ビキニ事件|被ばく船員の救済を求める2つの裁判にご支援を
ビキニ被爆訴訟
↑9月18日の「赤旗」より
犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。
平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。
政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団
我们向受害者表示衷心的慰问。
平顶山惨案的悲剧决不能重演。
我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。
抚顺告知未来实行委员会与平顶山惨案诉讼律师团
↑9月18日の「赤旗」より
犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。
平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。
政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団
我们向受害者表示衷心的慰问。
平顶山惨案的悲剧决不能重演。
我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。
抚顺告知未来实行委员会与平顶山惨案诉讼律师团
日本民衆は10日、日本軍による中国民間人虐殺事件である平頂山大虐殺事件90周年を記念する集会を東京で開いた。中国と外国を揺るがしたこの悲劇は、日本社会ではほとんど知られておらず、日本政府は謝罪と補償を未だに拒否している。
日本の市民団体は土曜日、東京で平頂山大虐殺90周年を記念する集会を開いた。日本の学者が悲劇の経緯や最新の研究成果について講演した。中国ではよく知られている平頂山大虐殺は日本では認知度が低い。 学者は、日本が中国侵略の歴史を避け歴史を修正する傾向を非常に心配している。
駿河台大学名誉教授の井上久士氏:「日本の高校の教科書ではほとんど触れられていませんし、普通の日本人もほとんど知りません。日本は過去を心に留めておくことによってのみ、真の友好と相互信頼の基盤を築くことができるのです。」
東京市民合唱団の、平頂山大虐殺を再現した合唱劇「再生の大地」も上演された。
「再生の地」合唱団団長の姫田光義氏:「中国人に謝罪することは、我々が直面している最も重要な問題です。」
日本で20年間にわたる請求訴訟を起こし、平頂山大虐殺生存者の正義を訴えた日本の弁護士は、訴訟の経過と困難について語った。 2016年、日本の最高裁判所は、最終審として生存者の請求を却下したが、平頂山大虐殺の事実は司法判断した。 しかし、日本政府はこれまで、無差別殺人の事実を認めず、謝罪もしていない。
平頂山事件訴訟弁護団の弁護士 大江京子氏:「平頂山事件の歴史から学んだ教訓を踏まえ、日中共同宣言の精神を再確認し、武力による問題解決をしてはなりません」。
今日会場に来た人たちの間では、日本社会が歴史的事実に目を瞑ってしまえば、歴史を反省したり歴史の教訓に学ぶことはまったくできないというコンセンサスがあります。 しかし、私たちはまた、会場に来た主に高齢者たちが次の世代に歴史の真実を伝える方法について、まだ大きな課題であることを観察しました。
731部隊元隊員の証言、飯田市平和祈念館が展示せず 市教委「事実関係に議論」
信濃毎日(9/17)
2022/08/17 11:59
戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に伝えるため今年5月にオープンした飯田市平和祈念館で、関東軍防疫給水部(731部隊)の証言などを印刷したパネル展示が取りやめられたことが16日、市教育委員会などへの取材で分かった。住民有志でつくる市平和資料収集委員会が展示を求めていたが、市教委は事実関係が確定していないなどとして見送った。現在、展示は市出身の元隊員から寄せられた医療器具や人体解剖の医学書など十数点だけとなっている。
取りやめた理由について、市教委生涯学習・スポーツ課は取材に「部隊の事実関係を巡ってはさまざまな議論がある。証言などを伝えたいという思いは理解しているが、公の施設としての展示は難しい」としている。
市平和祈念館の展示は「戦争の恐ろしさ」「戦時下のくらし」など五つのテーマに分かれている。祈念館設置に向け、同委員会はこれまでに市教委と協力して戦時中の資料を集め、展示内容についても話し合ってきた。
同委員会は「戦争の被害だけでなく、加害の歴史も伝えないといけない」と、731部隊が細菌兵器の開発を進め、捕虜となった中国人やロシア人に対して人体実験をしてきた―などとする説明文を作成。県内出身の元隊員4人の証言も文章にまとめた。市教委に証言などをパネル展示するよう求め、議論も重ねた。
だが、市教委は遺品の展示のみにとどめている。同委代表の吉沢章さん(73)=飯田市=は「県内の元隊員らの証言を通じて地域と部隊との関わりを明らかにし、戦争の姿を伝えたかったのに」と割り切れない思いでいる。
◇
【731部隊】 生物・細菌兵器の研究開発のため、1936(昭和11)年に編成された旧陸軍の特殊部隊。旧満州(現中国東北部)のハルビン近郊で秘密裏に中国、ロシア人らの政治犯や捕虜に非人道的な人体実験を繰り返し、多数を殺害したとされる。ペストやチフスなどの細菌を研究し、日中戦争で実際に使ったとされる。
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
■731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会
第1分科会
四国西南部の特攻基地ー第132震洋隊・土佐清水越基地跡を中心に
22日のフィールドワーク
番外編
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
第80回講習終了式に際し講習生並びに全職員に告ぐ
宮川米次
伝研改組の要点
その要点を申しますと、第1研究部より第8研究部及び診療部の9研究部を設けまして、従来の学部のそれよりは遥かに大きなものに致しまして19学部を半蔵したのであります。各研究部診療部には部長を置き教授級の人をそれに当てることに致しましてその下に従来ありました主任を配したのであります。この他特種の研究を行なう為に、特別研究室を設けました。これは所長に直属することに致し、その関係は従来と同様であります。この特別研究室は現在4個あります。この改革を致しました趣旨の要点をお話致したい。各研究部は従来の学部よりも何れも大きくなりました。その結果必然的に人的物的に従来よりも多くなったことは申す迄もありませぬ。これに付随して各研究部の予算も多くなりました。各部は、部長の権限に於て自由に甲より乙に融通せられることが出来るし、又人的にも可なり都合よく自由に協働することが出来ると信じます。
>
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎
三井鉱山三井染料工業所の毒ガス生産
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第4 日本民法に基づく謝罪及び損害賠償請求
2 国家無答責の法理が適用されないことについて
(ウ)職権濫用、権限逸脱判決
これらの判決は、当該行為が行政行為であることを前提としつつ、職権濫用、権限逸脱を特別の看過できない理由として公法人の責任を認めている点で、注目すべき判決である。(大審院大正12年6月2日判決、大審院昭和15年1月16日判決、大審院昭和16年11月26日判決、大審院昭和15年2月27日判決等)。
三月十三日晴風あり
白い家(白壁付きの満鉄官舎)の裏で大勢の小供の愉快そうな笑い声が聞こえてくる。
初年兵は皆夜間演習に出て盛んにやっている。思い出したように闇を使って空砲が聞こえる。警察のある人が心配したと見えて聞いて通り過ぎた。一日暮れた。
午前1時だ 退屈しては生あくびをかみ殺し衛兵所にぼんやり 人生でもないが複雑なフィルムを勝手に回した。こんな時ぐらいでないと田舎の事を考える暇もない あたりが静かだ こんな時こそ昔の自分に帰る 無言のうちに沈んだように見える田舎の姿だ。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
ノミの大量生産
細菌の毒力試験の生体実験を行った
篠塚良雄
731部隊・少年隊
(略歴)
1923年生まれ
1939年 少年隊に入隊(~43年)
1944年 徴兵により関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年 関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立師衛生部に混入
1952年6月 河北省永年県において逮捕される
1956年 帰国
■この証言は埼玉(浦和)731部隊展(1994年10月)の『報告集』よりまとめたもの。
防疫給水
そのような教育を経てから数か月間、防疫給水についての教育を受けました。「防疫給水部は第一線部隊に跟随(ごんずい)し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、併せて防疫防毒を実施するを任務とする」-これが部隊の任務だということが強調されました。確かに防疫給水部の任務からすれば犯罪性を嗅ぎ出すことは非常に難しいはずであります。防疫給水部には防疫斥候とか毒物検知・水質検査班、疫学調査班、給水班、浄水班がありました。毒物検知については、石井部隊長が発明した非常に優秀な“石井・勝矢式毒物検知器”というのがあるということも聞かされました。これは実際に使ってもいました。今にして思うと、それほど性能が良かったかどうかわかりません。
(3)『消えた細菌戦部隊』について
常石敬一の『消えた細菌戦部隊』に対して、脚注が付いていない、著者は物理学の専攻であって医師ではない。軍隊経験もない、憶測に基づく部分がある、小説を使って書き出している、といった「批判」がなされた(秦証言第36頁)
「形式が不十分」とする秦による批判については後に述べるが、ここでは、秦が、本書には脚注が付いていないと述べた後、「参考文献リストが巻末に出ておりますけれども、この内容の記述はこの中のどれから採ったのかという非常に重要な部分については照合が出来ないという点、私はこれは非常に致命的欠点であろう、という風に考えます」(第36頁)と述べているのは、事実に反するということだけを指摘しておきたい。秦証言は、あたかも本書が参考文献目録を巻末に付しただけかのような印象を与えるが、本書では引用する場合、本文中で、頁数は示していないものの、資料名、文献名をその都度提示している。したがって、本書の記述が依拠する資料は照合が充分可能なのである。
念のために付言すれば、書物によっては、脚注を付けない学術書もあり得る。要は形式ではなく、その著書の内容如何が、肝要である。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930
3 毒ガス開発の再開
宇垣軍縮
この順位は、軍現代化の重点が何処にあったかをよく示している。宇垣陸相は、その目的は「軍科学化、機械化」による実力の整備であったと回想している。化学兵器関係の予算は、陸軍科学研究所の化学兵器研究設備新設に80万、造兵廠の毒ガス製造設備新設に76万、軍医学校の化学兵器設備新設に9万円、諸経費に毎年60万円(1927年まで)が割り振られた。
第13章 毒ガスは消えず
埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理
1953年3月、第2機械工業部第11工場が精錬のために買い取った廃砲弾に、毒ガス弾が混入していた。輸送中に毒剤が漏れ出し、70名あまりの労働者の皮膚に潰瘍ができたり、気管が傷ついて、さらに肺病になったりした。
1952年8月、林業局の道路建設労働者が敦化県11区馬路溝の林に向かう道路を建設していたところ、道路両側に散らばっていた2万発以上の毒ガス弾の毒剤が流れ出し、労働者がこれに接触して27人が負傷した、多くの者の手足が腐爛した。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く