11月21日 土曜日 第19話
朝から雨。8:00バスでラパスへ向かう。
途中船で向こう岸まで50センタボス。
ラパス5:30(現地時間―時差1時間)到着。憲法上の首都はスクレ(sucre)だが今は最高裁判所しかなく、行政・立法府があるラパスが事実上の首都となっている。
キャッシュ $5、チェック$20 両替 1㌦2.15
ホテルイタリア 5.5ボリビアーノ(bob)=2.5㌦=334円 食事15ボリビアーノ=7㌦=910円
何を食べたか書いてないがやたら高い食事だ。
街は非常にごみごみしていて汚い。ここは先住民が多い印象で民族衣装が際立つ。
ここラパスは標高が高いので(富士山の頂上)坂道を下りまた、上まで上がるとかなりゼイゼイする。
11月22日 日曜日
今日はあまり人混みはない。休日だからだろうか。
昼食を日本人会館へ行った。きつねうどんとカツ定食。17/bb=7.0$=1027円
ここは全体的に物価が高い。
夕食は中華。どこにでも中国人はいる。
Sopa con tallain 春雨のスープ 3.5/bb=1.6$=211円
ここで20㌦両替してもらった。 トイレットペーパー 40センタボス
11月23日 月曜日
両替をしようとアメリカンエキスプレスに聞きに行ったら、そこの若い男が闇両替屋を教えてくれた。
「えっ!?」「ほんと?」とにかく3人で行ってみることにした。
確か雑貨屋だったと思うが入り口には民兵が自動小銃を構えて立っており、中に入るとドアの前に怖そうなあんちゃんがまた銃を持って立っている。両替に来たというと中の部屋に入れてくれた。
中には大きないわゆる社長の机がそびえそこにボスが座り、周りを子分どもが取り囲んでいる。
「両替か?」「そうだ」「いくら替える」3人で300㌦以上替えたと思うが、面白いことにボスが
紙幣にサインをして「俺のサインがあるのは偽札ではない証拠だ」なんだかわけのわからない、でも何となく納得してしまう言葉に店を出てから大笑いした。
Koli #319 Bet/ potosi &mercado yunacoha 両替 $500 =¥65000
Miyuki – Between Rocendo Gutieres & calle Agosuto6 角
みそ/8=$3,7=480円 カレー/8.96 昆布/12 日本茶/12 ブラジル製/10 日本製/18 ふりかけ/5
これは何のために書いてあるのかよくわからないが、たぶんミユキで売っていた値段だと思う。
ブラジル製と日本製がもっと意味不明だがとにかく書き残しておきます。
11月24日 火曜日
LAPAZ 8時発 → PUNO 着 4時30分 夕食 インターナショナルホテル
汽車が高く、punoまで B/26=$12=1570円 渡し船 C/50
11月25日 水曜日
5時起床、6時駅に行き並んで切符買う。
知り合ったペルー人の女性が一緒に予約してくれた。
ホテルに戻り、洗濯、後一寝入り。9時半に予約のチケットを取りに行った。
Pluman(バス会社) アレキパまで I/240=$4.1=¥535
夕食後 7:45 出発 雨だ。
11月26日 木曜日
Arequipa(アレキパ)6時30分着
朝食 カフェコンレッチェ(ミルク入りコーヒー)&サンドイッチ I/25=$0.42=¥55
朝食後すぐに バスORMENO(オルメーニョ) → TACNAへ チケットI/97=$1.6=¥215
8時30分発 → 2時30分ごろ着。 アリカまでコレクティーボで I/120=$2=¥267
いよいよ南米最北端の国チリーアリカに到着。アタカマ砂漠北部で乾燥地帯非常に暑い。
カジノの前のアパート、怪しげなオヤジの家宿泊。700ペソ=2.8㌦=374円。
朝食150ペソ=0.6㌦=80円。 1㌦=243ペソ → サンチァゴでは1㌦=255ペソ
11月27日 金曜日
午後街をブラブラがてらインフォメーションセンターでサンチァゴ行のバスをチェック。
アイスを売っている店 1袋100ペソ=0.41㌦=53円
⒙SeptembureからGeneral Lagosに下って1つ目の角の店
11月28日 土曜日
バス停でチケット購入 7000ペソ(朝と夕食付=28.8㌦=3745円
アルカリ電池購入 530ペソ=2.18㌦=283円 (4個入り)
午後海へ。あまりに暑いので海に行ったが誰も泳いでいる気配なし。しかしあまりに暑いので
海に入ると氷水だ。我慢して何事もない、気持ちよさそうな顔をして少し泳ぐ。後藤、牧田両氏が
聞く「どう?」「めっちゃ気持ちいいよ」彼らも行って水に入った途端あまりの冷たさに「ひゃ~」。
これはサンチァゴのプールでも同じだった。 夜カジノを見学。
11月29日 日曜日
サンティアゴ行き 9時発。途中荷物検査3回、夜中の3時にもあった。完璧な寝不足だ。
食事は2食付きだがひどいものでまずいご飯とまずいチキンだけ。期待する方がおかしいかも。
11月30日 月曜日
首都 Santiago(サンティアゴ)着 午後3時30分。約30時間のバスの旅。バスの苦手な俺がよくも乗ったものだと我ながらびっくりしている。
大学時代も駅から学校までの10分くらいでも酔うし、社会人になっても、東京―苗場スキー場まで何回嘔吐したことか。酔い止めを飲んで、酒飲んでこれで大丈夫だろうと思ったが同じだった。また、当時アメリカンフットボールをやっていて試合会場の千葉までで酔い、真っ青な顔色。みんなは試合で緊張してると思っていたようで「大丈夫だよ、心配すんなよ」と声をよくかけられた。
途中アタカマ砂漠越えで暑いし、窓は開けられないしでまいったね。今は快適なバスだろうけれど。
そのまま、trismoに行きサンティアゴの案内を貰う。
この国は当時「軍政」。陸軍のピノチェト将軍がアメリカ、ニクソン政権とCIAの後押しで、社会主義を目指していたアジェンデ政権を奪い取ったのだった。アジェンデ大統領はモネダ宮殿を爆破され爆死とされているが、ピノチェト政権は自殺と発表した。(死体解剖拒否で真相わからず)
一党独裁の強権政治の始まりだった。
街中に秘密警察(DINA)や密告者があふれていた。徹底した左翼狩りをし、ちょっとした発言も容赦なく連行され、首をナイフで切られて街に放り出される始末だ。サッカースタジアムが臨時の強制収容所となり、水も食事も与えられず放置したり拷問したりと殺害された。
有名なのはワシントンDCで車ごと爆破された元外務大臣。そのほか有名な歌手やノーベル文学賞を受賞した詩人、数多くの著名人が命を落とした。クーデター後から詩人パブロ・ネルーダの葬儀までを映画にした「サンチャゴに雨が降る」。「ミッシング」も有名。他にもたくさんの映画がある。
とにかく、バーやレストラン等々とにかく人込みの中では政治の話は禁句だった。
一体でどれだけの血が流れたのだろう。
因みに、チリの「9.11」は1973年9月11日のクーデターを指す。
アメリカによって軍政の恐怖政治が始まったわけで、民主主義の国アメリカがテロを受けた?
9.11は我々チリ国民がアメリカによってテロを受けたのだと冷笑する。
閑話休題
食後、聞いていたレストラン兼宿「早乙女」に向かう。1泊3ドル=729ペソ=390円
実際はドル払いが少し安かった。安定しない通貨ではドルが一番安心だかだろうからね。
部屋はドミトリー、一部屋に確がベッドが7~8あったように記憶している。
朝食対だったかな? 紅茶とパンのみ。
たぶん宿の名前は「早乙女」でレストランはハポン(restaurant Japon)」。近くの駅は確か、バケダノ(Baquedano)で駅から6,7分くらいだろう。
「ホテル日本(Hotel nippon)。ここは私の時はなく現在はレストランとホテルは目と鼻の先にあるようだ。
近くに大きな(parque ines de suarez)公園があった。ここは何度も足を運んだ。
さて、お金が底をつきはじめニューヨークに何度も連絡をするが通じず、困って都レストランで働いていた小川さんにも二回電話したが連絡なし。後でわかったことだがこのときアメリカとチリの銀行がうまく仕送りができなかったようだ。とにかく国際電話と電報は高くついた。
メリーとソレラと知り合う。
12月1日 火曜日~5日 土曜日まで → 1月7日(木曜日)までサンチアゴ。
1㌦=P/243 正月過ぎてから1㌦=P/255
毎日周辺を歩き回ったり電車でアチコチ。 プールも三ケ所行った。若い女の娘に道を聞いたとき、プールに行けるなんてと羨ましがられた。どのプールにも若い人しかいなかったが人数は少ない。
曜日のせいだろうか? また、水着も全くファッション性がない。(ブラジルは過激すぎるかな)そして水はあまりに冷たく泳げない。
サッカー場や温泉にも行った。冷泉だった。大したことなく特記するものなしと日記に書いてある。
知り合った彼女と遊園地へ行ったが入場料金だけで乗り物はすべて無料だった。大したものはなかったが当時のこの国では当たり前だろう。でも十分楽しめた。また、あるとき散髪に行きたいと言ったら、散髪街に連れてってくれた。確かビルの一階から2階まで(ひょっとしたら3階まで在ったかも知れない)何軒あったかはわからないが、とにかく床屋だらけだ。「どこにする?」と聞かれてもわかるわけなく適当に選んでもらった。中に入り、さっそくカットが始まったが横で彼女があれこれ床屋に指示しているのにびっくり。ま、彼女が気に入ったヘアースタイルと云うことでことなきを得て、コーヒータイム。表に出てしばらくしてから喫茶店にサングラスを忘れたことを思い出し取りに行った際、彼女が私に任せてと一緒に入って行き、「ここに置いてあったサングラスを返して」と問答無用の口調だ。
返してもらい、店の外へ出ると、彼女は曰く、ここでは「ありませんでしたか?」では相手は「ありません」と答えるというのです。おかげさまでサングラスは手元に戻り勉強にもなりました。
お金がようやく(三週間後)に着く。2回目も同じだ。コミッションはニューヨークの銀行で20㌦取られチリの銀行で33ドル取られた。チリの銀行に口座がないためだ。それを先に聞いていれば口座を用意したのに。別に彼女の口座でもいいのだから。
ウベリンダとジニアと知り合う。前の二人もどこでどう知り合ったのか書いてないし、記憶もあやふやだ。
公園の中を散歩がてら中華レストランに何回か行った。最初、ザーサイを注文するのにウエイトレスにいろんな発音をしても通じず、漢字で書こうにも思い出せず、でも何とかそれらしき字を書いてシェフに渡し、直接中国人の彼といろんな発音をしてわかってもらえた。暇だから時間はいくらでもある。ご飯とお茶と搾菜だけ注文。久しぶりのお茶漬けで美味しかったので何回か行ったが、嫌な客だね。韓国料理も行ったような記憶があるが定かではない。メルカード(市場)でもよく食事をした。よく行く店のウエイトレスに名前を聞かれ「ショーン」と答えたら後日あなたは私に嘘をついたと怒って来た。他の日本人に聞いたら違う名前を教えられたとのこと。私は当時ニューヨークに住んでおり(通算で18年住んでいた)洗礼名として使われていた名前。だからいろんな免許にはこの名前が使われていたのだ。早乙女に居た多くの日本人はそのことを知るはずもない。彼女に写真と名前が入っているのを見せ、面倒だが説明した。彼女に笑顔が戻った。
夏のサンチアゴでのクリスマス、町を歩くとアチコチの窓からメリークリスマス(フェリスナビダFeliz Navidad)の声が聞こえる。こちらもフェリスナビダと返す。でも暑くて何だかなぁ!? 正月も何てことない。日付だけが正月なのだ。因みにハッピーニューイヤーのスペイン語はアンニョヌエボ(Año Nuevo)
です。街中を12時頃まで歩いたが人出もあまりなく、ひっそりとしたものだった。
早乙女さんが正月帰国しヒューズ(布施)が寿司刺身担当。2日と3日だけ俺もやることになった。仕入れ先が決まっており、朝タクシーで市場に行き前日紹介されている店で買い物。タクシーで戻る。夜、宿にいる者たちの刺身も作るがチリ人の奥さんがうるさいのであちこちにネタを隠して出したりした。レストランは大使館がたくさんある地域なので客層が良く値段もそこそこ取っていた。だからホテルを建てられるほど大儲けしたのだ。
5日は市場へ買い物と仕込みだけやったのだが支払いはなかった。ケチな奥さんにはまいったね。とだけ書いてある。
4人の綺麗な女性との楽しかった毎日、別れるのは寂しいが明日はプエルトモントモント(Puerto Montt-プエルトモンとも云う)へ出発だ。