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●731部隊(1) ●731部隊(2) ●731部隊(3) ●731部隊(4) ●陸軍軍医学校50周年記念行事について ●南京大虐殺 ●昭和天皇 ●教科書問題 ●陸軍登戸研究所 ●日航123便の怪 ●日本とドイツの違い ●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!! ●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか? ●731部隊展 ●1941年 日本軍マレー侵攻 真珠湾攻撃 敗戦70周年の12月8日、74年前、太平洋戦争に突入した日だ。日本は米・英などを相手に、戦争を開始した。それまで、泥沼化していた中国戦線に加え、日本は大日本帝国を目指し、侵略戦争を拡大した。そしてこの戦争によって、多くのアジア・米・英・その他外国人・銃後の日本人の命も奪われ、大変な惨事となった。降伏時も降伏条件を巡って時間を取り、結果、原爆投下、ソ連参戦等により日本人の犠牲者が膨らんだ。 なぜ、この8日を天皇家・日本政府は無視する。謝罪や反省の弁が聞かれてもおかしくないはずだが。世界に向かって謝罪したらどうだ!!NHKをはじめマスコミも戦前、国策に協力し、国民を煽ったのだから、反省して12月8日をきちんと扱ったらどうか!! ・ハーバード・ビックス著『昭和天皇』(下)より 木戸内大臣と海軍侍従武官城英一郎の日記から、「大東亜戦争」初日の昭和天皇の様子を、時々刻々と追うことができる。城によると「0130、馬来(マレー)部隊シンゴラ方面上陸開始、0430、上陸完了。0230、(東郷)外相拝謁、ル大統領の親書奉呈」とある。この親書に(侍従の回想によると)天皇は当惑したようだった。さらに城の日記は続く。〔以下、原典の英文表記地名は片仮名に改めた〕 0400(日本時間) 対米最後通牒。 0320、 ハワイ奇襲成功 。 0530、 シンガポール爆撃、効果甚大、ダバオ、グアム、ウェーク空襲。 0710、 以上戦況概要奏上。上海方面にて米砲艦(ウェーク)捕獲、英砲艦(ペトレル)撃沈。 0715~0730、 軍令部総長戦況奏上。 0730、 首相拝謁、宣戦詔勅内奏(0700より閣議)。 0735、 参謀総長戦況奏上。 1045、 臨時枢密院会議臨御。 1100、 宣戦詔勅発布。 1400、 海陸軍大臣御召、陸海軍に勅語を下し賜う。陸軍大臣代表して奉答す。 1630、 参謀総長、軍令部総長同時拝謁。日独伊三国軍事協定案につき奏上。 2030、 ハワイ空襲の成果につき軍令部総長奏上(戦艦2隻撃沈、4隻大破、巡洋艦4隻大破)。 本日終日海軍御軍装を召され、天機麗はしく拝し奉る。 ●歴史(history)は彼(his)=権力者の物語(story) だから、権力者(安倍政権?天皇家?)は、自分に都合の悪いことは闇に葬り去る。 南京大虐殺、731部隊・慰安婦問題等々・・・ そして、教科書には、真実を載せない。 「歴史教科書を信じてはいけない」船瀬俊介の船瀬塾 ●東京裁判 東京裁判は、政治的思惑からきちんと戦争犯罪を裁いていないまやかしの裁判であった!! 1、戦争を主導した最高責任者昭和天皇をはじめ、ほとんどの皇族が免責され、裁判にかけられなかった。 2、主に中国で行われた生体実験や細菌戦、毒ガス戦については、裁判に取り上げられず、それにかかわった者は免責され、アメリカがそのデータを独占した。 3、日本軍が、重慶や中国の都市を無差別に爆撃したことも、不問に付され、また、アメリカ自身が行った日本各地の無差別爆撃、空襲についても論じられなかった。 4、敗戦がもう見えているのに、アメリカは実験的に非人道的な2種類の原爆を投下し、戦後は、その効果を調べ、治療をまったくしなかったことも不問に付された。 東京裁判 ●三笠宮が百歳祝いで思い出す「紀元節反対」と「南京虐殺言及」 昭和天皇の弟・三笠宮さま 100歳の誕生日 「聖戦という大義名分が、事実とおよそかけ離れたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるをえなかったのではないか」!! 「紀元節に科学的根拠なし」!! 「満州の広野で行われた毒ガスの生体実験」 「虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません」 「昭和天皇にもお見せしたことがあります。・・・多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています」 ●三笠宮の発言を額面通りには受取れない!! ・「架空な歴史」と「勝算なき戦争」(週刊新潮:2015年12月3日号より) 三笠宮さまは1943年1月から1年間、お印にちなんだコードネーム“若杉参謀”として南京に赴任され、戦後は東大でオリエント史を学ばれた。56年には『帝王と墓と民衆』(光文社)を上梓。ご自身の戦時中の感慨について、同書に付された『わが思い出の記』の中で、〈私の信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚き果てたのである。罪もない中国の人民に対して犯した忌まわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将校の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とは思いもつかない結果を招いてしまった〉 この失敗は軍および日本政府首脳者に真剣な反省を促し、新たに対華新政策なるものが決定され、私が南京に在住していた1年間は、司令官以下この新方針の徹底に最大の努力をした。と現地で見聞した日本軍の行状をひたすら嘆かれ〈新政策が発表されるや、軍司令官は直ちに「四悪」を禁止するという厳重な命令を下した。四悪というのは、略奪、暴行、放火、強姦のことである。(中略)ある第1戦の大隊長の言うことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼き払って進んだので、自分の大隊の第1戦がどの辺を前進しているかすぐ分かった。ところが今度放火を禁じられてみると、第1戦がどこにいるかさっぱり分からない、と、まったく笑えないナンセンスであった。〉〈聖戦という大義名分が、事実とおよそかけ離れたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか。〉 当時から聖戦への信念を完全に失っていたと明かされているのだ。 同じ頃、世間では48年にGHQの意向で廃止された祝日・紀元節を復活させようとの気運が高まっていた。そんな中57年11月13日付「毎日新聞」は、ある歴史学者の祝いの席でなされた三笠宮さまの発言を報じている。〈「2月11日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが、カンジンの歴史学者の発言が少ないのはどうしたわけか。紀元節問題は歴史科学に影響するところが大きいと思う。(中略)このさい、この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ、2月11日・紀元節反対運動を展開してはどうか。(中略)この問題は純粋科学に属することであり、右翼・左翼のイデオロギーとは別である。」〉 学者の立場から「紀元節に科学的根拠なし」との論陣を張った三笠宮さまは、その後も、〈紀元節についての私の信念〉(『文芸春秋』59年1月号)と題した論文を発表。〈日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である。そう強調され、以下のように結んでおられたのだ。 〈昭和15年に紀元2600年の盛大な祝典を行った。 1940年(昭和15年)11月 日本ニュース第23号 (この当時は、天皇は現人神であり、絶対的な存在として教科書にも記述されていた。今また、「日の丸」「君が代」の強制によって、天皇は神になっている?現代人の皇室信仰はどうなのだろうか!!) 日本は、翌年には無謀な太平洋戦争へ突入した。すなわち架空な歴史―それは華やかではあるが―を信じた人たちは、また勝算なき戦争―大義名分はりっぱであったが―を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の1人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている〉 こうしたお考えの集大成とも言えるのが、84年に刊行された自叙伝『古代オリエント史と私』(学生社)である。そこでは、今もなお良心の呵責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです。と前置きしつつ、南京での実態をさらに詳述され、〈ある青年将校―私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが、成功しなかった、と語っていました。 「聖戦」のかげに、実はこんなことがあったのでした。 南京から帰任する直前の44年1月、三笠宮さまは“若杉参謀”の名で将校らを前に講話をなさっている。軍紀の乱れや現地軍の独走を厳しく指弾する内容は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられ、94年には半世紀ぶりに公表された。当時、月刊誌の取材でご自身は、いわゆる「南京大虐殺」についても、〈最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。(『THIS IS 読売』94年8月号)そう断じており、〈中国側は、日本軍の残虐行為を『勝利行進曲』という映画にしていましたが、それを日本側が重慶あたりで没収してきたものを手に入れた私は、東京に連絡に戻った時に、その映画を持っていき、昭和天皇にお見せしたことがあります。もちろん中国側が作った映画ですから、宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています。〉老境に差し掛かってもなお、決して節を曲げることはなかったのである。 ・昭和天皇をはじめ、皇族たちは、戦争を積極的に主導し、三笠宮は、陸軍登戸研究所や731部隊本部を訪れ、そこで行われている実態を知っていた。 ・リットン調査団に、毒入りの果物を食べさせようとしたのも、731が関与したことを知っていたのではないか? ・516部隊や731部隊が満州で毒ガスの生体実験やその他の人体実験をやっていたのは当然知っていた。 ・南京大虐殺は朝香宮が主導したことは知っていた。捕虜を国際法に基づいて扱わない軍の方針ももちろん知っていた。 ●三笠宮は、登戸も731も南京虐殺も、8・15クーデターもすべてご存知だ。 登戸研究所本部前(ヒマラヤ杉) 天皇は知っていた!! 昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王は、南京事件に 記憶という遺産をめぐって~なぜ「南京」はこれほど問題化するのか?~(ラジオフォーラム#151 「南京 引き裂かれた記憶」 【1945 8/15】鬼塚英昭 日本のいちばん醜い日 「南京大虐殺」が狂わせた人生~日本兵が犯した「生肉の徴発」の罪はまだ消えない ●戦争法の廃止を求め侵略と植民地支配の歴史を直視しアジアに平和をつくる集い!! 安倍政権の不当弾圧!!歴史を直視せよ!! 中国人参加者、ビザ発給されず 歴史問題シンポ (社説)中国人ビザ 不可解な発給拒否 歴史問題で現実逃避 見下げ果てた国、日本 なぜ、いない?中国人細菌戦被害者遺族? (朝日デジタル)(社説)中国人ビザ 不可解な発給拒否 何が背景にあるのだろうか。 11月末に開かれた、歴史間題をめぐる市民団体主催のシンポジウムに参加予定だった中国人12人に対し、 日本政府がビザを発給しなかった。 シンポでは植民地支配の歴史などについて日中韓の市民が議論する予定だった。発給拒否によって市民レベルの交流が聞ざされる結果となった。 主催者側は 『国家権力よる言論の封殺行為』 と反発する。 外務省は 『個別のケースについて査証の審査の中身は答えられない』 と言うばかりで、拒否の理由は説明しようとしない。 シンポのタイトルは 『戦争法の廃止を求め、侵略と植民地支配の歴史を直視し アジアに平和をつくる集い』。 主催した市民団体の代表呼びかけ人5人には、 著名なルポライター、 大学名誉教授らが名を連ねる。 ビザが出なかった中国人12人は、 旧日本軍の731部隊による細菌戦の被害者遺族ら。 招請した弁護士によると、 裁判やNGOとの交流のためにこれまで何度も来日したことがあるが、 ビザ発給を拒まれたことは一度もなかったという。 今回、 ビザを取るために弁護士が11月4日付で現地の日本大使館に提出した招請理由書には(1)集いへの参加と発言(2)韓国・日本からの参加者との交流(3)細菌戦間題に取り組むNGOとの意見交換一などの目的が書かれている。 主催者やシンポの目的は明確で、 参加予定者に来日実績もある。 なのになぜ今回は発給拒否なのか。不可解である。 シンポのチラシに、 こんな記述がある。 「 《韓国・中国の日本による植民地支配と侵略戦争の被害者》 と 《日本で安倍政権の戦争法に反対する市民》が一堂に集まり連帯と交流の場を持ちます。 この連帯・交流の集いは、戦争に突き進む安倍政権への反撃の第一歩です」 安保関連法を成立させた安倍政権を批判する内容がシンポのテーマだったことが、ビザ発給を拒む理由ではないのか。 そう受け取られたとしてもやむを得ないだろう。 折しも、 中国で今月開かれる ミスコンテストのカナダ代表に選ばれた女性が中国に入国できなくなっている。 中国の人権状況を批判したことが理由ではないか、 と報じられている。 だれを入国させ、 入国させないかをめぐる判断は、 その国の政治のありようを映し出す。 異なる価値観や意見を尊重する国であるのかどうか。不可解なビザ拒否は、日本の民主主義への疑念を生みかねない。 歴史を検証したかったら、被害者の声に耳を傾けなくては!!自民党の誰が外務官僚に圧力をかけたのだ? 「東京裁判」検証へ自民が新組織 稲田氏意向 外務官僚に圧力をかけたのは誰だ? (東京新聞)↓ ●27日(金) 高嶋伸欣講演(琉球大学) 「大国主義の国つくりを目指す安倍政権に主権者国民の側から歴史の事実を問う」(衆議院第1議員会館) 高嶋伸欣講演 ●不二越強制連行とは 不二越強制連行・強制労働とは? 不二越問題 ●中国に於ける細菌戦 中国に於ける細菌戦 闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送) ●28日(土) 田中宏講演(一橋大学) 「やはり問われる日本の歴史認識」 昭和天皇は国際法を遵守しなかった!! ●ハーバード・ビックス著『昭和天皇』(下)より 昭和天皇が即位後に行ったことは、事実上、祖父明治天皇が残した先例からことごとく逸脱したものであった。10月末に始まった開戦の詔書の起草も、例外ではない。 それまでの開戦の詔勅には、例えば、「国際法に悖(もと)らざる限り」、「凡そ(およそ)国際条規の範囲に於て」のような国際法違反の行為を戒める言葉が含まれていた。昭和天皇の詔勅にはそのような制約が含まれていなかった。ハワイ真珠湾のアメリカ艦隊と軍事施設への空爆と、英領マラヤのコタバル上陸のふたつの奇襲攻撃を同時に行う作戦に合わせなければならなかったからである。 コタバルから日本軍は、マレー半島の先端にあるシンガポールの占領を目指し、熱帯雨林や山岳を避け、マレー半島の西岸沿いを南に向けて進軍した。シンガポールは東南アジアにおける大英帝国の急所であり、オランダ領東インドの資源への入り口だった。日本軍のシンガポールヘの侵攻は、タイ国南部のクラ地峡、コタバル北方のシャム湾にある要港シンゴラでタイ国の中立を侵す必要があった。つまり南方作戦は全体として、英米ふたつの強国と、小国ではあるが外交的には第三国の立場にあるタイ国に対して国際法を侵犯することを前提としていた。これらは作戦上、必須の要求だった。しかも、タイ国が日本の側に立って参戦するのか、あるいはイギリスの側で参戦するのかはあいまいであり、このことを知ったうえで昭和天皇と東郷外相は、詔書の草稿から国際法遵守の項目を取り除いたのである。 p98 ●不二越問題№2 ●中国細菌戦被害者の調査 常徳細菌戦 |