日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
731部隊破壊と証拠隠滅作業
ロ号棟に書かれた血文字が一生忘れられない
篠原鶴男(しのはらつるお)
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1945年5月 731部隊入隊(教育部に所属)第8分隊
1945年8月 帰国
■この証言は鹿児島731部隊展(1994年1月)の『報告集』をもとに本人がまとめたもの
部隊の破壊と証拠隠滅作業
18時。731部隊爆破のスイッチを入れ、爆発音の中、私達は汽車に乗り込み出発しました。私達を乗せた列車は、吉林のあたりでまごつき、北朝鮮へ行きました。先遣隊を収容し、朝鮮半島を縦断し始めた時は、既に15日になっていました。平壌を経由し釜山まで南下したわけです。15、16日頃までは異常はなかったのですが、日が経つにつれ朝鮮の情勢が不穏になってきました。列車転覆の噂も出ました。そこで列車に銃器を据え、威嚇しながら走りました。そうやって釜山に到着したのは、20日の事でした。
日本軍政下香港(1997.7.27)
●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
意見書によりまして、基礎的な文献史料として証人が位置づけておられるいろいろな史料の中で、それが出来始めた時点の点で、一番古いものということになりますと、これはアメリカあるいはアメリカ政府の作った調査レポートという風に私には読めるんですが、そうなんでしょうか。
その通りです。
何か調査が、レポートという形でまとまったのは、4段階あるようでございますね。
はい。
まず4段階のそれぞれについて、その名称と文書の日付をまず伺いたいと思います。
これは意見書の26ページの後半の最後のところから27ページに書いておきましたが、アメリカの調査は敗戦とともに始まりまして、47年11月までに合計4回の調査が断続的に行われております。第1回目の調査というのは、45年8月下旬にすでに始まりまして、サンダースという人がアメリカからやってまいりました。以後、翌年トンプソンという人がやってきまして、47年になりますと、ノバート・H・フェルという人がまいりました。それから最後にその年の秋にエドウィン・V・ヒルという人が来ました。従いまして、その4回の調査が行われたわけで、それぞれ報告書を提出しております。それが、通称、「サンダース・レポート」、「トンプソン・レポート」、「フェル・レポート」、「ヒル・レポート」と言われている4つのレポートであります。「サンダース・レポート」はそこに書きましたように、45年11月1日付で出ております。「トンプソン・レポート」は46年5月31日付、「フェル・レポート」は47年6月20日付で出ております。「ヒル・レポート」は47年12月12日付けて出ておりまして、これはいずれも「サンダース・レポート」を除きますと、国防省の化学戦部隊隊長宛に提出されたものであります。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
2 武漢攻略作戦
第2軍の戦闘
このような中で、早くも28日夜8時20分、姫路歩兵第39連隊第3大隊が六安付近で西関集落で、相手陣地の60m手前から、あか筒9本を使用した。これが武漢作戦での最初の毒ガス使用であった。この戦闘では、家屋の銃眼から攻撃する国民党軍の機関銃を制圧するため毒ガスが使用されたのだったが、微風だったため、銃眼に流入する毒ガスの速度が緩やかで、効果は十分とは言えなかった。しかし、何とか制圧した。
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
大久野島の歴史
Ⅲ:大久野島毒ガス工場の稼働
① 毒ガス製造の開始
催涙性の強い塩化アセトフェノンは製造工程全体にわたり、塩酸ガスによる障害に苦しめられました。 塩酸ガスで目をやられるので待機所には洗顔用具が備えてありました。喉はやられましたがイベリット製造作業の傷害と比べると傷害は軽くて済みました。催涙性塩化アセトフェノンの製造も、この年の秋から試運転にかかり、催涙棒、催涙筒の作業と並行して製造されました。仏式イベリットと催涙性塩化アセトフェノンの製造工場は大久野島毒ガス工場の表看板となりました。
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