No more war!
No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
「昭和の日」反対!!
昭和天皇の戦争責任を問う!!
学徒出陣 昭和18年 1943年
●731部隊と昭和天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地(731部隊の周りは「無人区」とされ、そこには、もともと中国人が住んでいて、生計をを立てていたが、強制的に追い出され、その住民たちは路頭に迷い、悲惨な状況におかれた。)に研究施設を作り(建設を請け負ったのは、鈴木組、松村組、藤田組、大林組であった。建設当初から敗戦まで、多くの中国人が苛酷な状況下で仕事をさせられ、仕事の犠牲になった者や逃亡を企てたり逆らったりして残酷な刑で殺された者も多数いた)、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌兵器は中国の都市で実戦された。その結果、細菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
中国では、日本軍の毒ガス兵器使用や細菌兵器使用による死者が増大し、中国は国内外に日本軍の行為を告発した!!(1942年の淅?作戦では、細菌兵器で日本軍にも多くの犠牲者を出してしまった。このような結果から、一時細菌兵器は、参謀本部の信頼を失うことになったが、それでもなお731部隊では研究開発を進め、1944年の末に石井式細菌爆弾を完成させる。)
1943年にはフランクリン・ルーズヴェルト大統領が、日本の細菌兵器及び化学兵器(毒ガス等)による攻撃を非難する声明を出した。ルーズヴェルトは、「日本の武装兵力によって中国のさまざまな場所で有毒ガスが使用されているとの信頼すべき報告が届いている」と言明した。彼は次のように警告した―。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを、間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
ルーズヴェルトは、彼の警告を以下の言説で締め括っている―「われわれは完全な懲罰を強制する準備をしておかなければならない。日本には〔国際〕責任が発生するであろう」。
この声明に呼応するかのように、その後の日本軍は、化学兵器、細菌兵器の使用を自粛するようになる!!
1945年3月再び石井四郎が731部隊長に就任すると、連合国に対し最後の一撃を加えるために、満州の鼠の捕獲を大々的に行なわせ、ペストノミを増産させた。
ところが、天皇・参謀本部は、敗色が濃く、アメリカの反撃や敗戦後のことを考慮して、細菌兵器の使用を断念した。
1945年8月、ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
1946年夏の終わりの初秋の頃、平房地区一帯でペストが発生し100余人の人が命を落とした。この原因も731部隊が飼育していた鼠に関係があるようだ!!
731部隊のこのなんとも早い逃亡劇は、731部隊の戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!
マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用した。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)
日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●昭和天皇の戦争指導
戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
「昭和の日」反対!!
昭和天皇の戦争責任を問う!!
学徒出陣 昭和18年 1943年
●731部隊と昭和天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地(731部隊の周りは「無人区」とされ、そこには、もともと中国人が住んでいて、生計をを立てていたが、強制的に追い出され、その住民たちは路頭に迷い、悲惨な状況におかれた。)に研究施設を作り(建設を請け負ったのは、鈴木組、松村組、藤田組、大林組であった。建設当初から敗戦まで、多くの中国人が苛酷な状況下で仕事をさせられ、仕事の犠牲になった者や逃亡を企てたり逆らったりして残酷な刑で殺された者も多数いた)、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌兵器は中国の都市で実戦された。その結果、細菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
中国では、日本軍の毒ガス兵器使用や細菌兵器使用による死者が増大し、中国は国内外に日本軍の行為を告発した!!(1942年の淅?作戦では、細菌兵器で日本軍にも多くの犠牲者を出してしまった。このような結果から、一時細菌兵器は、参謀本部の信頼を失うことになったが、それでもなお731部隊では研究開発を進め、1944年の末に石井式細菌爆弾を完成させる。)
1943年にはフランクリン・ルーズヴェルト大統領が、日本の細菌兵器及び化学兵器(毒ガス等)による攻撃を非難する声明を出した。ルーズヴェルトは、「日本の武装兵力によって中国のさまざまな場所で有毒ガスが使用されているとの信頼すべき報告が届いている」と言明した。彼は次のように警告した―。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを、間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
ルーズヴェルトは、彼の警告を以下の言説で締め括っている―「われわれは完全な懲罰を強制する準備をしておかなければならない。日本には〔国際〕責任が発生するであろう」。
この声明に呼応するかのように、その後の日本軍は、化学兵器、細菌兵器の使用を自粛するようになる!!
1945年3月再び石井四郎が731部隊長に就任すると、連合国に対し最後の一撃を加えるために、満州の鼠の捕獲を大々的に行なわせ、ペストノミを増産させた。
ところが、天皇・参謀本部は、敗色が濃く、アメリカの反撃や敗戦後のことを考慮して、細菌兵器の使用を断念した。
1945年8月、ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
1946年夏の終わりの初秋の頃、平房地区一帯でペストが発生し100余人の人が命を落とした。この原因も731部隊が飼育していた鼠に関係があるようだ!!
731部隊のこのなんとも早い逃亡劇は、731部隊の戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!
マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用した。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)
日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●昭和天皇の戦争指導
戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
被爆者の叫びが聞こえないのか? 主権回復して、アメリカの言いなり? 「核の不使用」声明、日本は賛同せず 「核の不使用」共同声明、日本の署名拒否について。 2013.04.25 非核三原則【(ひかくさんげんそく)は、「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という三つの原則からなる、日本の国是】を提唱して、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元総理大臣は、裏では核兵器開発・製造を真剣に考えてその方策を探っていたこの事実!!当時の西ドイツ高官が核兵器開発の打診を日本から受けて、当惑したと言う!! 国連の核軍縮決議562件が出されたが、日本は、アメリカの核の傘の下で東西の冷戦下の時は、賛成率40%を切った時もあった。90年代以降は平均55%。 ヒロシマ・ナガサキでは核兵器廃絶に向けてのアピールが毎年出されているのに、日本政府はなんとも冷ややか!! メキシコの数多くの核軍縮決議を提案し、各国に協力を求めてきた軍縮大使の弁 「核実験や核兵器に反対する国を全世界から探すとすれば、日本しかありません!!日本は本来核兵器廃絶の先頭に立つべき国なのです!!」 日本政府は中国で行った731部隊の細菌戦・人体実験の負い目と天皇制維持の為に、アメリカの原爆投下を真っ向から非難できなかった!! その後の日本は、ヒロシマ・ナガサキの原爆調査(治療ではない)を積極的に行いアメリカの機嫌をとりながら、第5福竜丸やその他の多くの漁船が水爆実験で被曝したにもかかわらず、原発導入へと進み、核兵器の開発を秘かに探っている!!もちろん、自民党政府、医学界は戦争の反省などするつもりは全く無い!! NHKスペシャル核を求めた日本101003 戦争遺跡!「731部隊」 聞こえませんか?「マルタ」の叫びが!!? 日本政府・日本医学界はなぜ謝罪しない? なぜ黙殺するのだろうか? 731の問題は過去から現在へと続いている!! 【725】 子どもの被曝 : 専門家は科学的では無くアウシュビッツ現象 / 武田 邦彦 日本の電気料金は世界一高い!! 20130420 R/F #015「小出裕章ジャーナル」 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 【「荒れ野の40年」ワイツゼッカー連邦大統領演説全文(1985年5月8日) より】 ヴァイツゼッカーの演説【独語】1/4 今の日本の言論封殺の現状!! ①孫崎享氏インタビュー@孫崎邸 TPP&大西英明議員による「言論封殺」について 戦後史の正体を語る1 象徴的な事例をあげてみたい。今はもう無くなったが、数年前には731部隊遺跡の本部楼から「ロ号棟」を結ぶ回廊の一部が残されていて(それは現在も確認できるが)、「煉獄門」(「不帰の門」)と書かれた文章が壁の金網越しに中国語、そして英語、日本語、韓国語の訳が添えられてあった。 これは誰が考えた文章か、筆者は確認することができない。以下、原文のままを再掲する。 これは731部隊が設立した人生の「不帰の門」である。当時たくさんの被実験者は此処を経由して生命の終点に行った。そして生還者が1人もいない。この門の中で飽くことを知らない野心と喪失した人間性とを無情な殺戮が充満したことがある。ただ「人間」として自分の罪を反省する事だけ発見できない。「煉獄門」の前に立って誰かが何かを述べているような感じがする。誰かが悲惨な歴史と未来の平和を述べているような感じがする。 決して正確ではない日本語がここではよけいに現実的な情景として見る者に訴えかける。「被実験者」とは通称マルタのことで、ここを通ったが最後、生きて帰ることはなかった。「飽くことを知らない野心」と「人間性を喪失した無情な殺戮」とは当時の医学の倫理的破綻であろうか。彼らは人道を、罪という自覚を失した集団であった。「煉獄門」の前に立てば、そこから人間の叫びが聞こえる。私もまた耳をそば立ててみた。未来の平和ではなく、憎しみばかりが募った。・・・・・ (『戦争遺跡と歴史認識」』ー「731部隊」遺跡保存活動を通して私が学んだことー田中 寛著より) 731部隊施設を世界遺産登録へ! 「悪魔の飽食」 黒い太陽731部隊 731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!) 医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る 2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!) 知ってるつもり 731部隊 |