中年オヤジのバックパッカー 中南米旅行記 3

2016-02-28 10:42:39 | 日記
回想(機内で) NY→MEX 38000円

機は快晴のラ・グアディア空港を定刻通り飛び立つ。
マナハタンの街並みが眼下ににせまり「いよいよかぁ」となんだか感慨深けになり、旅立ち前のさまざまな想いが蘇って来た。

メキシコを始めとする中米から南米への憧れは子供の頃から、歴史の時間、写真、テレビ等々で充分過ぎるほど持っていたが、アメリカに来ていろんな州を観たり、ヨーロッパの国々を訪問したりして“Seeing(見る) is(ことは) believing(信じることだ)”の格言どおり「行かなければ見られない、見なければ真実が見えない、だから行く」。
旅行好きとはちょっと違う。はっきり言って、町に着く度に最初の仕事が安宿を探して何軒も歩くバックパッカーなんて私の性に合わず大嫌いなのだから。
想像してください。
炎天下の中や雨の中重い荷物を背負って、何軒も歩いてやっぱり最初の所(とこ)が値段的にも清潔さにおいても一番だと思って戻るともう誰かに決まっており、また探し歩く姿を。

「よしっ、行こう!!」と決心したのは1年前で、ニューヨーク市で最も古い由緒ある日本レストランでアルバイトをしていた時だった。
 (因みにこのレストランで湯川秀樹博士のノーベル賞受賞パーティを開いたとのこと)
)この頃はもう代も変わりお世辞にも綺麗とは言いがたく、また美味しいとも言い難い店だったが、ミッドタウンのど真中、カーネギーホールも近く、大きなホテルもたくさんあり地の利で私がいた頃は結構繁盛していた。
ウエイター、ウエイトレス、デリバリーマン、ディッシュウォッシャー等々の職に入れ替わり立ち代りいろんな人がやって来るが、そのほとんどが日本人だと旅行者か留学生くずれ、タイ人、インドネシア人、そして中南米(圧倒的にメキシコ人)からの出稼ぎ者だが、オーナーの人柄か従業員はいい奴が多く、・・・と云うか訳のわからない面白い連中いて愉しいところだった。
そんな中、中南米旅行経験者がおり話を聞くのに事欠かなかったし、他のレストランで働いている旅行経験者達からもいろんな話を聞いた。
勿論中南米出身者いわゆるアミーゴ達からも情報は得た。
アミーゴ(女性はアミーガ)はスペイン語で友達の意味だが一般的にはスペイン語を話す中南米人つまりスパニッシュのことだ。(ヨーロッパのスペイン人にはここではあまり使用しない)
これで必需品や様々な費用の算出も大まかではあるが出た。
しかし、その人(日本人や現地人も含めて)によって育った環境の違いや年齢等で見方、感じ方にかなり差があるため、幅広く数多くの人達から情報を得た結果だった。
「あっ そうだ」機内で思わず声が出た。
メキシコ人の友人マルガリートからアカプルコに住む義母宛てのお金の入った手紙を預かったのだ。忘れずに持ってきただろうか?
不安になり目を閉じたままそっと手探りに秘密のポケットに手を当ててみた。
「あった!」安堵とともにラ・グアディア空港に近い友人の中台家でのあわただしい朝の詰め込み作業が思い出された。(彼にはその後もずいぶん世話になったが)

マルガリートとは約1年後にニューヨークにも戻った際、暫く一緒に元いた店で」働いたが、皿洗いからてんぷら揚げ担当になりとても誇らしげに喜んでいたのが忘れられない。
その後私の生活も変わり疎遠になったが3、4年経った頃だろうか、5番街でばったりと出くわした同僚だったメキシコ人チェビオの話では新しく始めたビジネスのトラブルで喧嘩になり射殺されたとのことだった。
とても陽気な男だったが幼子をかかえたマルガリートより細くて小柄な奥さんはいったいどうしたのだろうと気になり彼に尋ねたが残念ながら何も知らなかった。

さて、秘密のポケットだが以前ヨーロッパを旅するときに考案した物で二丁拳銃のガンベルト風になっておりズボンの下につけられるようにしたものだ。
ポケットの位置をズボンの位置と同じにしているため少し膨らんでいても不自然ではない。
まず、スリの被害にあわない、パスポートやトラベラーズチェック等の貴重品、そしてその日使用しない現金を入れておくのに便利。“優れもの”と自画自賛している。
もう一つは膝の下、ふくらはぎのトップ。ここにずり落ちないように工夫した小さなポケットも考案した。ここには現金だ。絶対見つからない!!!
これを作るとき、仕立屋とクリーニング店をやっているトルコ人の友人イスマイルの所へ持っていくと、彼は私がここをこうしてと指示するたびに日本人は頭がいいと何度も繰り返し、日本車とか、エレクトロニクス製品を加味して妙に感心しきっていた。
彼は私がスーツやズボンの直しを頼むと、友人だからとお金を取ることを拒んだが、今俺は払えるお金を持っている、困っているときはそう言って助けてもらうからと言ってもなかなか承知せず困ったが、君は商売しているのだから、技術と労力、そして時間を使っているんだから納得してもらい安くするということで話はついた。
しかし安さはべらぼうで申し訳なく、次回からは友人の頼まれ物だと言って持って行くとそれでも安くはしてくれたがちょうどいいマケ具合だった。

エクアドル人のラファエロは私が勤めていた店の中では一番英語が出来たが、容貌と云うか風貌と云うか、無口(実際はよくしゃべったが)と思われており、皆から暗い奴、文句の多い奴と言われていた、が、彼の要求は正論であり、話すと結構面白い奴だった。彼の仕事はデリバリーで近隣の地図に明るく、彼に「近々中南米を旅する予定なんだよ」「南極も行きたいと考えているんだよ」「すべての中南米の領事館の場所わかる?」と尋ねると彼は何で店を辞めてまで中南米なんかに行きたがるのか不思議そうだったが、その話を覚えており、後日すべての領事館の住所と電話番号を書いたものを渡してくれた。しかも別の日には南極の資料まで探して持って来てくれたのだ。
さらに出発前には“サウスアメリカンハンドブック”という中南米旅行者のバイブル的本をプレゼントしてくれた。しかしこの本は高い。彼の少ないチップからの出費はかなりの痛手だったに違いない。感謝と感激を表すと、彼は外国人特有の少し首傾け大きく横に振りながら手も大きく広げ“No(イヤ),No(イヤ),No(大丈夫),No proburema(問題ない)”を連発しハニカンでいた。
帰米後彼の所在は誰も判らなかったが10年経った頃ウエストサイドの23丁目辺りでばったり出くわし、お互いに驚くと共に再会を喜びあったが、互いに時間がなく電話番号を交換したが後日電話しても不通になっていた。
ラファエロは以前より少し垢抜けてはいたが相変わらずで仕事もデリバリーマンだった。

閑話休題;
本の話の蛇足だが日本からやって来る旅行者のほとんどが持っている旅行案内書は彼らにとってバイブルに等しいようだが、笑ってしまうのは「ここは日本人に知られていないいい場所」「ここは日本人に出会わないいい所」「日本人観光客の行かない取って置きのスポット」と書いてあることです。
本にでれば意味をなさないし、同国人に会って何が悪いんだ。
居ても居なくてもいいところはいい、綺麗なものは綺麗だと思うのですが。
実際日本人がたくさん居ると外国に来た気がしない、シラケルと云うがじゃあ「何故ハワイ?何故グアムは?」みんなが行くような観光地は必ず日本人はいますよ。
しかし、トラブルが起こると日本人を探しまわり頼るのだ。
諸外国を旅するとちょっと立ち止まってキョロキョロしていると声をかけてくれる人が多く私もずいぶん助けてもらいましたが、日本人が日本語で「どうしました?」と言っても知らん顔ですが、いわゆる外人顔だと答えます。
でも私が英語で声をかけると振り向きます。やはり島国なんですよね。
2,3日和食を食べないだけで「久しぶり、なつかしいナァ」って聞くとなるほどと云う感がありますね。
なんだか面白いなぁ。

本の話でした。続きですがあの本には経験談がたくさん掲載されておりますが確認をとってないのでしょうね。
投稿者が誤解していたり、悪意を持って嘘を書いたりしている人もいるため小さいですがトラブルにあった人もたくさんいると聞きました。
例えば本を頼りに行ったホテルが無かったり、汚かったり、ぼられたり、盗まれたりと、従業員による被害が続出していたところだった。
大使館や領事館の場所が間違っていたりと情報にでたらめが多いようです。
私は「地球の迷い方」と呼んでいます。(私が旅したころの話です)
でも役立ってるところも沢山あるようですよ、念の為。

ゴーーーと切れ目なく耳障りな音の中に目を閉じたまま出発までの様々な出来事が何故か走馬灯のように出ては消え、消えては出て。
機は一路メキシコへの経由地テキサス州ダラスへ向かっていた。
ダラス空港では当時すごく人気のあったドラマ“ダラス”と同じくテンガロンハット姿の(西部劇でお馴染のカ-ボーイハットですよ)男性が多く「さすが」と行き交う人のスタイルを楽しみながら乗り換えの時を過ごした。

中年オヤジのバックパッカー -旅行記中年米編2

2016-02-20 10:50:13 | 日記
旅立ち前ー2

迎えを頼んだ日系人の彼は非常に不機嫌な顔で来た。
朝になってもその不機嫌さは変わらずブスっとして口も聞かない状態だった。
奥さんに「どうして?」と理由(わけ)を聞くと「ケガをしたから」と云うことだった。
パーティを台無しにしたには違いないが何だかこちとらも非常に不愉快だ。
早々に帰宅したいので送ってくれと言うと返事も無く、マンハッタンまでさほどの距離ではないのに駅で降ろされた。タクシーを呼べと言われないだけましかナ。
頭部にはグルグルに巻かれた包帯が痛々しく、どうにかなりそうな頭痛が絶え間なく襲ってくるというのに―。
因みに奥さんは現役の看護士だったがケガした当初から帰宅までの行動を考えると
「ホントに看護士?」と疑いたくなる態度だった。
そして夢遊病者みたいにフラフラしながら、電車を乗り継いで気合でアパートにたどり着いたが、部屋に入るなり服を着たままベッドに倒れこんでしまった。

病院から言われた通り4、5日して抜糸に病院に行ったが勿論ニュージャージー州ではない。
紹介された病院は綺麗なところだったので安心したが、手荒く抜かれた痛みは今だ残っている頭痛に拍車をかけた。
だがそれより困ったのはちょうどカギ裂きになった10センチ四方のヘアーがカット(剃りこみ)されており、そこに縫い目に沿ってバンドエイドがちょこんと貼られたことだ。
どう見てもまったく大したケガではないようで友人達も話の割には「なぁ~んだ」と云う顔を会う奴、会う奴にされた。
しかし、もっと深刻な問題があった。 
と云うのもケガをした側(ちょうど頭の右半分)が麻酔にかかったままで感覚がない。しかも何か変に痒いのだ。
このまま心配事をのこしたまま旅にでることも出来ずNYU(ニューヨーク大学)の病院に勤めている知人にドクターを紹介してもらい診てもらった。
受付ではいの一番に保険の有無を聞かれた。
前述しなかったが最初の病院も抜糸の病院も同じで払えるか払えないかが大問題。
私の場合保険に加入していたので問題はなかったがアメリカでは国による健康保険制度がないため、ハッキリ言って金の無いものは私立病院等の
いい医者にはかかれない。
以前シカゴで友人が交通事故に遭い病院に運ばれたがその跳ねた奴(申し訳ないが奴と呼ばせてもらおう)が医師で自分が勤めている私立の病院には
運ばず、真向かいにある市立に運んだのだ。
その病院の入ったところにでっかいゴリラの写真が掲げてあり、そこに大きくこう書いてあった。
「前(通りの)の病院はお金さえ払えばサルでも診る」

さて、診察結果は
「脳波は問題ありませんが麻酔の方は神経に入った為消えるのは1年くらいかかるでしょう」
「これから中南米に旅行しようと計画しているのですが」
「旅行しても問題ありませんよ」
しかし、またレストランでアルバイトをさせてもらい体調を整えながら様子をみた。
予定より1ヶ月遅れとなったが頭部右半分に麻酔を残したまま出発した。


バックパッカー 中南米編(想い出)第一話

2016-02-14 14:11:42 | 旅行

旅立ち前

ニューヨーク市クイーンズ区にあるラ・グアディア空港から中南米の旅に出発(で)たのは1978年7月13日で、満37歳の誕生日から1ヶ月後だった。

アメリカに来て7年目、久々の海外旅行である。
計画では、、、と云っても無計画の計画だが一応出発(で)た日を思い出しやすくするために誕生日に決めていた。
だが、誕生日の次の日が土曜日で、友人がパーティをやるから来ないかと云うのだ。当時私はマンハッタンに住んでおり、わざわざ遠くへ行くのはあまり気が進まなかったし、予定の変更もしたくはなかったが、私の送別会と誕生日会を兼ねて“カワイイ娘”も声をかけてあるからのという話に心はすっかり惑わされあっさり承諾してしまった。
これが後、災難となる。
ニューヨーク(マンハッタン)からまずニュージャージー州のニューワークまで行き、言われた通りの電車を乗り継いでだ。
しかし何個目の駅か聞かなかったために必死で止まる駅、止まる駅に目を凝らしながらようやくに着いた。

私が最後の到着者で初めての顔が4、5人居た。(残念ながら約束のカワイイ娘は見あたらなかったが)
紹介が終わりパーティはまずテニスから始まった。近くの短大のコートが簡単に使用できるのだ。軽くプレイ後、戻ってバーベーキュー。
酒もフードも一段落したところで再度テニスをしようと云うことになりまた足を運んだのだが、私は連日の壮行会の呑み疲れと食べ疲れも重なり金網の外で見学。
ダブルスも盛り上がりを見せている中、一人が疲れたから交代をしてほしいと言って来た。雰囲気的に断れず付き合ったのが運のつき、で1ゲームが終わり惨敗。
持ち前のスポーツ精神が出てしまい、今度は自ら2ゲーム目を申し込んでしまったのだ。
すっかりムキになってしまいコートを走り回っていたが酒酔いではブレーキが利かず金網を巻き付けてある鉄柱に激突!!! 
金網デスマッチの様相になってしまった。
額から頭部にかけてカギ裂きにポッカリと割れ、白いTシャツからパンツ、そして白い靴まで真っ赤な鮮血でアッという間に染まり、頭部はタオルで押さえてはいるものの、頭部でしかもアルコールが入っているため恐ろしい勢いで血が吹き出てくるのだった。
みんなオロオロしている中、友人に救急車を頼んだが彼の車で病院へ運んでもらった。
救急車で運ばれていないのでなかなか診てくれない。
文句を言いたいのだが頭がガンガンと連続的に投打されている如く割れるように痛くそれどころではない。
付き添いの二人は3世で言葉にまったく不自由はなく、彼らに早く診てくれるよう頼むのだが順番だからと何もせずにただ黙って不愉快そうな顔をしながら座っているだけだった。
痛みは増すばかりで、イライラも頂点に達し、「もう死にそうだからと何とかしてくれ」と怒鳴り込むように自分で頼みに行ったらようやくに振り向いてくれた。
が、今度は過去の病歴、ケガの状況説明、アレルギー等々の問診が始まった。
もともと英語力が乏しい上に読むのも聞くのも、話すのも容易ではない状況だ。しかも医学用語ときている。
付き添いの二人は無関心に座っているだけ。とにかくいい加減に答えるわけにもいかず、力を振り絞って、必死になって何とか答え問診は終わった。
付き添ってくれた二人にはうっとうしいほどに何だか腹が立ち、素っ気無く「ありがとう」とだけ言って帰ってもらった。
暫くしてようやくストレッチャーに乗せられたが、これからがまた大変だった。
まずこのまま廊下に2時間以上放置された。ようやくに病室に入れられたがそこでまた2時間以上放置。

強烈な頭痛は相変わらずだったがとにかく目をつぶっているしかなく気をまぎらすことばかり意味も無いことを考えていたが、そのときパチッ、パチッと音がするではないか?
何事かと目を開けるとジーンズに白衣姿の男がカメラを手にしきりと私を撮っている。
驚きと怒りの声で彼に聞いた。
” What(何を) a(やって) hell(いるんだ) doing(この) here(やろう)? “ 
いきなり目を開けて怒鳴った私に彼は、びっくり!!「えっ 何!?」と云う顔をしたが、自分の胸元にある名札を指で挟んで少し持ち上げるようにしながら私の目の前にかざし平然と答えた。「俺はここの医者だよ」「保険のことがあるから撮っているのだよ」
と言って、私が次の質問に移ろうとする時には病室から出て行った。

それからどれくらい時間が経過したのかわからないが、かなりの時間が経過した頃男性看護士がやってきてこう告げた。
「もうすぐドクターがやって来るよ」「今日は君が最後のサージュリー(手術)だからきっと丁寧にやってくれるよ」「じゃあ」と言い残して出て行った。
今度は割合早く、その看護士とドクターがやって来た。
「サァ始めようか」と言うと局部麻酔をし、縫い始めた。と同時に二人の会話も始まった。
「なぁ、あの〇〇階のブルーネットでショートヘァーの彼女、名前は… なんだったけなぁ?」
「ほら、○○をやっている背の高いスタイルのいい女(こ)だよ」
「ああ、00にいつもいる女(こ)でしょう?」
「そうそう、あれいい女じゃない?」
「ウム、でも彼女もいいけど… ほらあの○○の… 」 
そんなやり取りが暫く続いて一段落した後、看護士がちょっと用があるからと出て行った。
なんとドクターまでが後を追うように「ちょっと失礼」と出て行ってしまったのだ。
すぐ戻ってきたがまた暫くするとまた出て行く。
3、4回繰り返した。頭部には針と糸が付いたままだ。
“ Hey(おい)! What’s(何を) happened(やっているだんだよ)? ” 
しかし彼は「うん、ちょっと」と言うだけだ。私も早く終わってほしいのでそれ以上は聞かない。
そして、そして、ようやくに手術は終わった。  まるで大手術のようだ。
「何針縫った?」彼は素っ気無く ” Many(たくさん) ”「帰っていいよ」
 
まったくもってあきれるばかりで恐れ入りましたとしか云い様が無い。
廊下に出ると人影はまったくなく、友人に迎えに来てもらうために電話を掛けに行って時計を見て愕然とした。
なんと深夜の1時。病院に来てから9時間も経過していたのだった。