッチ」という船酔いに効く物をくれたからだ。

  彼女は元アメリカ海軍経験者だったが、もしかしたら船酔いになるのではと彼女が用意して来た物だったが、いらなくなったとくれたのだ。

  彼女の連れの一人はMITSUKOさんという日系人で、二人とも私よりかなり上の世代だったが(60歳は越えていたと推測する)日系人でUSC(南カリフォルニア大学)出身だといっていたので当時としては大変なことだったと想像できる。

 

 


バックパッカー 中南米旅行日記

2018-10-19 09:52:06 | 日記

1月8日(金曜日)Puerto Montt        第20話

 プンタアレーナス(Punta Arenas)へ行く人たちも含めて5人。赤江、佐野、ソノ子、鈴木、私だ。

 私はサンチアゴの空港でプエルトモントのストップオーバー(350ペソ=1.37㌦=178円)を申告していたが、みんなに「じゃまた、どこかで」と別れを告げると、

 突然鈴木明氏が「俺も降りる」と言い出した。

みんなもびっくりだ。とは云うものの、出発前に手続きをしていないのでややこしい。結局何も自分でできないので手続きを私が全部した。

11時30分発(45分に出発した)、1時ごろ着。

今度は困ったことに、自分ではどうすることもできないので俺についてくるのだ。俺は予定があるからここに降りたのだと説明しても動じない。困ったもんだ。

結局バスを乗り換えて俺の目的地チロエ島(Isla Grande de Chiloe)までついてきた。 人口はだいたい155000人。かのダーウィンが来たという島だ。

仕方なくホテルを探して、一緒に泊まることにした。

値段のことや、食事のこと、すべてにおいて一々「どうしますか?」と聞かなければならないことが面倒だ。

とにかく俺は高校から一人暮らし、今日まで「一人暮らし」を貫いてきたからだろうか。

さて、チロエ島はとてもきれいな港町で静かな町だ。

「日本冷蔵」だったか忘れたがプエルトモンからの船上で出会った日本人たちが港から奥の町に何家族か養殖かなんかで済んでいると話してくれた。

宿を決めて早速ジニアに会いに行った。彼女はびっくりしていたが大喜びしてくれた。彼女の家族も歓迎してくれた。

ここは小高い丘の上に立つ家で眺めはいい。1960年のチリ地震の壊滅的な被害を考えればこの高台は正解だろう。

チリ地震    日本にも津波の被害があったのを知ってますか?

1960523日 午前4時過ぎ(日本時間)チリ南部でマグニチュード9.5という観測史上愛大の地震が発生。

これによって発生した津波は時速750kmという速さで太平洋を横断し、22時間半後の午前3時(24日)ごろに到達。

三陸海岸で8m越え。被害の発生は北海道から沖縄までに及んだ。全国で死者139人、住家流失・全壊2830棟、半壊2183棟、浸水37195棟などです。 ハワイ島では死者61人。

閑話休題

夏だがここは少し南に位置するので少し寒い。薪割を手伝ったが、俺が薪を立てて割るのを見て家族の人が「違う、横にしないと」とやり方を見せてくれたが、

そのやり方も勿論知っていたが、立てた方が割安いのだと説明するとなんだか浮かぬ顔をしながら見ていた。見事に割れた。

この方が効率よい。立てられない、バランスの悪い薪は横にするけどね。剣の極意だね。ストーブに薪を入れ暖を取る。

二階の部屋にも暖かい空気が行くようにしている。1階のあるこのストーブは湯を沸かしたり、鍋をかけたりする他に料理ができるようにもなっていて非常に便利が良い。

ここに泊まれと引き留められたが明日また来るからとこの日はホテルに戻った。

7日からの風邪がまだ治らず、喉が少し痛い。 

19日(土曜日)

ジニアにチロエ島の絶景に連れて行ってもらった。すがすがしいところだ。

他にもブラブラとデートを楽しんだ。さすがに地元民でいろんな場所を知っていたが、面白いのは、ここは誰にも知られていない場所だという、

彼女が持っているスペシャル(秘密)なデートスポットがあった。

俺は何人目!? 

二人で食事をした。Pincoyaワインも込みで3000ペソくらいだった。約⒓㌦=1530

風邪で調子が今一つなので少し昼寝。

この日は彼女の家に世話になり、翌朝ホテルに戻る。

もっと長く滞在したかったが、我々バックパッカーには耐えがたい一人のきまままな自由旅ができない状態だったので早々に次の地へ行くことにした。勿論彼も一緒だ。仕方ないね。 

110日(日曜日)

 1130分 バスでプエルトモントへ。天気悪し。 バス代 500ペソ=1.96㌦=255円 

出発前時間があったので美術館&博物館(Museo Regional de Castro)や教会に行った。 

到着後すぐ昼食。そして宿探し。1㌦が240ペソになった。

一人 ― 800ペソ=3.3㌦=430円 シンバーニョ(部屋にシャワーが付いていない) 

111日(月曜日) 1015分発の飛行機でプンタレーナス(Punta Arenas)へ。

スペイン語で「砂の岬」と云うらしい。チリの陸続きで最南端の街だ。

パナマ運河ができるまではここは結構栄えていたようだ。

2012年現在では人口は約12万7千人。フエゴ島を挟んでアルゼンチンがあり、アルゼンチン領のウスアイアの方がさらに南に位置する。

地元民の話では子供たちのことを、男の子はマガジャネコ、女の子はマガジャネカ、つまりはマゼランの子と呼ぶのだと教えてくれた。

ホテルロカ 一人 1200ペソ=4.76㌦=619円(税抜き) 1㌦=252ペソ 20㌦両替

Café Monacoで昼食。

サンドイッチ(チュラスコ、トマト、アボカド)340ペソ=1.35㌦=175

Cafe con leche(ミルク入りコーヒー) 120ペソ=50cent60

 

1月12日(火曜日)

 朝食後、旅行会社を回り。ニューヨーク出発前の目的であった南極行を探す。

鈴木さんも行きたいとのことで一緒に探した。

何軒か回ったがある旅行会社の人から耳寄りな話を聞いた。「3日前の新聞を見てないのか、そこに南極ツワーのことが出てたぞ」

俺はスペイン語の新聞なんか見てないよ、と心の中で叫びながらその新聞を探した。

そして、Urtoramar(船会社)へ行きそこの社員Ms.Rosa Mr.Fussarに南極旅行の話を聞く。

*最近は飛行機による南極ツワーがあるらしい。

113日 (水曜日)

この日も朝からUrtoramarへ。彼女はすっかり私の担当者となったが、彼女は英語が出来ること以外全く何も答えられず、質問の度にサンチアゴの関連ある旅行会社に電話して聞くのだった。

あまりに面倒なので彼女に私に直接話をさせてくれとお願いし、結局最後は私が会社の中に入り、直接電話をしていろいろ聞いた。

つまりは、二人分の空席はあります。金額はキャッシュでしか受け取れません。料金はドル払いで一人3155㌦=410.150円 出発は130日、朝迎えに行きます。

25日にチケット発行するので取りに来てください。 チリ領最南端の軍港プエルト・ウイリアムス(Purto Williams)まで飛行機で行き、そこから南極行の船に乗るのだ。

 

そこまでの飛行機代 127㌦=16510円。 プエルト・ウイリアムで95㌦と書いてあるが何のことだったかわからない。こんなやり取りをしてとりあえずこの日は終わった。

昼食、フィレミニオン -1300ペソ=5.16㌦=670円 サラダ- 400ペソ=1.6㌦=206

 ワイン(ボトル)1本‐1600ペソ=6.3㌦=825円 鈴木氏と一緒だと贅沢だ。結構おいしかったけどね。

午後museoに行った。大したことない、と日記に書いてあるだけでどこの美術館か博物館かわからない。

町はとても静かで落ち着くところだ。

 

114日(木曜日)

 朝一でMS.Rosaに支払いの件で電話。結局昼Urtoramarへ行き、電話を借りてサンチアゴの早乙女氏にお金の依頼。

つまり、早乙女氏の日本の口座にお金を振り込む。振り込まれたと早乙女氏が確認したらサンチアゴの会社に支払いをしてもらう。

勿論早乙女さんにはそれなりの手数料も払うという段取りだ。早乙女さんに快く了解してもらった。

 

これで一安心とプエルトナタレス(Puerto Natales)へ向かう。1600ペソ=6.3㌦=825

4時間、道が悪く時間がかなりかかった。

ここは人口約2万人の小さな町だがパタゴニア地方のパイネ国立公園につなぐ町なので欠かせない。(Parque nacional Torres del Paine)

明日はカラファテ(Calafate)へ。ペリト・モレノ氷河(Gaciar Perito Moreno)大きさは約250㎢。

Bus Surでチケット購入した。32US㌦=4160円。信じられないくらい高い、が仕方なし。ホテル1500ペソ=5.95㌦=774円 食事;ビール150ペソ=59cent77

ビフテキコンウエボス(Bistec con Huevos500ペソ=1.98㌦=258

最近は飛行機による南極ツワーがあるらしい。

 

115日(金曜日)

 1100 ナタレス発。バスの乗客2人、俺とドイツ人。運転手2人。アルゼンチンとの国境で乗換。2時間待たされた。途中、マテ茶が運転手より回ってきたがドイツ人は毒入りかもと断る。

俺は彼らが作るところから飲むところまで見ていたから、ま、大丈夫だろうと思った次第。

Rio Turbioで昼食、アルゼンチンのお金を持っていないので両替場所を運転手に聞くと、ここにはないと云って昼食をごちそうしてくれた。

食後、3時半ごろ出発。悪路、悪路、悪路、途中水かさが増し小さな川となっていたが気にせず水をかき分けながらバスはそのまま進んだ、まいったね。

8時半着。約9時間半のバスは疲れた。早速ホテル探し。まずは両替。15.20アルゼンチンペソ

100㌦両替した。ホテル20A=3.8㌦=500円 夕食はステーキ14、サラダ7. ビール4締めて25AP=408㌦=625円  翌日の朝食は5APeso=96セント=125

 

116日(土曜日)

ペリト・モレノ氷河(Gaciar Perito Moreno)大きさは約250

12月~3月ごろまで、つまりアルゼンチンの夏場にはこの氷河が地鳴りとともに崩れ落ちます。

ビルの20mくらいの高さでしょうか?とにかく圧巻です。行く価値ありです。

バス代 50AP=9.6㌦=1250

 

117日(日曜日)

 630 Rio Gallegoへ。 バス代44Ap=8.46㌦=1099円 1時過ぎに乗り換えてRio Turbioへ。

 43.5AP8.36㌦=1087円 Rio Turbio乗換、国境へ。バス代 4Ap=77セント=99

 ボーダー(国境)乗換え、バス代5Ap=96cent124円 Pto Nataresまで200p=9㌦=1181

乗換えだけでなくアルゼンチンとチリのお金の貨幣価値で目まぐるしく、大変だ。

宿泊はResidencial “ Temco” 800P=3.17㌦=412円  

電話代 120p=47c=61円 (どこに電話したかは書いてないが、たぶん南極の件で鈴木さんに電話したのだろう?)

食事はここから近いレストランに行った。サーモン750、ミックスサラダ250、ガトブランコ(白ワイン)

1750 計1750P6.9㌦=902

Pineパイネ国立公園まで往復キップ 3200p=12.6㌦=1638円 片道だと 1800p7.14㌦=928

 

118日(月曜日)

7時 PINEへ出発した。12時頃着。ホテル1泊 14㌦=1820円(ドル払い)

でドミトリー式 -シャワーなし。

さすが、国立公園!? ぼったくりだ!! かなり寒い。仕方なし、洗濯をした。

 

119日(火曜日)

 とりあえず買って置いた物で朝・昼食。歩けないくらい風邪が強い。とにかく馬の予約。

 夕食は仕方なくホテルで取った。

ミルク1杯(俺がミルク?)、ステーキとサラダ 1800P=7.11㌦=928円 これでこの値段??

 

1月20日(水曜日)

 7時起床。頼んでおいたのに起こしに来ない。730に馬を予約したスイス系ドイツ人の家に行き

朝食。昼食のサンドイッチも含めて500ペソ=1.98㌦=257円 馬代(ガイド込み)ドル払いで

18ドル=2340円 前日予約の時、女性のオーナーに朝食と昼食のサンドイッチをお願いしたが断られた。それが出来ないならこのツワーは止めると云うと、しぶしぶ了解した。

しかし何の変哲もない、超簡単なサンドイッチだった。

吹きさらしの平原を馬でトボトボと向かうのだが手綱を持つてがかじかんで上手く持てない。馬のたてがみに手を包むように当てそれを交互にしながら進んだ。

風が急に強く吹く度に馬がおびえてのけぞるので手綱をしっかり掴んでないとないと振り落とされそうになったが、いかんせん寒すぎなのだ。

彼らはそれを知っているんだから手袋くらい用意してくれるか、前日に教えてくれても良さそうなものだ。

ちょっとした丘に登りながら景色に見とれていると、馬が上手く避けた木に当たる始末だ。

「教えてくれよ!?」 この吹きさらしの草原を3時間(18キロ)かけてようやく目的地に着いた。

そこも砂嵐でほとんど目を開けられず、フードをかろうじて視界が取れるところまで上げちょっと景色を見ては背中向きにを繰り返し見学。

よくこんなところで昼のサンドイッチ食べたなぁと思い出すたびに我ながら感心した。ガイドの若い男はじっと馬の番、俺が「帰ろうか」と云うのを待っていた。

3時ごろに帰って来たが、馬が自分の家が近づくと並足から早足になり、いななくと馬小屋につながれた仲間から返事が返ってくる。

どんな会話かわからないが「帰って来たよ」「疲れたよ」・「お帰り」「お疲れさん」何てことかな。とにかく、しっかり手綱を持ってないとスピードを上げるので油断できないし、危険だ。

その足でナタレスへ向かう。バス1500ペソ=5.95㌦=774

ナタレスのBus Surでチケットの払い戻しを頼んだができないと云う。とにかくプンタアレナス(Punta Arenas)への切符に変更し、〝Temuco″へ。

食後町で以前ここで知り合った美人のEdyとばったり会った。「泊まるとこは?」「まだ決めてないよ」

彼女の友達の家が泊まれるからと案内してくれた。何故か彼女がカギを持っており不思議だが、「まっいいか」。俺は女性に目が曇る。ラッキーの一言。

 

121日(木曜日)

 6時起床、7時発、プンタレーナス着11時前。以前泊まっていたホテルへ。ここのオヤジ(主人)は面白い。

部屋に入ると誰も居ないのを見計らって、軍事政権を批判、俺に中曽根(たぶん中曽根の時代)はどうだ?と聞いてきたのには驚いた。そんな話を何度かした。鈴木氏は居た。再会だ。

昼食はメルカード(市場)でウニ 500P=1.98㌦=258円 どんぶり一杯でこの値段だ。

ステーキ 600P2.38㌦=309円 

最初ここでウニを食べないかと勧められたとき、「醤油があったら食べるよ」「あるよ」本当にキッコーマンの醤油が出てきたので驚いた。どうもブラジルで生産されているらしい。

 

122日(金曜日)

 ウルトラマル(南極)のチケット支払いの件確認。早乙女氏にお礼の電話。豪華に夕食。

 この辺り、プンタアレナス、ナタレス、パイネ、テムコ、カラファテ等々、どこに行っても風が強く、特に午前中に強い。夕方から治まり人々が出だす。23時頃まで明るい。

午前中強い日差しで、公園などで、半袖シャツで日光浴してても急に空が曇天になったと思った瞬間に雪が舞い散り震えるほど寒い。しかし、ここの住民は誰も手袋もマフラーもしていない。

 

123日(土曜日)

 いつもと変わらず、アリシアとアマリアに逢う。

124日(日曜日)

 アリシア、アマリアから彼女らの家族を紹介してもらう。

紅茶とクッキーでもてなされるが一体誰が働いているのかわからない。確かに若い働き手がいるのだが?

ニャンドウ(ダチョウとよく似ている)の大きな卵を二つくれた。勿論国立公園内から勝手に取って来たのだから問題はあるが、すごく貴重なものをくれたのだった。

どうやって中身を抜いたのか、まさに針の穴から根気よく中身を抜いたのだろう。色はグリーンがかったブルーだ。一つを南極ツワーで知り合ったカメラマンの榎本氏にあげた。

自分の分は壊れないよう丁寧防寒用のブーツに入れさらに丁寧に包んだ。

榎本氏に日本に持ち帰ってもらったが、後日彼の家に行くと、自分のは壊れたのでと俺のを自分のものにしていたのには開いた口が塞がらない。

自分の壊れたのを継ぎはぎにして交換してくださいとは恐れ入った。

「結構です、捨ててください」と言い残して彼の家を後にした。

午後、引越しした。キッチンが使えて800P=3.17㌦=412円 6日の契約か1日の契約か覚えていない。

いずれにしても安い。

 

125日(月曜日)

 チケットを取りに行く。 ようやくこれで安心と、乾杯好きの鈴木氏がとにかく乾杯しましょうと「乾杯!!」した。

 100㌦両替。

126日(火曜日)いつも行くコーヒーショップで日本人らしき男がいたので声をかけた。彼が榎本氏だ。

 彼も南極に行くということだった。勿論彼は南極に行くために日本から来たツワー客だった。

 

127日、28日 いつもと変わらず。100㌦両替

 24日から29日まで、ほぼ毎日アマリアとアリシアの二人と昼夜遊んだ。

 29日に夜天婦羅を作ってアマリア、アリシア他みんなにふるまった。

天婦羅ソースは何もないのでラム酒で作った。当然、鈴木氏、榎本氏らにはこんなのソースではないと不評だったが他の人たちはおいしいとたくさん食べてくれた。

ナンダカンダと云いながら鈴木・榎本両氏も食べていた。当たり前だ。お前らなにもしないで食べるだけだから、嫌なら食べなくて結構!!

アリシアの家へ行き、榎本・鈴木、アマリア、アリーナ姉妹、他子供たち、彼、彼女たくさんの人たちと雑談、2時帰宅した。 ありがとう!!

 

1月30日(土曜日) 南極へ出発の日だ。

 8:30起床。10時30分までウルトラマールの迎えを待ったが来ず、飛行機の出発時間が11時なので近所の人に頼んで車を探して、大急ぎで空港へ向かった。

 送ってくれた人に2000ペソ払った。

2000P=7.9=1031円 の余計な出費だ。 これがラティーノだ。あきれるしかない。

あとで来たロサに何をやってるんだと文句を言ったが、簡単に「ごめん」で終わった。

結局飛行機は50分遅れで出発。ロサは知っていたのかも?

午後1時にプエルトウイリアムス(Puerto Williams)に着いた。バスでホテルへ。

ここの気温は1年を通して極端に寒くなく当然暑くない。

チリ最南端の島で軍港だ。私が行った頃は人口約1000人、現在の人口は約2000人。ほとんどが軍関係者。

マガジャネス大学のキャンパスもあり、世界最南端の大学と云われている。

軍港なので写真撮影は厳しい。昼食後散歩。何もない閑散としたところだ。

途中ヨットクラブがあり、そこの管理人(若い男23歳)としばらく雑談した。

野村と云う人がここに来たと記録にあった。世界一周旅行?

そうそう、ここにもう一つ面白いものがあった。それは、ビーバー(和名;海狸)の肉料理だ。

もともとここ南米には生息しないビーバーが何故いるのかと云うと、1940年代にアルゼンチン政府が毛皮を目的としてアメリカビーバー50頭をフエゴ島に移入したが天敵がいないために

今ではあっという間に10万頭以上に増え、環境破壊。

困り果てたアルゼンチンとチリ政府が駆除に乗り出している。

肉は食用にしているが表で料理しないと半端ない、とてつもない臭いだそうで、話のタネに食べてみたかったがめったにやらないとホテルの者が言っていた。

131日 いざ南極へ!!

 5時乗船。 12時出発。


バックパッカー 旅の想い出日記

2018-07-08 13:49:12 | 日記

1121日 土曜日                 第19話

 朝から雨。800バスでラパスへ向かう。

途中船で向こう岸まで50センタボス。

ラパス5:30(現地時間―時差1時間)到着。憲法上の首都はスクレ(sucre)だが今は最高裁判所しかなく、行政・立法府があるラパスが事実上の首都となっている。

キャッシュ $5、チェック$20 両替 1㌦2.15

ホテルイタリア 5.5ボリビアーノ(bob)=2.5=334円 食事15ボリビアーノ=7㌦=910円

何を食べたか書いてないがやたら高い食事だ。

街は非常にごみごみしていて汚い。ここは先住民が多い印象で民族衣装が際立つ。

ここラパスは標高が高いので(富士山の頂上)坂道を下りまた、上まで上がるとかなりゼイゼイする。 

1122日 日曜日

 今日はあまり人混みはない。休日だからだろうか。

昼食を日本人会館へ行った。きつねうどんとカツ定食。17/bb=7.0$=1027

ここは全体的に物価が高い。

夕食は中華。どこにでも中国人はいる。

Sopa con tallain 春雨のスープ 3.5/bb=1.6=211

ここで20㌦両替してもらった。 トイレットペーパー 40センタボス 

1123日 月曜日 

 両替をしようとアメリカンエキスプレスに聞きに行ったら、そこの若い男が闇両替屋を教えてくれた。

「えっ!?」「ほんと?」とにかく3人で行ってみることにした。

確か雑貨屋だったと思うが入り口には民兵が自動小銃を構えて立っており、中に入るとドアの前に怖そうなあんちゃんがまた銃を持って立っている。両替に来たというと中の部屋に入れてくれた。

中には大きないわゆる社長の机がそびえそこにボスが座り、周りを子分どもが取り囲んでいる。

「両替か?」「そうだ」「いくら替える」3人で300㌦以上替えたと思うが、面白いことにボスが

紙幣にサインをして「俺のサインがあるのは偽札ではない証拠だ」なんだかわけのわからない、でも何となく納得してしまう言葉に店を出てから大笑いした。

Koli #319  Bet/ potosi &mercado yunacoha  両替 $500 =65000 

Miyuki – Between  Rocendo  Gutieres &  calle Agosuto6

みそ/8=3,7480円 カレー/8.96 昆布/12 日本茶/12 ブラジル製/10  日本製/18 ふりかけ/5

これは何のために書いてあるのかよくわからないが、たぶんミユキで売っていた値段だと思う。

ブラジル製と日本製がもっと意味不明だがとにかく書き残しておきます。

1124日 火曜日

 LAPAZ 8時発 → PUNO 着 430  夕食 インターナショナルホテル

  汽車が高く、punoまで B/26=$12=1570円 渡し船 C/50

  1125日 水曜日

   5時起床、6時駅に行き並んで切符買う。

   知り合ったペルー人の女性が一緒に予約してくれた。

   ホテルに戻り、洗濯、後一寝入り。9時半に予約のチケットを取りに行った。

   Pluman(バス会社) アレキパまで I/240=4.1=¥535

   夕食後 7:45 出発 雨だ。 

 1126日 木曜日

    Arequipa(アレキパ)630分着  

朝食 カフェコンレッチェ(ミルク入りコーヒー)&サンドイッチ I/25=0.42=¥55

朝食後すぐに バスORMENO(オルメーニョ) → TACNAへ チケットI/97=1.6=215

  830分発 → 230分ごろ着。 アリカまでコレクティーボで I/120=$2=¥267 

いよいよ南米最北端の国チリーアリカに到着。アタカマ砂漠北部で乾燥地帯非常に暑い。

カジノの前のアパート、怪しげなオヤジの家宿泊。700ペソ=2.8㌦=374円。

朝食150ペソ=0.6㌦=80円。 1㌦=243ペソ  → サンチァゴでは1㌦=255ペソ 

1127日 金曜日

 午後街をブラブラがてらインフォメーションセンターでサンチァゴ行のバスをチェック。

 アイスを売っている店 1100ペソ=0.41㌦=53

 ⒙SeptembureからGeneral Lagosに下って1つ目の角の店 

1128日 土曜日

 バス停でチケット購入 7000ペソ(朝と夕食付=28.8㌦=3745円 

 アルカリ電池購入 530ペソ=2.18㌦=283円 (4個入り)

 午後海へ。あまりに暑いので海に行ったが誰も泳いでいる気配なし。しかしあまりに暑いので

海に入ると氷水だ。我慢して何事もない、気持ちよさそうな顔をして少し泳ぐ。後藤、牧田両氏が

聞く「どう?」「めっちゃ気持ちいいよ」彼らも行って水に入った途端あまりの冷たさに「ひゃ~」。

これはサンチァゴのプールでも同じだった。 夜カジノを見学。 

1129日 日曜日

 サンティアゴ行き 9時発。途中荷物検査3回、夜中の3時にもあった。完璧な寝不足だ。

食事は2食付きだがひどいものでまずいご飯とまずいチキンだけ。期待する方がおかしいかも。 

11月30日 月曜日

 首都 Santiago(サンティアゴ)着 午後3時30分。約30時間のバスの旅。バスの苦手な俺がよくも乗ったものだと我ながらびっくりしている。

大学時代も駅から学校までの10分くらいでも酔うし、社会人になっても、東京―苗場スキー場まで何回嘔吐したことか。酔い止めを飲んで、酒飲んでこれで大丈夫だろうと思ったが同じだった。また、当時アメリカンフットボールをやっていて試合会場の千葉までで酔い、真っ青な顔色。みんなは試合で緊張してると思っていたようで「大丈夫だよ、心配すんなよ」と声をよくかけられた。

途中アタカマ砂漠越えで暑いし、窓は開けられないしでまいったね。今は快適なバスだろうけれど。

そのまま、trismoに行きサンティアゴの案内を貰う。

この国は当時「軍政」。陸軍のピノチェト将軍がアメリカ、ニクソン政権とCIAの後押しで、社会主義を目指していたアジェンデ政権を奪い取ったのだった。アジェンデ大統領はモネダ宮殿を爆破され爆死とされているが、ピノチェト政権は自殺と発表した。(死体解剖拒否で真相わからず)

一党独裁の強権政治の始まりだった。

街中に秘密警察(DINA)や密告者があふれていた。徹底した左翼狩りをし、ちょっとした発言も容赦なく連行され、首をナイフで切られて街に放り出される始末だ。サッカースタジアムが臨時の強制収容所となり、水も食事も与えられず放置したり拷問したりと殺害された。

有名なのはワシントンDCで車ごと爆破された元外務大臣。そのほか有名な歌手やノーベル文学賞を受賞した詩人、数多くの著名人が命を落とした。クーデター後から詩人パブロ・ネルーダの葬儀までを映画にした「サンチャゴに雨が降る」。「ミッシング」も有名。他にもたくさんの映画がある。

とにかく、バーやレストラン等々とにかく人込みの中では政治の話は禁句だった。

一体でどれだけの血が流れたのだろう。

因みに、チリの「9.11」は1973911日のクーデターを指す。

アメリカによって軍政の恐怖政治が始まったわけで、民主主義の国アメリカがテロを受けた?

9.11は我々チリ国民がアメリカによってテロを受けたのだと冷笑する。

閑話休題

食後、聞いていたレストラン兼宿「早乙女」に向かう。1泊3ドル=729ペソ=390

実際はドル払いが少し安かった。安定しない通貨ではドルが一番安心だかだろうからね。

部屋はドミトリー、一部屋に確がベッドが78あったように記憶している。

朝食対だったかな? 紅茶とパンのみ。

たぶん宿の名前は「早乙女」でレストランはハポン(restaurant Japon)」。近くの駅は確か、バケダノ(Baquedano)で駅から67分くらいだろう。

「ホテル日本(Hotel nippon)。ここは私の時はなく現在はレストランとホテルは目と鼻の先にあるようだ。

近くに大きな(parque ines de suarez)公園があった。ここは何度も足を運んだ。

さて、お金が底をつきはじめニューヨークに何度も連絡をするが通じず、困って都レストランで働いていた小川さんにも二回電話したが連絡なし。後でわかったことだがこのときアメリカとチリの銀行がうまく仕送りができなかったようだ。とにかく国際電話と電報は高くついた。

メリーとソレラと知り合う。 

121日 火曜日~5日 土曜日まで → 17日(木曜日)までサンチアゴ。

 1㌦=P/243 正月過ぎてから1㌦=P/255

 毎日周辺を歩き回ったり電車でアチコチ。 プールも三ケ所行った。若い女の娘に道を聞いたとき、プールに行けるなんてと羨ましがられた。どのプールにも若い人しかいなかったが人数は少ない。 

曜日のせいだろうか? また、水着も全くファッション性がない。(ブラジルは過激すぎるかな)そして水はあまりに冷たく泳げない。

サッカー場や温泉にも行った。冷泉だった。大したことなく特記するものなしと日記に書いてある。

知り合った彼女と遊園地へ行ったが入場料金だけで乗り物はすべて無料だった。大したものはなかったが当時のこの国では当たり前だろう。でも十分楽しめた。また、あるとき散髪に行きたいと言ったら、散髪街に連れてってくれた。確かビルの一階から2階まで(ひょっとしたら3階まで在ったかも知れない)何軒あったかはわからないが、とにかく床屋だらけだ。「どこにする?」と聞かれてもわかるわけなく適当に選んでもらった。中に入り、さっそくカットが始まったが横で彼女があれこれ床屋に指示しているのにびっくり。ま、彼女が気に入ったヘアースタイルと云うことでことなきを得て、コーヒータイム。表に出てしばらくしてから喫茶店にサングラスを忘れたことを思い出し取りに行った際、彼女が私に任せてと一緒に入って行き、「ここに置いてあったサングラスを返して」と問答無用の口調だ。

返してもらい、店の外へ出ると、彼女は曰く、ここでは「ありませんでしたか?」では相手は「ありません」と答えるというのです。おかげさまでサングラスは手元に戻り勉強にもなりました。

お金がようやく(三週間後)に着く。2回目も同じだ。コミッションはニューヨークの銀行で20㌦取られチリの銀行で33ドル取られた。チリの銀行に口座がないためだ。それを先に聞いていれば口座を用意したのに。別に彼女の口座でもいいのだから。

ウベリンダとジニアと知り合う。前の二人もどこでどう知り合ったのか書いてないし、記憶もあやふやだ。

公園の中を散歩がてら中華レストランに何回か行った。最初、ザーサイを注文するのにウエイトレスにいろんな発音をしても通じず、漢字で書こうにも思い出せず、でも何とかそれらしき字を書いてシェフに渡し、直接中国人の彼といろんな発音をしてわかってもらえた。暇だから時間はいくらでもある。ご飯とお茶と搾菜だけ注文。久しぶりのお茶漬けで美味しかったので何回か行ったが、嫌な客だね。韓国料理も行ったような記憶があるが定かではない。メルカード(市場)でもよく食事をした。よく行く店のウエイトレスに名前を聞かれ「ショーン」と答えたら後日あなたは私に嘘をついたと怒って来た。他の日本人に聞いたら違う名前を教えられたとのこと。私は当時ニューヨークに住んでおり(通算で18年住んでいた)洗礼名として使われていた名前。だからいろんな免許にはこの名前が使われていたのだ。早乙女に居た多くの日本人はそのことを知るはずもない。彼女に写真と名前が入っているのを見せ、面倒だが説明した。彼女に笑顔が戻った。

夏のサンチアゴでのクリスマス、町を歩くとアチコチの窓からメリークリスマス(フェリスナビダFeliz Navidad)の声が聞こえる。こちらもフェリスナビダと返す。でも暑くて何だかなぁ!? 正月も何てことない。日付だけが正月なのだ。因みにハッピーニューイヤーのスペイン語はアンニョヌエボ(Año Nuevo)

です。街中を12時頃まで歩いたが人出もあまりなく、ひっそりとしたものだった。

早乙女さんが正月帰国しヒューズ(布施)が寿司刺身担当。2日と3日だけ俺もやることになった。仕入れ先が決まっており、朝タクシーで市場に行き前日紹介されている店で買い物。タクシーで戻る。夜、宿にいる者たちの刺身も作るがチリ人の奥さんがうるさいのであちこちにネタを隠して出したりした。レストランは大使館がたくさんある地域なので客層が良く値段もそこそこ取っていた。だからホテルを建てられるほど大儲けしたのだ。

5日は市場へ買い物と仕込みだけやったのだが支払いはなかった。ケチな奥さんにはまいったね。とだけ書いてある。

4人の綺麗な女性との楽しかった毎日、別れるのは寂しいが明日はプエルトモントモント(Puerto Montt-プエルトモンとも云う)へ出発だ。


BOHEMIO 旅日記(1987)徒然なるままに

2018-06-18 11:33:09 | 日記

1111日(水曜日)Alejandro Velasco Astete International Airport(アレハンドロ・ヴェラスコ・アステテ国際空港)    第18話

人口約30万人 ケチュア語でへその意味 インカ帝国の首都

標高3.360m 私は飛行機で無事到着。空気は薄いが空港は心配していた高山病もなくクスコ市街地へ

バス、2インティ ホテル‐インペリオ シャワーの出も良く、部屋も綺麗だ。100inti(1.7=¥230)

マチュピチュに向かう鉄道の駅も近い。牧田、大原、後藤 各氏と一緒だったような気がする。

いずれにしても同じ時期にこの3人は居た。

ここは非常に落ち着いた町でブラブラするのにもってこい。

標高が高いので沸点が低く、80℃くらいでお湯が沸く。カリエンテドール(ミニクッキングヒーターで検索すれば形態がわかると思います)と云う簡単な作りの湯沸し道具で、水を入れたコップの中に電源を入れた棒状の物を入れるとすぐにお湯になる優れものだ。沸かしてお茶にすると日本茶のような味になるのでコカ茶と云って、これで毎日お茶を飲んだ。

コカインの素となる葉で標高の高いこの地域だけで売られているらしい。勿論リマなんかに持って行ったら捕まる。確か大きな袋一杯で50円くらいだろうか。

高山病に効くのでインディヘナ達は葉っぱをガムのように噛んでいた。今は厳しいだろうね。

何せ1978年当時、約30年前の話ですから。

そうそう何屋さんか忘れたが「白雪」という店があった。お父さんはもうずいぶん昔に亡くなっただろうけれど、店事態はあるのかな?確か門がある、町の入り口付近だったと思う。

11月12日木曜日はマチュピチュへのチケットを買ってあとは一日中ブラブラして過ごした。

 

11月13日金曜日 いよいよマチュピチュへ出発だ。13時発 130インティ=2.3㌦=300円

アグアスカリエンテ下車(当時はここで下車し、線路の上をマチュピチュの駅まで歩く)

ユースホステル泊 70インティ=1.2㌦=156円

近くに大衆温泉プールがあり、15インティ=0.2㌦=26円

勿論、更衣室はあるがヨーロッパから来た旅行者の女の子たちはプールサイドでおっぱい丸出しの着替えをしていた。まったく気にしていない。

食事はアグアスカリエンテ駅構内(線路の脇)にある「アイコ」(ノウチ愛子だったかな?)

当時彼女は10歳くらいだっただろうか、とっても可愛くて小奇麗にしていた。

恥ずかしそうに、ハニカンだ彼女と線路の上で記念撮影。どうしてるのかとっても気になるが

ネットで見る限り駅周辺はあまりに整備されて面影はない。

「愛子」というレスランの名もない。

 

11月14日 土曜日 

 遺跡へ。入場料 220インティ=3.7㌦=480円(2日間可)

マチュピチュ駅まで線路上を歩き、駅からバスに乗った。 バス往復 50inti=0.8 ㌦=104円

つづら折り(九十九折/葛折)道を登る。勿論歩く人たちもいるがかなり大変。

1時間半はかかると思う。遺跡を監視するワイナピチュと云う山があるがここは確か1時間くらいかかったと記憶している。だから遺跡までバスがいいのだ。帰りもバスだったが、出発地点で手を振って見送る子供たちがいるが、バスより早く直線で下り何か所かの所で又手を振って我々を驚かそうとしている。

そして、バスの到着地点で待っており、バスの客からチップを貰おうと云う算段だ。

相当な脚力だがこれはかなりの重労働。1日に何回登り降りするのだろうか。

午後1時半ごろアグアスカリエンテ戻り、「愛子」で食事。

また、ユースホステルに宿泊。朝食はtax,サービスチャージ込みで65inti=1.1㌦=143円

朝食の内容は日記には記載されていないということは取り立てて何もないと云うことだろう。

またまた汚い温泉へ。

11月15日 日曜日

6時20発の汽車で Ollantaytambo (オジャンタイタンボ、またはオリャンタイタンボ)へ。

入場料金70inti=1.2㌦=156円

ここはその名の通り「高いところから見下ろすことのできる宿泊所」だったようでプリンセスの浴場

と云われる場所も見どころの一つです。また、要塞としての働きもあったようで侵略者のスペイン軍に追われたインカの皇帝マンコ・インカが戦った場所でもあるようです。

ピラミッドのような石段を登っていくと神殿がありますがここの巨石群には度肝を抜かれます。

高さ4m、幅10m 重さは90トン近くあると云われ、一体どうやってここまで運ばれたのだろうと不思議の一つです。6つの石が綺麗につなぎ合わされていますが、石垣も含め石と石の間に隙間がないのもすごい技術です。

ここは水も豊富で町のトイレは水洗でした。

ここから聖なる谷Urubamba(ウルバンバ)遺跡、→Pisaq(ピサック)遺跡。日曜市で市場を散策&買い物。

マイクロバスで15inti=0.2㌦=26円

→クスコまで乗り合いのトラックで10inti=0.1=13円

 降りてからセントロまでかなり歩いた。ホテルは3人で70inti=1.2 ㌦=156円

11月16日 月曜日

 朝から下痢。ツーリストインフォメーションへ行き次の目的地までのチェック。

 食事をして「白雪」でお茶。午後、洗濯をして昼寝。 一人部屋に移動。100inti=1.7㌦=220

 

1117日 火曜日

 PUNO(プーノ)までの切符を買いに駅へ。 1等 157inti=2.6 ㌦=338

 その足で郵便局に行き、ハガキ 1枚5inti=0.087㌦=11円 日本まで8inti=0.14㌦=18

 夜買い物。カーディガン300inti=5.15㌦=670円 ショール2 50inti=0.85㌦=111

1118日 水曜日

 プーノは標高3827m 富士山より高い。こんなところに町があり、湖がある。

 830am発→プーノ着830pm ホテルアレキーパ 75inti=1.3㌦=167

 食事ホテルインターナショナル チチカカ湖名物 ツルーチャ(鱒マス)料理 38inti=0.65­85円 

紅茶 7inti=0.12㌦=15

 食事をしていると日本人の団体がやって来てびっくり!!食事をさっさと済ませ立ち去った後に一人

 綺麗な女性が残っており声をかけた。日本人かと思って日本語で声をかけたが同行の二人が、「日本人じゃないよ」「えっよく見ると現地の人だ」あらためて声をかけて一緒に食事をしないかと声をかけた。

 名前はグラディス。会社の出張で来ていた。夜のデートもしたかも。

ニューヨークに戻ってからも何回か手紙のやり取りはした。

1119日 木曜日 

 町を散歩  夜仕事終わりのグラディスと会う。

1120日 金曜日

バス代 300inti=5.1㌦=670円 島巡り;300inti 

Titicaca湖 琵琶湖の約12.5倍 60%ペルー領、40%ボリビア領

 朝、雨だ。

 トトラ葦(あし)で作られたウロス(Uros)島へ。刈り取った葦を何束にも重ねてつなぎ合わせて作られているが上陸すると足元がブヨブヨとおぼつかなく上手く歩けない。船も束ねて作られているが水が浸水しないようしっかりと作られている。 よくこんなところに家を建てられるものだと驚く。

彼ら部族はみんなで協力して家を、というか地面を作り上げるのだが50近い数はあるだろう。

2000人近い人たちが住んでるようだ。子供たちは狭いながらもサッカーをしていた。

サッカーボールとよく似た模様の豚を見て皆で笑った。

 その後タキーレ(Taquile)島へ。ここはケチュア族の島だ。彼らは既婚・未婚で服装が違うがこの

織物技術も含めた世界無形文化遺産なのだ。

600段の階段をひーこら云いながら登るとチチカカ湖の絶景が広がる。

この会談を水を汲みに毎日上り下りするらしいが、女性の足取りが頭に水桶を乗せても俺より早い。

私が訪れた時はもう居なかったがマシマと云う日本人が住んでおり先生をしていたようだ。

地元民に「じゃ次は俺がここの先生に」と軽く云ったら真剣にせまって来て断るのに大変だった。

ここも何を食べたか記録にないがたぶん「鱒料理」しかない筈なので記録にないのだろう。

50inti=0.85=110

夜は同じ場所(ホテルインターナショナル)で食事。そして、デート。

1121日 土曜日

 朝から雨。800バスでラパスへ向かう

 


 バックパッカー 1987年 想い出日記

2017-09-17 15:23:50 | 日記

10月31日(土曜日)      第17話

10時頃リマ着。途中で出会ったコロンビア人のオルガとジュリーの3人でまずは宿探し。

宿を決めて二人で280inti($4.8=¥670)、次は銀行(両替ができる所)が開いてないか探す。 

旧市街地セントロ(マヨール広場)は大統領府があるところだがあまり綺麗ではない。

そのすぐ近くにある日本食の「ダルマ」看板を見て入った。

泊まっている場所を話すと親父が途端に不機嫌になった。

決して悪い人ではない。むしろいい人なのだ。酒癖が悪い以外は。

つまり自分の経営しているペンション西海に泊まってないからだ。

わかりやすい親父だ。

(当時は若かったが酒のせいで老けて見えた)奥さんは確か日系人だったと記憶している。

 

11月1日(日曜日)

朝10時にダルマの前で親父と待ち合わせて、Jiron Tarataにあるペンション西海へ

宿泊料金5ドル 高い!!

因みに、だいたい食事が70inti($1.2=¥160) 

牧田、後藤両氏と再会。何故宿を変えたのかと云うとこれからの旅の情報を得るためだ。

しかし、行ってみてびっくり!!

部屋が汚いだけでなく、とんでもない危険地帯なのだ。

夜帰宅するとき、タクシーを拾うのだが、行き先を告げると料金を倍にすると言っても99.99%断られる

始末。

仕方なく、近くの場所を言ってスタートさせ、途中でもう少し先までとお願いするやり方もした。

タクシーを降りるとペンションの中に入るまでタクシーの運転手が見ていてくれることもあった。

とにかくどこに行ってもまずタクシードライバーにセントロまでと云うとすぐOK。

その先のヒロンタラタまで行ってもらうのは至難の業。セントロに着いてから交渉だった。

そうそう、ヒロンタラタには「泥棒市」があった。

家や街で盗られたものがあればそこに行けばあるというのだ。

片方だけのサンダルや靴もあった。(一人では行けない場所)

私の田舎では狐が民家に下りて来て、なんでも銜えて巣に戻るので、無くなるとよく山に探しに行ったりしたことを思い出したがキツネの方が安全だ。

夜はペンションで食事。

しかし、のちこの宿に変えたことを後悔する。

当時ペルー自体が不衛生。まずは水不足でトイレは詰まったまま。使用した紙は流せないのでゴミ箱へ。

その捨てたごみを浮浪者(乞食)が漁るため散らかし放題。

半端ない臭いだ。吐き気、吐き気、吐き気。

ダルマのトイレも詰まった上に用を足すものだからどうしょうもない。

キッチンの洗い物を手伝ったらここも水不足で食器などを洗った水を捨てないでそのまま、次のを洗うのだからたまらない、どうしようもない。これを見たらもうこの辺りでは食事はできない。

ある日の夜、ペンション西海で食事を皆で作った際、油が腐っておりそれで天婦羅を揚げたため一人を除いて食べた全員が下痢を起こした。

因みにその一人とは牧田さんです。「俺は腐ってると思ったからね」だってさ!?。「言わんかよ!!」

腐った油は胃腸には強烈だ!!!

せっかく調子を取り戻したのにここに来て再び下痢生活に戻った。

11月2日(月曜日)

午前中、教えてもらったサウナへ行く。腰痛気味なのでマッサージを受ける。

午後はオルガと街をブラブラ。

夜は「だるま」で食事。すき焼き、刺身、豚汁。 よくあんな所で食べたと思う。

大原氏と再会。

11月3日(火曜日)

「風呂屋」がやってなく、仕方なしにペンションでシャワー。

午後、日本人会館(日秘文化会館)へ観光に出かけた。

場所はヘスス・マリア区で確か日本大使館に近かったと記憶している。

この辺りは芝生にスプリンクラーが回り、青々している。水不足は何処へ!!

貧富の差はアリアリというところだろう。

ここには日本食レストランがあり、うどん25インティ($0.4=¥55)、饅頭一個5インティ

ペルー日本人移住資料館もあるが、外国人1㌦と書いてあったので、「えっ、どうしようか?」

「一応の歴史は知ってるしね」と、4人の意見が一致し、入らなかった。

その代わりミラフローレスにある天野芳太郎氏が私財をなげうって収集した「天野プレコロンビアン織物博物館」に行くことにした。ここは入場料無料。その代わりわずかでも寄付をお願いしますとのことで、我々貧乏なバックパッカーだけれど、それなりの気持ちを払うことにした。

(因みに移民資料館の10倍は出しました)

ここは見どころ満載です。すばらしい!!

11月4日(水曜日)

リマを出発してPISCO(ピスコ)へ。バス料金 71 inti($1.2=¥160)。牧田、後藤、オルガ同行。 

予定変更してナスカに向かった。バス料金 計135 inti($5.4=¥730)

ホテルナスカに宿泊。 

明日の地上絵見学の飛行機(セスナ)代は交渉の末、宿泊費込みで1250 inti($21.5=¥2900)。

観光飛行は午前中しか飛ばない。風のせいだという。見応えあるね。「圧巻」の一言だ。

操縦士は右に見える場合はまず右の人が見えるように飛び、旋回して左側の席にいる人が見えるように飛んでくれた。

飛行機に乗らなくても10メートルに満たない見張り台のようなものがありそこに登って一つくらいの絵が見える。地上を歩くとただの石ころの溝があるしかわからない。不思議だね。

因みに、紀元前200年~紀元後800年ごろ描かれたようだ。

地上絵の最大はペリカン(サギもしくはフラミンゴ)と推測された285mの絵

クモ‐46m、猿‐55m、シャチ‐65m、ハチドリ‐96m、コンドル‐135m、イグアナ‐180m

山形大学が2011年(2)、2013年(2)、2015年(24)と新たな地上絵を次々と発見したと発表した。

ナスカ以外の場所、ピスコでも地上絵を見たことがある。

一体いくつあるのだろう。

11月5日 木曜日

ナスカからピスコへ戻った。ここは貧乏人のガラパゴスと勝手に呼ばせてもらった島めぐりがある。

ガラパゴスはあまりに高く、これからの旅を考えるととても行けません。

だから200インティ($3.4=¥460)で行けるここを選んだのです。

ここも風の影響で午前中しか出ない島めぐりも、我々の時は波は結構荒く小さな船は小躍りしながら進む、アシカ(オットセイ)が船の周りをたくさん泳いでいし、

岩の上にはいろんな動物が所狭しと群がっている、ウム、まさにガラパゴスか!?

行った者に云わすと「トンでもない、比較にならない」と云われたがね。

ここで一泊 40インティ。亀料理を食べた。料理人が悪いのか「まずい!!」

11月6日(金曜日)~11月10日(火曜日)

再び、ペンション西海へ。取り立てて何もない西海での生活が始まる。

これからの旅の予定を一応立て、ボリビア大使館、ウルグアイ大使館、パラグアイ大使館

に出かけた。日本大使館はパスポートの余白が無くなったので増刷。160 inti($2.7=¥365)

大使館のある地域は富裕層が住む場所なので綺麗。日秘会館が近いのでそこで食事。

下痢がなかなか収まらないので大抵用が終わるとすぐ宿に帰った。

でもソカロで出会ったペルー人の女性は当時学生で10代。

とても親切で、気が利いており大使館巡りも難なく済ますことができた。

この女性はその後20年近く経ってから日本に出稼ぎに来て名古屋で再会したが「マサカ」の出来事だった。

Mikey Tourでクスコ行きのチケット1068.20 inti($18.4=¥2484)とマナウス(ブラジル)→カラカス(ヴェネズエラ)→N.Y

33942.77 inti($585.2=¥79.000)のチケット購入した。たぶんここが当時一番安かったのだろう。

$450とcheck160㌦両替。

リマからバスでクスコは安くて、ゆっくり登っていくので高山病になりにくいからいいと云う話もあったが、問題はゲリラが出没すると云われていたことだ。実際、バスで行った日本人はゲリラ遭遇したが、無事クスコ(cusco)にたどり着いた。


エクアドル入国 30年前の旅日記

2017-08-20 15:41:53 | 日記

Republica del Ecuador 入国 漢字では厄瓜多 (エクアドルは赤道の意味)   第16話

ガラパゴス諸島が有名

ここからまた、コレクティーボに乗り国境の町ツルカン(Tulcan)からバスターミナルまで150スクレ(ECS)

キトまで400スクレ=$1.6=¥208

インピアレスで5ドル、キトで20ドル両替した。

 現在はパナマ、エルサルバドルに次いでの米ドルを使用している。

私の時代は「スクレ」で1ドル=245スクレ 円が130円くらいだった。

(もう一度言いますが当時私はアメリカに住んでおり、当然ながらドル生活でしたのであくまでドル対円の換算です)

ここバスターミナルで首都キト(Quito)行きのバスに乗り換えだ。

超満員のバスは峠あたりで何かのトラブルで動かなくなった。満員にならないと出発しないので当然次のバスも超満員。

次に来バスも超満員、仕方なく次のを待つ。

兵士だという若い男が話しかけてきた。「チノ(中国人)?」「No ハポネス(日本人)だ」

「心配するな、次のバスには絶対俺が乗せてやる」次のバスも満員だったが彼はバックパックごと無理やり後ろから押し込んで乗せてくれた。超満員のバスは横揺れをしながらようやく、その昔インカ帝国第二の都市だった首都キトに到着した。町中に入り、途中バスの混雑もだいぶ解消されたころ物売りから、うまいからこれをしゃぶれとトウモロコシの枝を買ってくれた。この味は私が子供のころ田舎で味わった味だ。なんだか活力が少し湧いてきた。キトのバスターミナルに着くと彼は忙しく帰って行った。到着はかなり遅れて4時半ごろ着いた。

9時に国境だったので約7時間半かかってキトに着いたわけだが、彼のおかげでこの時間に着けたのはラッキーというしかない。

ここから彼のアドバイス通りタクシーでホテルへ。 160スクレ=0.6ドル=78円

さて、ホテルは「グランカジノ」

ここのホテルでビール‐100スクレ、茹で卵-20スクレ、食事-300スクレ、たばこ1本-10スクレ

とにかく疲れたのでこの日はすぐ寝た。

10月28日(水曜日)

観光しようと街に出たがデモでほとんどの店が閉まっている。

大統領府まで歩いて、写真を撮っていると兵隊がやって来て拘束され、隊長らしき男の所へ連れて行かれた。

「お前ここで何してる? パスポート見せろ」「写真撮っただろう」「撮ってませんよ」「カメラ見せろ」「撮ってませんよ」「よし、じゃあここで写真撮るな」「この辺りから出ろ」もう十分に写真は撮ったので即刻退散した。

旧市街地へ戻ると、街は騒然としていた。警察車両から市民に向けて容赦ない放水、赤ちゃんを抱いた女性にも容赦ない。加えて催涙ガス。仕方なくデパート(スーパー)に逃げ込むとすかさず店員がシャッターを下ろした。それでも中は少しガスが残っている。俺も含めてみんな目を真っ赤にして泣いている。

治まった頃合いを見て店員がシャッターを開けたら、まったく人通りがなく、雨は降ってくるしホテルに帰るしかない。

 ハーフチキンとコークで350スクレ=$1.4=¥182 両替20㌦ 1㌦=255スクレ

10月29日(木曜日)

赤道記念碑(La Mitad del Mundo)へ出かける。

バスでだいたい30分、バス代 行25スクレ、帰り35スクレ

バスを待っていると英国人のドクターと意気投合

記念碑辺りをブラブラ。正確な場所はかなりずれているが彼らエクアドル人は気にしない。

最近は正確な場所にはその印と博物館があるようです。

赤道直下では因みに釘の上に卵が立ちますよ。

そして赤道直下では水は直下に流れ、北半球では左周り(左巻きに渦)、南半球では右巻の渦ができます。

日記には「とにかく暑い」と書いてあります。

キトに戻り、郵便局でハガキを買っていたら突然の大雨。ずぶぬれのまま乾かす。

乾いたころに約束をしていた彼(イギリス人)と早い夕食を取った。

ホテルに戻り絵葉書を書く。日本まで50スクレ=$0.1=¥13。

夜6時にバスでペルーの首都リマに向けて出発。途中メキシコ人と一緒。

10月30日(金曜日)

国境に早朝6時半着。朝食後出国手続きを済ませた。のんびりした話だ。

ペルー人2人、メキシコ人、そして俺の4人でペルーの入国手続きに向かうがその途中会ったイギリス人の女性Julieが不安げに歩いている。話を聞くと彼女がエクアドルの出国手続きをしていないことが判明。

二人で戻った。

出国手続きを済ませてすぐイミグレ(移民局の通称)の前からバスに乗りリマへ。

 


コロンビア領サンアンドレス島からコロンビア本土へ

2017-07-17 11:18:21 | 日記

Isla de San Andres 人口は約4万人 面積は約26㎢ カリブ海にある島でコロンビア領            第15話
10月13日 火曜日
朝、銀行へ。 80ドル両替 $1=254.84ペソ
旅行会社サムで次の予定地、コロンビア本土に行くための予約に行ったがチケットのことでもめる。
グアテマラでコロンビアまでのチケットを買い、サンアンドレス島に寄ってもチケットは有効とのことだったが窓口に出すとこれはダメと受け付けてくれない。押し問答の末、マネジャーと話がしたいと言うと、マネジャーは今外出しています、2時間後くらいに来てと言われたので近くで朝食。
180ペソ=90円くらいで、昼も夕食もそこで取ったが300ペソ=約160円でボリュウムあるし美味しい。再びSAMに行くと受付の女性が奥のマネジャー室に案内してくれた。中には数人の強面がソフアーに座ってタバコを吸っていた。そして、全員一斉に私に目を向けた。いきなり東洋人が入って来たので何事かと思ったのだろう。
マネジャーが「何の用だ?」とドスの効いた声で問う。
説明半ばで「OK、OK、で、コロンビアのどこに行きたい?」と聞いたのでとっさに一番はずれの、つまりエクワドルに近い街「カリまで」と云ったらチケットにカリと書いてマネジャーがサインしてくれた。
この話は同じチケットを持っている人たちがたくさんいるので、この方法が一番だと教えたが誰もクレイム付けず案の定受付で突っ返され、新たにコロンビアまでのチケットを買ったとのことだった。
午後、少し泳いだが強風で参ったが、洗濯をしたら水が汚くこれにはもっと参った。

10月14日 水曜日
昨夜、呑み過ぎたたのかすこぶる調子が悪い。昼食後、島へ渡る。たぶんJohnny kayだったと思う。
とても綺麗でさすがにカリブ海という感じだった。ボート往復350ペソ=$1.4=¥180
夕方戻り、夕食、シャワー。ここで牧田、後藤両氏と再会。
この日はコロンビア本土に向かう予定だったので皆で見送りに来てくれた。
ホテルから空港まで歩いて10分くらいだろうか。
チェックインをしようと搭乗カウンターに行くと「お前のチケットは使えない」またこれかよ、と思いながら、「ここにあなたの会社のマネジャーがOKのサインしてあるでしょう?」指し示すと不本意な顔をしながら搭乗券をくれた。
飛行機に乗り込んでエンジンが起動、出力が途中腰砕けでゴ~ヲンヲンから止まってしまった。
そしてしばらくして飛行機から降ろされたが空港内は閉まっており、トイレなし。男も女も仕方なく隅の方で用を済ませていた。
9時半出発が二時間遅れで11時半離陸。カリへは深夜の1時半着。どうすることもできない。

10月15日 正式名 Santiago de Cali に到着 コロンビアの3番目に大きい街
カリ市内近くのバスターミナルまで行くバスが6時頃ようやく出るとのことで安堵。
結局空港で約4時間半過ごした。
ターミナルに着いてポパヤン行きのバスを探すと今日は出ないとのこと。
「えっ!?いつ出る?」「わからない、マフィアが封鎖しているから彼らに聞いてくれ」。
仕方なくターミナル近く、川を渡ってすぐの角の宿にした。
宿帳に誰か知ってる者いないかと見ていたらソトコロの文字が。彼も一人でこんなところに来てたのかと
なんだか嬉しくなった。
一泊 350ペソ(コンバーニョ=シャワー付きの部屋)
バックパックを置いて街をブラブラ、ここは治安が悪いとのことで気を抜けない。
せっかく来たからメデジンや首都のボゴタにも行こうかと考えたが、いずれにしろ治安の悪い国だからと早々に走り抜けることにした。

10月16日 金曜日 バスターミナルへ行き「今日はどう?」「出るよ」
 ポパヤンの予定を変更してパストへ。途中運転手が助手に交代したがコワイ、コワイ、コワイ。
パスト(Pasto)のホテル ニューヨーク 名前はいいが暗い。 
一泊 350ペソだがシンバーニョ(部屋にシャワーが付いていない)。

10月17日 土曜日 
国境の町イピアレスからエクアドルに抜けようと乗り合いタクシー(コレクティーボ)で国境へ。
コロンビアを出国しエクアドル側の入国審査で止められた。
「ビザは?」「えっ、ビザなんて聞いてないよ」「じゃコロンビアに帰れ」お金を渡して通してもらおうとしたがダメ。後でわかったことだが、一か月前に日本と取り決めたとか。旅の途中で知る由もない!!
結局土曜日で早くに国境は閉められてしまった。
仕方なくコロンビア側の国境に戻ってきたがイミグレーションで「一度出国しているのにお前は何しに戻った」と聞かれビザがないから返されたと言うと「OKわかった」「このパスポートに押されている出国のスタンプどうする?」尋ねると「ナダプロブレマ(問題ない)とジェスチャーで早く行ってと促され、そこから追い出されてしまった。週末で面倒くさいのだろう。国境からイピアレスの街に戻ろうとコレクティーボに乗るとそこに家族連れが乗り込んできた。
母親と18歳くらいだろうか(とにかく20歳前だ)女性に12歳くらいの双子の女の子の4名。
18歳くらいの娘(確か名前はANA)が時間を聞いてきた。腕を見ると時計をしていないことに気づいた。ポケットから腕時計を取り出すとその彼女がベルトを留めてくれた。「えっえっえっ!?」
イピアレスに着き、さて、これからどうしょうかと考えていたら、その家族が、私たちはこれから親戚の家に行くが一緒に行かないかと誘ってくれた。何も予定ないし、いい人そうだったので付いていった。
まったくの普通の家で彼らも私を暖かく迎え入れてくれた。居間に通されひとりになった。
しばらくしてアナが飲み物を持ってきてくれた。ソフアーから立ち上がり飲み物を受け取ると、彼女がいきなり信じられない言葉を吐いた。「ねぇ、キスして」もうドギマギですよ。身長165センチくらいでスタイル抜群。なんせめちゃくちゃ綺麗な娘なんですから。勿論、断る理由はありません。
終わると彼女はニコッと微笑んで家族のいるところに戻って行った。
イピアレスの街に戻ると、その家族は「我々はパストの住んでいます。一緒に行きませんか?」
とまたまた誘われた。ここがバックパッカーの融通の利くところで、たぶん大丈夫だろうと一緒に行くことにした。パスト行きのバスに乗ると人と荷物で超満員。網棚も床も荷物だらけだ。出発してからしばらくして警察の検問。バスの運転手が皆から預かった賄賂を渡すのが見えた。私と一緒にいた家族がバスを降りて検問の一番偉そうな警察官と話をしている。戻ってくるとアナが「あの人は私のお父さんです」また、」びっくりです。再びバスは出発して、しばらくすると隣に座っているアナが(前の席は双子とお母さん)
「ねぇ、もう一度キスして」「大丈夫、誰も見てないよ」「ううう、ええい、ままよ」
しばらくすると、また検問所があり、今度は運転手の賄賂も効かず、俺以外全員荷物を持って降ろされた。
誰も居なくなった車内の網棚にはツナ缶が山盛り、床や座席をはがすとそこからもツナ缶。なんだこのツナ缶は。これこそ缶詰状態ですよ。勿論他にもいろんな物、物、物で溢れています。一人か二人はバスに戻って来たが他は置き去りにしてパストに着いた。
アナの家族がでっかいスズナリのバナナの木を持っていたのを思い出し、運転手に後部を開けてもらい確保した。1m以上もある木なので歩くのが大変。(たぶん、バノノと云って炒めるか焼いて食べるバナナだったと思う)。とりあえずホテルを探した。
ホテル Real 350ペソ、シンバーニョ。非常にうるさい、明日は場所を変えよう。
シャワーを済ませて、とにかくバノノを届けようと聞いていたアナの家(AREVALO家)をタクシーに乗って探した。ほどなく見つかり、明かりが点いているのでノックすると中から出てきたのがこれまた、アナと同じ背丈でちょっとタイプの違う美人。後に友人たちに二人の写真を見せたら本当に美人で驚いていた。
名前はソニア。ドアを開けたら東洋人が立っていたので一瞬たじろいで「何でしょう?」怪訝そうな顔で見ている。ドアが少し閉じられ彼女は半身で俺を見ている。
これまでのいきさつを説明するとどうぞお入りくださいと云われたが明日また来ますとその日はホテルに戻った。
10月18日 日曜日
必ず来てくれと言っていたので、アナの家に遊びに行く。
日曜日で家族が皆いた。お母さん、二人の若者(18歳、16歳)、ソニア、アナ、双子。
そして、ソニアの子供とアナの子供、総勢9人。ここに3人の子持ちの女性がいるが誰も親父がいない。
一日中近所の子供も含めて大勢で遊んだ。 家の前には大きな広場があり、そこにAREVALO家の鶏が足を、1メートルくらいの紐で結び杭につないで遊ばせている(?)なんだかなぁ~、よくわからない。
この日から9日間彼女らの家に入りびたりになった。
ホテルを銀行の裏に変わる。
Residencia Suizo コンバーニョ 500ペソ=$2=約260円
10月19日 月曜日
洗濯ものを持って来てと云われたので、また朝から出かけた。
洗濯をしようとすると、「これは男の仕事ではない」と強引に奪って洗ってくれた。
しかし、干すのは屋根なので梯子をかけて登り、屋根に並べるのが俺の仕事だった。
洗濯ものを持って帰宅。夜12時半 毎日のように泊まれと云われるがいつも振り切ってタクシーを呼んでもらって帰宅する。
10月20日~26日 
今日は子供たちが食べそうな物を買いアレバロ家へ。
この家は何をして食べているのかわからない。たぶん別れた夫たちからお金をもらっているのだろう。
内職で人形を作っているのしか見ていないし、いつも家にいる。
夜は若い4人は学校で、ある時迎えに来てと言われて行くと、まず先生に紹介され少しおしゃべり、帰り道はルームメイトたちに紹介され珍しい東洋人は大もてだった。ラテン系は女性も積極的だからね。
日本はどこにあるのかと云う話になって誰かが世界地図の書かれた下敷きを取り出した。
「えっ、日本がない」なんだこりゃ。そこでわざと「日本どこ?」って聞くと「ここ」「違う」「じゃぁ、ここ」と指さすがもうでたらめだ。そりゃそうだ。地図に書かれていないのだから。
「ここに書かれていないよ」「えっ!?」誰も信用しない。なんだかなぁ~
パストでは映画も観た。非常にくだらないが、まさに暇つぶし。イスは最悪。なんて表現したらいいんだろう。とにかくひどい。
あるとき、夕食中に停電になったが、電気が点いて驚いた。客10人ほど一気に入って来たらしく満杯。
なんだかなぁ~。よくわからない。
アレバロ家で面白いのは親戚や友達がたくさんやってくるのだが、必ず聞かれる質問は(近所の彼女らの友人たちにも聞かれた)「ソニアかアナのどちらが好きなのか」はたまた「どちらと結婚するのか」だった。
一体何人に聞かれただろう。たぶん30人は超えるだろう。
彼女たちは結構綺麗好きで掃除もまめに行っている。必ず音楽をかけて踊りながらやるのだ。
或る時、俺のジーンズが破れ両脚の膝が見えてると恥ずかしいから脱ぎなさいと迫ってくるが、ファッションだと言っても受け入れられず結局抵抗むなしく脱がされて繕ってくれたし、またある時は髪が長いと言って「カットしましょう」と勝手に決め、「いいえ結構です」と断ると必ず「フエオ(汚い)」と云って土間のイスに座らされて散髪されてしまった。
しかも洗髪付きだ。
最も面白いのは、部屋が3部屋あり玄関に一番近い部屋がお母さんと双子が寝る部屋、次がソニアとアナとその子供たちが寝る部屋、その次の台所とシャワーに近い部屋が二人の若者の寝室だった。
居間はお母さんの部屋の反対側で結構広い。なんせ人が集まるとサルサが始まる。
その一番奥の台所も結構広く真ん中が吹き抜けでそこから梯子をかけて屋根に上り干し物をする。
さて、その台所でソニアと一緒になると必ず「キスして」、アナと一緒になると「キスして」迫られ、キスしていると双子のどちらかがやってきて、お母さんたちに告げ口。「ねえねえ、ソニアがキスしてるよ、アナがキスしてるよ」と大声で知らせに行くのでキスしている二人も思わず笑ってしまうのだっだ。
ソニアもアナも全く気にしていない。
さて、さて、こんなところで埋もれてはとビザを取りに国境の街イピアレスのエクアドル大使館に行かなくてはと何気なく話すと、なんとこのパストにも大使館があった。午前中行ったが大使がいないので午後来てくれと云われ再度行くと大使が陽気に迎えてくれた。しかも流暢な日本語で。旅の話や彼が東京の大使館に居たころの話をひとしきりした後、「エクアドルでは何をしますか?ビザは何日ほしいですか?」俺「通過するのに何日くらい必要ですか?」そうするとまた、ひとしきりエクアドルの話をしくれた後、「ゆっくり楽しんでってください」とパスポートに20日と書いてくれた。「これくらいでいいですか?」そして、料金は通過ビザの5ドルくらいだった。飛行機でエクアドルに入国した人たちは問答無用で20ドル以上徴収されたと言っていた。

10月27日 火曜日
6時半に目が覚めてしまった。AREVALO家に別れの挨拶は昨日済ませたので、ゆっくりと荷物をまとめて
国境に9時。コロンビアの国境でパスポートを見せると、「お前は1週間以上前に出国してるではないか」と案の定止められた。訳を話すとあっさり通過、今度はエクアドルの国境でまた、同じ質問、同じ説明をすると驚いたことに、コロンビアの税関が書いた出国の日に✖をし、27日と書いて簡単に入国が認められた。


バックパッカー 日記 30年前の想い出

2016-12-04 17:07:22 | 日記

9月23日(水曜日)13時発で14時:15分着 予定通りだ。            第14話

バスで市内まで乗ったが結構高かった。2ドルくらいだったかな?
Trismo(案内所)でホテルを探す。
紹介されたのが日本人経営のPencion Central 300コロン($4.74)、洗濯無料
これまでで一番高い部屋代かも知れない。    両替 $60-$1=63.35コロン

9月24日
朝食後、米国、ニュージャージー州エッジウォーターにもあったのでだいたいの内容はわかっていたが、
ぶらりと「ヤオハン」に出かけた。首都サンホセの郊外にある日本人経営のスーパーだ。(1979年創業)
閑話休題;
1988年創業で一時、対岸のニューヨークのマンハッタンから買い物客へのバスサービスがあり、当時、1週間に35000人とかなりの人達で賑わっていたが、あそこに行くと子供が誘拐されるから危険だと云うのだ。
きっと、面白くない人たち、つまりマンハッタンやスカースデール、ニュージャージーとこれまで在った日本食関係の店(当時韓国系の店にも日本食が置いてあった)が流した噂だろう。
リムジン(あの車体の長い9名くらい乗れる車です)のバイトをしていた時、ある有名な企業の社長のお母さんが(日系ブラジル人)ブラジルから来ており、その日は「雪」、雪が珍しいので雪のマンハッタンを観たいとリムジンをオーダー、一通り観光が終わったら、ヤオハンへ行ってくれと言われたくさんの買い物をしました。またある時は、あの「トランプタワー」に住む日本人からオーダーがありリムジンでヤオハンまで行ったこともありました。
それからあっという間にミツワ・コーポレーションに譲渡されたようです。

さて、そこでブラブラしてたら店長に呼び止められ、しばし談話。拓大に留学していたとのことで結構話が盛り上がりました。
これと言って特に必要な物はありませんでしたが、垢こすり用のタオルを購入。しかし宿に置き忘れ、次にそのホテルに来た牧田ことボラッチョマッキーがわざわざキープしてくれ、次に出会ったところまで持ってきてもらいましたが、次は忘れないようにと「何年何組と私の名前」が勝手に書かれていました。
午後はSan Joseの街をぶらぶら散策。
昼食はヤオハンで「spaghettiコンポヨ」。つまりスパゲッティにチキンが入ってるはずなんですが「えっえっえ!?」最後まで出てきませんでした。
味はかなりしつこく閉口した。
夕食はホテルで従業員ミゲルの分も作った。
夜、次の予定地パナマの友人に電話。700コロン=$11 ひゃ~
2日で60ドル飛んだ。高い街だ。

9月25日
朝食後パナマ大使館へ。 航空券が必要とのことでホテルに戻り、再トライ。 VIZA料金10ドル
午後は「TIKA」バスへ予約に出かけた。₡2592=$40=¥5.216
夜はカレー。まずかったね。

9月26日(土曜日)
朝公園を散歩中Feliと云う名の女性と出会った。
一緒に叔母さんなのか伯母さんなのかは忘れたがカルタゴ(CARTAGO)へ出かけた。
ここはSan Joseの前の首都だがさほど見所のある街ではない。
叔母(伯母)さんの家で昼食をごちそうになり、彼女の案内でロス・アンヘルス聖堂、カルタゴ市立博物館タパンティ国立公園、イラス火山 3432M(volcan irazu)、など行ったが残念ながら感嘆するほどではなかった。
イラス火山はバスで約2時間、彼女は自分が写されるのはいいが写してくれと頼むと何故かカタクナニ断った。意味がよくわかりません。
もう一つ、ツゥリアルバ(turrialba)火山,3328M と云う活火山がありますが2016年5月,過去150年で最大規模と言われる大噴火が」ありました。
夕方にサンホセに戻り、彼女と別れて夕食。フライドチキン2個で₡162=$2.6=¥332

9月27日
近隣に出かけた。場所は不明。往復で₡150=$2.4=¥310
途中の町で夕食アロスフリト(焼き飯)₡160=$2.5
これまでの国から比べたらなんでも高い。

9月28日(月曜日)
パナマへ出発。Tica Bus 10時発が中米で初めて3分前に発車。遅れて出発するのは当たり前の中南米諸国で遅れも困るけれど、早く出発するのもこれはこれで問題だよね。
国境で不審物の検査。
日本のパスポートは此処で威力をもお発揮。パナマ側でも赤い色を見ただけでOK。

9月29日
予定通り午前3時到着(現地時間4時)
あまりに早朝で周りは真っ暗、下車した客たちはそれぞれいなくなり不気味な静けさの中、俺一人たたずむ。治
安があまり良くないと聞いていたのでどんな小さな音にも反応し、緊張の連続だ。
知人のViedmaさんに迎えに来てもらい、そのまま訳も分からず、選挙の応援。しかし、誰の何のための選挙かもわからずに一日つき合わされた。
帰宅は夜8時少し前。彼女は大学の教授で8時からの大学院(マスターコース)の授業に一緒に行った。
学校に着くなり広い駐車場を見渡して、「私の車より悪い車ある?」と笑っていた。この大学は〝坊ちゃんお嬢さん学校″のとのこと。
途中で教室を抜け出して学内を散策。授業は11時終了。
ようやく帰宅。彼女にとっても俺にとっても長い、長い一日だった。
シャワーが心地よく身に染みた。そして、あっという間に眠りについた。

9月30日
彼女は朝から学校へ。
彼女の親類と云う若者が来て、俺を案内してくれるとのこと。ほどなく現れ観光に出発。
午後2時ごろ帰宅。雨だ。
ハンバーガー、フレンチフライ、コーク $2.45 バス20¢
トラベラーズチェックをドルに換えたら1枚につき10¢手数料、ハガキ1枚16¢+tax08
(この国はアメリカ支配なので米ドル使用)
しばらく彼女の子供と遊んで居間で絵葉書を書いている。
この子はとてつもなく利発な子だったが今どうしてるかな。

10月1日(木曜日)
きょうは一人でパナマ運河(Canal de Panama)見学。
ご存知ない方のために、一応書きます。
太平洋とカリブ海を結ぶ閘門式運河。つまりアメリカ大陸の東海岸と西海岸を海運できる。
規模は全長80キロ 1914年開通。1999年12月31日正午パナマに返還された。
Viedmaはパナマ運河の頂上にひらめくアメリカ合衆国の旗を指さし、これがパナマの旗に変わった時が我々の勝利だと言っていた。
運河のすぐそばには米軍基地があり以前はパナマの人達は通行出来なかったとのことだった。
沖縄を含め日本にもたくさん米軍基地があると教えると「日本は独立国でしょう、信じられない!!」と驚いていた。
そこからOld Town を回り博物館等を見学。
夕方帰宅し、夜はViedmaと食事、ショー付きで二人で約60ドル。その後クラブとカジノへ行く。
クラブではラテンのダンスができない俺をとても残念がったが盆踊りレベルじゃラテンは無理。

10月2日
彼女とその子供、お手伝いさんにお礼を言って11時発(出たのは11時40分)のコスタリカ行きに乗った。これくらい遅れるのが正常かな。一日中雨。

10月3日
予定より1時間半遅れて6時30分着。
途中コスタリカ側の検問でペルーから来た人たちがかなりしつこくチェックされていた。
女性も男性も別室に呼ばれ衣服を脱がされ靴の中も調べられていた。
サンホセに着くまで荷物検査2回あった。
ホテルAlajuela 272コロン=$4.2=¥560

10月4日 ホテルサンホセ(San Jose)に移動。 ₡300=$4.7=¥615
一日中ブラブラ。そして映画鑑賞。何を観たのか全く覚えていない。

10月5日(月曜日)
朝、Erizabethと云う女性と出会い二人で街をブラブラ。明日会う約束をし、夕方別れて夜はまた映画。
この日も何を観たのか全く覚えていないがアメリカ映画(ハリウッド映画)であることは間違いない。
一階で観たがかなり広い館内に10人もいなかった。40ドル両替。

10月6日
 Puntarenas 10時30分発のバスで1時pm着。
 この市は人口が約10万人。コーヒーの輸出港でもある。
ホテルはダブルで¢(colon)1500=$23=¥2990 エアコン付はメチャ高い。
予定の金額でなかったので銀行へ両替に行ったが40ドルのチェック交換で30分かかった。
客は俺しかいず、理解不能。
到着してからあれこれしている間にあまりに時間が経ってしまい、20分ほど海に行った。
天候もあまり良くなかったが、海は汚い!! 
プール付きのホテルだったがこれまた汚くて泳げない。
高いお金を払ってまで来る所ではないね。 バス料金 一人 ¢90=$1.42=¥185

10月7日
午後San Joseに戻り、ホテルはBoston。夕方、美容室「Toshi」へ顔だし。
食事を済ませ、酒屋でロンを買ってホテルに帰り一人で飲む。

10月8日
エリザベスが約束の時間から2時間遅れて来る。
洗濯をしてくれるというので預けたが(俺が頼んだんじゃないよ)、もう待てないと外に出るとばったり、「何で待てないの」と云う顔をしていた。
あきれるしかない。
ヤオハンへ何の本だったか記憶にないが本を取り替えに行ってだいたい一日が終わる。

10月9日
午前中Museo(博物館)へ行った。 入館料¢20=¢30=40円
地方の博物館といったところかなぁ。
午後、トシへ行って過ごす。
夜は又くだらないアクション映画を観て過ごす。コスタリカに来て4本目だ。
ここの映画館は始まって30分くらい人が入ってくるが、その都度、電気で場所を探すのだが、下からの明かりではなく上から照らすのでマルマル30分は集中出来ない。
そんな光があちこち30分。

10月10日(土曜日)
午前中エリザベスと動物園へブラブラ。午後、福音(Fu Iyon)で食事。なかなか美味しい。
小さいがなかなか感じのいい店で中華料理らしい味だ。
牧田、後藤、外所氏達と公園で再会した。
夕食後、皆で一杯やったがアメリカ以上の料金を取られた。

10月11日 
ベティとうまく連絡取れず面倒くさくなってリモン(Limon)行きを中止。
彼女と昼別れて、ペンションへ行っている3人と会い食事と酒。
両替 $40=¢2634=¥5200 1ドル=65.85コロン 

10月12日(月曜日)
昼食を3人でした。(外所氏は寝ていた)
冷奴と餃子の食べ過ぎが原因なのか、一日中気持ちが悪い。

相変わらずだが俺はコスタリカで何をしていたんだろう???

コロンビア領サンアドレス島(Isla de San Andres)に向かうため空港へ。
空港で佐野、ソノ子両氏とばったり出会う。
彼らもサンアドレス島に行くと云うことで同行した。
空港近くのホテル Restrepo COP(コロンビア ペソ)500=$2=¥260 1ドル=250ペソ
取りあえず近くの店で5ドル両替した。


中南米旅日記  若き日の想い出

2016-08-06 14:44:06 | 日記

8月11日                             第13話
昨日はホテルでひと悶着。
フロントにちょっと用足しに行って、戻ってみると誰かが俺の部屋で荷物を物色している。
ヤワなフランス人ですぐとっ捕まえた。何も取られていないが、ガマ口型の針セットが開けられている。
財布と勘違いしたのだろう。何を言っているのかよくわからない。そのままフロントに連れて行って訳を話して引き渡した。
俺には英語を話さなかったのにフロントに来たら英語に変わった。「この野郎!!」
俺は何もしていないと言い張っている。しかし、俺の部屋に入って物色していた事実は変えられない。
彼は即刻ホテルを追い出された。

翌朝9時ホテルを出てまずは両替。Guatemala Banco(銀行) に行った。
TC$40=Q104=¥5200  $1=Q2.6と変わらず。
Turismo(旅行案内所)にも行きたかったのだがグアテマラ銀行の近くにあり、探す手間が省けてラッキーだ。
オアハカもそうだったがここも英語ができる感じのいいおばちゃんがグアテマラの案内をしてくれたの大いに助かった。
今では当たり前かもしれませんが、当時中南米も英語圏ではないヨーロッパでも案内所で英語ができる人は少なかったのです。
一旦ホテルに戻り洗濯物を出しに行った。靴下3、Tシャツ1、短パン1=Q1.5
その後電話局に行きニューヨークまでを頼んだがなかなかつながらず30分以上経過したのであきらめてキャンセル。 
Rit Hotelの近くで朝食。朝食と言ってももう12時だ。
食後SAM(旅行会社)へSan Andres島(コロンビア領)の料金を聞きに行った。$233 Bogoda(コロンビアの首都)までなら$374
そのあと考古学博物館へ。ここはマヤ文明の石碑を多く展示してあった。
明日の予定を考えた。ここからアンティグア方面へ先に行くとPuerto Barrios(プエルト・バリオス)
や Livingston(リビングストン)にはもう一度グアテマラ市に戻って来なければならず面倒なのでここから行くことにした。
プエルト・バリオスとリビングストンへ 「グアテマラ市から北東へ320㎞。」
プエルト・バリオスまでのチケット代Q8.5=$3.26=¥425
今夜もタイペイでチャイニーズ ビール2本、チャーハン、チキン(骨つきでほとんど肉がなく、何故か玉ねぎがいっぱいだ)Q8.05=$3=¥400 
物乞いが入れ代わり立ち代わりで6人も。ゆっくり食べてられない。 ウエイトレスはとても感じ悪い。当然チップなし!!

8月12日 8時30分発が9:00。 2:30着だがどうなることやら。
バスの中で知り合った女性ドウニャが一緒に泊まることになった。「意気投合!?」???
グアテマラに住んでいるのだがここには親戚の家を訪ねてきたらしい。何故一緒に? わかりません。
このころはまだスペイン語も今3くらいであまり理解できていませんでした。辞書を片手に一生懸命会話です。
 そして、ゴルゴ13のごとく常に緊張と云うか警戒しています。
とにかく、Hotel CANADA Q8.5=$3.27=¥425 取りあえずcoke 75センタボ=38円
またまた、チャイニーズで食事(ここはチャイニーズが作っていない)Q5=$1.9=¥250
このホテルは前にディスコがありうるさくて眠れない。最悪だ!!
カギは開け閉めに来て持って帰る。つまり、部屋を借りた人に渡さないのだ。
1991年当時の中国も同じやり方だった。
Banco CAFÉで両替。$1=Q2.5 
1ヶ月で約$560=¥72.800も使ってしまい、予定オーバー。
まだ南米まで到達していない。少し引き締めなくちゃ。

8月13日 日本はお盆だね。
3時のボートでリビングストンへ行く予定なので街をブラブラ散策。目新しい物何もない。
船着き場へ行くと5時発になっている。6:30着。
船着き場から歩いてすぐのHotel Caribe  何故かドウニャが一緒に行くと言う。
ダブルでQ11.70=$4.68=¥608
食事 ビール3本、チキン唐揚げ(ほんの)少ししかなく2皿注文)、コーラ1本、魚フライ
計Q20=$7.69=¥1.000 高い!! 

翌14日 町を散策。町は狭く、汚く何もない。期待していた海も汚く泳げない。ガッカリ!!
食事をして即退散。食事Q⒕=$5.38=¥700。ボート1人80C=¥40
プエルト・バリオスに戻りまた、ホテル探し。
今度はHotel Barios  2人でQ6.5。 シャワー別だが2部屋続きなのでカギをかけなければ出入り
自由。だから片方の部屋にシャワーがあるのでシャワー付きと同じだ。
公園でバスケットの試合をやっているが楽隊付きでドンチャカ、ドンチャカ。女性だけのチーム
も頑張っている。明日はグアテマラ市に戻ろう。この2つの町は何もないということだけわかった。
今はいろいろ整備され観光地としての役割を果たしているのだろうね。
Banco Caféで両替。$20 1$=2.5Q  洗濯 3Q ちょっと高い。

―グアテマラ市からアンティグア・グアテマラに直行―

8月15日 日本は盆真っ盛り。
グアテマラ市に戻り、すぐ旧首都アンティグア・グアテマラへ。 バス95C=49円
「アンティグア・グアテマラ」
取りあえず寝床探し。ホテル名前忘れた。 Q8=$3.2=¥416 

翌16日 レストランZENへ ここは日本人旅行者(バックパッカー)の溜まり場で、オープンから閉店時間までここに行くと必ず誰かがいた。
情報共有の場所だ。


「驚きの再会」
ニューヨークで一緒に仕事した吉田吉蔵と再会。
レストランに入って行くと草ボウボウの手入れされていない庭に何かをしている髪の毛がバサバサの仙人状態の男がいた。
店の様子を聞こうと声をかけると振り向いた顔にビックリ!! 
こちらも驚いたが、彼もまさか来るとは思ってもいない男が立っていたのでかなり驚いた様子。
1年前に彼がグアテマラに行くと言って、友人たちで送別会をしたのだが、忘れもしない。その日はニューヨークがマイナス20℃ととてつもない寒さの日だった。
二次会に行くのにタクシーがつかまらずその場所に着くまで何軒のバーに寄ったことか。その彼が1年経ったのにまだここにいるとは!?
積もる話もそこそこそこに、荷物を預けてまたまたホテル探しに出かけた。
途中出会った日本人に声をかけると、彼は自分が泊まっているところがいいとそこまで連れってってくれた。「ホテル・パサフェ」。
空き部屋がなく取りあえず彼(文平さん)の好意で相部屋させてもらうことになった。
文平さんは紅茶の会社に居たと云うことで詳しい。安い紅茶を美味く飲む方法を教わったのですがすっかり忘れてしまいました。
でもなるほど、さすがだなぁと感心したことは覚えている。
ここに来て驚嘆したのは「シャワー」だ。ニクロム線むき出しでそこから水が伝わり下りてきてお湯となるシステム。
当初感電するのでは気が気でない状態でシャワーを浴びた。しかも水がお湯になるためにゆっくりと伝わり下りてくるのでチョロチョロ。かなりの時間を要する。
地元民の多くは水シャワーとのこと。日中ならともかく、朝夕は寒くて気合がいる。
夜は勿論、ZENで食事。
このレストランは門構えの立派な入口で結構人気がありいつもたくさんの客で賑わっていた。
客のほとんどが外国から来た観光客で締めていた。私が到着した時はオーナーのユキさんは日本に里帰りをしていて不在だったが住み込みの吉田さんともう一人のグアテマラ人で切り盛りしていた。

閑話休題
当時、ユキさんは独身で結構寂しがり屋。そして優しかった。
遅くなると、と言っても毎日ここで飲んでいるので早く帰る日はまれで深夜なのだが、泊まっていけと云う。勿論我々は皆ホテルがあるのを知ってて誘うのだ。
両替もアンティグアではレートが悪いので皆グアテマラ市まで行くのだが彼は市内のレートで両替をしてくれたのだった。
私がニューヨークに帰った後、何年か経って結婚したという噂を耳にし、驚いたが、その後訃報を聞いた時はもっと驚いた。
信じられず、ともかくも驚きで一杯だった。
人づてに聞いたので亡くなった経緯は定かではなく、ここでは記さない。
残念でならない。 合掌

―アンティグア・グアテマラの生活―
さて、
我々は現地人と違って、水は水道水からは飲めないのでいつも店内に置いてある大きなビンの水を利用していたが、飲みが深まるにつれてどうでもよくなり水道水からロン(ラム酒)の水割りを作ったがこの水のせいでお腹を壊したという話は聞いていない。
私も今のところすっかり治っている。

アンティグアに来てから朝食はZENの隣と云うか真向いのDoña Luisa。(ドニャ・ルイサ)
ウエイトレス達とはすっかり馴染みになり、チップも効いて皆愛想がいい。
その二階からはグアテマラ富士(勝手に我々が呼んでいる)が望む。窓を一面に開けて、まるで絵画だ。正式にはVolcán de Agua
ヴォルカン=火山 アグア=水 アグア山は火山で火口には火口湖があったのでアグア山と呼ばれたが1773年の大地震で崩壊し消滅した。
標高は3,760m。ほら、富士山に近いでしょう!?
しかも火山、富士山と同じ休火山だしね。
1階はいろんな本が置いてありヨーロッパ人であふれかえっているが二階はあまり人が来ない。
ここで半日ウエイトレスのあきれ顔を見ながらハエ取りをしたことがあった。馬鹿だねぇ。
あとは御決まりのZENへ。 本日 $1=Q2.75 $100両替

18日は斎藤さん、カメラマンの竹さん(武さん?)とビリヤード。

19日はZENが休みなのでグアテマラへ買い物というか、気晴らしに出かけた。
バスターミナルがありそこから様々な場所に行くことができるが、満員にならないと出発しないので時間がわからない。
しかも満員なのに途中人が手を上げたらバスを停め、押し込むので身動きできない。
しかし、立って乗せてはいけないらしく途中警察が検問している所では無理やり座らせるので、他人の膝にお構いなしに座ってくるのだからたまらない。
町はずれの検問を過ぎるとまた、詰めれるだけ詰めて山道を登るのだから危険極まりない。
しかもそこから車掌役の男が無理やり後部席の一番奥まで料金を回収に来るのだからもうむちゃくちゃだ。想像できないでしょう?
暇なものだから、バスターミナルでよく客の呼び込みの手伝いもした。
右手を大きく上げ、手首と指をひねるように、野球のピッチャーがドロップを投げるようにしながら「グアテ、グアテ、グアテ」と叫ぶのだが、多方面のバスに負けないよう大きな声が必要なのだ。
さて、市内では結局何も買わず帰宅し、ZENで夕方5時半からのパーティの準備に出かけた。
水炊きに餃子。 確か餃子を作ったのは大原さんだ。上手い、美味い。
例のスイス人カップルとアメリカ人も誘った。総勢15人くらいだ。

20日 
毎日狭いアンティグアのセントロ(中心地)を徘徊しているので、会う日本人も同じ。
夜はZENで飲んで帰るだけ。

21日 
Doña Luisaで朝食。10時半ごろ電話局へ。コレクトコールでニューヨークを頼んだが約1時間経過。
「どうなっているんだ?」と声を荒げたらすぐつないだが、遅すぎてN.Yは誰も出ない。
ホテルに戻り洗濯。その後Caféで友人へのハガキ書き、夕方ZENへ。湯漬けと焼き魚、搾菜で一杯。
最高だね。12時半ごろ帰ホテル。

22日
いつもの所で朝食後、ZENへ行って昨日の夕食代を払う。Q3=$1.10=¥142
再度電話局へ。ニューヨークの残してきたアパートと銀行が気になっているのだ。今度は無事終了。
何故銀行かと云いうと、しばらく動かしてないと凍結されるのだ。そうするとまた窓口へ行って手続きをすると云う面倒なシステムだったからだ。

―グアテマラ富士に登る―

23日(日曜日)。きょうは急きょ、Volcán de Aguaに登ることになった。
昨夜、ZENにて山に登る話が出て、カメラマンの竹ちゃんにスニーカーを貸し、俺は彼のビーチサンダルで深夜帰宅。
しかし同居の文ちゃんに話をしたところ行ってみたらと云うことで「よし!!」と決断。
昨夜、深夜帰宅したのでホテルのオヤジを起こしてドアを開けてもらったのに3時間半後に又起こしてドアを開けてくれと頼んだので当たり前だが
「何なんだお前は!?」と非常に不愉快な顔をしていた。
外へ出ると少し肌寒く、いつもの道なのに薄暗い不気味な石畳の道を進むと、ところどころに地元の原住民(インディヘナ)がうずくまって寝ている。
身構えながら聞いていたバス停まで歩いた。
この辺りだろうと見ても誰もいない。近づくと壁から人影が動いた。誰かいるのだ。
ゆっくり、一歩一歩近づくとインディヘナたち。しばらくすると一緒に登る予定の山田夫妻と子供たちも来た。
子供2人を彼らはず~っと抱いたまま登ったのだ。「すごい!!」しかない。
バスは5時出発だが竹ちゃんはやって来なかった。さすがに昨夜遅くまで飲んでたから起きられなかったのだろう。
バスはたくさんの荷物を持った地元の人達で満員状態。途中、途中、人と荷物をこれでもかと押し合い圧し合いしながら乗せ、でこぼこ道を走る。
車内の熱気に臭いが混じり酸欠状態だ。彼らはあまり風呂に入らないし民族衣装も着たまま寝起きするからだろう。
たぶん30分くらいの道のりを1時間かかって6時ごろようやく麓(ふもと)の村についた。
村では早朝から女性たちが水瓶を持って井戸に集まっていた。
そこから山に続く道を少し進むと派手な音楽が聞こえてきた。気になったので中に入ると、トランペットやギターを持った男たちが演奏をしながら歌っている。
見ていいかと尋ねると快く笑顔で手招きをしてくれた。建物の中にも楽器を持った男たちがまた、違う演奏をしている。
建物の中をよく見ると民族衣装を身にまとった「キリスト」だ。何が何だかよくわからないがとても楽しそうだ。
きょうは日曜日なので、これも形を変えた礼拝なのだろう。でも女性は参加していない。違う建物の中で食事を作っているし他の人達は水汲みだ。
しばらくして演奏が終わり朝食が始まった。
バナナの皮に包んだ肉の入ったトウモロコシとパン。そしてコーヒー。
我々にも分けてくれた。こんなところで朝食にありつけるなんてとてもラッキーだったし、登山の活力になる。美味しかったなぁ!!
山を登り始めると噴火後何も手入れをしていないので、岩肌がゴロゴロ。道なき道を進むがビーチサンダルではどうにも足元がおぼつかない。
少し裸足になって歩いたがこれはこれで足が痛い。しかも牛の糞がたくさん落ちているので如何に踏まないよう歩くかが大変だ。
途中何度も山から下りて来る地元の人と出会うのだが、皆長い山刀を片手に大きなカゴ背負っている。荷物は肩で背負ってるのではなく額にかけている。
相当首が強そうだ。しかも結構なスピードで降りて来るから最初は驚いた。彼らに「頂上まであとどれくらい?」と声をかけるとどの場所で会っても「10分」と答える。次の人も「10分」って言うかなと楽しみだったが誰もが「10分」だった。
一緒に登った山田夫妻は相変わらず子供を抱きかかえている。本当に「すごい!!」
相当な時間を費やしたがようやく頂上だ。少し寒い。定かではないが子供の一人が軽い凍傷になった記憶がある。
これから下りるのがまた一苦労だ。膝が悲鳴を上げている。
真っ暗な道をふもとの村まで急いだが、牧田さん(通称ボラッチョマッキー)から借りたヘッドライトが役に立った。結局登って下りてくるまで12時間以上かかった。途中出会ったアメリカ人と一緒だったが彼らが先に行ってバスを待たせてくれたおかげで8時の最終バスに乗ることができた。
「足が痛い!!」「足が痛い!!」「足が痛い!!」
ZENでは帰りが遅いので皆が心配して待っててくれた。
特に靴を貸してもらったのに行かなかった竹ちゃんは俺がビーチサンダルで出かけたと聞いて困っていたようだ。
そして、今夜もZENで一杯。

「スペイン語学校に入学する」

24日(月曜日)、今日から1週間スペイン語学校。Q135=$49=¥6,380

先生たちは教えるための教育を受けてない高校卒業なら誰でもなれる「にわか」の人たちなので、教わる方も大変だ。
授業は午前中だけ。住まいを学校の隣に移ったので朝様子を垣根越しに覗いてから行く。
と云うのもきちんと時間に始まらないからだ。
このファミリアには5人くらい住んでいる。食事付(朝夕)だがシャワーは水、お湯が出ない。
確かではないが学校とファミリアの込々料金がQ135だったような気がする。
ある時、ここにテキサスから来たというアメリカ人が泊まることになった。
私の部屋の外で大声でここの女将としゃべっている。聞いてて笑ってしまったのだが
アメリカ人は英語、女将はスペイン語とお互い自分の言いたいことをしゃべっているのだ。
結局女将が私の部屋に通訳を頼みに来た。
また、ある朝、隣の学校の校長が電話の英語が聞き取れないからと頼みに来たこともあった。
夜はZENへ。

25日(火曜日) 授業は午前中だけなので、午後、グアテマラ市内のイミグレ(移民局の通称)に行こうと思ったが天気が悪く止めてぶらりとZENへ。

26日(水曜日) 午後学校で知り合ったマティナ(イギリス人)を誘ってZENですき焼きパーティー 10時半ごろ帰宅。
27日(木曜日) 午後洗濯、夕食を初めてフアミリアで取る。トルティジャ、フリホォレス(豆)、なんかの練り物。
        その後も何回か食事をしようとしたら俺の分がないことがあった。
         ここで食べてないので仕方ないか。 食後ZENへ、帰宅9時半。
         毎日学校があるので帰宅が早い。

28日(金曜日) 午後グアテマラ市内へ。両替 TC$100 $1=Q2.68
         コップを買う。夜はZEN 11時半帰宅
 
29日(土曜日) 午前中は学校、午後は洗濯 そして来週のフアミリアと学校の支払い
         2週間でQ270=$100=¥13.097

30日(日曜日) 今日は学校が休み。終日マーティナと過ごす。
1週間が過ぎたがほとんど何もしていない。時間があれば本を読むか、ZENに行く時
        わざと回り道をして散策するかくらいだ。

31日 また、新しい週が始まり先生も新しいがレベルが同じなので何も変わらない。
   午後、マティナと過ごし、ZENで森さん、知佳子さんと会う。

9月1日(火曜日) 学校は疲れるが仕方ない。やらないよりはいいだろう。
   ZENでスペイン語を教えると云う先生を紹介され、「週Q50-午後4時間」の約束をし、
   俺に必ずここZENでと何度も念を押されたが、翌日待っても現れず、ふざけた話だ。

2日 午後、吉田さんとメルカド(市場)で買い物。
   彼は買ってきた魚を便所の屋根に干していた。仕方ない、そこが登りやすいからだ。
   おしたし、肉じゃが、胡瓜もみ、と豪華?なつまみで二人で一杯。
   雨になり、帰宅が遅くなった。12時半。
3日 午後グアテマラ市内へ。両替Q2.69 X $20=¥2.600
   知佳子さんと食事、9時帰宅。

4日 学校最終日、全く覚えられずに終わった。
   相変わらず夜はZENへ、帰宅12時半。

5日 朝食 8時 昼食後 ZENへ、帰宅12時。

6日 学校へ、庄司さんと池内(当時慶応の大学院生)を学校とフアミリアを紹介。
   夕方までフアミリアに居てZENへ。

7日 Familiaを出てTurismo(観光旅行会社)へ。
   Quezaltenango(ケサルテナンゴ)へ12時出発。乗り換えながら到着。Q5.3=$1.97=¥256。
ケサルテナンゴ州の州都で人口約10万、周辺の山間部の村から先住民たちが集まる定期市がひらかれるので有名。
グアテマラは基本的に先住民がそれぞれの村特有の刺繍された衣服をまとっており、一目で何族出身とわかるようだ。
民族衣装で学校にも通うし、普通に町中を歩いている。
因みにニューヨーク戻り美容院である部族のシャツを着ていたら、いきなり「あなたは何ナニ族ですね?」と部族を言い当てられたのには驚いた。
Hotel CALIBEで一泊 Q3.3=$1.23=¥160 お湯シャワー付きでお湯がよく出る。
夕食チャイニーズ(BIKINI)翌朝下痢 最悪だ!!
食事に何故チャイニーズが多いかと云うと私はグアテマラ料理があまり好きではありません。
そこで必ず目につくチャイニーズが選ばれるのです。でも今はきっと観光客も多いし、いろんな種類の店があることでしょう。
8日 市内見学 昼前にTotonakapanへ出発。

途中から雨になり、何もない風なのでここでの宿泊をやめてパナハッチェル(Panajachel)へ。

Q3.9 + 50c(乗り換え) + 50c(乗り換え)。小さな車に、雨に濡れたのが押し込まれて来るので、外を歩いてるわけでもないのにびしょ濡れだ。
Hotel Forda sol del Q5.0 + 85c(tax)=$5.9=¥766
食事 チキン唐揚げ Q4.75 もう一つチキンを注文 Q2.0 ビールQ2.0 まずくて高い最悪の店だ。
チキンQ2.0=はありえない。1個約97円はぼったくりだね

9日(水曜日)
3時30分 San pedoro la laguna 行きの便がHotel Tzanjuyu近くの桟橋から出るとのこと、それまで
町をブラブラ。キタロウのヨシさんと変なチャイニーズアメリカン(?)とまた出会う。
サンペドロ 船賃Q2.0 地元民Q1.5
Htel Johanna (船着き場の真ん前) Q20=$7.4=¥967

10日 今日はSan juan la Lagunaへ行く予定だ。
   ホテルはうるさくてよく寝られなかった。仕方なく早起きしコーヒータイム。まずい!!
コーヒーの国でこれはいけません。4時半まで本を読みながらボートを待つ。
昼頃よりまた雨。 6時半着。ボートから見る村は真っ暗。停電なのだ。
暗闇の中、ホテルを探した。 Hotel Forda sol del 10時半には寝た。

11日 まだ電気が点かない。だから水も出ない。
Htel Mario’s Roomに変わる。Q3.3=$1.2=¥159
オートバイで旅行中の貴彩子さんとそこで知り合い、まさかのオートバイを借りてアティトラン周辺へ出かける。最高だ。
オートバイで旅行中なのによく貸してくれたと今でも感謝している。スズキかホンダの確か600ccだったと記憶している。
電気がまだ点かない。夜遅く写真家の武田氏と会う。

12日(土曜日)
アンティグアに帰る予定だが、11時のバスがまだ来ない。12時ごろ出たのだが村を一回りしてまた同じバス停に戻りようやく出発した。
Chimatenango 2:00 → Antegua 2:30 約1週間ぶりのアンティグア。うまい具合に空いていた、
Hotel Rejugio Q4.0=$1.49=¥193   洗濯Q4.5を頼んで5時ごろツリズモへ。

13日(日曜日)
ユキさんにTCを200ドル現金にしてもらった。
夜ZENで飲んで「泊まってけ」と云うことで3人で泊めてもらう。

14日
いつものDoña Luisaで朝食をし、出たとこでユキさんに出合いメルカドで買い物の手伝い。
TCを80ドル、ケツアルと交換。$1=Q2.7
午後、ZENで貴彩子さんと再会。 Hotelをパサフェに変わる。
後に貴彩子さんと再会した時(確か日本で)、俺が彼女のことを日本人旅行者にあれこれ言いふらしたと憤慨していたが、これは誤解であり、誰かが俺を悪者にしたのだ。俺は女性の噂話は友人にでも基本、通り一遍のことしか話さない。ましてや旅の途中で出会った人たちには決してしゃべらない。

15日 
朝はDoña Luisa 午後Jocotenangoへ、ユキさんの車で貴彩子さんと3人で行く。
早く帰ってきたので、公園を散歩。夜は勿論ZENへ。

16日
朝、ユキさん、貴彩子さんと、キャピタルへ。
昼、他の日本人たち、牧田、武田、森環、後藤、徳重洋一と飲茶 
一人Q20=$7.4=¥962
夜はZENで水炊き。牧田、貴彩子、武田  一人Q5=$1.85=¥240
12時過ぎまでどしゃぶり。キャピタルからユキさんいまだ帰らず。

17日
 アカフトラ(Acajutla)― El Salvador(エルサルバドル)へ出発。
 エルサルバドルの南西部 太平洋岸の港湾都市
  9時出発→グアテマラ市11時→アカフトラ夕方5時前着。
 5km(キロシンコ)と云うところで検問を受ける。
 当時は内戦状態で治安は決して良くなく、兵たちも荒んでいるので国境の兵たちにも気を付けるように、つまり何をされても「決して逆らうな」と経験者から注意をされていた。
 「SALVADOR」と云うオリバーストーン監督の映画を観た人なら怖さがわかります。
 マッキー(牧田さん)が兵たちに配ったタバコが効いたのか無事国境を通過した。
 ここまでQ7=$2.9=¥337 キロシンコ 70センタボス。
 グアテマラでQ60 → 120コロン
 2001年まではコロンだったが現在はアメリカドルが通貨になっている。
 夕食は魚の唐揚げ、ビール1本 12コロン(後に魚が6コロンとなった) ビールの相場が2~2.5コロン。

9月18日(金曜日)
 後藤さん、森環さんとアカフトラからエルサルバドルの市内へ。
 9時半ごろ出かけ、約4時間、1時半ごろ到着。さっそく銀行で両替。
 両替$20=109コロン(1$=5.45コロン)
 ビーチサンダル 10コロン 帰りは3時間くらいだった。
 帰りにバスが兵士に止められ、もめた挙句免許を取り上げられ運転手は怒りまくっていたが我々は無事
 経由地Sonsonate(ソンソナテ)に到着。
 そこに来ていた和田氏、外見氏と出会い、20時の最終バスでアカフトラに戻った。

19日
よく眠れない。
最初の日の部屋はガトネグロ(黒猫)と云うバーの奥の部屋、女主人の部屋を開けてもらったのだ。
後藤、武田の3人で一人8コロン。約$1.5=¥190 シャワー付き。
ここにはその店の息子と結婚した女性がいたが当の旦那はいない。
確か名前はジャネットで子供はイサベル。? 
もう一人女性がいてまだ12歳くらい?だったが客をとっていた。
当時は内戦が長引きどこの町へ行っても人々は貧しく、疲弊した状態が人々を苦しめていた。
当たり前のように乞食がいて、当たり前のようにレストランに入ってきて、我々が食べた物残りの骨をしゃぶるのだ。
かわいそうだと新しいのオーダーしたいがきりがない。
戦争は荒んだ町を人をつくってしまう。
ここで自警団と喧嘩して撃たれた日本人がいたし、盗みの犯人とされ兵隊に拷問されかけた日本人もいた。彼らはその金を自分たちの物にするためだ。
運よく現地に長いスペイン語の上手な日本人がいて助かったが、その助けた彼の名前は忘れたが拷問されかかった彼の名前はその後ニューヨークにもしばらくいて一緒によく飲んだし、日本でも一緒に飲んだので忘れません。S君はどうしてるのかなぁ。
午後、パーティのための魚を買いに魚市場と称する場所に出かけた。
近くに政府軍の基地があり、外で警備している兵士を見ていると近づいて来て、「いい銃だろう」
とMK16ようなものを見せちょうど海岸の砂浜に着いた船が何艘かいるにもかかわらず、近くの木をめがけて銃を3発ほど発射した。
そして俺にもやってみろと銃を差し出すのだからマイッタ。
しばらくして砂浜から登ってきた漁師が持ってきた物を吟味して、と言ってもほとんど何もない状態だ。
とにかくカツオを3匹買った。 5コロン=約120円
夜魚パーティ。その後マルタと飲む。

20日(日曜日)
何もしないでただただ呑んで寝る。
キャッシュ10ドルを後藤さんに両替してもらう。

21日
 7時半ごろ起床し、8時過ぎに見送りのゴっちゃんこと後藤さんとメルカード(市場)のバス停へ向かったら吉田吉蔵がと歩いていたので「えっ!?」と二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
彼も遅くまで飲んでいたのに、またすることもないのにこんな時間に起きて散歩?散策?
朝のオレンジジュース 飲み、9時前のバスでグアテマラ戻った。
まず、メキシコ行きのバス(エルコンドル社)に乗りグアテマラの途中まで 150コロン=3600円
乗り換えて市内へ 1Q 市内バス(10C)でホテルは以前泊まったトランキリダッド。
今回は17円ほど安くてQ5.3 =$1.97=¥256
シャワーを浴びて旅行社へ行く。コスタリカへのチケット予約だ。
両替$10 $1=Q2.69

22日
チケットを取りに再び旅行社行ったが出来てなく午後再度トライ。
あまり感じのいい旅行社ではなかったがホテルから近いのでそこにしたが、何だか差別的な感じを受けた。
不愉快!!  飛行機料金 Q238=$88=¥11.502
明日の午後にはコスタリカだ。

9月23日(水曜日)13時発で14時:15分着 予定通りだ。


バックパッカー 中南米の旅 (まだグアテマラです)

2016-06-12 09:36:10 | 日記

―グアテマラ市からアンティグア・グアテマラに直行―                   第12話
8月15日 日本は盆真っ盛り。
グアテマラ市に戻り、すぐ旧首都アンティグア・グアテマラへ。 バス95C=49円
「アンティグア・グアテマラ」
取りあえず寝床探し。ホテル名前忘れた。 Q8=$3.2=¥416 
翌16日 レストランZENへ ここは日本人旅行者(バックパッカー)の溜まり場で、オープンから
閉店時間までここに行くと必ず誰かがいた。情報共有の場所だ。
「驚きの再会」
ニューヨークで一緒に仕事した吉田吉蔵と再会。
レストランに入って行くと草ボウボウの手入れされていない庭に何かをしている髪の毛がバサバサの仙人状態の男がいた。
店の様子を聞こうと声をかけると振り向いた顔にビックリ!! 
こちらも驚いたが、彼もまさか来るとは思ってもいない男が立っていたのでかなり驚いた様子。
1年前に彼がグアテマラに行くと言って、友人たちで送別会をしたのだが、忘れもしない。
その日はニューヨークがマイナス20℃ととてつもない寒さの日だった。
二次会に行くのにタクシーがつかまらずその場所に着くまで何軒のバーに寄ったことか。
その彼が1年経ったのにまだここにいるとは!?
積もる話もそこそこそこに、荷物を預けてまたまたホテル探しに出かけた。
途中出会った日本人に声をかけると、彼は自分が泊まっているところがいいとそこまで連れってってくれた。
「ホテル・パサフェ」。空き部屋がなく取りあえず彼(文平さん)の好意で相部屋させてもらうことになった。
文平さんは紅茶の会社に居たと云うことで詳しい。安い紅茶を美味く飲む方法を教わったのですが
すっかり忘れてしまいました。でもなるほど、さすがだなぁと感心したことは覚えている。
ここに来て驚嘆したのは「シャワー」だ。ニクロム線むき出しでそこから水が伝わり下りてきてお湯となるシステム。
当初感電するのでは気が気でない状態でシャワーを浴びた。しかも水がお湯になるためにゆっくりと伝わり下りてくるのでチョロチョロ。
かなりの時間を要する。
地元民の多くは水シャワーとのこと。日中ならともかく、朝夕は寒くて気合がいる。
夜は勿論、ZENで食事。
このレストランは門構えの立派な入口で結構人気がありいつもたくさんの客で賑わっていた。
客のほとんどが外国から来た観光客で締めていた。私が到着した時はオーナーのユキさんは日本に
里帰りをしていて不在だったが住み込みの吉田さんともう一人のグアテマラ人で切り盛りしていた。
「閑話休題」
当時、ユキさんは独身で結構寂しがり屋。そして優しかった。
遅くなると、と言っても毎日ここで飲んでいるので早く帰る日はまれで深夜なのだが、泊まっていけと云う。勿論我々は皆ホテルがあるのを知ってて誘うのだ。
両替もアンティグアではレートが悪いので皆グアテマラ市まで行くのだが彼は市内のレートで両替をしてくれたのだった。
私がニューヨークに帰った後、何年か経って結婚したという噂を耳にし、驚いたが、その後訃報を聞いた時はもっと驚いた。
信じられず、ともかくも驚きで一杯だった。
人づてに聞いたので亡くなった経緯は定かではなく、ここでは記さない。
残念でならない。 合掌

―アンティグア・グアテマラの生活―
さて、
我々は現地人と違って、水は水道水からは飲めないのでいつも店内に置いてある大きなビンの水を利用していたが、飲みが深まるにつれてどうでもよくなり水道水からロン(ラム酒)の水割りを作ったがこの水のせいでお腹を壊したという話は聞いていない。
私も今のところすっかり治っている。

アンティグアに来てから朝食はZENの隣と云うか真向いのDoña Luisa。(ドニャ・ルイサ)
ウエイトレス達とはすっかり馴染みになり、チップも効いて皆愛想がいい。
その二階からはグアテマラ富士(勝手に我々が呼んでいる)が望む。窓を一面に開けて、まるで絵画だ。正式にはVolcán de Agua
ヴォルカン=火山 アグア=水 アグア山は火山で火口には火口湖があったのでアグア山と呼ばれたが
1773年の大地震で崩壊し消滅した。標高は3,760m。ほら、富士山に近いでしょう!?
しかも火山、富士山と同じ休火山だしね。
1階はいろんな本が置いてありヨーロッパ人であふれかえっているが二階はあまり人が来ない。
ここで半日ウエイトレスのあきれ顔を見ながらハエ取りをしたことがあった。馬鹿だねぇ。

あとは御決まりのZENへ。 本日 $1=Q2.75 $100両替
18日は斎藤さん、カメラマンの竹さん(武さん?)とビリヤード。
19日はZENが休みなのでグアテマラへ買い物というか、気晴らしに出かけた。
バスターミナルがありそこから様々な場所に行くことができるが、満員にならないと出発しないので時間がわからない。しかも満員なのに途中人が手を上げたらバスを停め、押し込むので身動きできない。しかし、立って乗せてはいけないらしく途中警察が検問している所では無理やり座らせるので、他人の膝にお構いなしに座ってくるのだからたまらない。町はずれの検問を過ぎるとまた、詰めれるだけ詰めて山道を登るのだから危険極まりない。しかもそこから車掌役の男が無理やり後部席の一番奥まで料金を回収に来るのだからもうむちゃくちゃだ。想像できないでしょう?
暇なものだから、バスターミナルでよく客の呼び込みの手伝いもした。
右手を大きく上げ、手首と指をひねるように、野球のピッチャーがドロップを投げるようにしながら「グアテ、グアテ、グアテ」と叫ぶのだが、多方面のバスに負けないよう大きな声が必要なのだ。
さて、市内では結局何も買わず帰宅し、ZENで夕方5時半からのパーティの準備に出かけた。
水炊きに餃子。 確か餃子を作ったのは大原さんだ。上手い、美味い。
例のスイス人カップルとアメリカ人も誘った。総勢15人くらいだ。
20日 
毎日狭いアンティグアのセントロ(中心地)を徘徊しているので、会う日本人も同じ。
夜はZENで飲んで帰るだけ。
21日 
Doña Luisaで朝食。10時半ごろ電話局へ。コレクトコールでニューヨークを頼んだが約1時間経過。
「どうなっているんだ?」と声を荒げたらすぐつないだが、遅すぎてN.Yは誰も出ない。
ホテルに戻り洗濯。その後Caféで友人へのハガキ書き、夕方ZENへ。湯漬けと焼き魚、搾菜で一杯。
最高だね。12時半ごろ帰ホテル。
22日
いつもの所で朝食後、ZENへ行って昨日の夕食代を払う。Q3=$1.10=¥142
再度電話局へ。ニューヨークの残してきたアパートと銀行が気になっているのだ。今度は無事終了。
何故銀行かと云いうと、しばらく動かしてないと凍結されるのだ。そうするとまた窓口へ行って手続きをすると云う面倒なシステムだったからだ。

―グアテマラ富士に登る―
23日(日曜日)。きょうは急きょ、Volcán de Aguaに登ることになった。
昨夜、ZENにて山に登る話が出て、カメラマンの竹ちゃんにスニーカーを貸し、俺は彼のビーチサンダルで深夜帰宅。
しかし同居の文ちゃんに話をしたところ行ってみたらと云うことで「よし!!」と決断。
昨夜、深夜帰宅したのでホテルのオヤジを起こしてドアを開けてもらったのに3時間半後に又起こしてドアを開けてくれと頼んだので当たり前だが「何なんだお前は!?」と非常に不愉快な顔をしていた。
外へ出ると少し肌寒く、いつもの道なのに薄暗い不気味な石畳の道を進むと、ところどころに地元の原住民(インディヘナ)がうずくまって寝ている。
身構えながら聞いていたバス停まで歩いた。
この辺りだろうと見ても誰もいない。近づくと壁から人影が動いた。誰かいるのだ。ゆっくり、一歩一歩近づくとインディヘナたち。
しばらくすると一緒に登る予定の山田夫妻と子供たちも来た。
子供2人を彼らはず~っと抱いたまま登ったのだ。「すごい!!」しかない。
バスは5時出発だが竹ちゃんはやって来なかった。さすがに昨夜遅くまで飲んでたから起きられなかったのだろう。
バスはたくさんの荷物を持った地元の人達で満員状態。途中、途中、人と荷物をこれでもかと押し合い圧し合いしながら乗せ、でこぼこ道を走る。
車内の熱気に臭いが混じり酸欠状態だ。彼らはあまり風呂に入らないし民族衣装も着たまま寝起きするからだろう。
たぶん30分くらいの道のりを1時間かかって6時ごろようやく麓(ふもと)の村についた。
村では早朝から女性たちが水瓶を持って井戸に集まっていた。
そこから山に続く道を少し進むと派手な音楽が聞こえてきた。気になったので中に入ると、トランペットやギターを持った男たちが演奏をしながら歌っている。
見ていいかと尋ねると快く笑顔で手招きをしてくれた。建物の中にも楽器を持った男たちがまた、違う演奏をしている。
建物の中をよく見ると民族衣装を身にまとった「キリスト」だ。何が何だかよくわからないがとても楽しそうだ。
きょうは日曜日なので、これも形を変えた礼拝なのだろう。でも女性は参加していない。違う建物の中で食事を作っているし他の人達は水汲みだ。
しばらくして演奏が終わり朝食が始まった。
バナナの皮に包んだ肉の入ったトウモロコシとパン。そしてコーヒー。
我々にも分けてくれた。こんなところで朝食にありつけるなんてとてもラッキーだったし、登山の活力になる。美味しかったなぁ!!
山を登り始めると噴火後何も手入れをしていないので、岩肌がゴロゴロ。道なき道を進むがビーチサンダルではどうにも足元がおぼつかない。
少し裸足になって歩いたがこれはこれで足が痛い。しかも牛の糞がたくさん落ちているので如何に踏まないよう歩くかが大変だ。
途中何度も山から下りて来る地元の人と出会うのだが、皆長い山刀を片手に大きなカゴ背負っている。荷物は肩で背負ってるのではなく額にかけている。相当首が強そうだ。
しかも結構なスピードで降りて来るから最初は驚いた。彼らに「頂上まであとどれくらい?」と声をかけるとどの場所で会っても「10分」と答える。
次の人も「10分」って言うかなと楽しみだったがやはり期待通りの誰もが「10分」だった。
一緒に登った山田夫妻は相変わらず子供を抱きかかえている。本当に「すごい!!」
相当な時間を費やしたがようやく頂上だ。少し寒い。定かではないが子供の一人が軽い凍傷になった記憶がある。
これから下りるのがまた一苦労だ。膝が悲鳴を上げている。真っ暗な道をふもとの村まで急いだが、牧田さん(通称ボラッチョマッキー)から借りたまさかの時のヘッドライトが役に立った。
結局登って下りてくるまで12時間以上かかった。途中出会ったアメリカ人と一緒だったが彼らが先に行ってバスを待たせてくれたおかげで8時の最終バスに乗ることができた。
「足が痛い!!」「足が痛い!!」「足が痛い!!」
ZENでは帰りが遅いので皆が心配して待っててくれた。特に靴を貸してもらったのに行かなかった竹ちゃんは俺がビーチサンダルで出かけたと聞いて困っていたようだ。
そしてまた、今夜もZENで一杯。


バックパッカー 中南米滞在記 遠い昔の想い出

2016-05-15 16:03:20 | 日記

8月11日                          第11話

  1. 昨日はホテルでひと悶着。

フロントにちょっと用足しに行って、戻ってみると誰かが俺の部屋で荷物を物色している。
ヤワなフランス人ですぐとっ捕まえた。何も取られていないが、ガマ口型の針セットが開けられている。
財布と勘違いしたのだろう。何を言っているのかよくわからない。そのままフロントに連れて行って訳を話して引き渡した。
俺には英語を話さなかったのにフロントに来たら英語に変わった。「この野郎!!」
俺は何もしていないと言っている。しかし、俺の部屋に入って物色していた事実は変えられない。
彼はその後ホテルを追い出された。

翌朝9時ホテルを出てまずは両替。Guatemala Banco(銀行) に行った。
TC$40=Q104=¥5200  $1=Q2.6と変わらず。
Turismo(旅行案内所)にも行きたかったのだがグアテマラ銀行の近くにあり、探す手間が省けて
ラッキーだ。
オアハカもそうだったがここも英語ができる感じのいいおばちゃんがグアテマラの案内をしてくれたの大いに助かった。
今では当たり前かもしれませんが、当時中南米も英語圏ではないヨーロッパでも案内所で英語ができる人は少なかったのです。
一旦ホテルに戻り洗濯物を出しに行った。靴下3、Tシャツ1、短パン1=Q1.5
その後電話局に行きニューヨークまでを頼んだがなかなかつながらず30分以上経過したのであきらめてキャンセル。 Rit Hotelの近くで朝食。朝食と言ってももう12時だ。
食後SAM(旅行会社)へSan Andres島(コロンビア領)の料金を聞きに行った。$233
Bogoda(コロンビアの首都)までなら$374
そのあと考古学博物館へ。ここはマヤ文明の石碑を多く展示してあった。
明日の予定を考えた。ここからアンティグア方面へ先に行くとPuerto Barrios(プエルト・バリオス)
や Livingston(リビングストン)にはもう一度グアテマラ市に戻って来なければならず面倒なのでここから行くことにした。
グアテマラ市から北東へ320㎞。
プエルト・バリオスまでのチケット代Q8.5=$3.26=¥425
今夜もタイペイでチャイニーズ ビール2本、チャーハン、チキン(骨つきでほとんど肉がなく、何故か玉ねぎがいっぱいだ)
Q8.05=$3=¥400 
物乞いが入れ代わり立ち代わりで6人も。ゆっくり食べてられない。 
ウエイトレスはとても感じ悪い。当然チップなし!!
8月12日 8時30分発が9:00。 2:30着だがどうなることやら。
バスの中で知り合った女性ドウニャが一緒に泊まることになった。「意気投合!?」???
グアテマラに住んでいるのだがここには親戚の家を訪ねてきたらしい。何故一緒に? わかりません。
このころはまだスペイン語も今3くらいであまり理解できていませんでした。辞書を片手に一生懸命会話です。 
そして、ゴルゴ13のごとく常に緊張と警戒をしています。
とにかく、Hotel CANADA Q8.5=$3.27=¥425 取りあえずcoke 75センタボ=38円
またまた、チャイニーズで食事(ここはチャイニーズが作っていない)Q5=$1.9=¥250
このホテルは前にディスコがありうるさくて眠れない。最悪だ!!
カギは開け閉めに来て持って帰る。つまり、部屋を借りた人に渡さないのだ。
1991年当時の中国も同じやり方だった。
Banco CAFEで両替。$1=Q2.5 銀行のなまえが「CAFE」なかなかしゃれてるね。
1ヶ月で約$560=¥72.800も使ってしまい、予定オーバー。
まだ南米まで到達していない。少し引き締めなくちゃ。
8月13日 日本はお盆だね。
3時のボートでリビングストンへ行く予定なので街をブラブラ散策。目新しい物何もない。
船着き場へ行くと5時発になっている。6:30着。
船着き場から歩いてすぐのHotel Caribe  何故かドウニャが一緒に行くと言う。
ダブルでQ11.70=$4.68=¥608
食事 ビール3本、チキン唐揚げ(ほんの)少ししかなく2皿注文)、コーラ1本、魚フライ
計Q20=$7.69=¥1.000 高い!! 
翌14日 町を散策。町は狭く、汚く何もない。期待していた海も汚く泳げない。ガッカリ!!
食事をして即退散。食事Q⒕=$5.38=¥700。ボート1人80C=¥40
プエルト・バリオスに戻りまた、ホテル探し。
今度はHotel Barios  2人でQ6.5。 シャワー別だが2部屋続きなのでカギをかけなければ出入り
自由。だから片方の部屋にシャワーがあるのでシャワー付きと同じだ。
公園でバスケットの試合をやっているが楽隊付きでドンチャカ、ドンチャカ。女性だけのチーム
も頑張っている。明日はグアテマラ市に戻ろう。この2つの町は何もないということだけわかった。
今はいろいろ整備され観光地としての役割を果たしているのだろうね。きっと。
Banco Caféで両替。$20 1$=2.5Q  洗濯 3Q ちょっと高い。


bohemio バックパッカー 日記 中南米編

2016-04-23 11:27:28 | 日記

イスラ・ムヘーレス                              第10話
さてさて、到着したらお決まりの一番仕事、宿探しです。
どこを聞いても15,000ペソ。ようやくに街はずれで見つけた。
HOTEL XUL-HA 1泊シャワー付き、7,000ペソ=5ドル=650円 やはり観光地は高い。
朝食後、疲れから4時ごろまでウトウト。
夕方、歩いて2,3分の所にあるビーチへ。眠気さましと体に「喝」を入れるために少し泳いだ。
この場所は観光客のエリヤから離れているので島の人間と犬以外見当たらない。
しかも彼らはわざわざ泳ぎに来ないので人影もまばらだ。
夕食近くなって、スイス人カップルと彼らのホテルで会う約束をしていたので、にぎやかなエリヤに
出かけた。他の2人のスイス人も加わって夕食。
彼らがフリードリンクの件でもめる。ヨーロッパ人は概してシビアである。
わずかでも、「マ、いいや」で済まさない。
ジュース類、その他のドリンクで5,000ペソは違うからだ。

8月6日
6時に目が覚めた。こんなに早く起きる必要性もなく、また、ウトウトして10時。
12時過ぎに原付を借りて突端まで行った。なんせ7キロしかないのであっと云う間だ。
 1時間2,000ペソ=1.4$=184円
因みに、8時~5時pm-10.000ペソ=7$=920円、 24時間-20,000ペソ。
帰宅してホテル近くのビーチで過ごす。
夕食を8時ごろ取った。昨夜と同じ界隈。大きなホテルは高いし、美味しいとは限らない。
7,000ペソ 昨夜と同じだ。

8月7日 カンクンへ。
チェトマルまでのバスチケットを買った。6,942ペソ=4.9$=639円
7,000ペソ出したがお釣りがないと言い張る。マタマタだ。
乗り合いタクシーで船着き場へ。
帰り(イスラ・ムへレス)の船でメキシコ在住の上条勝弘氏と出会う。
確か、メキシコ観光所属で観光案内人もやっていたように記憶している。
この時はイスラ・ムへレスで困っている日本人の観光客がいるので助けに行くんだと言っていて、
もし時間があるなら、ご一緒しませんかとのこと。時間はたっぷりあります。
すぐに見つかり、特に問題なし。
夕食はその3人の女性と取った。(中村さん、武村さん、若山さん)その後どこに住んでるのかな?
彼女たちが宿泊していた高そうなホテルだったか近くの店か忘れたが、「高い、まずい」のピザ。
 12,500ペソ=8.85$=1,150円 たぶん当時のニューヨークより高い。

8月8日  今日はチェトマル(Chetumal)へ出発する日だ。
いつもより早く目覚めて、朝食を取り、海へ行って泳いだ。
雨で誰もいない。 ビーチで近くに住む女性に声をかけられた。砂浜に腰を下ろし少し話をしたが、雨が強くなってきたので家に誘われて昼食、そしてお茶をごちそうになった。子供が3人の大きな家だ。
今日これからカンクンへ行きチェトマルに行くバスに乗る話をしたら「今日は少し時化てきたからカンクン行きの船は出ないだろう」とのこと。でも、心配はいらない、もう少ししたら観光船が着くから船長に頼んでカンクンまで乗せてってもらえるようにするからとのこと、彼女は旅行会社の経営者だったのだ。急いでホテルに戻り身支度をして再度彼女の家に行った。
未だ少し時化て折り心配していたが、船は予定通り入るとの連絡を受けたようで、桟橋に行こうと促され急いだ。船長に紹介され乗り込んだ。
大きな観光船なので一人ぐらいまったく問題はなかったが、タダ乗りなので乗客の皆さんには申し訳なかったが、私としてはラッキーこの上ないことだった。
船の中ではカンクンまでのちょっとした時間にゲームが始まった。
ショットグラスで酒を回し飲みしながら動作を間違えた人が何杯も飲む羽目になると云う単純なゲームだ。飲める日本人の女性も参加した。乗船していた女性は3人で確か幼稚園の先生だったように記憶している。1人はメキシコ在住だと言っていた記憶がある。
大竹さん(メキシコ在住)、小倉さん、黒川さん。 皆さん元気にしているのだろうか?
無事到着。船長にお礼を言って約束していた上条さんの家に向かった。
夕食にカレーライスをごちそうになった。「うまい!!」
上条さんの家には2人のメキシコ人の女性が下宿しており二人ともハンモック生活だ。
私はハンモックで寝たことがないので良さが今一つわからなかったが涼しいし結構いいらしい。
その後、アマゾンに行った時、ジャングルの中でハンモックに蚊帳を吊るして寝たことがあるが
確かに涼しいが何だか落ち着かなかった。
カンクン発が夜の12時、それまで上条さんの所でいろんな話をしながら過ごさせてもらった。
その時、イスラ・ムへ―レスで失くした腕時計の話をすると彼が腕時計をくれた。
この時計は付属の物を差し込むと音楽が聴けるようになっていたがそれを失くしたので
もういらないんだと云ってくれたのだ。
後に南米に行ってからエクアドールでも、ペルーでもボリビアでも至る所で現地の人(インディヘナ)から物々交換の交渉や現金を出してきて「いくらだ?」と聞かれた。
上条さんがバス停まで見送りに来てくれた。
上条さん何から何まで本当にありがとうございました。
是非とも再会したいと願っているのですがー。
チェトマル着 5時am → チェトマル発5時30分 → ベリーゼ着8時 → ベリーゼ発8時30分 → 
イグナス12時(日記にはイグナスと書いてあるがたぶん、サン・イグナシオSan Ignacioことだと思われる)→タクシーでグアテマラ国境へ。
 1時30分pm
ここからフローレス(Flores)へ向かったがバスはフローレスに着くまで延々と縦に横にとガタガタ道を走行し車体とともに自分の体も震わせながら6時pmに到着した。
何時間もあまりの振動の中にいたため降りてからも体がしばらく平常に戻らなかった。
サンタ・エレーナ(Santa Elena) 本日はここで宿泊。 
ホテル サンホセ Q(ケツアル)10.00=3.8$=500円 1$=2.6Q
8月10日 早朝起床し、San Joseホテルでコーヒータイム。(インスタント 60センタボス)
因みに、今でもそんなに変わらないと思いますが、そのころは特にいわゆる喫茶店に行ってもコーヒーカップにお湯を入れたのとインスタントコーヒーが出てきて自分で作るのが普通でした。
南米でも同じようなスタイルがあったような気がします。
早朝6時 チカル(Tikal )に遺跡に向かう。 7時30分着。
遺跡傍のレストランで朝食。 目玉焼きx2、豆料理、紅茶で2.8Q=約1$=130円
ビール1本 1.25Q (グアテマラ市内 85センタボス)
何故こんな早朝かと云うと「暑い!!」のです。
少しでも涼しい内から回りたいからなのですが、とにかく、マヤ最大の遺跡なので大変です。
グアテマラ北部にあり、現在わかっているのは16K㎡の空間に大小3,000余の建造物があるようです。
「生きるための水」を確保するために建造物をすべて漆喰にし、雨水すべてを貯水池に行くように
したがそのたため森が亡くなり滅びた。
現在わかっているのは6号神殿までだが4号神殿は約70mの高さだ。
その4号神殿からの眺めは最高で如何にこの遺跡が巨大かがわかります。
映画スターウォーズ第一作にこの場所が出ているようです。
1号神殿に一緒に登った当時学生だった太めのアメリカ人マーティンは頂上から降りる時、下を見た
途端あまりの傾斜と石段がすり減っているためにどうして下りていいかわからず茫然。
後ろ向きに、両手で石段にすがりつきながらやっとの思いで地上に着いたが、汗びっしょりで
2号神殿から、ここは大丈夫だからと何度誘っても絶対嫌だと登らなかった。
因みに現在は登れないようです。
しかも彼の体は美味しそうなのか蚊の大群に襲われ大変。
そこで持参していた蚊除けのスプレーを体全体にかけてやったら大喜びしていた。
私は蚊の情報は手に入れており前もってしっかり対策をしていたのだ。
しかしこの遺跡はジャングルの中なので歩くのも一苦労、現在はかなり解消されているようです。
3時半にホテルに戻った。サクラメント出身のマーティンの好意でシャワーを借りた。
とにかく汗だくなのでとても助かったのです。しかも彼は蚊除けスプレーのお礼と言ってネガフィルムを1つくれたのには驚いた。
/44/04/28dcdf848f7105725a8c01bd65c113ab.jpg" border="0">彼も元気でやってるかなぁ。
空港へ向かった。バスでグアテマラ市までは大変な道のりと聞いていたので避けた。
バスを利用した日本人に話を聞いたが悪路で、途中バスを何度も降ろされたり、歩かされたりと大変
だったようだが、面白いのは途中検問で乗りこんで来た婦人警官がバスの屋根に積んだ荷物を調べて
いたので見に行ったら何やらゴソゴソ、あとでチェックしたら日本製のコンドームが無くなっていた
と大笑い、しかし、せっかく日本からいいのを持ってきたのにとがっかりしていた。
飛行機の料金は Q98.28 =$37.8=4,915円
空港でチケットを失くして大慌て。青くなったが幸いにも現地の人が拾って届けてくれた。
グアテマラ市の空港ではタクシーの運転手たちが矢継ぎ早に声をかけて来る。
「ゴルド、ゴルド」「デブ、デブ」の意味ですが「痩せ」よりいいようですよ。
市内までのバスを探していると、小奇麗な身なりのお父さんが声をかけてきた、
「チノ?(中国人)」「ハポネス(日本人)です」「どこへ行くの?」「グアテマラ市内」
親切に前もって調べていたホテルまで送ってくれた。
Hotel Tranquilidad Q5.50=$2.1=275円 
のどがカラカラなので早速コーラを買ったが冷えていない。 75センタボ=37円
夕食 チャイニーズ、名前は確かKim Cha ビール3本、焼き飯、魚フライ、Q12=$4.6=¥600
普段ビールは1本で充分なのだがきっと余程のどが渇いていたんだろう。
明日は両替とこれからの予定を考えよう。