No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
GReeeeN no more war【歌詞付】
No more war
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い風月に耐え声も叫びも枯れ果てた
聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の響きを
見よ、この虐げられし大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶を人間の地底を永劫に流れ続ける
(『ハルピン残照 「731の記憶」』 田中寛著より)
731部隊施設を世界遺産登録へ!
731部隊と原発の共通点
国策・人命軽視!!
国策では普段では想像もできない残虐なことも行われる!!
被爆者の叫び!!
「わしはモルモットか!!」
いつまで受忍しろというのだ!!
原爆報告書は2年以上の歳月をかけ、国策として作られた。
そこには被害者救済はせずに被爆の調査だけをし、アメリカとの関係を優先させた姿が浮かび上がる。(治療はせず、被害の実態、原爆の威力を明らかにした。)
※思えば、日本と言う国は、世界で初めて米国からの原爆を落とされ、20万という人命をその年のうちに広島と長崎で失い、その後も後遺症に悩まされる人々が現在も数十万いる中、日本政府と米国政府が当時ABCCという機関を創設し、多数の学者や医師らが参加して、被爆者への治療を施すわけでなく、被爆者の体で研究をしました。
実際、広島第一陸軍病院宇品分院では、原爆投下1ヶ月後から1ヶ月間米国の医学者の調査団が日本の医師団に連れられてやってきましたが、日米の両方の医師たちは、生存者の治療よりも遺体解剖を優先し、患者の救援活動に従事したのは多くは看護婦や衛星兵だったと言う記録も残っています。(XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より)
この時点で医師は原子力産業に取り込まれていく!!原爆投下後アメリカは原爆の治療研究を禁じた!!
内部被爆が人体に及ぼす影響!!脱原発宣言!!
原発ゼロをめざす7・2交流集会 肥田舜太郎さん
小出策郎中佐に出された極秘命令:
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究(731部隊等)はすべて証拠を隠滅せよ!」
1945年8月アメリカは広島・長崎に原爆投下!!
その年だけで20万を越す人々が死んだ。
投下直後、国は大号令をかけ、1300人を越す医師・科学者を動員して2年以上の歳月をかけて1万ページ181冊に及ぶ原爆報告書を作成させた。作成過程で200人以上の死者の解剖も行った。対象は20000人を越えた。
最初の調査は原爆投下後の2日目から始まり、陸軍省医務局の小出策郎軍医中佐が取り仕切った。
目的は、原爆の威力を調べ、アメリカに渡し、有効な取引きカードにすることだった。
この調査は敗戦後の戦争犯罪(731部隊等)を隠蔽するためにも、そして国体を護持し、新たな日米関係を築く上にも重要なものだった。
この調査では被爆者の治療はせずに、放射線の影響を調べる検査だけが行われた。
自ら開発した原爆の威力を知りたいアメリカと、戦争に負けた日本の国の利害が一致した。
原爆投下から2ヵ月後、アメリカの調査団が現地に入ると小出中佐に替わり放射線医学の第1人者 都築正男が調査の中心となり一層力を入れた。
アメリカが一番知りたい情報
№14 原爆がどれだけの範囲の人を殺すことができるか?
17000人の子どもたちが70ヶ所の地点でサンプルにされ原爆の殺傷能力が調査された。
例)0.8km 560人全員死亡。
アメリカはこのデータを元に爆心地からの距離と死者数をグラフに表し、死亡率曲線と呼んだ。
被爆者はアメリカの核戦略に利用された。
また、200人以上の死者が解剖され、放射能の影響が調べられた。治療とは無関係。(731部隊員の得意とする分野か?)
治療とは関係ない人体実験も行われ、被爆者にアドレナリン(血圧を上昇させるホルモン)を注射した場合の反応などが調べられた。
№23
そのほか、どの様な人体実験が行われたのであろう?
また、原爆投下後に広島に入って原爆症になった医大生の日記もレポートにあり、入市被爆のの実態も明らかにされていた。
入市被爆者の最後の叫び!!
「私は末期ガンで余命いくばくもないことを医師から知らされました。国は私のような入市被爆の実態を分かっていません!!」
この方の勝訴判決が出たのは亡くなってから3ヵ月後でした!!
ところが、戦後の原爆症の裁判ではこのことは利用されず、入市して被爆した人が、長い間原爆症と認められず、苦しんだ!!
※しかも徹底的に内部被曝の影響を隠ぺいし、急性被曝で死んでしまった者、また原爆の落とされた半径2km以内に住んでいるもの以外への健康被害はないものとして長年されてきました。ようやく2008年になって、ある一定の距離以上離れたものでも、放射性物質の微粒子を体内に取り込んだことによる原爆症を発症したことが裁判で認められてきたのです。原爆が落とされて半世紀以上、広島・長崎の医師たちが患者側ではなく、国側について隠ぺいに加担していたことは特筆すべき事実です。(XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より)
アメリカはドイツの人体実験については厳しく裁いたが、なぜ日本の人体実験について裁かなかったのか?調査中に、アメリカの人体実験もばれたのか?
※第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。 2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。原爆投下後に行われた日米合同調査団への参加には、元731部隊で病理解剖が専門の石川太刀雄丸が、米軍による厳戒な統治下の中、1945年12月に原爆被害を詳述しています。731部隊の司令塔「陸軍軍医学校防疫研究室」嘱託の緒方富雄東京帝大名誉教授、同嘱託の木村廉京の名前があり、米国からもプルトニウム注射による人体実験をしたスタッフォード・ウォーレン医師、後にUNSCEAR創設時のメンバーであり、被爆者疫学研究で有名になるシールズ・ウォーレン医師が合同調査団として来日し調査したのでした。 このように米国の人体実験にかかわった医師と日本の人体実験に関わった医師らも協力して、被曝研究を進めていったのです。1946年にはオースチン・ブルースらABCC人体実験医が、東京、京都、大阪、広島、長崎を含む日本の主だった大学病院を廻り、元731部隊の研究員と会って、ABCCに協力する人々の人脈づくりをし、翌年ABCCが正式発足したというのです。 (XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より) 「米軍の調査団の中には陸軍のスタッフォード・ウォーレン大佐、フリーデル中佐、海軍のシールズ・ウォーレン大佐のように、米国国内の放射能・放射線の影響を調べる人体実験に関係した者が含まれていた。 米側の医学者にとっても日本側の「特殊研究」の医学者の免罪が必要だった。 徒に日本側の犯罪行為を追求すれば自分の医療犯罪の発覚にも繋がる畏れがあった。「特殊研究」に従事してきた者どうし、戦勝国と敗戦国の違いを超えて、研究成果を分かち合うために米軍側の医学者たちは、日本の「特殊研究」者たちを許すことにしたのかもしれない。」 『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』 堀田伸永著より ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永 果たしてこの181冊の報告書の中で元731部隊員はどの様なことをレポートしたのであろうか? 吉村寿人、宮川正、在田勉、岡本耕造、石川太刀雄丸・・・ 宮川正の軌跡 1944年3月4日、宮川は、関東軍防疫給水本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当の二つの班ー宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。 西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子どもの収容棟にそれぞれ1ヶ所ずつレントゲン室があったとされる。細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのかー元隊員を訪ねて」『世界』1994年4月号掲載)。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。 レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験に立ちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。 これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部達は」(2001年、筑摩書房)に収録されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。 宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖するー死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の「日本アイソトープ協会」)や山崎文夫、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面で731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。 宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。 ・・・・これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。 ・・・宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証だろう。 ・・・宮川は1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。 ・・・宮川と731部隊の関係者の繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。 ・・・第5福竜丸事件が起こると、宮川は4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横浜市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。此れが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部の委員に任命されることになった。 ・・・1956年4月、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委員会」の5人の専門委員のひとりに任命された。 ・・・宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には原子力委員会の放射能調査専門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連のふたつのグループの責任者のひとりとして出席している。 731部隊関係者の中で、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらない。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。 『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』 堀田伸永著より ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永 |
※また福島事故後に有名になった医学者の一人に同じく東大出身で、東大病院放射線科の中川恵一準教授がいます。彼は、「福島で健康被害は出ていない、今後も出ない」と主張する学者の代表格です。私は中川医師の『被ばくと発がんの真実』という著書に、科学的な疑問点が100か所以上見受けられたので、質問を送りましたが、どれひとつとしていまだに回答をいただいておりません。
実は免責された731部隊は、放射線医療業界にも歴史的につながっています。例えば731部隊、レントゲン班でも致死量を当てる人体実験が行われ、リーダーのひとりであった宮川正は、戦後放射線治療の専門家になりました。第五福竜丸事件の後、福竜丸以外の船員が放射線障害で苦しんでいても、放射線障害ではないだろうという理論を展開し、800あったと言われる被曝船は、一隻とされたのでした。 この元731部隊レントゲン班の東大医学部放射線医学講座の主任教授、宮川氏は、放射線医学総合研究所の立ち上げ準備にあたりました。放射線医学総合研究所は、その後も原子力推進の政策を追認する機関として今日に至っており、UNSCEARの日本代表は半世紀以上、ずっと放医研のスタッフです。 長崎においても、731部隊からABCC,そして今日の福島にも有名大学を通じてつながりがあります。長崎で、胎児・新生児の数千例の解剖を手掛けた長崎医科大学の林一郎(京都帝国大学出身)も、元731部隊員であり、731部隊長石井四郎(京都帝国大学)の恩師で同部隊の病理解剖の最高権威であった清野謙次(京都帝国大学出身)の門下でした。林一郎医師は、731部隊長の石井四郎と兄弟弟子であったわけです。 この林一郎氏は、世界は恐怖するという1957年制作の映画の中で、昭和24年から25年にかけて、被ばく者から生まれた子どものうち、22.3%が奇形だった。同じ時期に被曝していない親から生まれた奇形児は、8.7%だったと発表していると引用されています。しかしなぜかこの引用は後から林氏自身によって否定され、広島長崎で遺伝的な影響はなかったこととされています!何と不可思議なことでしょうか。 また、731部隊長石井四郎の右腕であった内藤良一は、薬害エイズで2000人の血友病患者を感染させた日本ミドリ十字社の前身である日本ブラッドバンクの創設者であり、このミドリ十字社と厚生省がグルとなって薬害エイズ事件の原因となったことは有名です。 今回福島県民健康調査のリーダーである山下俊一氏が、福島事故の直前までエイズ患者対象の研究を行っていたことは特筆に値すると思います。彼はエイズ研究を始めるにあたり、「過ちは二度と繰り返しません」と書き、その後、福島事故が起きて、福島医大に行き、住民たちには100mSvまで心配することはないと説得しました。「人々の健康を第一に考えない医学がなぜ存在するのだろう。」、そして「患者を検体として接するような医者は許さない」と、私の知人の薬害HIV患者の方も非常に怒っています。 そして今、福島では有名大学の様々な医者や学者が関わり、子供や妊婦までを研究利用しています。これは明らかに時間軸の伸びた人体実験と言えますし、歴史を見れば、誇張でないことが分かります。 今現在、この瞬間にも被曝しながら、命を削っている福島その他の汚染地帯の子供たちを助けるためにも、私は、この過去と現在における日本の医学界の犯罪性を全世界の人々に知ってほしいです。 (XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より) ※広島長崎の被曝およびチェルノブイリ・プロジェクトで1991年に被曝による健康を否定した有名な疫学者で重松逸造氏という人物がおります。RERFの重松逸造氏(東京帝国大学→ハーバード大学公衆衛生大学院)の直弟子の長瀧重信氏(東京大学医学部→ハーバード大学医学部→長崎大学医学部)とともに、広島長崎、そしてチェルノブイリの甲状腺ガン以外の健康被害を否定しました。そして長瀧の弟子の山下俊一氏(長崎大学→福島県立医科大学)は、チェルノブイリの否定から今回の福島事故後の被曝による健康被害を完全否定しています。 福島で子供で甲状腺異常が5割に届くほど出ているのに、異常なしとし、放置しているやり方に過去の731部隊の人体実験と共通する残酷さを常々感じていた私は、調べてみましたら、なんとこの山下氏の恩師の恩師に当たる重松逸造氏は731部隊とつながっていました。 重松氏の恩師に731部隊の重要人物がいます。731部隊に生物兵器の開発・実戦に従事した多くの医科学者を送り出した、東京帝国大学伝染病研究室の疫学研究室の主任の野邊地慶三医師です。 戦後この東大疫学研究室が、東大医科学研究所、国立公衆衛生院、国立予防衛生研究所(予研)と、3つの研究所に分かれました。戦後、予研が731部隊の資料と被曝者の資料を米軍に伝達していたと言います。 戦前、東大疫学研究室長であった野邊地慶三氏は、1950年代からABCCの疫学部長に就任、その門下の重松逸造氏も後にABCCの理事長に就任したのです。731部隊から原爆被爆実験に至る、東大を介したABCCとの重大な人的接点はここあったのです。 重松逸造の恩師・野辺地慶三の原子力施設からの放射性廃棄物に対する意外な危機意識 第63回:野辺地慶三(のべちけいぞう) さらにチェルノブイリ事故の後には、日本からはこのABCCを前身とする放射線影響研究所、RERFからの重松逸造氏や長瀧重信氏を中心に、住民、なにより子供たちに健康被害が出ているにもかかわらず、チェルノブイリの事故の過小評価をすることに加担してきました。 非常に恥ずべきことです。日本は被曝問題において、被害国であると同時に、大いなる加害国でもあるわけです。原爆を落とされた国でありながら、自国内の被爆者に対しても、また他国における原発の被曝者に対しても、目の前で患者が苦しむのを見ていながら、核産業側・政府側について人々の健康障害を長年無視もしくは過小評価してきたのです。 その悲しい歴史が、今福島で繰り返されています。チェルノブイリで過小評価をした長瀧重信氏やその弟子である山下俊一氏、また放射線治療の権威である東大の中川恵一氏らが一緒になって「このくらいの放射能なら安全である」と福島県民に説いて回り、医師会などにおいては、「福島事故で健康被害を受けたものは、1人もいない」という理論を事故から2年近くった現在でも公に発表して廻っているのです! (XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より) 731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5) アメリカに少しでも心証をよくしようと、731部隊の証拠湮滅をはかり、国策として原爆報告書を作成した。もちろん、国体護持をねらった。 ところが、ソ連によって731部隊の人体実験のことが明らかになると、731部隊幹部は、アメリカと取引きし、データとの引き換えに731部隊員の戦犯免責を引き出す。 そして、アメリカに渡ったデータをもとに、731部隊員はアメリカに協力し細菌兵器の開発に力を貸す。そしてそこで作られた細菌兵器は朝鮮戦争やベトナム戦争に使われた。 日本はアメリカとの良好な関係を築くために原爆の非人道的なことを非難できず、また、アメリカも731部隊から得たデータで細菌兵器をつくったものだから、日本の非人道的な犯罪を裁けなかった!! ドイツとは、大きな違いがある!! 医学界は国策の原爆調査(治療ではない)に大量動員されたり、731部隊が免責されたことにより、ABCCに取り込まれていった。そして放射能の人体に及ぼす影響を十分に知りながら、原子力産業推進に回ってしまう!!医学界は本気に内部被爆の研究をしていない!!推進側からストップがかかっているのではないか? 今のフクシマの医療、そのほか浜岡原発、その他原発の周辺で行われている医療がそれを物語る!! |
「原爆報告書」は、731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書 封印された原爆報告書 731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(1) 731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(2) 西里扶甬子 731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(4) 731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5) 病気になった原発労働者を医者はきちんと診ない!! 原子力産業と医者の結び付き!! 国策としての731部隊・原発(1) 高杉晋吾 国策としての731部隊・原発(2) 高杉晋吾 モンゴルで行われた生体実験 国策としての731部隊・原発(5) 高杉晋吾 国策としての731部隊・原発(6) 高杉晋吾 20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発 戦争を反省しない学者たち!! ・1949年1月22日、上野公園内の古めかしい青色の建物のホールで1人の男が何事か叫んでいた。 「国が戦争に突っ込んでしまったら、われわれ科学者はですね、国のために協力して、これに尽くすというのは当然じゃないでしょうか?今ごろ、戦争中のことを持ち出して、戦争に科学者が協力したのを反省しろと言うが、そんなことでよいのだろうか?第1、戦争なんてもう過去のことじゃないか?憲法が戦争を放棄している以上、それはもう問題外のことではないか?将来の戦争のことを考えて、声明に戦争の反省などを書き加える必要はない。第7部会はこれに反対します」 集会は日本学術会議の第1回総会であった。立ち上がって叫んでいた男は、名古屋大学教授の久野寧(くのねい)であった。 ・私は、この南極観測に731部隊員が登場したことについて、最近の取材で当時の学術会議会長であり、南極観測特別委員長でもあった茅誠司氏に意見をたずねたことがある。茅誠司氏はその時、私に電話でこう答えた。 「北野政次?その人がどんな人か知らない。私は記憶していない。しかしいま、反体制といわれる人でも、戦争中はずい分いろんなことをやっていますよ。戦争中のことはあんまり採り上げない方がよい。それに例え、それが関東軍の経験であっても、昔、南極観測を白瀬中尉がやったように、いまの学術に役に立つものなら取り上げてよいのではないでしょうか?」 【『日本医療の原罪』(人体実験と戦争責任)高杉晋吾著より】 ※日本は東大や京大の教授も含めて余りにも大がかりに細菌戦の研究をした。 ドイツと比べても桁違いだ!!アメリカはこの国家的犯罪に驚き、原爆調査・細菌戦のデータの引き換えに、戦犯免責したのだろうか? フクシマに原発推進団体が圧力をかけている!!(日本財団・IAEA・ICRP・アレバなどなど) 「脱ひばく移住法」制定の提言(3) 松井英介 内部被爆のこわさ!! 「脱ひばく移住法」制定の提言(4) 松井英介 IAEAとWHOの関係(ビデオ後半) 「脱ひばく移住法」制定の提言(6) 松井英介 「脱ひばく移住法」制定の提言(7) 松井英介 「脱ひばく移住法」制定の提言(8) 松井英介 NPO法人 731細菌センター総会より 2012年度の活動報告 2013年度事業計画【1】 2013年度事業計画【2】 総会決議 *********************************** |