核時代39年(1984年)5月初版発行
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
崩れかかった土塀に取り囲まれたここ河北省密雲(みつうん)県曹家路(そうかろ)村は、戸数にして約150戸、人口約800名あまりで、大部分は農家で2,3軒の雑貨屋と1軒の蹄鉄屋があるだけだ。村の中央を道路がTの字型に走っており、村の南側一帯の広々とした肥えた畑には青い家が軍靴や馬の蹄に踏みにじられながらも、その根を大地に深く張っている。小高い坊主山の峰々が遠くからこの村を抱くように見守っている。
土塀の表側の右角に高さ4mばかりの望楼があり、その上に小さな日の丸の旗が立っている。その下に歩哨が2名、鉄帽を被り着剣氏し、飢えた狼が獲物を探し求めるように行ったり来たりしており、軽機が1挺南の山に銃口を向けている。
この村は1941年初め『八路軍討伐』のため、関東軍から派遣されてきた第2独立守備第7大隊第3中隊、中隊長大尉中山照次以下約130名の1個中隊がいた。私はこの部隊に配属、憲兵となっていた。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
38年2月1日 統裁部
昭和38年度統合防衛図上研究(三矢研究)実施計画
6 その他
(4)研究実施のため必要なその他の事項については、その都度統裁官の定めるところによる。
別紙第1
研究全般の日程(214~5頁の表)
別紙第2
研究担任区分(216頁の表)
別紙第3
状況下の研究開始時における想定
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。