●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
細菌戦ー731部隊の蛮行
田村良雄(たむらよそお)防疫診療助手 兵長
(略歴〉
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊)に入隊
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地=千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢=34歳
●―筆者(篠塚良雄氏)からの一言〈昭和57年7月〉
731部隊の極悪非道な行為は、天人(てんじん)共に許すことのできない犯罪である。戦争に科学者の良心を売り渡した「学者」、それも人命を救うことを使命とする「医学者」「医学徒」の手によって、またはその指揮のもとに行なわれた残忍な行為は、戦争犯罪としても『国際法の規範と人道の原則を踏みにじった』悪の典型である。
私は愚かにもその手先となって、償うことのできない数々の罪行を犯してしまった。どんなに悔やんでも悔やみきれない。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告
和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)
第1 最近の情報公開裁判の動き
昨年は『衛生学校記事』、『化学学校記事』の両事件を合わせて9回裁判が開かれました。
1昨年、『衛生学校記事』裁判では、衛生学校の『図書原簿(目録)』から、かつて『衛生学校記事』『化学学校記事』が衛生学校図書室に存在し保管されていたことが明らかになりました。
そもそも『図書原簿』の存在については、私たちも認識が不充分でしたが、衛生学校担当者が「以前存在していたが、今は廃棄した証拠」として『図書原簿』を提出してきました。
・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷
延期になっています。
・次回『化学学校記事」情報公開裁判も(第16回)東京地裁522号法廷も
延期になっています。
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
2、 生物・化学兵器の種類と特性
化学兵器の種類と特性
化学兵器とは、化学作用によって致死、傷害、刺激作用を起こす火薬以外のものと、発煙作用、及び焼夷作用をするものをいうのである。つまり、「戦用ガス」、「発煙剤」及び「焼夷剤」を総称する用語である。
「戦用ガス」は、紀元前428年のスパルタ戦争で、硫黄やピッチを木材に浸せきしたものを燃焼したことに端を発する毒ガスである。
「発煙剤」は、1701年スウェーデンが渡河作戦で湿ったわらを燃やして発煙したという記録がある。第1次世界大戦では英国が、樹脂、ピッチ、黒色火薬などを混ぜ合わせて発煙筒を作った。その後各種の化学薬品によって製作されているが経済的には高価である。第2次大戦以降特に朝鮮戦争では、アメリカが発煙機による煙の大量発生に成功し、今日に至っている。
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第12章大元帥の試練
V
1944年8月5日、大本営政府連絡会議は、その名を最高戦争指導会議に変えると、重慶の国民党政権に日本の「信義」を認めさせるべく、新たに積極的な外交を開始し、ソ連にあいまいな事例交渉を求めるための最初の計画を練った。対ソ外交の方策は外務省によって作成され、表向きは中国共産党と蒋介石の国民党との和解の実現についてソ連に支援を求めるというものであった。これにより日本は中国の新政府と平和条約を締結し「大東亜戦争」の遂行に向けて状況を改善することができる。その代わり、日本は同盟国であるナチスのドイツ第3帝国とソ連との関係改善つまり和平の促進に尽力するというものだった。なぜこのようなことをするのか。 その理由は崩れかかった東アジアにおける日本のヘゲモニーを安定化させるためだった。ソ連を軸としたこの最初の和平工作は、ほとんど実を結ぶことなく終わった。
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)
第1章 二酸化炭素温暖化論が地球を破壊する
気温上昇と二酸化炭素増加とどちらが先か
南極の氷のコアの分析結果では、気温上昇が800~1300年ほどCO₂濃度上昇に先行しているのだ。地球の長い歴史において、氷期から温暖期への移行は、大気中のCO₂濃度の増加と無関係であることが記録から明らかである。むしろ温暖期への移行期から400~1000年「後」にCO₂濃度が増加しているのだから、温度の上がった海からCO₂が放出されたと説明するのが、最も自然な解釈であろう。