核時代39年(1984年)5月初版発行
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
1942年1月下旬のある日の夜、村落の南側にある広場に日本鬼子が約100名ばかり何かがやがや話しながら並んでいた。私も便衣を付け、棍棒を持ち、列の前に憲補博士元と共に並んでいた。中隊長中山大尉がビヤ樽のような腹を抱え、ブルドックのような顔を真っ赤にして酒臭い息をあたりに漂わせながら、部隊の前に現れ、人斬り包丁で地面をがたがた叩きながら、
「今度の討伐行動は約2週間だ。行動地域は五竜山地区一帯である。八路軍は春節を期し、五竜山地区に結集するものとみられる。中隊は子の八路軍を包囲攻撃し、徹底的に殲滅するために今から行動を開始する。お前らは必ず1人1殺を目標とし、必ずこれを行うべし」。
全員に向かって怒鳴るように命令した。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
38年2月1日 統裁部
昭和38年度統合防衛図上研究(三矢研究)実施計画
昭和3X年3月末までの諸情勢下記の通り
1 世界情勢
(1)キューバ事件によるソ連の威信失墜後、共産陣営内部における中ソの対立、主導権争いは一層深刻化して、中共の独走的傾向が益々強くなり、1月以降、東南ア、中印国境及び極東正面に対する高姿勢と諸工作とは一段と顕著になりつつある。
(2)ソ連は中共の独走の制御に努めつつ、当面、対米、対西欧高姿勢政策を慎み、英国EEC加盟失敗、独仏条約の出現、NATOの核武装問題を中心とする内紛等に乗じ、まずNATOの弱体化工作を推進し、もって今後の方途を策する一方、キューバに於ける後退をインドネシアに於て挽回すべく同国に対する援助と工作とを引き続き強化しつつある徴候がある。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。