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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-28 08:21:10 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆細菌戦部隊の最後
  かつて無敵を誇った生物兵器開発部隊の哀れな末路は、何千というペストネズミを平房近郊に放すことくらいだったが、1946(昭和21)年までペストが流行し、多くの罪もない住民たちの命が奪われた。100部隊では、日本が降伏した後、ペストに感染した馬を放したりした。大連支部では大学や各学部の図書館にある定期刊行物、雑誌などから生物兵器に関連したあらゆる記事を組織的に破りとった。日本国内では、防疫研究室の記録書類や備品などが秋田と新潟の軍医関係機関に移されたと考えられている。
新宿の陸軍軍医学校はB29の空襲でほとんど跡形も無く破壊されたが、一説によると何百という人体標本は8月10日から9月15日までの間に石井の防疫研究室のすぐ脇の医学教育部の部員が掘った縦横10メートル×15メートルほどの穴に捨てられたと言う。
第4部長の川島清少将、その部下だった柄沢十三夫少佐、教育部長だった西俊英軍医中佐、関東軍司令官山田乙三大将、梶塚隆二軍医中将、高橋隆篤獣医中将らは孫呉(ソンゴ)と海拉爾(ハイラル)の隊員らと共にロシアの捕虜となった。
日本に逃げ帰った石井とその部下たちは占領軍の処置を固唾(かたず)を飲んで待っていた。東条は自決に失敗し、東京裁判を受けた。石井のパトロンだった元厚生大臣小泉親彦は、東条内閣崩壊後間もない1944(昭和19)年7月18日、大臣を辞任した。戦後GHQから呼び出しがきた時、遺書も残さず割腹自殺した。
※1989年に新宿区戸山の工事現場から人骨が出てきた。これについて詳しく書いてある記事があるので紹介します!!
The Human Skulls Discovered in 1989
1989年7月、厚生省の予防衛生研究所の建設現場で人の骨が大量に発見された。この場所には1929年から1945年まで陸軍軍医学校が存在していた。当初の警察の発表で35体分、その後1992年に公表された専門家、佐倉朔(Sakura Hajime)の鑑定で、100体分以上と判明した [15]。その鑑定によると、発見された骨はアジア系の人間のものだが、単一の人種ではない、複数の人種の骨が混在している。さらに骨が地中にあったのは100年以上ではないし、15年未満でもないことも明らかにされた。
このデータが示しているのは、89年の人骨はその場所に軍医学校があった時代に埋められた、アジア系の外国人の骨だ、ということだ。埋められたのは埋葬されたわけではなく、捨てられたのだった。あるいは捨てたというより、証拠隠滅のために埋められた可能性が高い。これは敗戦時に731部隊で殺害された被験者と同じ処理方法だ。
これら人骨を最初に警察が鑑定したのは、これらがいわば死体であり、その死因や事件性について判断する上で当然のことだった。発見から1週間ほどで発表になった警察の鑑定結果は、骨に事件性は見出せなかったし、たとえ犯罪の被害者のものとしても15年以上地中にあったことは確実で時効が成立している、というものだった。その結果、通常の行き倒れとして処理すべきという結論を導き出した。
実際は違っていた。佐倉の鑑定は次の点を明らかにした [16]。

①頭蓋骨の多くには頭蓋骨をメスや鋸で切除して行われる脳外科手術の練習・実験台となったと思われる跡がある。人骨が地中にあったのは50年以上だが、当時(1940年代)の日本では未だ頭蓋骨の一部を切除する脳外科手術は行われていなかった。
②いくつかの頭蓋骨には刀による切創があり、またピストルで射抜かれたものもある。

佐倉の鑑定の①の指摘は、これら頭蓋骨が脳外科手術の実験台、あるいは練習台、となったことを示している。②の指摘は、これらが犯罪の被害者のものであることを示唆している。
こうした実験あるいは犯罪行為は731部隊と直接結びつくものではない。むしろこれらの骨が示しているのは、731部隊での蛮行が決して日本の軍医たちの間で突出していたわけではないということだ。これらの骨は日本軍の軍医たちが戦場で、あるいは軍医学校に関係する医学者が軍医学校で、脳外科手術の練習・実験をしたものであり、それを証拠隠滅の意味もありそこに埋めたのだと推測できる。
この推測の根拠は、元軍医の湯浅謙(Yuasa Ken)の証言に基づいている [17]。
湯浅の証言によれば、本来内科医としての訓練を受けていた医者を、戦場で大量に必要な外科医に手早く仕立てるために、数ヶ月に一度現地の軍医を集め「手術演習」と称した残虐行為が、中国の戦場で行われていた。住民を捕らえ、その大腿部に弾丸を撃ち込み、どの程度の時間で弾丸の摘出手術が完了するかとか、凍傷にして、その部分の切断手術などの練習を行っていた。
この手術演習は一部の地域に限られていたわけではなく広く行われていた。多くの場合憲兵が犠牲者となる現地の人々を逮捕し、軍医部に提供していた。こうした状況は「手術演習」が個人的なきっかけによってではなく、軍医部や憲兵隊など陸軍全体として組織的に行われたことを示している。「手術演習」で得られた頭蓋骨が集められ、それが軍医の元締めである軍医学校に送られていた、と考えても不思議ではない。このように考えた場合、集められた頭蓋骨はまさに戦争犯罪の犠牲者のものということになる。(『731部隊と1989年の人骨』より)
※もしアジア太平洋戦争が「アジアの解放」を目指したものであったならば、自殺未遂した東条や自殺した小泉元厚相などは東京裁判であの戦争の正当性を主張すべきであったと思う!!しかしあまりにもアジアで日本軍は残虐なことをしてきたものだから、正当性を主張することは難しいだろう!!
●南京大虐   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
陳祖有(男、73歳)の証言
 1937年には私は26歳で、家は六合臬葛塘区中山郷湯徐村陳墩でした。確かその年の12月末のある日の午前9時頃だったと思います。日本軍が三四人吊湾徐の方向から来るのが私には見えたのです。村の人たちは日本軍が来たと聞いて、みんな恐がって外へ外へと逃げましたが、その時弟の陳祖興は陳墩の前の○溝辺に隠れていましたが、少しして、弟がちょっと様子を見ようと頭を伸ばしたら、日本軍に気付かれてしまい、日本軍が私たち陳墩の方へ発砲してきたために、弟は○溝辺で撃ち殺されたのですが、一発が弟の腹に当たったので、弟が22歳の時でした。日本軍が行ってしまってから、私と村の人たちとで弟を○溝辺から抱えて帰ってきて埋めてやったのです。(呉大興と章歩錦が記録)○は日本の漢字に変換できない字
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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