人は、なに者かになると、なにものかを失うことになる。
空間のある地点に物を置こうとすると、そこには一つの物しか置けない。そこに前もって何かがあれば、その物をどかさないかぎり、他の物を置けないのと同様である。
広い空間を所有できれば、多くの物を置けるが、人間の自分自身という空間は非常に狭い。その空間には一人の自己しか存在できない。稀に二人以上の人格を所有する人がいるようだが、それは多重人格で異常なことだ。
そのため、ある者になると、それ以前の自分あるいは何者かになる可能性を失うことになる。裕福な者であっても、有名な者であっても、偉いといわれる者であってもそれは同じ。なにかしかの喪失感が付きまとう。普段は気が付かず、何の問題も無いと思っていた自分が、ある日その喪失感に気づく。自分はこれで満足なのか、自分の欲したものは本当にこれだったのか。
人間は、すべてを所有すること、すべてを体験することはできない。だから人間は輪廻転生する。自分が体験できなかった人生を体験するため、何度も何度も生まれ変わる。貧者は富者になるために、悪人は善人に、凡人は偉人に、短命だった者は長命になるため、あるいはその反対に富者が貧者に、善人が悪人に、偉人が凡人に、長命だった者が短命になるため生まれ変わる。
しかし、どんなに生まれ変わっても、やはりすべてを体験することはできない。すべてを体験しようとすると、弥勒菩薩が現れる56億7千年までかかるかもしれない。どこかで、もう満足だとあきらめるほかはない。そこでやっと輪廻転生から解放されて仏になる。
そんなことを夢の中で考えた。
笹島喜平の拓版画です