●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
731部隊被害者遺族の訴え!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報20巻 第9号(1936年)
人事異動報告
昭和11年9月2日 伝染病研究所
発令月日 辞令 官職 氏名
7.30 研究生退学 高麗日出男
8.6 兼任内務技師 勝俣 稔
敍高等官3等
〃 依願免本官並びに兼官技師 内野仙一
〃 新潟県下へ出張を命ず 助教授 内野豊生
8.10 委託研究生入学(附属病院)
東京医学専門学校教員 木村政長
8.11 岡山県下へ出張を命ず 技師 山田信一郎
8.13 愛知県下へ出張を命ず 技師 城井尚義
8.21 福岡及び佐賀の2県下へ出張を命ず 技師 城井尚義
8.22 朝鮮へ出張を命ず 教授 佐藤秀三
8.27 仏国パリ市へ出発
文部省在外研究員 高橋義夫
8.20 陸軍軍医学校研究部の業務を嘱託す 教授 宮川米次
〃 陸軍軍医学校研究部の業務を嘱託す 助教授 細谷省吾
1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
浜一中大福餅事件
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
<三池の冬1997 その2>より
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
北宏一郎
(資料)
1988(昭和63)年8月21日(日) 朝日新聞
旧陸軍の細菌兵器開発
東京の防疫研究室が中枢
軍医学校の極秘報告書が見つかる
作家の山中氏が入手
朝日新聞
軍医学校報告書
細菌兵器の機密43年経て見えた
軍医以外の名も
報告には軍医以外の研究者の名前もある。米軍の調査記録を「標的・イシイ」にまとめた常石敬一・長崎大学教授(44)は「石井元中将の母校京都大学や東京大学など、主要な大学から学者が嘱託で研究に加わていた」という。
「これまで731部隊の残虐行為にばかり焦点が当たってきたが、実際はその陰に隠れていた防疫研究室が“石井機関”のかなめだった。嘱託研究者は、軍医学校の嘱託研究費がもらえるほか、満州での生体実験のデータも手を汚さず入手できた。こうした研究者の閉鎖社会が“石井機関”を生み、支えていた。現在まで、それについての反省がないことに批判の目が向けられなければいけないだろう」と指摘する。
『ボクラ少国民』の作者で、研究報告を見つけた山中恒さん(57)は「日本は疫病のない国と言われるが、戦後の公衆衛生が、人間の感情を無くし、多くの生体実験の上に成り立ったこうした研究のお陰をこうむっていると思うと、複雑な気持ちだ」と話している。
科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)