No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
戦争遺跡!「731部隊」
聞こえませんか?「マルタ」の叫びが!!?
日本政府・日本医学界はなぜ謝罪しない?
なぜ黙殺するのだろうか?
731の問題は過去から現在へと続いている!!
【725】 子どもの被曝 : 専門家は科学的では無くアウシュビッツ現象 / 武田 邦彦
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
【「荒れ野の40年」ワイツゼッカー連邦大統領演説全文(1985年5月8日) より】
ヴァイツゼッカーの演説【独語】1/4
今の日本の言論封殺の現状!!
①孫崎享氏インタビュー@孫崎邸 TPP&大西英明議員による「言論封殺」について
象徴的な事例をあげてみたい。今はもう無くなったが、数年前には731部隊遺跡の本部楼から「ロ号棟」を結ぶ回廊の一部が残されていて(それは現在も確認できるが)、「煉獄門」(「不帰の門」)と書かれた文章が壁の金網越しに中国語、そして英語、日本語、韓国語の訳が添えられてあった。
これは誰が考えた文章か、筆者は確認することができない。以下、原文のままを再掲する。
これは731部隊が設立した人生の「不帰の門」である。当時たくさんの被実験者は此処を経由して生命の終点に行った。そして生還者が1人もいない。この門の中で飽くことを知らない野心と喪失した人間性とを無情な殺戮が充満したことがある。ただ「人間」として自分の罪を反省する事だけ発見できない。「煉獄門」の前に立って誰かが何かを述べているような感じがする。誰かが悲惨な歴史と未来の平和を述べているような感じがする。
決して正確ではない日本語がここではよけいに現実的な情景として見る者に訴えかける。「被実験者」とは通称マルタのことで、ここを通ったが最後、生きて帰ることはなかった。「飽くことを知らない野心」と「人間性を喪失した無情な殺戮」とは当時の医学の倫理的破綻であろうか。彼らは人道を、罪という自覚を失した集団であった。「煉獄門」の前に立てば、そこから人間の叫びが聞こえる。私もまた耳をそば立ててみた。未来の平和ではなく、憎しみばかりが募った。・・・・・
(『戦争遺跡と歴史認識」』ー「731部隊」遺跡保存活動を通して私が学んだことー田中 寛著より)
731部隊施設を世界遺産登録へ!
「悪魔の飽食」
黒い太陽731部隊
731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!)
医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る
2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!)
知ってるつもり 731部隊
●731部隊
ドイツの医学会の謝罪や脱原発はドイツ国民が「生命への畏敬の念」に目覚めたからか? それに引き換え日本の派遣社員の現状は「お前のスペアはいくらでもいる。いやならやめな!」 会社に掲げられた標語には「かけがえのない一人ひとりを大切に!」 かつて軍人勅諭にこんな言葉があったっけ!! 「死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ!!」、 人間を人間として見ずモノとして扱う体質!! 70年間の沈黙を破って ―ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の2010年総会における謝罪声明 (付)追悼式典におけるDGPPNフランク・シュナイダー会長の談話 「ナチ時代の精神医学―回想と責任」(邦訳) 岩井一正 70年の空白を遅きに失したと非難することはたやすい。2世代以上にわたる歳月の流れのなかで当事者はとっくに死に絶え、糾弾されるべき個人の輪郭も鮮明さを失っている。もっともDGPPNの批判の矢は、個々人よりも、自らに向けられたものである。伝統ある一組織の今日的な機能として、歴史的あやまちを認め、引き受けようとのDGPPNの今回の態度表明によって、当時の学会や個々の精神科医をナチのイデオロギーの一方的な被害者として位置づけてきたこれまでの姿勢は完全に棄却された。そして、より広い時代背景を視野におさめた客観的立場からさらに詳細な事実解明をする方向性が示された。我々にとっても参考にできる態度ではなかろうか。 ドイツ精神医学会の謝罪 ドイツ精神医学会は公式に謝罪しました。では、日本の精神医学会は 「731細菌戦部隊と医師の戦争責任1」 731部隊の人体実験のレポート発見(1992年 パネル集「戦争と医の倫理」 最前列に帝大教授クラスが軍刀を持つ士官とともに並んでいる。1列目左から5人目が石井四郎、その左が大連支部長の安東洪次、1列目右から4人目が北野政次、日本は細菌戦を医学界の総力を結集して、国策として遂行していたことがよく分かる!! 1938年には国家総動員法が発令され、帝大教授の勧めにより若き医学者たちが731部隊に送られた!! 日本は731部隊の負い目から、アメリカの原爆調査に国を挙げて医学者が参加し、放射線の影響や原爆の威力を調査した。そうした過程で医学界は、アメリカの原子力政策に加担した。その流れの中で今の医学界も「脱原発」とは言えない空気があるのではないか? 【 以下は細菌研究に従事した〔三谷班)における上田弥太郎の自筆供述書『人体実験』からの一部抜粋である。 「私が必要だったのは彼が死ぬことではなく、死の前の、この生きた人間の体内に流れる(ペスト菌に冒された)血液であった。・・・『10ccの血液が採取できればそれでいいんだ』これが研究者の喜びと使命というものであり・・・人が死ぬ際の苦痛など同情に値しなかった」 目的遂行のためならどんなことでも障害にならなかった。医学者たちは人間が死んでも生き続ける菌にこそ生命を求めたのであり、人体の抹殺にはまるで抵抗を感じなかったのである。 細菌兵器の開発は満州侵略が帝国の生存戦略だったように、米ソとの究極の戦時戦略であった。731部隊の非人道的遺産は朝鮮戦争でのアメリカの細菌戦を皮切りに、現代を覆うバイオ、ウイルステロ攻撃の下地を作った。野田正彰氏は「731部隊の戦後は日本の医学がどれだけ生物兵器部隊に汚染されているかを知らせている。またアメリカ政府は、石井部隊関係者を免責することによってアメリカ社会に欺瞞と細菌テロの悪を内向させた」と述べている。さらにエボラ熱の数倍もの感染力や殺傷力をもつウイルス兵器が多くの国によって秘密裡に開発されているとすれば、過去から現在・未来への戦慄すべき悪の連鎖である。】 『ある展覧会の憂鬱 「731部隊展」をめぐる人々』より ※鳥インフルエンザ、サーズ、エイズ、口蹄疫などは人為的に作られていないのだろうか? 2010/02/10 (Wed) エイズウィルスは人工的に作られた 日本政府は、731部隊の存在は認めるが残虐行為があったことや、細菌戦を実施したことに対しては沈黙を続けている!! 莇昭三さんの講演より (質問)ドイツが裁かれて、日本が裁かれなかったのはダブルスタンダードだと思うんですが、よく言われる「日本に原爆が落ちて、ドイツに原爆が落ちなかったのは人種的差別だ」とか言う人がいるんですけど、これとは逆の意味で「ドイツ人には厳しくて、日本人には甘い」と思うんですが。 (莇)日本の国会が感知しない問題なんだということにしましょうという事に決まったんですよ。だから、731部隊に関しては未だに日本国政府は知らないんですよ。「知らない」、「あったそうだ」、「そういう噂は聞いてます」というのが野田総理大臣の答えです。 (会場)え! (質問)石井部隊は、実際は、天皇「裕仁」直属だったという点と、あと731部隊の生き残りが医学界を支配したということから、だから医師会は自民党支持だし、自民党議員の中山太郎が憲法改正論者で巾を利かせているのはそういう背景があるのでしょうか? (莇)非常に重要な問題です。天皇とGHQ、日本政府の約束がございますね。これはもう免罪にしましょうと。それがずっと続いている。日本医学界も日本医師会も同じで免罪になっているんですね。「今頃どうしてそんなことを言うの?」というのが学会の幹部が私達に対して言われた答え。ただ唯一、最近京都大学の病理学の教授が初めて「非常に残酷なことをやったんだ」というようなことを我々の雑誌に投稿してくれました。 私達が言っていることは、こういう事実があったことを日本国民が正当に知るということでだと思うんです。どこが悪かったとかそういう問題じゃなくて、そういうようなことがあったんだ、日本は反省している。どうしていくのかということさえ、はっきりしていけば問題は解決すると思うのですが。 これまで、「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府の根拠が、崩れた!! 発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会 発売三恵社より (参考)農安細菌戦と農安大賚細菌戦 奈須重雄(本資料センター理事) (1)農安細菌戦 ②防疫活動 農安で防疫活動が開始されたのは7月12日であり、第1回予防接種が行われている。(4) 新京の住民は、7月13日の「満州日日新聞」の記事「農安にペスト現る」によって初めて知ることになる。7月14日の「新京日日新聞」は「ペスト 国都入り一歩前」との見出しで僅か30行の本文である。通遼県、新京北方前郭旗、大賚県附近に続発しつつある。国都一歩手前の農安城に12日発生。各駅からの乗車は禁止、農安、伏龍泉間のバスと運輸機関は運転停止、前郭旗新京間では列車乗客の検疫を開始したと報じている。7月12日に、満州国民政部が防疫隊を派遣している。これらの報道は満州国民政部の防疫開始に合わせたものであろう。 九州大学の医学生であった原文二の記録がある(10)。長文だが農安の状況を報告しているので引用する。夏休みに撫順満鉄病院での実習、各地の見学旅行を行い、8月24日から、「農安に於て、2週間に亘り、満州國建国以来始めての大規模なペスト防疫陣の必死の活躍をこの目で見、又微力乍らも其の一員として」活動した記録である。 「多くの住民が死んだ!!ペスト流行が人為的なものだとは知らなかった。今も被害者遺族は知らないだろう。」 (4)「戦争と疫病」松村高夫他 本の友社 1997年 (10)「昭和15年度夏期満鉄病院実習報告(6)満州国に於けるペスト防疫に参加して」九大医報 15巻3号 1941年3月 原文二 NPO法人 731資料センター 会報4号」より |