日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
731部隊破壊と証拠隠滅作業
ロ号棟に書かれた血文字が一生忘れられない
篠原鶴男(しのはらつるお)
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1945年5月 731部隊入隊(教育部に所属)第8分隊
1945年8月 帰国
■この証言は鹿児島731部隊展(1994年1月)の『報告集』をもとに本人がまとめたもの
解説ー731部隊と帝銀事件
近藤昭二
帝銀事件
捜査本部は、5か月間の捜査と検討の結果、犯行の冷静な手口、青酸毒物の巧みな配合、時間的効果の計算、飲ませ方、所持品などから、毒物に専門知識の深い軍関係者を犯人の適格者として、「軍関係薬品取扱い、特殊学校、研究所又は之に従属した教導隊、或いは防疫給水隊、もしくは憲兵特務機関関係の前歴のあるものから容疑者を物色せられたい」(捜査要綱)と全国の警察に指示を出した。
日本軍政下香港(1997.7.27)
●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
甲第688号証を示す
証人は秦証言の調書をお読みいただいておりますね。
はい。
それに言及した論文もお書きになったこともありますね。
はい。
この秦さんの見解表明の趣旨を、フェル名義の総論でだけでは人体実験の認定ができないんだという趣旨に理解して読むことは可能でしょうか。
それは非常に難しい、可能ではないという風に思います。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
2 武漢攻略作戦
第2軍の戦闘
そこで、独立機関銃中隊・独立装甲車隊・野砲部隊を呼び寄せるとともに、毒ガスを使用することによってこの難局を切り抜けようとしたのである。会津若松歩兵第58連隊第2大隊が9月6日、まず富金山東南側高地と葉家集西方高地に対して、あか筒をそれぞれ60本・50本使用し、白兵を持って突入し陣地を占領した。上昇気流に合わせて毒ガスを使用して成功したのである。この時、第10師団の捕虜となった国民党軍第36師 所属のある兵士は、尋問に対し「〔国民党軍兵士は〕煙に関し無智なる為恐怖心を抱くことを甚だしく、発煙を受くるや山背に退きて伏し、帽子にて鼻口を覆ひ、煙の吸入を防ぎたるも効果無く、涙及び「クシャミ」出て、果ては嘔吐等の苦痛を受け・・・散兵壕外に在る大部の軍隊は山上に居ることは不可能とな」ったと答えている。
海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
大久野島の歴史
Ⅲ:大久野島毒ガス工場の稼働
この量は毒ガス兵器にして使用すれば、何千万人も殺戮できると考えられる量です。1936年までは年間の毒ガスの生産量が30トン程度でしたが、日中戦争が始まった1937(昭和12)年には 300トンに生産量は上昇しました。日本軍が中国で毒ガス使用を本格化するにつれ大久野島での生産量は上昇していきました。大久野島での毒ガス生産のピークは1941(昭和16)年で1年間の総生産量は約1600 トンにも達しました。15年間で最も多く生産されたのがイベリットで約3300トン以上生産されました。くしゃみ性ガスは約1800トン、ルイサイトが約1100トン、催涙ガス約52トンも製造されました。ルイサイトはイベリットと混合して使用されることもありました。
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