1月8日(金曜日)Puerto Montt 第20話
プンタアレーナス(Punta Arenas)へ行く人たちも含めて5人。赤江、佐野、ソノ子、鈴木、私だ。
私はサンチアゴの空港でプエルトモントのストップオーバー(350ペソ=1.37㌦=178円)を申告していたが、みんなに「じゃまた、どこかで」と別れを告げると、
突然鈴木明氏が「俺も降りる」と言い出した。
みんなもびっくりだ。とは云うものの、出発前に手続きをしていないのでややこしい。結局何も自分でできないので手続きを私が全部した。
11時30分発(45分に出発した)、1時ごろ着。
今度は困ったことに、自分ではどうすることもできないので俺についてくるのだ。俺は予定があるからここに降りたのだと説明しても動じない。困ったもんだ。
結局バスを乗り換えて俺の目的地チロエ島(Isla Grande de Chiloe)までついてきた。 人口はだいたい15万5000人。かのダーウィンが来たという島だ。
仕方なくホテルを探して、一緒に泊まることにした。
値段のことや、食事のこと、すべてにおいて一々「どうしますか?」と聞かなければならないことが面倒だ。
とにかく俺は高校から一人暮らし、今日まで「一人暮らし」を貫いてきたからだろうか。
さて、チロエ島はとてもきれいな港町で静かな町だ。
「日本冷蔵」だったか忘れたがプエルトモンからの船上で出会った日本人たちが港から奥の町に何家族か養殖かなんかで済んでいると話してくれた。
宿を決めて早速ジニアに会いに行った。彼女はびっくりしていたが大喜びしてくれた。彼女の家族も歓迎してくれた。
ここは小高い丘の上に立つ家で眺めはいい。1960年のチリ地震の壊滅的な被害を考えればこの高台は正解だろう。
チリ地震 日本にも津波の被害があったのを知ってますか?
1960年5月23日 午前4時過ぎ(日本時間)チリ南部でマグニチュード9.5という観測史上愛大の地震が発生。
これによって発生した津波は時速750kmという速さで太平洋を横断し、22時間半後の午前3時(24日)ごろに到達。
三陸海岸で8m越え。被害の発生は北海道から沖縄までに及んだ。全国で死者139人、住家流失・全壊2830棟、半壊2183棟、浸水37195棟などです。 ハワイ島では死者61人。
閑話休題
夏だがここは少し南に位置するので少し寒い。薪割を手伝ったが、俺が薪を立てて割るのを見て家族の人が「違う、横にしないと」とやり方を見せてくれたが、
そのやり方も勿論知っていたが、立てた方が割安いのだと説明するとなんだか浮かぬ顔をしながら見ていた。見事に割れた。
この方が効率よい。立てられない、バランスの悪い薪は横にするけどね。剣の極意だね。ストーブに薪を入れ暖を取る。
二階の部屋にも暖かい空気が行くようにしている。1階のあるこのストーブは湯を沸かしたり、鍋をかけたりする他に料理ができるようにもなっていて非常に便利が良い。
ここに泊まれと引き留められたが明日また来るからとこの日はホテルに戻った。
7日からの風邪がまだ治らず、喉が少し痛い。
1月9日(土曜日)
ジニアにチロエ島の絶景に連れて行ってもらった。すがすがしいところだ。
他にもブラブラとデートを楽しんだ。さすがに地元民でいろんな場所を知っていたが、面白いのは、ここは誰にも知られていない場所だという、
彼女が持っているスペシャル(秘密)なデートスポットがあった。
俺は何人目!?
二人で食事をした。Pincoyaワインも込みで3000ペソくらいだった。約⒓㌦=1530円
風邪で調子が今一つなので少し昼寝。
この日は彼女の家に世話になり、翌朝ホテルに戻る。
もっと長く滞在したかったが、我々バックパッカーには耐えがたい一人のきまままな自由旅ができない状態だったので早々に次の地へ行くことにした。勿論彼も一緒だ。仕方ないね。
1月10日(日曜日)
11時30分 バスでプエルトモントへ。天気悪し。 バス代 500ペソ=1.96㌦=255円
出発前時間があったので美術館&博物館(Museo Regional de Castro)や教会に行った。
到着後すぐ昼食。そして宿探し。1㌦が240ペソになった。
一人 ― 800ペソ=3.3㌦=430円 シンバーニョ(部屋にシャワーが付いていない)
1月11日(月曜日) 10時15分発の飛行機でプンタレーナス(Punta Arenas)へ。
スペイン語で「砂の岬」と云うらしい。チリの陸続きで最南端の街だ。
パナマ運河ができるまではここは結構栄えていたようだ。
2012年現在では人口は約12万7千人。フエゴ島を挟んでアルゼンチンがあり、アルゼンチン領のウスアイアの方がさらに南に位置する。
地元民の話では子供たちのことを、男の子はマガジャネコ、女の子はマガジャネカ、つまりはマゼランの子と呼ぶのだと教えてくれた。
ホテルロカ 一人 1200ペソ=4.76㌦=619円(税抜き) 1㌦=252ペソ 20㌦両替
Café Monacoで昼食。
サンドイッチ(チュラスコ、トマト、アボカド)340ペソ=1.35㌦=175円
Cafe con leche(ミルク入りコーヒー) 120ペソ=50cent=60円
1月12日(火曜日)
朝食後、旅行会社を回り。ニューヨーク出発前の目的であった南極行を探す。
鈴木さんも行きたいとのことで一緒に探した。
何軒か回ったがある旅行会社の人から耳寄りな話を聞いた。「3日前の新聞を見てないのか、そこに南極ツワーのことが出てたぞ」
俺はスペイン語の新聞なんか見てないよ、と心の中で叫びながらその新聞を探した。
そして、Urtoramar(船会社)へ行きそこの社員Ms.Rosa とMr.Fussarに南極旅行の話を聞く。
*最近は飛行機による南極ツワーがあるらしい。
1月13日 (水曜日)
この日も朝からUrtoramarへ。彼女はすっかり私の担当者となったが、彼女は英語が出来ること以外全く何も答えられず、質問の度にサンチアゴの関連ある旅行会社に電話して聞くのだった。
あまりに面倒なので彼女に私に直接話をさせてくれとお願いし、結局最後は私が会社の中に入り、直接電話をしていろいろ聞いた。
つまりは、二人分の空席はあります。金額はキャッシュでしか受け取れません。料金はドル払いで一人3155㌦=410.150円 出発は1月30日、朝迎えに行きます。
25日にチケット発行するので取りに来てください。 チリ領最南端の軍港プエルト・ウイリアムス(Purto Williams)まで飛行機で行き、そこから南極行の船に乗るのだ。
そこまでの飛行機代 127㌦=16510円。 プエルト・ウイリアムで95㌦と書いてあるが何のことだったかわからない。こんなやり取りをしてとりあえずこの日は終わった。
昼食、フィレミニオン -1300ペソ=5.16㌦=670円 サラダ- 400ペソ=1.6㌦=206円
ワイン(ボトル)1本‐1600ペソ=6.3㌦=825円 鈴木氏と一緒だと贅沢だ。結構おいしかったけどね。
午後museoに行った。大したことない、と日記に書いてあるだけでどこの美術館か博物館かわからない。
町はとても静かで落ち着くところだ。
1月14日(木曜日)
朝一でMS.Rosaに支払いの件で電話。結局昼Urtoramarへ行き、電話を借りてサンチアゴの早乙女氏にお金の依頼。
つまり、早乙女氏の日本の口座にお金を振り込む。振り込まれたと早乙女氏が確認したらサンチアゴの会社に支払いをしてもらう。
勿論早乙女さんにはそれなりの手数料も払うという段取りだ。早乙女さんに快く了解してもらった。
これで一安心とプエルトナタレス(Puerto Natales)へ向かう。1600ペソ=6.3㌦=825円
約4時間、道が悪く時間がかなりかかった。
ここは人口約2万人の小さな町だがパタゴニア地方のパイネ国立公園につなぐ町なので欠かせない。(Parque nacional Torres del Paine)
明日はカラファテ(Calafate)へ。ペリト・モレノ氷河(Gaciar Perito Moreno)大きさは約250㎢。
Bus Surでチケット購入した。32US㌦=4160円。信じられないくらい高い、が仕方なし。ホテル1500ペソ=5.95㌦=774円 食事;ビール150ペソ=59cent=77円
ビフテキコンウエボス(Bistec con Huevos)500ペソ=1.98㌦=258円
最近は飛行機による南極ツワーがあるらしい。
1月15日(金曜日)
11:00 ナタレス発。バスの乗客2人、俺とドイツ人。運転手2人。アルゼンチンとの国境で乗換。2時間待たされた。途中、マテ茶が運転手より回ってきたがドイツ人は毒入りかもと断る。
俺は彼らが作るところから飲むところまで見ていたから、ま、大丈夫だろうと思った次第。
Rio Turbioで昼食、アルゼンチンのお金を持っていないので両替場所を運転手に聞くと、ここにはないと云って昼食をごちそうしてくれた。
食後、3時半ごろ出発。悪路、悪路、悪路、途中水かさが増し小さな川となっていたが気にせず水をかき分けながらバスはそのまま進んだ、まいったね。
8時半着。約9時間半のバスは疲れた。早速ホテル探し。まずは両替。1㌦5.20アルゼンチンペソ
100㌦両替した。ホテル20A=3.8㌦=500円 夕食はステーキ14、サラダ7. ビール4締めて25AP=408㌦=625円 翌日の朝食は5APeso=96セント=125円
1月16日(土曜日)
ペリト・モレノ氷河(Gaciar Perito Moreno)大きさは約250㎢
12月~3月ごろまで、つまりアルゼンチンの夏場にはこの氷河が地鳴りとともに崩れ落ちます。
ビルの20mくらいの高さでしょうか?とにかく圧巻です。行く価値ありです。
バス代 50AP=9.6㌦=1250円
1月17日(日曜日)
6:30 Rio Gallegoへ。 バス代44Ap=8.46㌦=1099円 1時過ぎに乗り換えてRio Turbioへ。
43.5AP=8.36㌦=1087円 Rio Turbio乗換、国境へ。バス代 4Ap=77セント=99円
ボーダー(国境)乗換え、バス代5Ap=96cent=124円 Pto Nataresまで200p=9㌦=1181円
乗換えだけでなくアルゼンチンとチリのお金の貨幣価値で目まぐるしく、大変だ。
宿泊はResidencial “ Temco” 800P=3.17㌦=412円
電話代 120p=47c=61円 (どこに電話したかは書いてないが、たぶん南極の件で鈴木さんに電話したのだろう?)
食事はここから近いレストランに行った。サーモン750、ミックスサラダ250、ガトブランコ(白ワイン)
1本750 計1750P=6.9㌦=902円
Pineパイネ国立公園まで往復キップ 3200p=12.6㌦=1638円 片道だと 1800p=7.14㌦=928円
1月18日(月曜日)
夜7時 PINEへ出発した。12時頃着。ホテル1泊 14㌦=1820円(ドル払い)
でドミトリー式 -シャワーなし。
さすが、国立公園!? ぼったくりだ!! かなり寒い。仕方なし、洗濯をした。
1月19日(火曜日)
とりあえず買って置いた物で朝・昼食。歩けないくらい風邪が強い。とにかく馬の予約。
夕食は仕方なくホテルで取った。
ミルク1杯(俺がミルク?)、ステーキとサラダ 1800P=7.11㌦=928円 これでこの値段??
1月20日(水曜日)
7時起床。頼んでおいたのに起こしに来ない。7:30に馬を予約したスイス系ドイツ人の家に行き
朝食。昼食のサンドイッチも含めて500ペソ=1.98㌦=257円 馬代(ガイド込み)ドル払いで
18ドル=2340円 前日予約の時、女性のオーナーに朝食と昼食のサンドイッチをお願いしたが断られた。それが出来ないならこのツワーは止めると云うと、しぶしぶ了解した。
しかし何の変哲もない、超簡単なサンドイッチだった。
吹きさらしの平原を馬でトボトボと向かうのだが手綱を持つてがかじかんで上手く持てない。馬のたてがみに手を包むように当てそれを交互にしながら進んだ。
風が急に強く吹く度に馬がおびえてのけぞるので手綱をしっかり掴んでないとないと振り落とされそうになったが、いかんせん寒すぎなのだ。
彼らはそれを知っているんだから手袋くらい用意してくれるか、前日に教えてくれても良さそうなものだ。
ちょっとした丘に登りながら景色に見とれていると、馬が上手く避けた木に当たる始末だ。
「教えてくれよ!?」 この吹きさらしの草原を3時間(18キロ)かけてようやく目的地に着いた。
そこも砂嵐でほとんど目を開けられず、フードをかろうじて視界が取れるところまで上げちょっと景色を見ては背中向きにを繰り返し見学。
よくこんなところで昼のサンドイッチ食べたなぁと思い出すたびに我ながら感心した。ガイドの若い男はじっと馬の番、俺が「帰ろうか」と云うのを待っていた。
3時ごろに帰って来たが、馬が自分の家が近づくと並足から早足になり、いななくと馬小屋につながれた仲間から返事が返ってくる。
どんな会話かわからないが「帰って来たよ」「疲れたよ」・「お帰り」「お疲れさん」何てことかな。とにかく、しっかり手綱を持ってないとスピードを上げるので油断できないし、危険だ。
その足でナタレスへ向かう。バス1500ペソ=5.95㌦=774円
ナタレスのBus Surでチケットの払い戻しを頼んだができないと云う。とにかくプンタアレナス(Punta Arenas)への切符に変更し、〝Temuco″へ。
食後町で以前ここで知り合った美人のEdyとばったり会った。「泊まるとこは?」「まだ決めてないよ」
彼女の友達の家が泊まれるからと案内してくれた。何故か彼女がカギを持っており不思議だが、「まっいいか」。俺は女性に目が曇る。ラッキーの一言。
1月21日(木曜日)
6時起床、7時発、プンタレーナス着11時前。以前泊まっていたホテルへ。ここのオヤジ(主人)は面白い。
部屋に入ると誰も居ないのを見計らって、軍事政権を批判、俺に中曽根(たぶん中曽根の時代)はどうだ?と聞いてきたのには驚いた。そんな話を何度かした。鈴木氏は居た。再会だ。
昼食はメルカード(市場)でウニ 500P=1.98㌦=258円 どんぶり一杯でこの値段だ。
ステーキ 600P=2.38㌦=309円
最初ここでウニを食べないかと勧められたとき、「醤油があったら食べるよ」「あるよ」本当にキッコーマンの醤油が出てきたので驚いた。どうもブラジルで生産されているらしい。
1月22日(金曜日)
ウルトラマル(南極)のチケット支払いの件確認。早乙女氏にお礼の電話。豪華に夕食。
この辺り、プンタアレナス、ナタレス、パイネ、テムコ、カラファテ等々、どこに行っても風が強く、特に午前中に強い。夕方から治まり人々が出だす。23時頃まで明るい。
午前中強い日差しで、公園などで、半袖シャツで日光浴してても急に空が曇天になったと思った瞬間に雪が舞い散り震えるほど寒い。しかし、ここの住民は誰も手袋もマフラーもしていない。
1月23日(土曜日)
いつもと変わらず、アリシアとアマリアに逢う。
1月24日(日曜日)
アリシア、アマリアから彼女らの家族を紹介してもらう。
紅茶とクッキーでもてなされるが一体誰が働いているのかわからない。確かに若い働き手がいるのだが?
ニャンドウ(ダチョウとよく似ている)の大きな卵を二つくれた。勿論国立公園内から勝手に取って来たのだから問題はあるが、すごく貴重なものをくれたのだった。
どうやって中身を抜いたのか、まさに針の穴から根気よく中身を抜いたのだろう。色はグリーンがかったブルーだ。一つを南極ツワーで知り合ったカメラマンの榎本氏にあげた。
自分の分は壊れないよう丁寧防寒用のブーツに入れさらに丁寧に包んだ。
榎本氏に日本に持ち帰ってもらったが、後日彼の家に行くと、自分のは壊れたのでと俺のを自分のものにしていたのには開いた口が塞がらない。
自分の壊れたのを継ぎはぎにして交換してくださいとは恐れ入った。
「結構です、捨ててください」と言い残して彼の家を後にした。
午後、引越しした。キッチンが使えて800P=3.17㌦=412円 6日の契約か1日の契約か覚えていない。
いずれにしても安い。
1月25日(月曜日)
チケットを取りに行く。 ようやくこれで安心と、乾杯好きの鈴木氏がとにかく乾杯しましょうと「乾杯!!」した。
100㌦両替。
1月26日(火曜日)いつも行くコーヒーショップで日本人らしき男がいたので声をかけた。彼が榎本氏だ。
彼も南極に行くということだった。勿論彼は南極に行くために日本から来たツワー客だった。
1月27日、28日 いつもと変わらず。100㌦両替
24日から29日まで、ほぼ毎日アマリアとアリシアの二人と昼夜遊んだ。
29日に夜天婦羅を作ってアマリア、アリシア他みんなにふるまった。
天婦羅ソースは何もないのでラム酒で作った。当然、鈴木氏、榎本氏らにはこんなのソースではないと不評だったが他の人たちはおいしいとたくさん食べてくれた。
ナンダカンダと云いながら鈴木・榎本両氏も食べていた。当たり前だ。お前らなにもしないで食べるだけだから、嫌なら食べなくて結構!!
アリシアの家へ行き、榎本・鈴木、アマリア、アリーナ姉妹、他子供たち、彼、彼女たくさんの人たちと雑談、2時帰宅した。 ありがとう!!
1月30日(土曜日) 南極へ出発の日だ。
8:30起床。10時30分までウルトラマールの迎えを待ったが来ず、飛行機の出発時間が11時なので近所の人に頼んで車を探して、大急ぎで空港へ向かった。
送ってくれた人に2000ペソ払った。
2000P=7.9㌦=1031円 の余計な出費だ。 これがラティーノだ。あきれるしかない。
あとで来たロサに何をやってるんだと文句を言ったが、簡単に「ごめん」で終わった。
結局飛行機は50分遅れで出発。ロサは知っていたのかも?
午後1時にプエルトウイリアムス(Puerto Williams)に着いた。バスでホテルへ。
ここの気温は1年を通して極端に寒くなく当然暑くない。
チリ最南端の島で軍港だ。私が行った頃は人口約1000人、現在の人口は約2000人。ほとんどが軍関係者。
マガジャネス大学のキャンパスもあり、世界最南端の大学と云われている。
軍港なので写真撮影は厳しい。昼食後散歩。何もない閑散としたところだ。
途中ヨットクラブがあり、そこの管理人(若い男23歳)としばらく雑談した。
野村と云う人がここに来たと記録にあった。世界一周旅行?
そうそう、ここにもう一つ面白いものがあった。それは、ビーバー(和名;海狸)の肉料理だ。
もともとここ南米には生息しないビーバーが何故いるのかと云うと、1940年代にアルゼンチン政府が毛皮を目的としてアメリカビーバー50頭をフエゴ島に移入したが天敵がいないために
今ではあっという間に10万頭以上に増え、環境破壊。
困り果てたアルゼンチンとチリ政府が駆除に乗り出している。
肉は食用にしているが表で料理しないと半端ない、とてつもない臭いだそうで、話のタネに食べてみたかったがめったにやらないとホテルの者が言っていた。
1月31日 いざ南極へ!!
5時乗船。 12時出発。
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