「芸術は美しくなければいけない」と私は思っているが、「美しさ」の解釈は人それぞれ。どんなものにも「美しさ」はあると言うが、現代アートなどは理解に苦しむものも多い。便器やゴミを並べられて、これが芸術だと言われても理解に苦しむ。
もちろん、「きれい」=「美しい」ではない。私も絵を集め始めた当初は、雪景色や茅葺屋根の民家など「きれいな風景画」を買っていたが、次第に「きれい」だけではつまらなくなってきて、「心惹かれるもの」に関心は移っていった。そのため、一見して何を描いているかわからないもの、怖い感じがするもの、子供が描いたように見えるものまで買い求めるようになった。それらには単なる「きれい」を超えた「美しさ」が感じられた。絵画は、希望も絶望も狂気も優しさも、すべてを孕んで成り立っている。
人間も表面上はきれいを装っているが、心の中には闇を抱えているものだ。その闇を人前では出さないようにしているが、その闇は確実にその人の一部を形作っている。光と闇を合わせ持つのが人間だ。
ただ、その闇を常に意識する必要はない。きれいごとだけで済ませられればそれも良し。いやなものを見ないというのも一つの態度。決して逃げではない。いやなものがあるのを知った上で、あえてそれを見ないという強い意志も必要だ。「美しくありたい」というのは「闇」を知っているからこそなのだ。
八木重吉の詩
うつくしいもの
わたしみずからのなかでもいい
わたしの外の せかいでもいい
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であっても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るということが 分かりさえすれば
ああ ひさしくも これを追うに つかれたこころ