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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-29 06:19:13 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇と生物・化学戦の戦犯免罪
    当初から、日本人の生活の中で、ある1つの領域だけは足を踏み入れることを禁じられていた。天皇を戦争犯罪人として裁判にかけることは認められておらず、天皇を中心とする天皇家だけは灰色の霧に隠されたままになっていた。ポツダム宣言で連合国は日本人という民族を隷属させたり、日本という国を破滅させようとはしないと明言していた。日本人の大部分にとって天皇はいわば神聖な存在であり、まさに日本そのものであった。天皇を戦犯として位置づけることによって、日本社会が内部から崩壊する恐れがあった。中国、ソ連、オーストラリアはこの決定に強く反対したが、最終的にはイギリス、アメリカの意向に従ったのだった。
※日本がアメリカの空襲によって、もう戦力も無くなり、国民のほとんどが疲弊している中、最高戦争指導会議ではポツダム宣言を受け入れるにあたって、国体護持の確証が得られないと、回答が遅れに遅れた!!その結果、原爆2発とソ連の参戦を許してしまった。
天皇や最高戦争指導会議出席者には、国民の窮乏生活などは頭の隅にもなかったようだ!!
 日本は明治期から天皇を神格化しようと教育し始めた!!御真影(天皇の写真)や教育勅語を普及させて、天皇への忠誠を誓わせた!!その結果お上には絶対的服従が強制された。日本文化を戦中から研究していたアメリカ軍はそれを利用して敗戦後の日本をうまく支配しようとした。
 だがしかし、戦後日本人が天皇を戦犯に位置づけたとしても、本当に日本社会が内部から崩壊するだろうか?いろいろ紆余曲折はあるだろうが、まっとうな結論に達したのではないか?
 アメリカは軍事戦略上、天皇を裁判にかけず免責とした。果たしてこれが裁判の正しい姿であったのか疑問だ!!東京裁判はアメリカ中心のマッカーサー中心の裁判だった!!
 もう1つマッカーサーは戦争中、日本が本格的に細菌戦を実践していたことをつかんでいた。アメリカはこの情報を手に入れるのに懸命になったのではないか?
細菌戦のデータはアメリカが独占したけれども、戦後の細菌戦の基礎研究のほとんどが英国で行われていた。細菌戦のデータの収集にはイギリスもアメリカと連携をとっていたかもしれない!!
 アメリカは、その細菌戦データの収集と日本の戦後統治を考えると、戦争犯罪を裁くことを後退させ、731部隊員とその最高責任者の天皇を免責する方が軍事戦略上うまくいくとみていた。 マッカーサーが戦争指導の最高責任者天皇を免責にしたのは、日本人が神だと教え込まれていた天皇が裁判にかけられると日本人の間に動揺が起き、それを鎮めるのに大変な手間がかかると思っていたのではないか?
 また、731部隊員を裁判で追及するとそのデータがアメリカ一カ国だけで独占できなくなる上に、ソ連や内戦中の中国の発言が強くなり、国際情勢が混乱することを懸念したのではないか?
 マッカーサーが天皇を擁護したのは、マッカーサー自身がイギリス貴族の出身であることが影響しているのかもしれない?(フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。)
 アメリカ国内では天皇の戦争責任を追及する声の方が圧倒的に多かったが、マッカーサーはそれを覆した!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
楊義蘭(女、68歳)の証言 
 1937年に日本軍が南京を爆撃したので、私と夫は六合の田舎に避難しました。年老いた舅の朱再興は南京の太平路で林園浴室をやっていましたが、日本軍が南京を占領した時、店をまもってよそへは行きませんでした。日本軍が入ってきた明くる日の朝、日本兵が来て門を開けろと怒鳴り、舅が門を開けに行きましたが、何と門が開くや、一言も言わずに、胸を一太刀突っついて来て、舅はその場で死んでしまいました。叔父の朱再祥が、兄の門を開けて戻って来ないのを見て、洗面器を両手に持ち上げつつ門の所まで見に行きました。叔父は日本兵を見かけるや、向きを変えて逃げ戻ろうとしましたが、日本軍に追いつかれ、後ろから一太刀刺されて、刺し殺されてしまいました。同時に突っつき殺されたのにはほかに三助さん(下男)をしていたのが3人いました。叔父が死んだ後、5歳から7歳の子供が3人残され、とっても悲惨でした。(劉君が記録)  
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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