武尊・針山穴観音(あなかんのん) 大日如来(だいにちにょらい)
【データ】針山穴観音 1160メートル▼最寄駅 JR上越線・沼田駅▼登山口 群馬県片品村針山▼石仏 針山穴観音の岩屋。地図の赤丸印▼地図は国土地理院のホームページより
【案内】登山口の針山は標高1000メートルの高原の集落。集落からさらに林道を登ると、片品村が立てた穴観音の案内が立つ。案内の趣旨は二つ。一つは穴観音の起こり、一つは新しい養蚕技法を考案したこの集落の永井紺周郎のこと。ここまでは車も入る。
さらに道を辿ると、額束に「正一位蠶稲荷大神」の大きな鳥居が立つ。穴観音への道は蚕稲荷への道にもなっている。山道らしくなり、沢の流が少なくなるころ左手に大きな石段が現れる。ここが穴観音の入口。
石段脇に「開闢遍寛法子/越後国蒲原郡/西笠巻村東福寺弟子/寛政十年(1798)」銘の卵塔が立ち、台座に「観音入口」とある。卵塔には、穴観音は越後の西笠巻村の東福寺弟子・遍寛によって開山されたと記されている。登山口にあった村の案内には、寛政十年(1798)遍寛が夢のお告げにより一寸八分の如意輪観音を背負って来たとあった。
越後平野の中央部にあった西笠巻と武尊山山麓の針山との間にどのような関係があったかは不明。一つ接点があるとすれば、この時代越後の八海山と上州の武尊は木曽御嶽信仰の聖地になっていた山で、行者が往来していた関係にあったことは想像できる。
石段から先の道は踏み跡程度になるが、西側の尾根を目指せば大岩の下に二つの社殿が見えてくる。右が観音堂、左が蚕稲荷神社。さらに稲荷社の左手に狐の焼物を備えるお堂が建つ。
観音堂と稲荷社の間から奥に進むと、暗い岩屋の基部に大日如来と不動明王が安置されている。大日に「法稱寺四世兼山法印/此岩屋百日之行供養」とある。法称寺は武尊山の花咲口別当を務めた天台宗の寺。木曽御嶽を開いた普寛が武尊に登るときに補佐した義謙の寺(注)である。
蚕稲荷神社は、案内によると蚕の飼育法の一つ〝いぶし飼い〟という養蚕技法を発見し普及に努めた永井紺周郎の功績を称えて建立した稲荷。この技法は蚕室内で火をおこして煙を充満させるもので、明治時代に永井流養蚕術として群馬県北部や中部に普及した。
そして稲荷社脇の狐の焼物を備える場所だが、そこに納められ焼物の狐は膨大な数のうえすべて壊されているにはどうしたことか。役目を終えたという意味か。榛名山の烏帽子ヶ岳では壊されない沢山の狐の焼物が奉納されているのを見たが、蚕の産地群馬ではいろいろな蚕神信仰に出会う。
(注)中山郁著「本明院普寛と上州武尊開山」平成11年『ぐんま資料研究』19号
(地図は国土地理院ホームページより)