核時代39年(1984年)5月初版発行
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
「高橋伍長、ここで警戒していてください」私はこの時とばかり博を急き立てて、黒い姿に近づいていった。しめた、あと15mだ。「誰かッ、止まれッ」博が怒鳴りつけた瞬間、黒い姿はクルリと後ろ向きになり、今来た道をぱっと走り出した。「クソッ、逃げやがった、追いかけろ」約200mも追いかけた時、人影は傍の畑の中に走りこんだ。パンパン。「止まれッ、逃げると撃ち殺すぞ」畑の中に追い詰められた黒い姿の男は、素早く自分の手で上衣の物入れを探って見て、安堵したのか、もう駈けようとはしなかった。私はハーハーしながら近づき、いきなり棍棒で力一杯殴りつけ、右足で蹴り飛ばした。男は崩れるように横に倒れた。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
38年2月1日 統裁部
昭和38年度統合防衛図上研究(三矢研究)実施計画
昭和3X年3月末までの諸情勢下記の通り
2 アジアの情勢
(1)中共の食糧事情は予想外に好転しつつあり、またその軍事力は中ソ対立による援助の低下にも関わらず、相当程度の作戦に応じ得る態勢にある模様である。
中共は昨年11月、中印国境紛争に於てインドネシアに圧勝して以来、その意気は高く、中ソ論争とも関連して積極的路線を強行せんとする節が感じられ、又、ソ連のインドネシアに対する工作は逐次奏功しつつあるもののようであり、本年初頭以来、極東情勢は次のような進展を見ている。
イ 1月上旬から南ベトナムにおけるベトコンの攻勢が本格化し、逐次その勢力圏を拡大しつつある。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。