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国家犯罪!731から福島まで!!

2015-06-11 13:24:37 | Weblog

※Internet Explorer よりグーグルクローム(Google Chrome)で見るとスムーズに画面が動きます。

●731部隊
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展

秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
日常/ #3ドキュメント2013.12.6 


「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と言えり、

・戦争を主導した大元帥、昭和天皇を始め、陸軍参謀総長、閑院宮、海軍軍令部総長、伏見宮、南京大虐殺に関わった上海派遣軍司令官、朝霞宮、影で動いた三笠宮、731部隊と関係のあった竹田宮等々、天皇、皇族は誰一人東京裁判で裁かれなかった!!
金と地位がそうさせたのか?

裕仁の朝廷は1940年10月、戦争が敗北に終った場合に天皇制を守ることを目的とした後方計画を開始した。
第1段階は皇族を責任ある地位から退ける事であった。
第2段階は彼らが戦争準備の過程で何の役割も演じなかったかのように見せかける表向きの筋書きをつくることであった。
菊の垂幕の背後への引退は、10月3日に・・・・75歳の閑院宮が、陸軍参謀総長の職を辞した時に始まった。・・・(『天皇の陰謀』下 バーガミニ著P134 より)

・アジアで多くの人々が虐殺されたのに、天皇はじめ皇族方は誰も処刑されなかった?
・731部隊での人体実験と細菌戦の最高責任者は誰だ?
・沖縄戦で多くの日本人が犠牲になった。その沖縄をアメリカに渡したのは誰だ?
・恐怖政治により、思想犯は拷問にかけられ、投獄され、死んだ者も多かった。
・1945年5月25日の東京の空襲では皇居の一部が燃えた。火事を防げなかった消防士は後に射殺体となって発見された!!
・(1942年)3月10日、マッカーサーがコレヒドールから脱出の大逃避行に出発する数時間前、英国外相イーデン卿は下院での演説において、全世界に向かい、日本が香港において忌まわしい残虐行為を広範に行ったことを明らかにした。・・・・3月13日に木戸内大臣は裕仁にイーデンの香港事件暴露の演説のことを報告した。裕仁はこのようなことの再発を防ぐ方策は何もとらなかった。裕仁の叔父達や軍関係の助言者達の立場は日本軍は残虐行為を犯すことによって自己の任務を一層忠実に遂行するようになるし、また敵に降伏してはならない、もし降伏すれば彼らが敵に対してした事を自分達に対してされるのだ、ということを彼らに信じさせるためにも必要であるというものであった。(『天皇の陰謀』下、バーガミニ著P335)
日本軍より虐殺と強姦も多発していた


●講演会のお知らせ




●731に関係する簡単な映像作品を作ってみませんか?

731部隊映像コンテスト




●映像でみる731部隊とは
(参考)
黒い太陽731 


終戦50年特別企画
終戦50周年731部隊


知ってるつもり「731部隊と医学者たち」


731細菌部隊と帝銀事件との真相1




●1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。



・「旧日本軍による細菌戦に関する中国民衆の戦争記憶」
東京女子大学教授:聶莉莉(にえりり)
常徳細菌戦 


・日本軍は常徳だけでなく、農安、農安大賚(のうあんだいらい)や衢県(くけん)廣信(こうしん)、廣豊、玉山などでも行われた。
中国に於ける旧日本軍の細菌戦


中国の被害者も同じ心境では?
沖縄戦、心の傷深く 体験者65%「今も思い出す」

闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送) 


●あの戦争を起こした裕仁の誕生日が「昭和の日」として休日にされるのには抵抗がある。
裕仁の戦争責任を感じる者にとって、なんともやりきれない!!
「裕仁」は、戦争を起こした人だからヨーロッパでは有名だろう!!
安倍は侵略戦争の反省をしないからアジアで有名?
欧米は昭和天皇、アジアは安倍首相=「知っている日本人」1位―新聞通信調査会

やはり、安倍と天皇家はつながっていた!!
天皇と親戚の安倍晋三首相

積極的平和主義の名のもとで・・・日本で「武器ビジネス」に火がついた=中国メディア

●陛下の戦争
治安維持法等で「思想の自由」「良心の自由」は奪われ、ただただ国民は「天皇教」に帰依せざるを得なかった!!
陛下の戦争


・大元帥裕仁の命令がなければ、一兵卒さえ、動かせなかった。
・裕仁は生まれたときから、将来の天皇として期待され、また大元帥としても教育された。
・天皇教は、天皇を世界の中心におき、八紘一宇をめざす。裕仁は大日本帝国をめざした。


『日本が世界征服をたくらんでいた』
ポツダム宣言「受諾し降伏したことに尽きる」

日本とアメリカの密約
731問題 

私は、アメリカ(マッカーサー最高司令官)と日本(昭和天皇)との間に戦後、取り交わされた幾つかの密約があると思う。
1つ目はサンダースが証言しているように「日本は731部隊の全てのデータを渡す代わりに、731部隊員を戦犯免責にする。」ということ。この密約のほかにも、「天皇と皇族たちも、円滑な占領軍統治を進めるために、戦犯免責にする。」や「731部隊が主に中国で行った非人道的な細菌戦と人体実験、日本軍の毒ガス使用や中国等の都市での無差別爆撃を裁判に取り上げない代わりに、アメリカによる日本各都市の無差別爆撃、2発の原爆投下の非人道性を日本政府は国際社会に訴えない。」ことを密約したのではないか?と想像する。昭和天皇とマッカーサーの11回に及ぶ会談で。
サンダースが語る裏取引の真相 



東京裁判は2年間続き、1948年に終了。しかし何千ページにわたる証拠書類や証言の中に731部隊に関する一言の記述もありませんでした。
アメリカは待望のデータを手に入れ、石井とその部下達は罪を逃れたのです。
しかし、その事とは別に一つの重要な問題が残されました。
天皇は石井が行った人体実験とのかかわりを追及される事を逃れたばかりか、国民の戦争犯罪に対して法廷に立つ事もなかったのでした。連合国が天皇の必要性を重視したからです。
アメリカと日本が意図的に天皇の戦争責任の追及をやめたということは疑いの余地がありません。
裁かれなかった731部隊員と天皇


天皇は知っていた!!
天皇と731


アメリカ政府の責任 


原爆投下、ソ連参戦 


なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?

原爆投下直後、軍部によって始められた原爆被爆調査は、敗戦とともにその規模を一気に拡大し、国の大号令で全国の大学などから1300人を超す医師や科学者が集まった。
なぜ、行われたのか?日本が中国などで行っていた、毒ガス戦や細菌戦の特殊研究は、戦争犯罪の対象になるので証拠を湮滅して隠し、原爆の威力を調べる調査書を渡せば、落とした国のアメリカは喜ぶだろうし、日本にとっても、心証がよくなり、戦後の新たな日米関係を築くのに有効なカードになるとの判断があった。2年以上かけた調査は181冊に1万ページに及ぶ報告書にまとめられ、英訳されて、アメリカに渡された。被爆者は何等治療される事なく、調査された!!


・オバマ大統領が広島でアメリカの原爆投下を謝罪しようとした時、外務省が丁重に断ったと言う。
外務省と言えば、昭和天皇とマッカーサーの通訳をした
寺崎英成氏も外務官僚だった。
外務省は、天皇制が続いたので、密約をきちんと伝えていたが、アメリカは、大統領が変わるものだから、そこの違いが出たのではないだろうか?
2009年オバマの広島訪問を妨害したのは外務省(=米務省)だったとは、広島市民よ怒れ!

竹田恒泰語録【原爆投下】オバマ大統領が広島で謝罪する要請があったのに断った日本

百田尚樹VS田嶋陽子 バトル勃発!東京大空襲・原爆投下は虐殺か?

アメリカ側の原爆投下に対するコメント


長崎の悲劇「避けられた」 原爆投下、技術者も反対

原爆投下間違ってなかった米国民5割...松本人志怒る

昭和天皇は、鬼塚氏によれば「天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。」


●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。


天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・


(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。



[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)
 

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!

この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 
畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。




「天皇が戦争中の役割、特に日本の軍隊に忠誠心や勲功より倫理性を重視する行動基準を持たせることができなかった事を理由に裁判にかけられ、法廷で尋問されることがなかった以上、日本の侵略戦争の正当性―アジア太平洋地域の国々への侵攻は解放のためだったという信念―は、かなりの説得力を持ったのである。結局のところ、多くの日本人は、戦争の遂行について天皇と共犯関係にあった。そして、国民は全体として、天皇が責任を負わないのだから、自分達に責任を負う必要などあるわけがないと考えた。
日本の国民は、戦争に対する罪の意識ときわめて真剣に向き合い始めていた。ところが、木戸と東条に天皇の責任を肩代わりさせるなど、責任を不公平に認定したマッカーサーとトルーマンのいち早い決定が、国民のこの取り組みをさえぎってしまった。・・・・」(ハーバード・ビックス著「昭和天皇」下p229~230




●東京大空襲
東京大空襲 


解説)1945年3月18日,死体など〈見苦しい物体〉の後片付けがされた現場を視察する昭和天皇の有名な写真である。お付きの者たちも含め,服装とくにピッカピカにみえる長靴に注目。

「天皇が視察にくるので,空襲で死亡した人たちの遺体をまとめて東陽公園に埋葬したという話を聞かされたある男性は,自分の妻子がそこにいっしょくたに放りこまれ,もう探しようもない事態となっていた顛末に,「憤懣やりきれぬ自分をおさえながら,それからは深川枝川町で,朝鮮人とともに生活するようになった」という。

というのは,洋服屋だった彼は空襲のため「もう洋服屋はできず,その財力もない」ので,朝鮮人たちと同じように「日雇いになって,あちこちで働き,不安定な労働生活が今もなおつづいているが,『わしを助けてくれたのは,政府じゃなかった,朝鮮の人たちだった』と,きっぱりいいきる」(早乙女,224頁)ような,その後における生活状態になっていたからだという。」(
1945年3月10日東京下町大空襲の記憶-昭和天皇と敵将ルメイ-より)



政府は被災者に戦後も何の補償もしない!!
1945年の春を過ぎると日本民衆はこれ以上持ちこたえることが、いよいよ出来そうもなくなってきた。3月9日から10日にかけてアメリカの太平洋空軍は、B29、334機で最初の焼夷弾による夜間空襲を東京の人口密集地に対して行った。首都の約4割が灰燼に帰し、推計8万から10万名が焼死した。火災はすさまじく、そのため河川は沸騰し、ガラスは溶け、そして熱風にあおられて墜落した爆撃機もあった。9日後の18日、昭和天皇は侍医と侍従を伴い、車で首都を視察した。当時、別の車で随行した吉橋戒三時中武官は、後に罹災者の様子を次のように回想していた。


「焼け跡を掘り返している罹災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。平時の行幸とは違って予告していなかったとはいうものの、菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、3、4台も通るのだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりもした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただボーっとしているのか、この不幸な人たちを真近にご覧になる陛下の御胸中はいかばかりかと、拝察したわけである。」p118「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)

※裕仁はまだ戦争を続行する。国民の苦しんでいる姿に同情もないようだ。(天皇家の資産管理に余念がなかった?)

「沖縄戦で甚大な損害を被り、アメリカ軍の焼夷弾爆撃により60以上の都市をあらかた焼け野原としてしまってから、ようやく昭和天皇は和平の希望を示唆し、戦争終結の方途を模索し始めたのである。」p120「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)

最高裁で敗訴が確定した東京大空襲訴訟が問いかけたもの 戦争被害を国民は受忍できるのか

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国家犯罪!731から福島まで!!

2015-06-11 13:14:30 | Weblog

●日本の立場
日本政府が、昭和天皇の戦争責任を回避するために、731部隊の資料を隠蔽し、南京虐殺についても謝罪しない立場をとり続け、アメリカの核の傘のもと、アメリカの軍事同盟強化の方向に走っているが、これでは世界に向かって「核兵器廃絶」を訴える説得力は弱い!!
いつまでも、日本はアメリカに隷属することになるだろう。ポツダム宣言に於ける日本の立場(“shall be subject to”)と同じように!!

ドイツがソ連軍の捕虜4000人に賠償、韓国メディア「日本とはあまりに違う」=韓国ネットは「日本とドイツでは度量が違う」「比較はもううんざり」

米バージニア州で慰安婦記念碑設置1周年記念式典、出席者から日本批判=「慰安婦ではなく性奴隷!」「ベトナム戦争を持ち出されたら…」―韓国ネット

侵略戦争と認めることは日本が越えなければならない関門

侵略者が「被害者」を装うことは永遠にできない

731部隊はソ連人93人に人体実験していた、中国の専門家が考証―中国メディア

日本の遺棄化学兵器は関係地域の中国国民の生命と財産および生態環境の安全に深刻な脅威と危害を与えている。
外交部、日本側は遺棄化学兵器の廃棄を一層加速するべき

(戦争責任者の)天皇が同一人物として残り、現人神から変わっただけであった。
日本は旧満州など他人の土地に踏み込み侵略したのでドイツより悪質=天皇の戦争責任、あいまい処理も尾を引く―拓殖大教授が「日独戦後処理」比較

「国の借金」1053兆円=過去最大、1人当たり830万円―14年度末



●日本政府は731部隊で行われた人体実験、またそこで製造された細菌兵器によって中国で行われた細菌戦について公式に認め、謝罪しないのですか?安倍首相もよくご存知だと思いますが?
戦後70年談話で「謝罪の必要なし」、有識者会議の西室座長
フランスのメディア:日本側の懺悔は足りない



日本政府の731部隊に関する今までの見解(一部)

2012年社民党の服部良一議員が行なった質問に対する、当時民主党の野田佳彦総理が行った国会答弁である。
(提出された質問書と答弁書より)
(質問1)アジア歴史資料センターが公開している昭和十七年九月二十二日付けの陸密第二七八五号で陸軍省副官川原直一が発した「不健康業務加算ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒」には「關東軍防疫給水部(大連出張所ヲ含ム)ニ於ケル左記ノ危險ナル細菌ノ研究檢索並ニ診断液又ハ豫防液ノ製造業務ハ大正十三年内閣告示第二號ノ第二號末項ニ該當スルモノトシテ本年九月十六日内閣恩給局長ノ指定アリタルニ付同部隊ニ在リテ直接該業務ニ從事スル公務員ニ對シテハ右指定ノ月以降恩給法第三十八條ノ不健康業務加算ヲ為シ得ル儀ト承知アリ度左記コレラ菌、ペスト菌、チフス菌、パラチフス菌、赤痢菌、流行性脳脊髄膜炎菌及其ノ他危險ナル病原細菌」との記述がある。
1、右の「危險ナル細菌ノ研究檢索並ニ診断液又ハ豫防液ノ製造業務」で、七三一部隊が行っていた業務とはどのようなものか。細菌の培養やワクチン製造を含むのか。また、右の「其ノ他危險ナル病原細菌」で、七三一部隊で取り扱っていた細菌とは何か。炭疽菌、鼻疸菌、結核菌を含むのか、以上明らかにされたい。


(答弁1-1)いわゆる七三一部隊が旧日本軍の関東軍防疫給水部のことであることは、防衛研究所戦史研究センター史料室が保管している旧日本軍の関連資料から明らかとなっている。 
しかしながら、外務省、防衛省等の文書において、関東軍防疫給水部におけるお尋ねの「研究檢索」、「製造業務」及び「其ノ他危險ナル病原細菌」の具体的内容を示す資料は現時点まで確認されておらず、お尋ねにお答えすることは困難である。


※日本政府は資料を確認しようする努力は全くせず、反対にずっと隠している!!

(参考)
満州国で安倍の祖父・岸信介もアヘンで大儲けし、巨大な富を築いた!生体人体実験の731部隊の指揮も岸信介

天皇は知っていた!!(積極的に関与していたでは?)


大本営作戦主任参謀朝枝の証言


戦犯免責の過程


「ミドリ十字」という会社 



ウィキペディアより
内藤の起業した日本ブラッドバンクは、当初は輸血用血液の売買を主とするものの、各地に中小の血液銀行が乱立し、 競争が激化するに連れ人工血液製剤への移行を模索した。
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字に一本化された。路線転換を迫られた内藤は、人工血液と血液製剤への移行を模索する一方、社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
1996年8月から10月に帝京大学医学部附属病院の医師だった安部英、ミドリ十字の代表取締役だった松下廉蔵・須山忠和・川野武彦、厚生省官僚だった松村明仁が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。(薬害エイズ事件)1986年1月に加熱製剤の日本における販売が開始され、十分な供給量を確保することが可能となったにもかかわらず、非加熱製剤の回収などの措置を講じなかったとして2000年にミドリ十字の3被告人に実刑判決
ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。


一方、裁判所の判断は
・1997年の家永教科書裁判第3次訴訟では、最高裁で731部隊の記述は正当と認められた。




・証拠もある
731部隊で行われた人体実験 


医師・金子ー順-論文の発見

731部隊幹部が人体実験で京大博士号

15年戦争と日本の医学

・731部隊に関する書籍、テレビ報道で国民は事実を知っている!!
天皇の裁可した軍令に基づいて!!
731部隊


・中国政府も化学兵器と生物兵器の被害国であることを訴えている!!
化学兵器と生物兵器の全面禁止と徹底廃棄を

中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。中国は、生物兵器の全面禁止と徹底廃棄を主張し、いかなる国も生物兵器を開発、生産、貯蔵することに断固反対し、いかなる国がどのような方式にせよ、この種の兵器とその技術を拡散することにも反対する。「生物兵器禁止条約」締約国として、中国は自らの担う義務を真剣かつ全面に履行するとともに、「生物兵器禁止条約」と関係ある信頼醸成措置面のデータと状況を逐年国連に報告している。


防衛医科大学校の教官も認めている!!


・米国陸軍感染症研究所のホームページにも載っている!!
生物兵器被害者医療管理ハンドブック(抄訳)
1937年には日本軍が生物戦計画を始め、満州国奉天近郊に731部隊と呼ばれる研究施設を設立した。石井部隊は1945年まで研究を続け、施設は焼き払われた。部隊は多くの菌を研究し、戦争捕虜に人体実験をおこなったことが戦後判明した。1000体近くの人体実験がなされ、多くは炭疸吸入によって死亡している。3000人にのぼる中国人がここで犠牲となった。さらに、飛行機からペストに汚染したのみを散布し、中国、満州にペストの流行を引き起こした。日本軍は、爆弾用として、400㎏の炭疸菌のストックを持っていたと言われる。


731部隊めぐる日本と米国の密約、ジャーナリストの近藤昭二氏語る

「731部隊はどこまで明らかになったか、この部分はまだ謎」
4月26日近藤昭二講演 001 

4月26日近藤昭二講演 002 

4月26日近藤昭二講演 003 

4月26日近藤昭二講演 004 

4月26日近藤昭二講演 005 


●真相40号

真相第40号【1950年(昭和25年)】4月1日、日本の政治思潮が右に揺れた時期さえ、諷刺雑誌はスポットライトのもとで脱帽する天皇を人骨の上に立たせた。アメリカの政策が、極東軍事裁判で天皇を戦犯として起訴することは防いだものの、少数とはいえ無視できない数の日本人は戦争中の重大な誤りを知っていて、決して許そうとはしなかった。(三一書房「真相 復刻版」より)
※GHQと関係があった二木秀雄の「政界ジープ」は、731の事を書いても、お咎めなし。それに対して「真相」が731の事を書くと、編集者はCIC(対敵情報局)に拘束され、「2度とこのようなことは書くな」と脅された。この違いは何か?
写真は「真相40号」よく見ると「生きている細菌部隊」というタイトルがある。

※下記のビデオでは、28分45秒あたりから真相の解説があります。
4月26日近藤昭二講演 001




●731部隊の証言者
笠原四郎のような731部隊で行われていた事を証言してくれる医学者が、もう1人いたら、日本医学界は大きく変わっていたかも知れない?
笠原四郎証言

篠塚良雄証言

三尾豊証言(元憲兵)

731部隊員の証言 1 

731部隊員の証言2 

731部隊員の証言3


佐世保の女子学生や名古屋の女子大生は、731の何らかの本を読んでいたのだろうか?生体解剖したり、タリウムを飲ませたり・・・731を想像してしまう。
ペスト菌、コレラ菌、チフス菌・・などを中国に撒き、生体解剖をしていた部隊を。
佐世保女子高生殺害事件
被害男性、女子学生の名挙げる=タリウム混入捜査で―容疑者と判断せず・宮城県警



●ニュース
沖縄戦を本土進攻までの“時間稼ぎ”と考えていた日本軍と、短期決着を目指しながらも、ゲリラ的戦法に手を焼き無差別攻撃を始めたアメリカ軍。
戦後70年、NHKが沖縄戦の実像に迫る
沖縄戦 



米軍普天間騒音、国に賠償命令 住民2千人に7億5千万円

「9条」再びノーベル賞候補 相模原の団体に「推薦受理」

千佐子被告3度目逮捕へ=交際男性に青酸、強殺未遂容疑―連続不審死・大阪府警など

韓国外相が日韓国交正常化50周年に合わせて訪日へ、2年前には靖国参拝に反発してキャンセル―韓国英字紙

日本の博物館が大韓帝国皇女の遺品7点を韓国に寄贈・・韓国ネットは「奪ったものは全て返せ!」「寄贈という表現は気に入らない」

朴大統領、訪米を電撃延期…米国側「決定を尊重する」

米軍、イラクに450人追加派兵 対「イスラム国」作戦で支援強化

<脱法パーティー>自民山田氏団体に補助金受給JA系5億円

オスプレイ飛行、日米合意の順守必要なし 普天間担当官

合憲説明、政府ちぐはぐ 閣僚ら釈明相次ぐ

韓国 MERS感染者増え122人に

日本移植学会 体制整うまで肝臓移植の自粛を





●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

満州国軍の補助部隊をのぞき、日本は戦死、戦傷、行方不明を合わせて総数1万8925名の損害を被り、事実上、 1個師団全部を失った。ノモンハン事件で大敗北を喫した責任は、関東軍司令官植田謙吉とふたりの幕僚、辻政信、服部卓四郎にあったが、3人とも転任させられたに過ぎなかった。陸軍の作戦、用兵についての見直しはいっさい行われなかった。昭和天皇はまたしても処罰することを控え、ちょうど、かつて満州事変を謀略により開始した者が東京の参謀本部に就任し、昇進することを許したのと同じように、1941年、辻と服部が参謀本部で重要な立場に昇進・就任することを認めた。
p302

ノモンハン事件と細菌戦 



日本鬼子のおきみやげ(毒ガス) 


●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

『日本が世界征服をたくらんでいた』
ポツダム宣言「受諾し降伏したことに尽きる」

ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第一章

南京強奪(その1)  日本と中国
裕仁は、自分が中国に何らかの憎しみを抱いているからではなく、祖父および曽祖父から引き継いだ国家的計画(3)による必要において、中国と戦うのであると主張していた。1853年、米国のペリー提督が大砲を突きつけ、西洋諸国との通商と決済を行うため港を開くよう強いて以来、裕仁の曽祖父は、その家臣たちと、ひとつの誓いを立てていた。すなわち、「紅毛の野蛮人」は日本の聖なる国土から追放されなければならず、日本は、さらなる冒涜を防ぐために、緩衝地帯を形成するべく「海外進出」しなければならない、というものであった。
・・・・
旧日本軍は明治時代から中国侵略を考えていた?

潜入盗測

『日本が世界征服をたくらんでいた』
ポツダム宣言「受諾し降伏したことに尽きる」

赤いテント

水陸両用上陸戦術を担当する専門部隊が、三年前より台湾で活動しており、ジャワやルソンといった外地の島に攻撃を加える際の問題について研究を重ねてきていた。二つの小艦隊のうちの半分の部隊は、過去12年間の理念上の論争における裕仁の命令によって、陸軍から選別されてきていたものであった(30)。その特務部隊の南部方面を率いる総司令官は、現役への復帰を果たした大将で、小柄、禿頭の熱心な戦略家、柳川平助であった。彼は、1936年の2.26事件の3人の陸軍首謀者の一人として、その特務部隊の候補者に加えられていた。柳川大将は、1921年、裕仁が当時、皇太子として最初で最後の外国歴訪の旅をした際、その迎えのためにパリにきていた。柳川は、1932年から1934年の間の副陸軍大臣として、終始、外国出張に出ていた。1935年には、台湾軍司令官として赴任、今や日の目を見るようになった水陸両用作戦技術の開発を指揮した。他の者と同じく、彼も、天皇の息がかりのもとでの自身の再構築に熱心であった。九月に再び指名があった際、彼は妻にこう書き送っている(31)。「君、安んぜよ、すでに過ぎたり三途の川、天国の門を開く、目睫の間。」

南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分 


南京大虐殺


フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」 

河村たかし名古屋市長の南京事件否定発言に抗議し撤回を求める

なんでこんな教科書が検定に通る?
『新しい歴史教科書』(自由社)

まやかし裁判

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?

●日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



・『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

Ⅶ 自衛隊隊員の人体実験

赤痢予防薬人体実験


さらに調査をすると瀕死の老女の人工血液の人体実験をしていた事実が明らかになった。
おまけに、内藤会長自ら自分の体にその人工血液を注射した、というジェンナーまがいの美談をつくっていたが、それは瀕死の老女への人体実験で安全性を確かめたあとに行なわれたものであることも明らかにされた。
私は、ポリラクトン問題も不透明であってはならぬと思う。
私は、すでに引退している園口忠男の住居を調査した。精魂会名簿の杉並区和田にはいない。やがて、彼は熊本にいるという話をある人から聞いた。熊本の県立の公害研究所にいるというのだ。







全文は「ノブのノート」で!!

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