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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-10-20 09:31:58 | Weblog

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったのか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったのか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。
 そのため、731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追求もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)

●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族

秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族

竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。


731部隊

『日の丸は紅い泪に』
(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅵ 勢いみせて
殺したのはだれか
 大人だと5時間ぐらいかかるのだが、憲一は2時間ぐらいで終わった。骨は熱くなかなか冷めず、しかも灰の中にまぎれた憲一は、なかなか見つからなかった。
 私は小さい骨箱を抱いて、とぼとぼと官舎へ帰った。戸口に近づくと消毒液の臭いが立ち込めていた。例のように大規模な消毒がされたのであった。妻は、骨箱の前に黙ったままいつまでも座って頭をたれていた。
 初めての子を失った悲しみの上に、2番目の子を身ごもり、心労と妊娠でげっそりやつれ、眼も落ち窪み、やせた肩があわれであった。妻は何も言わず、時折着物の袖で涙をぬぐっていた。私は慰めようもなく、妻の隣にじっと座っているだけであった。
 つい先程まで、よちよち歩きで「ウンマ、ウンマ」と片言まじりで指をしゃぶっていたわが子が、小さな骨箱におさまってしまっている。私は、実はその時初めて、憲一にどんなに慰められて暮らしてきたかを知ったのであった。
 マルタを連行して、安達(アンダー)実験場で殺して帰った日や、ガス実験で血へどを吐いて死んだマルタを見た日など、私は、重くふさがれた気持ちで官舎へ帰ったものだが、憲一は、沈んだ私に無邪気に手を差し伸べて、よちよち歩いて来て、にこっと笑う。又ある時は、妻の乳首をくわえながら無心に寝ていた。わあわあ泣いて、妻を困らせていたこともあった。がそれさえ私の慰めになった。
 官舎の中で、私の遅い帰りを待っている妻にとっては、一層慰めになり、生きる力になっていたのだと思う。(明日に続く)

※奥さんは初めての子を失い相当ショックだったようである。それに、大規模な消毒もあったから、荼毘に立ち会えなかったのだろう。
 わが子の与えてくれる慰めが隊員にとっては仕事への大きな励みになっていたことが分かる。
(ノブ)

参考ホームページ

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8

南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

張健(男、59歳)の証言

1937年の農暦11月23日に、日本の賊が南京を占領した時私はたった12歳でした。私と上の姉と2番目の姉とは難を逃れて江北へ行きました。祖母と3番目の姉とが眼が見えず、歩けないので、父は2人を手放すに忍びず、一緒に留まりました。
 私たちが行ってから、父は祖母を後方沖の3番目の姉の家(今の尭化郷後方沖生産隊)まで連れて行き隠れさせました。ある日の午前中、日本軍の1人が後方沖の桑樹園まで紛れ込んで来て、父が背が高く、話をするのも北方のなまりなのをみて、中国兵だと疑い、銃を構え父のみぞおちに狙いをつけて1発、弾が胸を貫いて行き、年わずか51歳の父はその場で死去しました。残忍な日本軍はまだやめようとせず、ガソリンを身体にかけて死体を焼くのに火を放ちました。父が銃殺された何日か後に私は初めて知って、急いで戻って来ましたが、父が3分の1焼かれていて、残った部分が酷く焼けただれているのが見えるだけで、見るに忍びない有様でした。
 日本兵はそれに家の新しく建てた瓦葺の家2軒を壊し、建築資材を尭化門の駅まで引きずって来て焚き火の薪にしました。祖母は父が死に、家が焼かれたために悲しみ憤ってやまず、2ヶ月もしないで恨みを呑んで世を去りました。良心を全く失った日本兵が我が家を損なうこと人を死なせ家を壊しで、私をして帰るべき家のない孤児たらしめたのでした。(王志懐と胡桂英と張兆府が記録)


    
※父親と家を失い、祖母まで急逝したのだから、精神的なショックを大きく受けただろう。そして現実に父親と家が無くなったのだから、生活が大変だっただろう。(ノブ)

※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮

兵士たちが記録した南京大虐殺1

兵士たちが記録した南京大虐殺2

コメント
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